2010年12月26日日曜日

大きなお世話だ。朝日新聞の「孤族の国の私たち」

 今朝(12月26日)朝日新聞が一面で「孤族の国の私たち」と題する特集シリーズを開始する記事を一面に掲載した。見出しを見てオヤッと思った。自他ともにリベラルを認める朝日新聞が個人の自由な選択の結果である人々の孤立をネガティブに捉えるようなニュアンスが伝わってきたからだ。産経新聞も以前同様の記事を特集したことがある。産経の主張は、だから家族や地域の復活、再生が必要だということだった。朝日も同じように、家族の再生を主張するのかと思ったら、全く違っていた。結論から言えば、一人でツッコンデ、一人でボケルという一人漫才のような展開であった。
 関心をもって2面を読み進めていったら、「個から孤 加速」と見出しがある。個が孤であるというのは当たり前と私は思っているので、思わず「何でやねん」と突っ込みを入れたくなった。読み進んでいくと、思わずのけぞった。「意識と政策変えるとき」との小見出しに続いて、こう記されていた。
「ここで、立ち止まって考えたい。いま起きていることは、私たちが望み、選び取った生き方の帰結とはいえないだろうか。目指したのは、血縁や地縁にしばられず、伸びやかに個が発揮される社会。晩婚・非婚化もそれぞれの人生の選択の積み重ねだ。時計の針を逆回しにはできない」。
 全くその通りだ。だったら、「孤族の国の私たち」や「個から孤 加速」という傾向はむしろ喜ばしいことではないか。喜ばしい、というのが言い過ぎなら、何ら記事にするような問題ではないだろう。何を朝日新聞は問題にしているのか。
記事はこう続けている。「問題なのは、日本が『個人を単位とする社会』へと変化しているにもかかわらず、政策も人々の意識も、まだ昭和/高度成長期にとどまっていることではないか・・・・『個』を選んだ結果、『孤』に足を取られている。この国に広がっているのは、そんな風景なのだろう。誰もが「孤族」になりうることを前提にして、新しい生き方、新しい政策を生み出すしか道はない、と考える」。
「意識も、まだ昭和/高度成長期にとどまっている」のは真鍋弘樹記者や朝日新聞社ではないのか。
そもそもなぜ「個」が「孤」であってはいけいなのか。また中高年男性の孤独死のデータや記事を掲載して、あたかも孤独死が大罪かのようにいうのは何故なのか。孤独死の一体どこがいけないのか。孤独の内にだれにも看取られずに死んでいくからいけないのか。死んだ後始末が大変だからいけないというのであれば、それはそれで理由になるだろうが、特集記事を組むほどのことも無い。粗大ゴミの後片付けをしない人がいて困るという程度の話でしかない。
仲村和代記者はこう記している。「悲惨な孤独死が問題なのは迷惑だからでない。それが、孤独な人間の苦しみの末路だからだ」。大きなお世話だ。何故他人に「孤独な人間の苦しみの末路」などとおためごかしのようなことをいわれなくてはいけないのだ。孤独であることが何故いけないのだ。だれにも看取られず、孤独と、そして病苦と貧困の中で死んでいったとしても、それもまた運命ではないか。仮に社会が悪い、政府が悪いとしても、そうした社会をつくり、政府を選んだのも少なくとも中高年であれば個人の責任である。責任の結果を運命として甘受するのは当然であろう。中高年の孤独死対策をするよりも、出産の補助、児童の保育支援、若年層の就職支援をする方が先決である。
朝日新聞は、中高年世代しか新聞を読まなくなったためか、中高年世代に媚びを売るような記事づくりは止めた方がよい。中高年に残された最後の仕事は、自殺であれ病死であれ、死ぬことである。若者に教訓を垂れたり、長生きを自慢することではない。
かくいう私は、来年還暦を迎える孤独死予備軍である。孤独死予備軍が理想とする最高の死に方は他人に迷惑をかけないように、自らの意識が清明な時に、生に決着をつけることである。それは決して「孤独な人間の苦しみの末路」なのではない。「個」としての尊厳ある生き方の結末である。
人の生き死にを、他人にとやこう言われる筋合いはない。

柄谷行人『世界史の構造』を読む

柄谷行人『世界史の構造』岩波書店、2010年。
「本書は、交換様式から社会構成体の歴史を見直すことによって、現在の資本=ネーション=国家を越える展望を開こうとする企てである」との書き出しで始まる。500頁もの大作である。ただし「歴史を見直す」が大半で、「展望を開こうとする企て」は第4部第2章「世界共和国へ」の70頁、より厳密には第3項「カントの『永遠平和』」以降のカントの世界共和国を理想の「社会構成体」として論じている50頁ほどである。なんだか羊頭狗肉の観がある。
 本書の分析ツールは、四つの交換様式である。すなわちA 互酬(贈与と返礼)、B略取と再分配(支配と保護)、C商品交換(貨幣と商品)、D X
Xという交換様式は本書ではついに明確には語られなかった。ただし、このように説明が付されている。「交換様式Dは、交換様式Aの高次元での回復である。交換様式Dは、先ず古代帝国の段階で、交換様式BとCの支配を越えるものとして開示された。それはまた、そのような体制を支えるだけの伝統的共同体の拘束を越えるものである。故に、交換様式Dは交換様式Aへの回帰ではなく、それを否定しつつ、高次元において回復するものである。交換様式Dを端的に示すのは、キリスト教であれ仏教であれ、普遍宗教の創始期に存在した、共産主義的集団である。それ以後も、社会主義的な運動は宗教的な形態をとってきた」(14頁)。
この四つの交換様式に対応する社会構成体といわれるのがAはネーション、Bは国家、Cは資本、DはXである。Xとは「交換様式Dおよびそれに由来する社会構成体を、たとえば、社会主義、共産主義、アナーキズム、評議会コミュニズム、アソシエーショニズム・・・といった名で呼んでもよい。が、それらの概念には歴史的にさまざまな意味が付着しているため、どう呼んでも誤解や混乱をもたらすことになる。ゆえに、私はそれをたんにXと呼んでおく」(14頁)。このXの社会構成体として柄谷が期待をかけるのがカントの世界共和国である。
 本書では、この四つの交換様式とそれに対応する社会構成体の歴史が、カント、ヘーゲル、マルクスそしてカントなどを引用しながら延々と語られる。ただし、それはもっぱらABCの歴史であり、最も重要と思われるXについては、冒頭で示したように数十頁ほどしかない。
柄谷はカントの『永遠平和のために』を高く評価している。カントは『永遠平和のために』で世界共和国を積極的な理念として主張した。しかし、現実には国家が「自由を捨てて公的な強制法に順応する」ことはないが故に、「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに(もし全てが失われてならないなとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント『永遠平和のために』45頁)として、いわゆる諸国家連邦を提案したのである。柄谷は次善の策としての諸国家連邦ではなく、最善の策としての世界共和国を交換様式Dに基づく社会構成体として構築することで新たな「世界共和国」を構築しようとしているのである。
本書の肝は、要するに高次元(引用者注:世界レベル)で回復された互酬関係に基づく、世界共和国すなわち「贈与による永遠平和」の構築である。
これだけのことを主張するのに交換様式と社会構成体の歴史が延々と語られる。歴史は序論だけでよい。問題は、いかに世界共和国を構築するかその方法論であろう。しかし、さすがに評論家らしく、具体的な方法論になるととたんに筆が鈍る。
具体的な例として柄谷こう述べている。
「われわれは先に、互酬的な原理の高次元での回復を消費=生産協同組合に見てきた。今やそれを諸国家の間の関係において見るべきである。諸国家連邦を新たな社会システムとして形成する原理は、贈与の互酬性である。これはこれまでの『海外援助』とは似て非なるものだ。たとえば、このとき贈与されるのは、生産物よりもむしろ、生産のための技術知識(知的所有)である。さらに相手を威嚇してきた兵器の自発的放棄も、贈与に数えられる。このような贈与は、先進国における資本と国家の基盤を放棄するものである」(461頁)。憲法9条の護憲派の主張を思わせるような、軍備放棄論である。
さらに続けて、こう記している。「だが、それによって無秩序が生じることはない。贈与は軍事力や経済力より強い『力』として働くからだ。普遍的な『法の支配』は、暴力ではなく、贈与の力によって支えられる。『世界共和国』はこのようにして形成される。この考えを非現実的な夢想として嘲笑する人たちこそ笑止である」(462頁)。まさに護憲派の非武装論である。
贈与が軍事力や経済力より強い論拠として、柄谷は、「最も酷薄なホッブズ的視点を貫いたカール・シュミット」が、「国家死滅の唯一可能性を、消費=生産協同組合の一般化において見いだした」ことを指摘している。
「笑止」という論拠が、妄言かもしれないカール・シュミットの論だけだという点はさておいても、柄谷の世界共和国論にある主の宗教的匂いを感じてしまう。前述のように柄谷はこう指摘している。「交換様式Dを端的に示すのは、キリスト教であれ仏教であれ、普遍宗教の創始期に存在した、共産主義的集団である。それ以後も、社会主義的な運動は宗教的な形態をとってきた」。まさに世界共和国は新たな宗教集団であろう。
問題は、宗教集団にはその宗教やイデオロギーを信ずる者にはユートピアであっても、それを信じない者には地獄だということだ。互酬関係における人間関係は基本的には利他主義の関係である。性善説に基づくディズニーランドの「小さな世界」で通用しても、はたして国家関係においても人間同様に利他主義は通用するのだろうか。
柄谷の所論の最大の問題は、共産主義や社会主義者にありがちな、仲間うちだけで通用する利他主義に基づいていることであろう。行き着く先は、連合赤軍のように共産主義的人間でない者をリンチで殺したり、オウムのように麻原彰晃に帰依しない者を抹殺したりする戦争の絶えない排他的世界であろう。
柄谷行人、老いたりの感を強くした一書である。

2010年9月22日水曜日

尖閣問題-東シナ海波高し

 尖閣列島をめぐって東シナ海が波立っている。中国漁船による海上保安庁船舶への衝突事件で日中両政府が主権をめぐって対立している。今回の事件は海底油田やガス田の資源問題ではない。日本が船長を公務執行妨害で逮捕、基礎すれば、それは日本の国内法を執行することであり、それはとりもなおさず日本の主権の行使に他ならない。尖閣列島の領有を主張する中国政府としては日本が裁判権を行使し主権を行使することは断固として容認できない。日中両国にとって今回の事件は、主権という国家の基本をなす原理原則の問題であり、両政府とも絶対に譲歩できない。
 日本は粛々として司法権を行使する以外にない。中国政府に配慮して政治が介入すれば、三権分立の民主主義の原則を侵犯することになる。日本政府にできることがあるとしても、それは日本が三権分立の民主主義国家であり、司法への介入はあり得ないことを中国政府に説明することだけだ。だから馬淵国交大臣が中国の大臣との会談を拒否するなど、中国政府の挑発に乗った下策中の下策だ。かつての中国の王朝がそうであったように(?)、日本政府は大人の風格を持って泰然自若、鷹揚として構えていればよいのだ。
他方、中国は日本の裁判権行使に対して抗議をする以外に対抗策はない。しかし、その対抗策は限定的にならざるを得ない。要人の訪問の中止、会談の延期など政府による対抗策はさまざまな分野、レベルの交流の中断などが考えられる。また最悪の場合中国海軍による「中国領海内を侵犯する」海上保安庁船舶への威嚇行動や示威行動も考えられる。とはいえ軍事衝突まではエスカレートできない。もしそんなことをすれば、中国の軍事大国化を世界中にアッピールすることになり、中国への世界的な警戒感が広がるからだ。あるいは現在日中両政府の合意で中断しているガス田の開発を再開し、実効支配を国際社会に明示するかもしれない。
また民間でも旅行の「自主的」中止や公演や催事の中止が考えられるだろう。一万人の大旅行団の訪日中止、日本の訪中団の訪中拒否、さらにスマップの公演延期などさっそく影響が出てきている。ごく一部に反日活動の動きもある。もっとも政府が民間の反日活動を放置することは無いだろう。反日が直ちに反政府運動になるおそれがあるからだ。いずれにせよ一党独裁の中国政府としても、世論の動向には細心の注意をはらわざるを得ない。政府の対応は常に人民世論の動向を注視しながら行われるだろう。つまり中国政府の対抗策の限界は、人民の反日感情をなだめる程度に対抗策をとる一方で、対抗策が民間の反日運動を反政府運動に拡大させない程度だということだ。ここに日本の外交の活路がある。中国政府も一方的に対抗策を拡大させることはできない。
 さて、より本質的な問題として、先覚問題はどのように解決すべきなのだろうか。ことは主権にかかわる問題である。結論から言えば、領有問題については棚上げ、漁業やガス田問題等経済的問題については交渉による妥協だろうか。たとえて言えば、離婚した夫婦の子どもの親権をめぐる法律的な争いは棚上げして、子どもの養育費や育て方をどのようにするかを話し合いで決めるようなものだ。
 主権には形式的主権と機能的主権の二つがある。形式的主権とは国際法上、国家に認められた国家の最も重要な権利であり、たとえば国家の独立や内政不干渉のような他国との関係とは関わりのない国家固有の権利である。したがって形式的主権は一切妥協や譲歩の余地のない絶対的権利である。一方機能的主権は経済や軍事に関わる国家の権利である。たとえば国家は経済政策や安全保障政策を決定できる。しかし、経済政策も軍事政策も他国との関係を考慮せざるを得ない。たとえば為替は他国通貨との関係で決定される。また防衛力も他国との関係で決定される。逆に言えば、国家が決定できる権利があったとしても自国だけで決定できるわけではなく、他国との交渉、妥協の中でしか決定できない。その意味で経済や軍事に関わる主権は相対的主権にすぎない。領土問題を考える時は、この主権の二つの側面を考慮しなければならない。
 ガス田の開発の問題は配分政治の問題であり、機能的主権や相対的主権の問題である。だから経済や市場原理に基づいて、相互に利益を得ることができるよう妥協や譲歩が可能である。早稲田大学の天児教授が「脱国家主権」を主張するように(『朝日新聞』2010年9月22日朝刊)「脱国家主権」化できるのは、まさに経済問題である。ガス田の開発問題を相互に利益が出るように、国家の政策に委ねるより市場原理に委ねてしまうのである。この文脈で経済紛争では「脱国家主権」化は可能であろう。
しかし、今回の尖閣問題は日本の司法権の行使という意味で、形式的主権の問題であり絶対的主権の問題である。もっと言えば承認政治に関わる国家のアイデンティティの問題であり、「脱国家主権」化できない問題である。
結局のところ、今回の事件の落とし所は、日本は司法権を行使し中国は抗議するということで双方が国内外に対する面子を維持しつつ領有権問題を棚上げし、ガス田開発問題についてはいずれ市場原理に基づいて解決するということになる。いずれにせよ金儲けという実利的な配慮が働いて事件は沈静化する。金儲けに狂奔する中国が船長一人のために、単なる面子のために何百億、何千億元という実利をすてるとは思えない。それは日本も同じだ。

2010年8月29日日曜日

スーダン短信

スーダンで驚いたこと。
第一に、移動の難しさ。
第二に、中国の影響力の大きさ。
第三に、食料品の乏しさ。
第四に、アラビア中東文化ともアフリカ黒人文化とも言えない文化の複雑さ。

第一に、移動の難しさについて。
 後で英文ウィキで調べてわかったことだが、スーダンでは入国三日以内に外務省で滞在手続きをしなければならない。よく調べなかったせいか、日本語のサイトには、こうした記載は無かった。
到着後に判明して、翌日に外務省で手続きをした。料金は99ポンド。写真が1枚必要。待つこと2時間で、パスポートに滞在許可証を貼ってくれた。さらに英文ウィキによると、撮影許可証まで必要と記載してあったが、これは取らなかった。結果的には不要だった。
 問題はこれだけではない。重要なのは旅行許可証である。外務省の滞在許可証を持って、警察本部へ行って、国内を旅行する際の許可証を申請しなければならない。これには写真が1枚必要なだけで、料金はいらない。係官からなぜ、ニアラに行くのかしつこく訊かれたが、なんとか許可はもらった。しかし、A4四枚の許可証をもらうまでに2時間余りもかかり、結局飛行機には乗り遅れてしまった。
 滞在許可証、旅行許可証の二つが無いと、旅行はできない。空港につくと、二つの許可証の提示を求められる。無いと、その場で直ちに、追い返される。乗ってきた飛行機でトンボ返りとなる。ニアラでは許可証を持って、HAC(Humanitarian Aid Commission)に行き滞在することを知らせる。HACはその名前と裏腹に、大半が情報関係者だという。私はHACに赴いたが、通常は必要ないようだ。滞在先の宿舎で宿帳への記載とともに旅行許可証のコピーの提出を求められうからだ。
 さてこれで一安心かというとそうではない。実はニアラから出るときも旅行許可証が必要となる。旅行許可証が無いと、飛行機に搭乗させてもらえない。帰るのだから問題はないだろうと思ったのだが、要は、旅行する際にはいつも許可が必要ということだ。
 旅行許可が必要なのは政府の威令が貫徹している地域のみではないかと思う。事実上無政府地域の南部のジュバは不要だと思う。ジュバにはハルツームからは飛行機でも行けるが、ケニアのナイロビやウガンダのカンパラからは国際バスがあるようだ。確認はしていないが、両国からバスでジュバに行く場合にはビザだけで旅行許可証は不要ではないかと思う。
 とにかく、思いがけない許可が必要となるので旅行には細心の注意が必要だ。ちなみに組織が縦割りになっているのか、在日スーダン大使館では滞在許可証のことや旅行許可証のことは全く教えてもらえなかった。もっとも当り前のことで教える必要もないと思われたからかもしれない。スーダンを旅行する場合には大抵が旅行社を利用するので、周知の事実と思われたのかもしれない。
 第二に、中国の影響力の大きさ。とにかくどこへ行っても中国の影響力の大きさには驚く。乗り継ぎを待っていたカタールのドーハでは、どこへ行くのか、中国人の旅行者が大勢いた。またハルツーム行きの飛行機には日本人と思しき人は私を除けば一人だけ。数人の中国人らしきアジア人が乗っていた。
 ハルツームで中国の影響力を目にしないわけにはいかない。中国系のホテル、レストラン、食料品店さらには病院まである。ハルツームのビルの建設現場では中国人労働者が数多く働いている。
レストランでも中国系と思われる人が多く働いている。ただ外国人が多く集まるショッピングセンターにはインド、フィリピンと思われる人々も多く見受けられた。
 ニアラにも水利関係の中国の会社が進出していた。中国は国連PKOのUNAMID(African Union /United Nations Hybrid operation in Darfur)に参加している。その中には銃を持たずPKO活動には直接参加せず、道路や建物の建設に従事する工兵部隊が数多く働いている。
 スーダンはテロ支援国家に指定されているせいか、欧米系の影響をあまり見ない。たとえば最初に泊ったCoralホテルはもとはヒルトンホテルだった。ネットにはヒルトンホテルとあったのでタクシーの運転手にヒルトンホテルといっても怪訝な様子を見せるばかりで、なかなか話が通じなかった。ホテルに着いて初めてヒルトンが撤退して新しい経営者に変わったことがわかった。気のせいかあまりアメリカのにおいを感じなかった。逆にそれほどまでに中国の影響が大きいということなのかもしれない。
 第三に、食料品の乏しさ。特に生鮮食料品の乏しさには驚く。スーダン唯一のショッピングセンターAfra Mallのマーケットの品数の乏しさには驚いた。日本の大規模スーパー並みの大きさにもかかわらず、食料品特に野菜、果物、肉、魚などの種類の少なさにはびっくり。野菜はニンジン、ジャガイモ、ピーマン、キャベツ、タマネギ、ショウガあとはホウレンソウのような葉物が少しあるくらいだ。果物はオレンジ、リンゴ、スイカ、マンゴーくらいか。肉は羊、牛、鶏。魚はあるにはあったが、タイのような魚と他に何種類かあるだけで、陳列棚はスカスカの状態だ。ニアラには魚は無かった。
一般の人たちが買い物をするハルツームのアラビ・スークに行ったが、状況はあまり変わらず、食生活が豊かとは言えない。
 ニアラでは状況はもっと悪い。町の人たちが飢えるという状況ではないが、われわれの感覚からすると食生活は貧困だ。家畜も十分な餌をもらえないので、肉が固くておいしくないという。確かに牛肉を食べても牛肉の味がしない。これが本来の肉の味なのか、われわれが普段食べている肉の味が人工的なのかはわからない。それでも肉を口にできるのは恵まれた人だけだろう。貧しいからこそWFPがダルフールで活動しているのだろう。
 第四に、アラビア中東文化ともアフリカ黒人文化とも言えない文化の複雑さ。今自分がどこにいるのかが分からなく時がある。エジプトにいるようでもあり、ケニアにいるようでもある。アラブ系の人々とともに全くの黒人系の人もいる。ベールをまとわない黒人女性も多い。言葉はアラビア語、宗教はイスラム。しかしハルツームにはキリスト教の教会もある。なんとも不思議な感覚だ。
 結論。瘴癘な地にも関わらず、精力的に活動する中国人に圧倒される。高度経済成長期の日本を思い起こす。スーダンにこそ自衛隊に代わって憲法9条部隊を!

2010年8月8日日曜日

『さらば日米同盟』を読む

天木直人『さらば日米同盟!-平和国家日本を目指す最強の自主防衛政策』(講談社、2010年)

 要するにアメリカが確実に日本を助けてくれる保証などどこにもないから、憲法9条の平和主義の理念に基づいて対米従属外交を止め、専守防衛に徹する自衛隊の存在を認め、日米同盟を廃棄して東アジア集団安全保障体制を構築せよ、ということである。
 いろいろ問題はあるにせよ、大筋において賛成する。ただし、最も重要な結論部分を除いては、だ。
 国家の安全保障のあり方は、三つしかない。独歩主義(ユニラテラリズム)、二国間主義(バイラテラリズム)、多国間主義(マルチラテラリズム)である。日本は現在米国との外交を基軸する二国間主義をとっている。これを廃棄するなら、残された外交は、独歩主義の自主防衛外交か、たとえば国連やNATOのような多国間主義外交である。多国間主義にも厳密には、NATOのような、特定の敵を想定した脅威対処型の集団防衛体制と国連やOSCEのような集団内部の危機を管理する危機管理型の集団安全保障を体制がある。
 天木の結論は、日米同盟に代えて東アジアに集団安全保障体制を構築せよということである。
 はたして東アジア集団安全保障体制が具体的にどのようなものかを天木は詳らかには論じていない。詳細に検討すれば、たちまちの内にそれが不可能だということが明らかになるからである。
 第1に、東アジア集団安全保障体制の参加国はどの国か。米国、台湾、北朝鮮は入るのか。
 第2に、集団安全保障は武力制裁が前提になるが、憲法9条を持つ専守防衛の日本は武力制裁に参加できるのか。できないとするのなら、そもそも集団安全保障体制に参加する資格があるのか。
 第3に、核大国中国が「約束を破った」場合、他の国は武力制裁を科すことができるのか。集団安全保障の原理的問題である。
 1996年の安保の再定義で日米同盟は冷戦時代の排他的な二国間同盟から包括的な二国間同盟に変化してきた。その結果、日米同盟は脅威対処型の同盟から危機管理型の同盟へと変質した。その結果はたして北朝鮮や中国の脅威に有効に日米同盟が機能するかどうかの疑念が生まれ、また日本も米国のグローバルな危機管理に向けた役割を担わされるようになってきた。天木の問題は、日米安保の変質を無視して、旧来の脅威対処型の日米同盟を前提にして議論をすすめている事である。
天木のいう東アジア集団安全保障体制を構築するための最も現実的な政策は、日米同盟を廃棄することではなく、日米同盟の危機管理的機能をより充実させ、事実上の東アジア集団安全保障体制にしていくことである。その試みの一つが六ヶ国協議といえるだろう。

2010年7月23日金曜日

浅井先生への質問

浅井基文氏(もと外交官)のブログに「日朝関係の現状と課題:天動説的国際観と他者感覚の欠如」http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2010/index.htmlと題する論文が掲載されていた。その中の以下の一文が気になって、浅井先生あてに次のようなコメントを書いた。
「私たちが考えなければならないのは、朝鮮(中国)という他者自身の立場に自らをおいて、朝鮮(中国)から見た世界はどう映っているかについてできる限り想 像力を働かせることである。アメリカ及びアメリカに全土を基地として提供して全面協力する日本、そして朝鮮の場合にはさらに韓国も加わって襲いかかろうとしている。それが実態なのだ」。
 この主張を100%受け入れたとして、だからといって北朝鮮の核武装化や中国の軍拡を正当化することにはならないのではないでしょうか。浅井先生の論理によれば、米国や日本や韓国が天動説的国際観に基づいて北朝鮮や中国を軍事恫喝しているから、北朝鮮の核開発も中国の軍拡もしかたのないことなのでしょうか。
 もし浅井先生が親北、親中派でないのなら、もし浅井先生が本当の平和主義の愛国者なら、米国や日本政府に軍備縮小を呼びかける一方、北の核開発にも中国の軍拡にも同等に反対を呼びかけるべきでしょう。すでに呼びかけているのであれれば、ご容赦ください。ただし、よびかけをされたということあれば、それにもかかわらず北は核兵器を開発し、中国は軍拡を続けている状況についてどのようにお考えでしょうか。
 北の核開発を阻止できなかったことは、反米平和主義者にとっても日米同盟支持派にとっても敗北です。とりわけ日米同盟支持派にとって衝撃だったのは、韓国の哨戒艦が北朝鮮によって撃沈されたにも関わらず、また米国がテロ行為ではなく、北による戦闘行為だと認めたにも関わらず米韓安全保障条約が発動しなかったことです。北や中国が日本を攻撃したとしても日米安全保障条約が発動しない危険性があることを今回の哨戒艦撃沈事件は証明しました。北や中国は今回の事件を教訓に、さほどのリスクをとらずに日本に対する軍事的圧力をかけることができると考えているかもしれません。
 この意味であれば、日本が対米盲従をやめるべきだという先生の主張には共感いたします。ではどのように対米盲従をやめるのでしょうか。対米戦(心理戦、経済戦等です)を覚悟して日本はどのように米国からの独立を果たすことができるでしょうか。浅学非才なる小生にはなかなか思いつきません。これまでも右、左を問わず多くの識者、論者が日米同盟破棄、対米独立などを主張してきました。しかし、どの主張をとっても、具体的な政策として語られたものはありません。先生には是非、具体的な対米独立の方法、手順についてご教示願えればと思います。スローガンを掲げる時はすでにすぎていると思います。残されているのは、行動のみです。とりわけ北朝鮮、 中国に対する反核、軍縮の呼びかけです。
 妄言多謝 加藤

(追伸)
日本における平和主義者のほとんどが反米主義者であって、仮に反核を主張していたとしても反米という立場から北朝鮮やイランの核開発には賛成、あるいは容認する人が多いようです。かつて日本共産党が米国の核兵器には反対しソ連の核兵器開発には賛成していたことを思い起こさせます。要するに反米派は親米派と合わせ鏡であって、左右が逆転しているだけで思想、論理は同じ現実主義、戦略論に依拠しているようです。決して非暴力主義、非武装主義、反核主義ではないのではないでしょうか。浅井先生の立ち位置は単なる反米主義者なのか、それとも非暴力平和主義、反核主義者なのか、いずれでしょうか。

2010年7月13日火曜日

つかこうへい

つかこうへいが死んだ。つかこうへいを知ったのは、1974年のことだ。私が所属していた早稲田の学生劇団「騎馬民族コア」の隣のアトリエで、やはり早稲田の学生劇団「暫」の演出をしていたのがつかこうへいだった。
毎日のように、早稲田の6号館屋上で隣り合わせで稽古をしていたにも関わらず、つかこうへい自身に会ったことはない。つかの芝居にたくさんの客がきていることを知って、彼への嫉妬があったのだと思う。私は当時4年生で、密かに演劇プロデューサーを目指して、芝居の製作を担当していた。その時すでにつかの「暫」は大変な人気だった。
「暫」の役者(といってもみんな学生だったが)には、三浦洋一(早稲田政経の二年生)、平田満(当時早稲田第1文学部の三年生)や根岸李依らがいた。三浦にはアトリエ横の控室のようなところで会った覚えがある。パリッとした三つ揃えのスーツを着ていたのをいまでも鮮明に覚えている。三浦がなぜその時スーツを着ていたのかはわからない。友人から、BP(ブリティッシュ・ペトローリアム)のエンジン・オイルのネズミ講で金回りの良い役者がいると聞いて、興味で彼に会ったような気がする。多分芝居の制作費の工面で汲々としていたから、ネズミ講で金儲けをする方法を訊こうと思って会ったのだろう。
私が製作した芝居は多額の借金だけを残して失敗した。借金返済のためにも卒業して就職せざるをえなくなり、以後演劇とは全く無関係な世界に生きることになった。しかし、その後も演劇や映画のプロデューサーは見果てぬ夢となり、ずんとつかこうへいのことは気にかけていた。
つかも三浦、平田、根岸らもその後の活躍はご存じのとおりである。彼らが活躍するのをテレビや映画で見るたびに、昔の夢が思い出され胸が騒いだ。だから、つかの芝居を見ようとは思わなかった。また見る勇気もなかった。おのれの無能さを知ることを恐れたからだ。
でも1982年の映画『蒲田行進曲』は見た。弱者が弱者であることを逆手にとって強者に対抗するという自虐的な構図がひどく印象的だった。つかが在日韓国人であることを知ったのはその後のことだ。在日韓国人であろうがなかろうが、私も含めて弱者の立場に立つ者には圧倒的な共感を呼ぶ映画だった。『蒲田行進曲』以後、すなおにつかこうへいを評価できるようになった。そして自分の才能の無さを思い知らされた。
つかは小説『蒲田行進曲』で直木賞をとってから演劇からは暫く遠ざかっていた。再び芝居に戻ってからは、新作よりも旧作の再演が多くなったようだ。朝日新聞の演劇記者扇田昭彦(大学生時代からその名前を知っている。第一線の演劇記者として40年以上活躍している)も今日(7月13日)の朝日新聞でつかは自らの作品を古典として再演してきたと論評し、新作を見たかったと記していた。大衆演劇のように口立ての芝居だからこそ役者に合わせて内容を変えることができ、再演がしやすかったのかもしれない。
唐十郎の赤テント、佐藤信の黒テント(ちなみに私は大学一年の時、黒テントの鼠小僧次郎吉を見て演劇を志した)、麿赤児の大駱駝館などアングラ演劇が全盛で、また連合赤軍事件に象徴される騒然とした1970年代当時、つかの現代的大衆演劇的なわかりやすい芝居は非常に斬新であり、革命的だった。つかはたしかに一時期、時代に添い寝をしていた。しかし、80年代以降、時代はつかを置き去りにしていったようだ。だから自作の再演で時代に追いつこうしていたのかもしれない。
在日韓国人二世のつかこうへいは満州引き揚げ者の五木寛之のデラシネの系譜に連なる作家かもしれない。だからこそ、日本人以上に日本人らしい、韓国人以上に韓国人らしい感性をもった創造者になったのだと思う。我が心のライバルが永眠したことを本当に無念に思う。合掌

2010年7月8日木曜日

窒素からみた戦争の本質

 戦争の本質とは、農業時代にはNと工業時代にはUの戦いである。つまり火薬の主原料である窒素と核兵器の主原料であるウランをいかに獲得するか、つきつめればこれが農業時代と工業時代の戦争の勝敗を決したのである。その窒素をいかに獲得するか、窒素の獲得をめぐる物語がトーマス・ヘイガー著、渡会圭子訳『大気を変える錬金術』(みすず書房、2010年)である。
 今から100年以上前、19世紀末から20世紀初頭にかけて二人の科学者によって、空中の窒素を固定しアンモニアが大量に生産できるようになった。その二人とは窒素の固定の方法を編み出したフリッツ・ハーバーそして工業化によるアンモニアの大量生産システムを完成させたカール・ボッシュである。二人の業績をとって、空中窒素の固定はハーバー・ボッシュ法と呼ばれている。筆者は「空気をパンに変える方法」と称賛している。というのも植物の三大栄養素である窒素肥料を人工的に大量に製造できるようなったからである。この結果、小麦をはじめ多くの作物を大量に生産できるようになった。その一方でハーバー・ボッシュ法は「空気を火薬に変える方法」でもあった。ほとんどの火薬はアンモニアから合成される硝酸化合物を原料としているからである。
 ハーバー・ボッシュ法が発明されるまで、人類はさまざまな方法で肥料と火薬の原料となる窒素化合物を手に入れようとしてきた。最も簡単な方法は、天然の硝石を入手することだった。しかし、天然に存在する硝酸化合物の多くは硝酸ナトリウムや硝酸カルシウムなど水溶性のため、砂漠のような乾燥地帯にしか存在しなかった。そのため古来インド、中国そして南米のチリなど限られた乾燥地域からしか産出しなかった。そのため天然硝石のない日本をはじめヨーロッパ諸国では人造で硝石を生産する方法を編み出したのである(ちなみにこの人造硝石の製造方法やその起源等について体系的な研究はいまだにない。現在、私が科研の挑戦的萌芽研究で3年間の調査を今年から開始した。3年後を乞うご期待)。
 人造硝石の製造法には越中五箇山、飛騨白川の培養法、ヨーロッパの牧畜法(硝石プランテーション)そして世界中広く行われている古土法の三種がある。いずれの方法であれ黒色火薬の7割を占める硝石の生産量は微々たるものである。日本の場合でも越中五箇山で一年間の硝石生産量は100トンにも満たない。つまり19世紀末までは戦場で使用される弾薬の量は日本やヨーロッパでもわれわれが想像するほどには多くはなかった。
 状況が一転したのは、ハーバー・ボッシュ法によって窒素を空中から無尽蔵に入手できるようになって以降のことである。プロシア皇帝ウイルヘルムⅡ世が、ハーバー・ボッシュ法を知って、これで心置きなく戦争ができると語ったのは有名な話だ。第1次世界大戦が大量破壊の凄惨な戦争になったのは、ハーバー・ボッシュ法によって大量の火薬を生産できるようになったからである。ちなみに第1次世界大戦で使用された塩素ガスをはじめ毒ガスもハーバー・ボッシュ法によって大量生産が可能になった。
 大量に生産された弾薬は戦場に大量輸送しなければならない。そのために自動車、鉄道が発達した。また戦場で弾薬を大量に消費するために機関銃が発明され、また大砲の大型化が進んだ。巨砲を搭載するために陸上では戦車や自走砲が登場し、海上ではイギリスのドレッド・ノートのように大砲による海上決戦が本格化した。このように窒素の獲得は戦争の形態をも一変させたのである。
 現在、窒素に代わってウランの獲得が安全保障上の問題となっている。状況は19世紀末の窒素の獲得に各国が鎬を削っていたときにそっくりである。窒素がパンや火薬をわれわれに与えたように、ウランはエネルギーと核兵器をわれわれにもたらした。そしてなによりも問題なのは、窒素もウランも大きな環境問題をわれわれにもたらしたことである。ウランが環境に破滅的な影響を与える可能性があることはよく知られている。その一方で空中から固定された窒素の多くが植物に栄養として消費されないままに大量に川や湖、海を汚染していることは案外知られていない。ヘイガーは、本書の最後で窒素による環境問題について指摘している。まさに卓見である。
さて、こうしてみると戦争も国際政治も窒素とウランという二つの元素の争奪の歴史に還元できるのではないか。さらに情報時代の戦争はDすなわちデジタル化された情報の争奪ということになるのではないか。

2010年6月17日木曜日

憲法9条部隊に対する立ち位置

 憲法9条部隊について『朝日新聞』に掲載されたおかげで、何件か問い合わせがあった。中には、いささか早とちりされた方もいるようなので、以前に書いたブログの一部を抜粋することで、あらためて私の立ち位置を確認しておきたい。
「私はいわゆる護憲派ではない。地域紛争や「新しい戦争」など冷戦後の安全保障環境には必ずしもそぐわない憲法9条を改正し、自衛隊を軍隊と認め集団的自 衛権の政府解釈も変更し、自衛隊を国連PKOや国際警察活動や国際治安維持活動に積極的に参加させるべきだと考える改憲派である。
 にもかかわらず、現時点では改憲ではなく、次善の策として護憲による国際協力を主張せざるを得ない。後に詳述するが、その理由は二つある。
 第1に、政権交代 という国内政治情勢の変化、平和憲法に対する国内外の肯定的世論などを考慮すると、憲法9条改正はもちろん集団的自衛権に関する政府解釈の変更もここ当分 難しいと考えられるからだ。
 これよりももっと重要な第2の理由がある。それは日本の平和憲法が日本にとって最も強力なソフトパワーの一つになったことである。自衛隊というハードパワーが国際社会で使えない以上、代わりのパワーを考えざるを得ない。これまでは軍事力に代えて経済力をハードパワーと して用いてきた。しかし、その経済力にも翳りが出てきた。そこで経済力の補完、代替として平和憲法がソフトパワーとして重要性が増してきたのである。
  しかし、平和憲法を軍事力や経済力のハードパワーを補うに足るソフトパワーとするには平和の実践が必要となる。それは護憲派がこれまで行ってきたよう憲法 9条を護れと政府に向けて叫ぶことではない。『9条を輸出せよ』(吉岡達也、大月書店、2008年)と護憲派が主張するように世界に日本の平和憲法を輸出しなければならない。平和憲法の輸出とは単に憲法の前文や9条を世界に「布教」、「伝道」することではない。具体的には非暴力による、自衛隊に頼らない、 軍事力に依拠しない国際協力の実践である。それが実現できてはじめて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とある憲法前文の「名誉ある地位」を日本が占めることができる」。
私の立ち位置は、上述のように非暴力・無抵抗主義のダチョウ派でもなければ、非武装・抵抗主義のハト派でもない。時には暴力も戦争もやむを得ないとの正戦を信奉するフクロウ派である。フクロウ派とはいえ、否、功利主義的に熟慮するフクロウ派だからこそ現在日本を取り巻く内外の安全保障環境を功利主義的に判断すれば、自衛隊による国際貢献活動よりも民間の「憲法9条部隊」による国際貢献活動の方がより効率的、有効であり、また日本外交にとっても利するところ大と信ずる。
現在日本のPKO活動では自衛隊は戦闘地域には参加しないことが原則である。非戦闘地域(戦闘はないが治安が著しく悪い紛争地域という意味。平和地域ということではない)なら自衛隊が行く必要はない。NGOで十分だ。問題は、だからといって、ほとんどの日本のNGOは紛争地域で活動しないということにある。イラク・サマーワへの自衛隊派遣に反対するNGO関係者は多かった。しかし、サマーワで協力活動を展開したNGOはなかった。今もイラクの治安悪化地域で活動しているNGOはほとんどない。またアフガニスタンやミンダナオ島のようないわゆる紛争地で活動している日本のNGOもまれだ。自衛隊のPKO活動には反対、しかし、自分たちも紛争地には危険で行かないというのでは、国際協力を必要としている側からみれば、日本のNGOは支援活動の阻害要因でしかない。日本のNGOもせめて他国同様にたとえ紛争地であろうとも支援活動を実施すべきではないか。
 今年(2010年)2月にカブールで自爆テロに遭遇したが、犠牲者にはインド人医師が数人混じっていた。否、むしろ彼らを標的に自爆テロが実行されたと言われている。彼らは、インド政府の支援でカブールに建設された病院の医師だった。私が宿泊していたホテルにはNGO関係者なのか、企業人なのかわからないが、インド人らしき人も多かった。アメリカ、イギリスなど他の国のNGO関係者もアフガニスタンでは珍しくない。
またつい最近イスラエルにより封鎖されているガザに支援物資を届けるためにNGOが仕立てた支援船がイスラエル海軍によりだ捕され、死傷者がでる事件が起こった。その中に日本人はいなかった。こうした活動こそ非武装、非暴力を理念とする日本のNGOが率先してすべき運動ではないのか。
 「憲法9条の会」をはじめ護憲派の人々は、自衛隊を派遣せず、また軍隊を派遣しないこと平和に繋がると考えているようだ。一方、改憲派の多数は、国際貢献には自衛隊の派遣が必要であり、また治安回復には軍隊が必要だと信じている。両者とも日本が最後に戦った第2次世界大戦の「古い戦争」を前提にしているために、どちらも半分の真実しか言い当てていない。現在の「新しい戦争」においては、非武装、非暴力では解決できない場合もあれば、武力だけでは解決できない場合もある。要は、どのような場合に平和的手段が必要で、どのような場合に暴力的手段が必要かということを功利主義的に判断することである。
旧い世代の護憲派、改憲派は今もなお国内だけで通用する内向きの不毛の論争を延々と続けている。新聞には70歳代、80歳台の老人達が一方で戦争の悲惨さを語り、一方で軍人の英雄譚を語っている。どちらも懐旧譚に耽っているだけだ。思想のガラパゴス化どころか認知症化だ。こうした閉塞状況を打ち破るために憲法9条部隊による平和憲法の実践が必要なのだ。
アメリカでは志願公務員からなる民間遠征労働部隊(CEW:Civilian Expeditionary Workforce)という部隊が編成され、アフガニスタンに派遣されている。彼らは米軍の保護を受けながらアフガニスタンでの民生支援にあたっている。他方、「憲法9条部隊」は一切の軍隊の保護を受けずに紛争地で民生支援を実施するのである。隊員は自衛隊員以上に身命を賭して任務に遂行しなければならない。だからこそ隊員はハト派からは憲法9条の使徒として称揚され、他方タカ派からは一生報国の英雄として称賛されるだろう。
きたれ、中高年同志諸君!介護や年金に頭を悩ましている場合ではない。

我が青春・ 高橋真梨子

今日(2010年6月16日)NHKのソングス「高橋真梨子」を、ゼミ学生から誕生日プレゼントされたサントリーの「山崎」をロックで飲みながら聴いた。
 高橋真梨子を知ったのは、今から37年前の1972年のことだ(った思う)。ペドロ・アンド・カプリシアスのボーカル前野曜子に代わって二代目ボーカルになったのが高橋真梨子だった。当時私は、今は無きホテル・ニュージャパンの地下にあったニュー・ラテン・クウォーター(プロレスラー力道山が刺殺されたラテン・クウォーターがホテル・ニュー・ジャンパンに場所を移して開業していた。そのニュー・ジャンパンも1982年に火災を起こし、今は取り壊されてプルーデンシャル・ビルになっている)でショーの裏方をしていた。五人組(だと思う)のバンド、ロス・フランミンゴスと交代でペドロ・アンド・カプリシアスが出演していた。生で彼女の歌声を何度かステージの裏から聴いた覚えがある。
高橋真梨子の歌が好きというより、彼女の歌声は私の青春そのものだ。彼女の歌を聴くたびに、彼女の「フレンズ」の出だし「煌めいてた そして 戸惑う青春だった」を思い出す。大学よりもバイト先の夜の赤坂に入り浸っていた。そして仕事帰りのホステスで混み合う最終の丸の内線で新中野の四畳半の下宿に帰る毎日だった。一体、将来どうなるのだろうか、不安と希望の入り交じった青春は、前野曜子から高橋真梨子に歌い次がれた「別れの朝」、「ジョニーへの伝言」、「五番街のマリー」とともに過ぎていった。
そして還暦を目前にした今、桂枝雀の落語とともに高橋真梨子の歌は旅先での愛聴歌となった。ルワンダの首都キガリで聴いた「あなたの空を翔びたい」。イスラエルのガザ近くのアシュケロンのホテルのベッドで聴いた「ハート&ハード〜時には強く時には優しく〜」。スリランカ内戦で解放されたばかりの街トリンコマリーのホテルで聴いた「桃色吐息」。マレーシアのサンダカンからフィリピンのサンボアンガ行きのフェリーの、ゴキブリの這いずり回る、冷房の壊れた、うだるような個室で聴いた「別れの朝」。アブガニスタンのカブールで自爆テロで閉じ込められたホテルで聴いた「五番街のマリー」。今、高橋真梨子の歌は青春の思い出よりも、訪れた紛争地の思い出とともにある。
願わくば、人生最後の瞬間に聴く歌は「別れの朝」でありたい。

2010年5月5日水曜日

古田博司『日本文明圏の覚醒』を読む

古田博司『日本文明圏の覚醒』を読む
 日本文明は中華文明とは歴史的に異なるがゆえに、「東アジア共同体」などのアジア文明論は虚構であり、したがって中国や韓国とのつきあいはほどほどにというのが本書の概要である。
 日本文明がいかに中華文明と異なるかを、該博な知識を網羅して、縷々説いている。残念ながら、古典の知識がなければ、読み進むのに骨が折れる。ここは、ひとまず、日本文明は独立した文明であるとういことを理解すればよい。
 かつてサミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』で日本を一つの独立した文明に数えていた。彼は当時の日本異質論を根拠に単純に日本を独立文明としたのだろう。そのとき、私は単純に中国と同じように日本は儒教文化圏ではないだろうか、あるいは儒教、仏教の影響を受けた中国、韓国などと同様にアジア文化圏といってよいのではないかと思っていた。
 しかし、古田はそういう私の蒙を啓いてくれた。そういえば、かつて畏友内藤酬君が日本文明とは一体何かを熱く語っていたことを思い出した。儒教が伝来する前、仏教が伝来する前にあった日本の思想、文化、文明とは一体何かを、彼は縷々語っていた。古田博司が内藤君と全く同じ問題意識をもって日本文明の独自性を中国、韓国、日本の古典から現代に至る数多くの書物を分析しながら、明らかにしている。
 ところで、私にとって書を置く間もないほどに一気呵成に読み進んだのは、日本文明論ではない。現在日本がポストモダンに入っているという世界認識に引かれたからだ。彼はロバート・クーパーの『国家の崩壊』からプレモダン(農業時代)、モダン(工業時代)、ポストモダン(情報時代)の三つの時代概念を借りて、現在の日本がポストモダンの時代に入っていることを、モダンに入った中国と対比しながら論じている。
 三つの時代に分けるというというのは、田中明彦『新しい中世』の「第一圏域(新中世圏)、「近代」的国際関係が優越している第二圏域(近代圏)、グローバリゼーションに参加する基盤さえ崩壊しつつある第三圏域(混沌圏) という3つの圏域から世界が成り立っているという世界観でもおなじみだ。こうした三つに分けるという発想は、誰かの独創というわけではない。過去、現在、未来という時間に対応した言い方でしかない。だから私も1999年に出版した『二十一世紀の安全保障』で、クーパー以前に前近代、近代、脱近代という分類をしていた。だからといって、自慢しているわけではない。誰もが考えつくことでしかないということを言いたかっただけである。
 それはともかく、ポストモダンの世界がニヒリズムの世界であるということに強く共感した。私は『テロ-現代紛争論-』で、9.11を手段が目的化した、つまり目的なきニヒリズム・テロであるということを主張していた。また20年近く前から私は、『現代戦争論』でも明らかにしたように、テロはポストモダンの紛争であり、国家間戦争はモダンの戦争であると主張していた。誰からもかえりみられることはなかったが、古田の書を読み、大いに勇気づけられた。私の説は決して奇矯な説ではなかったのだ。アルカイダは決してイスラム防衛のためにテロを行ったのではない。また単に反米だからテロをおこなったのではないだろう。単なる時代の気分が彼らにテロをおこさせたのかもしれない。そこにセンター・ビルがそびえ立っていたから、飛行機でつっこんだのかもしれない。1960年代にはやったイヨネスコやベケットの不条理劇やアルベール・カミュの『異邦人』を思い出す。
 『テロ』でも強調しておいたのだが、アルカイダのテロを原因をさがして、それへの対策を考えるという近代合理主義的思考そのものがもはや無効になったのではないか。古田も全くおなじことを主張している。因果律で成り立つ近代の合理主義的な思想は破綻し、近代合理主義に基づく学問とりわけ社会学や人文学は崩壊してしまった、と。私は満腔から彼の説に同意する。私の専門とする国際政治学はもちろん近代に発展してきた現在の学問ががもはや学として成立しない。したがって古田も主張するように知の集合である学会や「学者」の世界である学界が成り立たない。私は昨年国際政治学会を退会したが、今や学会若手のジョブ・ハンティングの場でしかない。年寄りがじゃまをしてはいけない。
 古田の近代合理主義の因果律への懐疑は、その文体にも及んでいる。論文は、まさに因果律にしたがって執筆しなければならないとわれわれは教えられてきた。しかし、因果律が破綻したとするなら文章も因果律を無視して気分や思考のおもむくままに書くしかないではないか。結局古田はエッセーというスタイルをとって執筆している。われわれ凡人がエッセーを書くと、単なる身辺雑記になりかねない。しかし、古田の古典に対する該博な知識と豊富な古語の語彙はエッセーを超えて、新たな論文のスタイルをつくりだしている。彼はもともと擬古文が得意だったのだが、今回は擬古文体をとらずに語るように執筆し、そこに漢語が散りばめられている。
 ちなみに漢語の使い手では古田が一番だが、大和言葉の使い手の一番は故坂部恵先生だろう。両者の著作には、頁を開いたとたんに打ちのめされた。私には全くかけない文章だった。
 さてポストモダンに入った日本は、モダンの上り坂にある中国とどのようにつきあっていけばよいのか。古田はさらっとつきあえばよいという。日本は前近代の徳川時代に「鎖国」で日本を守ってきた。古田は前近代から、近代という長いトンネルを抜け出ると、そこには脱近代という世界が広がっていたという。古田によれば、その脱近代は前近代にどうやら様相が似ているらしい。であれば、日本は前近代の鎖国のように脱近代の現在再び鎖国政策とった方がよいのかもしれない。鳩山政権の体たらくを見るにつけ、鎖国が一番かもしれないと思う「今日この頃」である。

2010年4月7日水曜日

紛争の十字路-アフガニスタン-

 ジャーナリストの常岡浩介氏が行方不明になって一週間がたつ。一説にはタリバンが仲間の釈放を求めて誘拐したとの情報がある。しかし、ムスリムで親タリバンの彼が身内同然のタリバンに誘拐されたとはにわかに信じがたい。
 常岡氏のブログ、「さるさる日記」は1年前から時折のぞいてきた。そこから読み取れるのは、明らかに反米、反露の親イスラムのジャーナリストの姿だ。チェチェン紛争やアフガニスタン紛争の取材を通じて、イスラムの人々に対するシンパシーが湧いてきたのだろう。彼の思いは、当然のことながら、制約の多い日本のジャーナリズムの世界には通用しない。長崎放送を退職してフリー・ジャーナリストととして取材を続けていた。
 彼が行方不明になったのは、タリバンの支配地域である北部クンドゥズ州とバグラン州の州境付近だ。一般の外国人がカブールから出るのは至難の技だ。私も2月の訪問時にカブールからほんの目と鼻の先にあるバグラム空軍基地を再訪したいと思った。しかし、かなわなかった。ガイド曰く、取材許可証や特別の理由がなければ途中の検問所を通過できないとのことだった。常岡氏はガイドとともに北部州までいったところをみると、取材許可証で検問所を通過したのだろう。
 常岡氏が何の目的で北部州までいったのかは、よく分からない。単に現在のアフガン情勢を取材しにいったのか、あるいは特定のタリバン幹部とのインタビューが目的だったのか。あるいはそれ以外の何らかの目的があったのか。目的がなんであるにせよ、誘拐されたことで、彼自身がニュースになってしまったのは、ジャーナリストとして大失態だろう。
 冒頭でも記したように常岡氏は反米・反露で親イスラム系のジャーナリストだ。私から見ればジャーナリストの一線を踏み越えるような活動もしている。インテリジェンスの世界でもそれなりの有名人で、ロシアでは彼はペルソナ・ノン・グラータだ。それだけに今回の行方不明事件は、単純にタリバンの仕業とは断定しがたい。深読みすれば、彼の行動を快く思わない勢力、たとえばパキスタン情報部かCIAの仕業かもしれない。あるいは単純に外国人誘拐団の身代金目当ての犯行かもしれない。
 アフガニスタンの情勢は、カルザイ政権+米・英+国連(ISAF)対タリバン+ヘクマティアル派+アルカイダの政府対反政府の二項対立的な紛争ではない。近隣の中央アジア諸国、イラン、パキスタン、中国さらにはインド、米、英、国連などの諸国家の利益やイスラム勢力の思惑が複雑に絡み合った紛争である。アフガニスタンはかつての東西文明の十字路だったが今や紛争の十字路になっている。常岡氏は紛争の十字路に迷い込んだようだ。

2010年3月15日月曜日

ヴィジョナリーとしての日本の役割

 アフガン、パキスタンを訪問して気付いたことがある。それは中国、インドの両国への進出の著しさだ。中国、インドの発展途上国への進出はアフリカやアジアでも顕著だ。こうした発展途上国や最貧国への進出が両国の経済発展を支え、GDPを押し上げているのではないか。つまり両国は発展途上国の中の「先進国」といえるのではないか。
 発展途上国とは、言葉を変えれば、工業時代に生きる国々のことである。中国もインドも今まさに、半世紀前の日本がそうであったように、工業時代の真っ只中にある。だから工業時代の象徴である自動車が爆発的に売れているのである。自動車をつくるには鉄が必要だ。自動車を走らせるにはガソリンが必要だ。また自動車を快適に走らせるには道路が必要だ。こうして中国もインドも今まさに国家の総力を挙げて自動車文明の実現を目指して、外国から手当たり次第に鉄鉱石、原油などを輸入しているのである。そして発展途上国向けの製品をつくって外貨を稼いでいるのである。
 パキスタンで中国の家電メーカー「ハイアール」の広告をいたるところで見た。同社はかつて日本に進出していたが、今は影も形もない。安いだけでは日本の消費者には受けなかったのだろう。逆に発展途上国では、安さは、最も重要なポイントだ。日本の冷蔵庫のように、高度な機能を持った冷蔵庫はそもそも発展途上国には向かない。なぜならアフガニスタンでもパキスタンでも停電はしょっちゅう起きるからだ。マイコンで制御するような日本の冷蔵庫ではたちどころに故障してしまう。ただ物が冷えればいいという単機能に絞った安い冷蔵庫が実は発展途上国では最も必要なのだ。
 またパキスタンではスズキのアルトがタクシーや大衆車として圧倒的なシェアを誇っている。安いこと、丈夫なことがなによりも評価されている。アルトは日本でいえば、丁度半世紀前に登場したダイハツのミゼットというところか。一般の人がなんとか手がとどく車という位置づけだ。技術的には初歩的で、何も評価するものはない。
 アフガニスタンではまだ車を生産する技術はない。だから専ら車は輸入車だ。その輸入車の中で圧倒的な人気を誇っているのが、トヨタのカローラ、しかもディーゼル・エンジンで、マニュアル車だという。それはカブール市内を走ればすぐわかる。とにかく道路が悪い。雨が降ればすぐぬかるみ、水たまりができる。晴れの日はもうもうたる砂塵だ。絶対にこんな道路状況ではプリウスなどの精密高級車はたちまちのうちに故障してしまう。
 中国もインドも今まさに日本が半世紀前にたどった道を今ものすごい勢いで追いかけている。だから丁度日本が60年代に高度経済成長を経験したように、今両国が高度経済成長を経験しているのである。日本が自動車生産で米国にキャッチアップしたのは1970年代である。半導体やウォークマンやテレビのような家電で世界に君臨したのは1980年代である。しかし、これらの技術は基本的には米国の後追いであった。丁度今の韓国が日本の後追いを猛追し、キャッチアップしているのと同じだ。
 考えてみると、日本が経済不況に苦しんでいるのは、情報時代の新たな産業形態が見つからないからである。手本となるべき米国にも新たな産業はない。たしかにスズキのように発展途上国への技術移転で儲けることは可能だろう。だからといって例えばパナソニックがインドや中国向けに安い家電製品をつくったとして本当に発展するのだろうか。
 情報時代の新たな社会のあり方が不明だから、日本は途方に暮れている。中国もインドも日米始め先進国の後追いをすればよい。しかし、日本の前にはどこの国もいない。横に欧米先進国が並走しているだけだ。アメリカも新たな社会の形態や新たな産業を創り出せないでいる。ちなみにアメリカは国内に貧困層という第三世界を抱え込んでいるので、この社会層を発展させることでGDPを押し上げることができる。
 プリウス・リコール事件は、グリーン技術、グリーン社会で頭一つ米国を出し抜こうとした日本への牽制球だろう。マラソンで団子状態になった先頭集団から日本が少し抜け出ようとしたところ、米国が姑息にも日本の足を踏んづけてよろめかせたということだろう。日本は、世界のトップランナーだという自覚をもって新たな文明の創造に邁進する気迫が必要だ。GDPは工業時代の思想にしか過ぎない。文明のヴィジョナリーとしての役割を今日本は背負わされている。

2010年3月1日月曜日

アフガニスタン カブール雑感

足かけ10日のカブール滞在を終えて、今日の午後(2010年3月1日)イスラマバードに向けて出発する。昨夜は春雷がとどろき、遠くで砲爆撃でもしているのではないかと思えるような激しい雷鳴だった。窓をたたく雨は、テレビの音をかき消すほどだった。雷雨の一夜が明け、今朝は三日ぶりの快晴だ。宿泊客も自爆事件のせいかどうかはわからないが、めっきりと減った。 収穫の多い旅行だった。 何よりも爆弾襲撃事件に遭遇できたのは、不謹慎の誹りを免れないが、全く幸運だった。自爆テロや襲撃事件が日常生活にどのような影響を与えるのか、この目で見、耳で聞き、実体験することができた。紛争研究者としてこれほどの経験は願ってもそうあるものではない。距離は600メートル、これがもう少し近ければ窓が割れけがをしていたかもしれない。偶然にも屋上からは事件現場が見渡せ、銃撃戦の生々しい音を聞き、立ち上る爆弾の煙を見ることができた。 事件に対する人々の冷静な対応にも新鮮な驚きがあった。当日にはテレビで盛んに放送されていたが、翌日になるともう過去のことのようにテレビの放送量も減り、日常生活が戻った。割れたガラスを黙々と片付ける人、破壊されたホテルの残骸の横を何事もなかったように通りすぎる人。新聞の扱いも、二段、三段目の記事扱いだ。人々の関心の薄さは、テロがあまりに日常化しているためのか。 第二は、山のスラム街を訪問したこと。カブールの中でも最も貧しい人々の暮らす地域だ。遠くから見ると世界遺産のような山上の穴居のような趣がある。しかし、実際に訪れてみると、近くの山肌から切り出した岩と泥とでできた家だ。夜になると小さな窓から淡い光がこぼれる家もある。電気などもちろん来ていない。あの光は蝋燭だろうか。 水は山頂のタンクから何か所かある給水場まで水道で給水されている。下水道はなく垂れ流し。ゴミの収集などもちろん無い。家の周りはゴミだらけだ。上のゴが雨などで次第に下に落ちていき、麓にはゴミの山が築かれている。ゴミの山はフィリピンやスリランカでも見た光景だ。国が発展しているかどうかの一つの目安はゴミや汚物の処理にあることは間違いない。 それにしても山頂近くに暮らす人々は毎日の生活をどうしているのだろうか。どんなに急いでも登りは三十分はかかる。下りは早いが、ゴミに足を取られたり急坂で、転げ落ちそうになる。老人や体の不自由な人が暮らすのはとても無理だ。本当にどうやって人々は日常生活を送っているのだろうか。 第三は、マンデーマーケット。秋葉原のような電気街があり、また食料品を扱う露天がカブール川沿いに何百もある。まさに人々の普段の生活に触れた。品物はあふれている。ある人によると、タジキスタンの首都ドゥシャンベよりも物資は豊かだという。 日本でもおなじみの食材が結構ある。羊肉料理の付け合わせに必ず付いてくるのが生の大根だ。絡みは全くない。油っこくなった舌を洗ってくれる。思いがけないことに里芋があった。里芋のカレー煮は結構いける。カリフラワーも一般的な食材のようで、露天に山のように積まれていた。肉は羊、鶏そして牛肉もある。無いのは当然豚肉である。魚を扱う店も結構あった。内陸の国で魚は少ないかと思っていた。種類は少ないが、淡白な味の淡水魚が取れるようだ。 羊肉を一口大に切って、三つか四つほどを平たい鉄串に刺して炭火で焼いたケバブを売る店も多い。羊肉の焼ける香ばしい香りや油が炭火に落ちて立ち上る煙が食欲を誘う。新宿の小便横町を思い起こさせる。 第四はカブール大学。アメリカの大学のように広大な敷地に校舎や寮が点在している。校舎は戦火を浴びてお世辞にも立派とはいえないが、学生たちは真剣に学業に励んでいるような印象を受けた。女子学生が多いのは予想外だった。 アフガニスタンに平和が訪れる日がそれほど早くはないだろう。諸外国の対応とアフガンの人々の思惑との間には相当な隔たりがある。欧米諸国は善意の押し売りを慎むべきだろう。他方アフガンの人々は自立と自律の精神の涵養が何よりも必要だ。そして日本は府相を恐れずもう少し勇気を持ってアフガンの人々の中人に入り、支援に取り組むべきだろう。 とりあえず、アフガニスタンを離れる前の感想を記しておく。

2010年2月28日日曜日

アフガニスタン訪問について

 朝日新聞に思いがけず、私が「日本人旅行者」として記事になってしまった。少し誤解を招きそうなので、事情を記しておく。「旅行者」と言えば、本当に物見遊山気分で気楽にアフガンに来たと思われるかもしれない。私のこれまでの経歴や活動を知らなければ、そう取られても仕方がない。しかし私は紛争専門家として調査研究旅行に来ているのであって、他の人は決して真似をしないように。アフガニスタンは今は観光でくる国ではない。 今回私がアフガンを訪問するに当たっては、用意周到に準備したうえでのことだ。私にとって今回のアフガン訪問は二度目。三年前にNGOの関係で訪問したことがある。今回はその時のつてを頼って訪問した。 当地では現地の治安関係者を運転手兼通訳兼ガイド兼ボディーガードとして雇っている。彼の指示に従い、危険なところには近づかない。また写真の撮影も慎重に行っている。彼と一緒でなければ外出はしない。だから一日にせいぜい二時間程度外出するくらいで、滞在中のほとんどは宿屋で過ごすことにった。 私を知らない人に簡単に経歴を記しておく。 私は一応紛争研究者としては、「超二流」と自負している。とりわけテロやゲリラ戦などのLICに関しては他の追随を許さない。つまり誰もこのような金にもならない研究をする者がいないということだ。だから単なるオヤジ・バックパッカーが旅行しているわけではない。旅行者ではなくあくまで専門家の調査研究旅行だ。 三年前から紛争地観光と称して、紛争地や元紛争地をを渡り歩いている。それはこのブログを見てもらえばわかる。紛争研究者が紛争の実態を知らないでなんで紛争研究ができるだろうか。火山学者が火山の噴火を見ずに火山の研究などできるだろうか。医者が病気を見ずに治療ができるだろうか。紛争のフィールドワークの確立を目指してこれからも紛争地を行くつもりだ。 断じて冒険心で行くわけではない。紛争の実証研究が目的だ。 余談ながら現地時間2月28午前3時58分に震度3程度の地震があった。イランからアフガン、パキスタンはヒマラヤ山脈の造山運動地帯にあるためか地震が多い。カブールの山にへばりついて立っている土づくりの家は無事だろうか。

アフガニスタン カブール自爆テロ概要












自爆テロの概要が分かった。 現地時間午前6時38分、市内中心部にあるアリア・ゲストハウス前で車による自爆テロが発生。同じく被害を受けた近くのハミッド・ゲストハウス前で7時7分に自爆ベストで自爆。残り二人がやはり爆発現場近くにあるパーク・レジデンス・ホテルに逃げ込み軍・警察との間で銃撃戦。3時間余り戦闘が続く。一人は射殺、一人は追い詰められて自爆。激しい銃撃戦は小一時間で終了。銃声が完全におさまったのは10時ころ。 自動車爆弾使用されたのは白のカローラ。アフガンではもっとも人気が高く、走っている車の6割、7割が同車。もっとも目立たない車が使用された。使われた火薬は高性能火薬14キロ。その威力は、衝撃波が通り抜けた商店街の左右の店のガラスがほとんどわれたことでもわかる(グーグル。ブログの写真参照)。私の部屋の窓は、自爆テロ現場から直線で約600m。窓が爆発現場に面していたために、ドンとガラス窓を思い切りたたく音とともに、窓が激しく揺れた。 標的はゲストハウス(短期長期滞在者用のまかないつき下宿のような宿)に滞在していたインド人医師。インドが支援した市内のインディラ・ガンディー病院に勤務していた。4人のインド人医師が死亡。他にイタリアの外交官やアフガンの警官を含め17人が死亡。38人が負傷。 金曜日の休日でまだインド人宿泊者が確実に宿にいる時間を狙った計画的な襲撃事件。最近インド人が狙われるようになった。そのため現在インド大使館は、日本大使館、米国大使などの主要国大使館があり、要塞化されている大使館区域外にあり、現在昼夜兼行の突貫工事で同地区に大使館の建設を急いでいる。インドが標的になる背景は、インド・パキスタン関係にある。今回の事件は、最近インドと和解の方向を示し始めたパキスタン政府に対するパキスタンのタリバンによる犯行という説。 これとは別に、現在南部で米軍をはじめ国際治安部隊による掃討作戦に対する反撃という説。米軍がタリバン掃討に成功しているとの報道を流しているが、タリバンには依然として計画的な襲撃作戦を実行する力量があることを示すための犯行という説。 いずれが正しいかは判然としない。しかし、アフガン紛争はわれわれ日本人が考えているほど単純ではない。地域レベル、国際レベルの双方で各国間の利害が複雑に錯綜し、それが時折火山の爆発のように自爆jテロとなって噴出する。 現地の受け止め方にはいささか驚いた。日本ならこれほどの死傷者が出れば連日トップニュース扱いだが、当地の英字新聞では2段目、3段目の記事扱いだ。翌日に現場を車で通ったが、いつも通りの生活が戻っていた。商店街ではわれたガラスの後片付けに忙しそうだった。

2010年2月27日土曜日

アフガニスタン 自爆テロ事件余話

 自爆テロ事件から一昼夜が立った。元の生活にみんなン戻った。宿ではどうもそれほどの話題にもなっていないようだ。ロビーにある大型のテレビのニュースを見ていたのは事件直後だけだった。今はいつもどおりもっぱらサッカー番組だ。
 今までわかったことは、17人が死亡し多数が負傷したこと、その中にはインド人、パキスタン人など多くの外国人が含まれていたことだ。タリバンのスポークスマンによると標的は外国人だという。だから外国人の利用が多いホテルが狙われた。実は犠牲が出たのはサフィホテルという高級ホテルだけではなくそばにある、ゲストハウスも狙われたらしい。私が宿泊しているゲストハウスと同じような宿屋だ。高級ホテルに泊まっているから狙われたといううのではない。外国人だから狙われたのだ。タリバンはさしずめ尊王攘夷ならぬ尊アラー攘夷派のようだ。
 今宿泊している宿屋も多くのインド人や外国人長期、短期を問わず宿泊している。いつ狙われてもおかしくはない。とは言えあと二日でアフガンを去る。それまでに襲撃されることはないだろう。おまじない程度かもしれないが、この宿の持ち主は軍閥のボスらしい。またすぐ近くには、メッカ巡礼を手配する政府の役所がある。それを巻き添えにすることはないだろう。

2010年2月26日金曜日

アフガン カブール爆発事件発生











カブールの治安はいいのか悪いのか判然としない。イスラエル、スリランカ、ミンダナオ、ナイロビと治安の悪いところを歩いたことがあるので慣れてしまったのかもしれない。言われているほどの緊張感はない。 確かに、街のあちこちに銃を持った兵士や警官が警戒している。だから見た目治安が悪そうに見える。しかし、四日もいるとどのような状況なのか少しは実態は把握できる。極めて厳重に警備されているのは、米軍やNATO軍をはじめ外国政府機関、国連機関そしてアフガン政府機関や政府高官の住居などの周囲だ。 たとえば私が滞在している宿屋(ゲストハウスと呼んでいる)の一画は政府要人や富裕階級が暮らしているため。警察や軍そして民間警備会社によって厳重に警備されている。車の往来も制限されており、通りを歩く人影も少ない。私の宿屋の正面玄関は二重の鉄扉で覆われている。鉄扉に開いている小さな小窓を覗いて中にいる警備員に電動式のカギを解錠してもらってから中に入る。中にはも一枚鉄扉があって、それを開けてやっと中に入ることができる。外には防弾チョッキを着用し自動小銃を構えた警備員が24時間体制で警戒している。 ちなみに私の宿泊している宿屋は、聞くところによると、もともとは軍閥の指導者の私邸だったという。要は部屋貸しのまかないつき下宿のような宿屋だ。企業や援助関係者など長期滞在者も多い。そのためタリバンの標的になりやすく、2か月前には近くにある軍閥の関係者の家が自爆テロにあった。その家は今も破壊されたまま放置されている。また同じような宿屋が一月ほど前に襲撃されて国連関係者が死傷した。そのため国連は関係者をより警戒の厳重な宿舎に集めた。カブールに到着した当日、近所の邸宅で、自動車の突入を防ぐために、コンクリートを中に流し込んだ直径三十センチはある鉄パイプを何十本も玄関先に埋め込む情事をしていた。昨日完成したようだ。 こう書くと、みんなピリピリして暮らしているように思われるが、イスラエルやフィリピンのサンボアンガで感じたような緊張感はみじんも感じられない。通りでは子供たちが屈託なく遊んでいる。少し離れたところにあるレストランもにぎわっている。市内の中心部では要所要所に銃を持った兵士や警官の姿をよく見かける。これもスリランカのコロンボで見た光景と同じだが、コロンボと同じように緊張感はない。市内中心部にある露天市場や商店街では活気あふれる人々の生活を見ることができる。ただし様子のよくわからない私のようなよそ者には本当のところはわからないのかもしれない。 在留邦人は日本大使館から基本的には外出禁止を要請されている。大使館員はもちろん政府系のJICAなどの職員そして政府の援助資金を受けている企業、NGOも大使館の要請をうけいれて、外出を自粛している。外出する際には防弾車
とここまで書いていると爆発音とともに窓ガラスが揺れた。同時に銃声もきこえ、爆弾事件が起こった。時刻は現地時間6時40分。自動小銃、重機関銃、ロケット弾などの音が聞こえる。爆破現場は宿から直線距離で3-400メートルくらい離れたカブールシティセンター。サフィアホテルが併設されており、外国人を含め7人が死亡、21人が負傷した(午前9時現在)。銃撃戦は小一時間続いた。その間に7時7分に小規模な爆発音が一回(報道ではもう一回あったという)聞こえた。 6時50分に宿屋の屋上に上がって爆発現場を見ると、薄著色の煙が100メートルほど立ち上り、雨雲と混じって最後は白く薄れていった。重機関銃からと思われる曳航弾の赤い弾が一発空高く上がった。雨はやがて雹に変わり、銃声も次第に間遠になった。部屋に戻ると、宿泊人も従業員もまるでなにごともなかったかのようにいつも通りの生活をしている。慣れっこなのか。人々に緊張感はない。私は銃声がこちらに近づいてくるのではないかと少し心配した。なにしろすぐ近くで散発的に銃声がしたからだ。、 10時現在、被害の様子はテレビでもよくわからない。煙や音からすれば2-300キロの爆発物が爆発したのではないか。テレビでは単独の爆発事件ではなく、作戦を練った襲撃事件のようで、なおも襲撃犯の追跡が行われているようだ。 先ほどガイドから連絡があり、危険なので今日の行動すべて取りやめということになった。今日は部屋で仕事をすることにする。遠くでまだ銃声が聞こえる。続報は後ほど。

2010年2月24日水曜日

アフガン情勢

アフガン人とのインタビューのあらましを忘れないうちに記しておく。 アフガンには三つの反政府勢力がいる。第一がタリバン。第二が軍閥のヘクマティヤル。第三がアルカイダ。彼らの目的はそれぞれに異なる。タリバンはアフガニスタンから外国勢力を一掃し、独立を達成すること。ヘクマティヤルは現政権を倒して権力を奪取すること。アルカイダは米国ひいては反イスラム教国を打倒することだ。究極の目的は異なるものの共通の目的は反米だ。この場合の反米とはNATO諸国や親米諸国も含め米国と協力して戦っているすべての国に反対することを言う。だから韓国も彼らの標的だ。この共通の目的を達成するために、情報の交換や共同訓練を実施している。 アフガン紛争の解決には交渉しかない。いくら武力でタリバンをねじ伏せようとしても、それは一カ月や二カ月程度の短期的な解決にしかならない。交渉の相手は穏健派のタリバンではない。タリバンには穏健派も急進派もない。タリバンはタリバンだ。カルザイ政権は誠実に無条件でタリバンとの交渉をすべきだ。オバマ政権がおこなっている、一方で軍事力を用いて急進派を抑え込み、一方で穏健派と交渉しようというのは水と油のように矛盾しており、根本的に誤りだ。 PRTは結局軍事力の行使にしか過ぎない。地元の人にとって、米軍の対テロの「不朽の作戦」とPRTの治安維持活動にはともに軍事力を行使するという意味でまったく差はない。米軍もISAFもまったく区別はない。みんな同じ米軍だ。 日本は自衛隊をおくるべきではない。制服を着ている者は皆同じ米軍の仲間とみなされる。日本がインド洋での給油活動を打ち切ったことは一般の人は知らないにしても政府や関心を持っている者はよく知っている。非武装の貢献が最適だ。 50億ドルの支援については、金の配り方が問題だ。これまでのように政府に渡せば、大半が賄賂となって政府高官や地方の有力者の私腹を肥やすことになる。本当に必要な人にわたる方法を考えるべきだ。だから金そのもの政府に渡すのではなく、たとえば工場を作ってそこで人々が働けるようにしたほうが効果的だ。仕事があれば長期にわたって人々は金を受け取ることができる。そのために日本人技術者が必要だが、彼らの安全は地元の人々との協力の中で確保すべきだ。アフガン人は非武装の人を襲うというようなことはしない。 確かにペシャワル会の伊藤さんが一部の武装勢力に殺害された。しかし、それまでペシャワル会は全く犠牲者を出していない。そのことの意味を考えるべきだ。犯罪者の取り締まりは必要だ。そのためには警察や軍の腐敗を直さなければならない。 インタビューの概略は以上である。結論は、自衛隊の派遣はいかなる目的であれ、地元には歓迎されそうにもない。誤解を招くだけだ。 

アフガニスタン カブールの山のスラム







 本日(2010年2月24日)午前、以前から気にかかっていた場所を訪れた。それは山の家だ。カブール市内には二つの小高い岩山がある。急坂が頂上まで続いている。高さは100メートルは優に超えていると思う。その岩肌の山腹にへばりつくように、土で造られた家が山頂まで続く。遠くからみるとそれは美しい景観を見せている。それにしても人々はどのようにして暮らしているのだろうか。それが三年前に来たときからの疑問だった。それが今日氷解した。遠目から見た光景とは全く裏腹に、誠に厳しい生活を人々は強いられているのだ。 何よりも水だ。水は山頂にタンクが設置されており、そこから水道管を使って水が供給されている。といっても各家に配水されているわけではない。何箇所かに共同の水道施設があり、人々はそこでバケツに水を汲んで自宅まで運ぶのだ。こう書くと簡単そうだが、急坂でしかも道があるわけではない。岩だらけの坂を登って行くのだ。私はときどき手をつかないと登れなかった。それほど急で岩だらけの道を水の入った重いバケツを持って上がるのは本当に重労働だ。 一方、下水は垂れ流しだ。中腹から幅50センチほどのU字溝を利用した下水道はあったが、それは上から流れてくる下水をまとめて排水するためだ。しかし、その下水道は麓ではとぎれて、下水はまた垂れ流しだ。生活ゴミはそこいらじゅうに捨ててある。至るところにゴミの山があり、異臭を放っている。足元はゴミと人糞が散乱している。下水と混じり合っているために、ゴミに何度も足を取られそうになった。まさにスラム街だ。同じ光景を20年近く前にパキスタン、ペシャワルのアフガン難民キャンプで見たことがある。 物資の運搬はもっぱらロバに頼っているという。さもなくば人力だ。頂上までの家に行くには三十分はかかるだろう。老人や足の悪い人はとても暮らせない子供たちは坂をものともせずに遊びまわっている。大きな犬が泥の家の屋根で寝そべっていた。ちょっと油断すれば転落しそうな急峻な岩山に、それでもへばりついて暮らす人々のたくましさ,生への執着に、ある種の感動を覚える。 頂上からカブール市内を一望できる。誠に平和な光景だ。しかし、こんな山の上でもかつて戦闘があったという。そして今でも山上でも下界でも軍の監視は厳しく、緊張に包まれている。戦争と平和の境界はどこにあるのだろう。

2010年2月23日火曜日

アフガン貢献とは


 アフガニスタンに対して日本はどのような貢献が可能か。
 間違いなく、自衛隊は送るべきではない。アフガンの現状に精通している人ほど自衛隊の派遣には反対している。それは、伊勢崎賢治氏も主張していたように、日本が軍隊を派遣していないからだ。それが、アフガンの人々が日本に大変な親近感を抱いている最大の理由といってもよい。
 逆に、派兵している国に対しては嫌悪感を懐いている。特に米軍に対する感情は憎悪といってもよい。ソ連軍もひどかったが、女、子供は殺さなかった。しかし、米軍やISAFは女、子供も殺す。だから、米軍や英軍は最悪で大嫌いだ。36歳の政府で治安関係の仕事に就いている男性の感想だ。彼から話を聞いた日に、南部の戦闘で米軍の誤爆のために民間人に犠牲が出た。テレビでは米軍の司令官が謝罪し、アフガン政府の高官が米軍に対する非難の声明を出していた。おそらく、これまで米軍やISAFが攻撃をするたびに、同じ光景が繰り返されてきたのだろう。アフガンの人々に反米感情が募るのもやむをえない。
 アフガンには中国人も韓国人も多数いる。世界中どこにでもある中華料理店はカブールではあまり見かけない。つぶれた店を一軒見た。聞くところによると、かつて、といっても、2-3年前だが、中華料理店で女性を斡旋する店があったらしく、市民の不興を買ったことが原因で中華料理店があまりないのだという。真偽のほどは定かではない。だからというわけではないが、中国人もあまり歓迎されているわけではないようだ。また韓国人も日本人ほどには歓迎されていない印象だ。派兵していることが影響しているのかもしれない。
 いずれにせよ、日本に対する親近感は絶大だ。自衛隊を送っていないことに加えて、トヨタのカローラの影響かもしれない。カローラを持つことが一種のステータスのようになっている。この日本への親近感をソフトパワーとして利用しない手はない。
 それを考えると、インド洋での給油支援を打ちきったのは失策だったかもしれない。私はアフガン特措法に基づく給油支援は憲法に違反すると考えている。ただし、憲法問題と外交政策とを切り分けて考えれば、給油支援は良い外交政策であった。というのも給油支援はアフガン国民にまったく知られない対米外交であったからである。給油支援というアフガンから遠く離れた洋上での対米支援を打ち切ったために、アフガン本土での対米支援そしてアフガン国民への支援という両立が極めて困難な外交政策を鳩山政権はとらなければならなくなってしまった。
 対米支援のためには自衛隊の派遣が求められる。一方でアフガン支援のためには自衛隊によらない支援が求められる。自衛隊によらない支援とは何か。金だけ出せばよいのか。それとも危険を覚悟で何らかの人的貢献をするのか。
 私の結論は一つ。危険を覚悟で人的貢献を果たすのだ。そのために鳩山政権は友愛部隊、憲法9条部隊を早急に編成してアフガンに送り込むべきだ。対米支援はアフガンではなく他の地域や他の政策で代替すればよい。
アフガンへの支援は直接アフガンで行うしかない。
 護憲派諸君!アフガンにいざ来たれ。憲法9条を輸出する最適の国だ。
(写真)カブール大学にて

アフガニスタン カブールの現況2010年2月)




 アフガニスタンのカブールに来て4日目だ。外務省が強く退避勧告を出しているが、体感治安はスリランカやイスラエル、ミンダナオとさほど変わらない。むしろケニアのナイロビがもっとも危険だったような気がする。もっとも今度はガイド兼運転手兼ボディーガードを雇っているからかもしれない。 さてカブールの町の様相は、三年前に比べると、いくつかの点で違いが見られる。 第一は、車の、台数が増えたこと。渋滞がますます激しくなった。理由の一つは、援助インフレがおきて、それなりに経済が活況を呈していること。そのために物流が盛んになり交通量が増えた。物価は発展途上の紛争国相であることを考えると、結構高い。貧富の格差がだんだん大きくなっているようだ。子供や婦人たちの物乞いが結構多い。しかし、フィリピンのミンダナオのような悲惨さは感じない。援助インフレはパレスチナ西岸でも見られた。バブルのような活況と貧困の同居である。 第二の理由は、政府中枢や大使館街に通ずる道路が至るところで封鎖されているために、交通渋滞を招いている。特に米国大使館や英国大使館などがある地域はバグダッドのように地域一帯が封鎖されている。自爆テロやロケット弾攻撃を防ぐためだ。私のいる地区も道路封鎖はしていないものの、辻、辻に武装した警備員が立ってにらみをきかせている。 カブールでも相も変わらず日本の中古車が幅をきかせている。車体に日本語が書かれたままの車が数多く走っている。アフリカでもスリランカでもフィリピンでも見られた現象だ。日本語が車体に描いてあると高く売れるのだろうか、中には日本語ににせた文字が描かれた車を見かけた。ちなみに圧倒的な人気車はカローラだ。日本の大衆車がここでは人々のあこがれの的だ。 またカブールでもUNの車は新車ばかりのような印象で、しかもトヨタのランドクルザーがほとんどだ。世界中の紛争地でUNが使用する車はトヨタのランクルのような印象を受ける。さまざまな利権が絡んでいるとのうわさも聞く。トヨタが米国で狙い撃ちにされている一つの理由は、トヨタのランクル利権も絡んでいるのではないかと邪推したくなる。   第二の違いは、政府の統治がそれなりに進んだような印象だ。政府の規制が厳しく酒が手に入らない。一昨日、昨日とビールを探し回った。結局、ノンアルコール・ビールはあったが、普通のビールはなかった。三年前はこうではなかった。決して堂々と店先においてあったわけではないが、ビールあります、といわんばかりに店先の隅っこにはビールのカートンが置いてあった。しかし、今はまるで麻薬の取引のようなありさまだ。こっそりと店員に話を持ちかけると、おもむろに1カートン6000円近い値段を吹っかけてくる。税金を考えると、大変な値段だ。その上、秘密でもビールや酒を扱っている店は少ない。 また規制の強化とは裏腹に、テレビは自由化が進んだようだ。タリバン時代はテレビは許されなかったが、今は22チャンネルもあるという。ネットも中国のように検閲はないようだ。政府の管理の下で、報道の自由は進んでいるようだ。 当地に長く暮らしている日本人に聞くと、昨年末以来、明らかに治安が悪くなっているという。確かに宿も2重の鉄扉で、小窓から中の警備員に扉を開けてくれるよう頼んではじめて、電動ロックを解錠してくれる。扉の外には自動小銃を構えた警備員が24時間常駐している。イスラエルやフィリピンのサンボアンガのホテルと同じだ。ただし、鉄扉はカブールが初めてだ。 カブールは紛争の中の平和という状況だ。 

2010年2月9日火曜日

「闘え!護憲派」-「憲法9条部隊」の創設を-

 最初に述べておく。私はいわゆる護憲派ではない。地域紛争や「新しい戦争」など冷戦後の安全保障環境には必ずしもそぐわない憲法9条を改正し、自衛隊を軍隊と認め集団的自衛権の政府解釈も変更し、自衛隊を国連PKOや国際警察活動や国際治安維持活動に積極的に参加させるべきだと考える改憲派である。
 にもかかわらず、現時点では改憲ではなく、次善の策として護憲による国際協力を主張せざるを得ない。後に詳述するが、その理由は二つある。
 第1に、政権交代という国内政治情勢の変化、平和憲法に対する国内外の肯定的世論などを考慮すると、憲法9条改正はもちろん集団的自衛権に関する政府解釈の変更もここ当分難しいと考えられるからだ。
 これよりももっと重要な第2の理由がある。それは日本の平和憲法が日本にとって最も強力なソフトパワーの一つになったことである。自衛隊というハードパワーが国際社会で使えない以上、代わりのパワーを考えざるを得ない。これまでは軍事力に代えて経済力をハードパワーとして用いてきた。しかし、その経済力にも翳りが出てきた。そこで経済力の補完、代替として平和憲法がソフトパワーとして重要性が増してきたのである。
 しかし、平和憲法を軍事力や経済力のハードパワーを補うに足るソフトパワーとするには平和の実践が必要となる。それは護憲派がこれまで行ってきたよう憲法9条を護れと政府に向けて叫ぶことではない。『9条を輸出せよ』(吉岡達也、大月書店、2008年)と護憲派が主張するように世界に日本の平和憲法を輸出しなければならない。平和憲法の輸出とは単に憲法の前文や9条を世界に「布教」、「伝道」することではない。具体的には非暴力による、自衛隊に頼らない、軍事力に依拠しない国際協力の実践である。それが実現できてはじめて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とある憲法前文の「名誉ある地位」を日本が占めることができる。
 では、非暴力による国際協力の実践とは具体的にどのようなことをいうのか。
 これまで日本の国際協力といえばほぼ資金協力、経済協力しかしてこなかった。湾岸戦争の時も、そしてアフガニスタンでの対テロ戦争でもしかりである。しかし、現在の日本の財政状況を考えると、資金提供による国際協力もいずれは困難となる。また資金協力だけでは、「小切手外交」と揶揄された湾岸戦争の例を引くまでもなく、「名誉ある地位」を確かなものにすることは難しい。本来ならば資金協力だけではなく、汗をかく人的協力が求められるはずだ。
 たしかに現在自衛隊やJICAそして一部のNGOが人的協力をしている。しかし、その人数や規模は他国に比べるべくもないほどに限定的である。憲法9条の制約から国際NGOよりも機能においても地域においても自衛隊の活動は限定的だ。またJICAは危険地域では他国の軍隊に防護してもらう、あるいは日本人職員の代わりに地元の人や外国人を雇うなど、外国人に武力で安全を確保してもらいながら活動しているだけだ。つまり自らは武力を行使せず、他人に間接的に武力を行使してもらって安全を確保しているということだ。日米同盟で米国に安全を保障してもらっている日本の国家のありようと同じだ。
 また日本政府の資金を受けているNGOは、外務省の指導で危険地域での活動を自粛させられている。加えて自ら危険に身を曝してまで紛争地域で支援活動に貢献しようという日本のNGOはほぼ皆無だ。ましてやスマコミで盛んに軍事支援よりも経済支援をと訴える「評論家」や「文化人」そしていわゆる「護憲派」の人々においておや、だ。かれらは自らに危険が降りかかることなど絶対にない日本国内で非武装、非暴力で民生支援、市民への援助をせよと言うばかりで、有言不実行、言行不一致、知行不一で、まさに巧言令色少なし仁である。
 北アイルランドのノーベル平和賞受賞者メイリード・マグワイア氏とは大違いだ。彼女は2009年6月にガザに支援物資を届けようとしてイスラエル軍に船ごと拘束された。彼女のように自ら平和を実践してこそ、憲法9条の輸出であろう。
 現状のままでは、他国が軍人や警察官あるいは文民に多数の犠牲を出しながらも平和構築活動を実施している一方、日本だけは人的犠牲を出すのが厭なために資金協力や他国に肩代わりさせているとの印象を国際社会に与えかねない。危険なことはあなた任せ、他人任せで、はたして日本は憲法前文の「名誉ある地位」を占めることができるのか。「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」他国の人々同様に汗をかき、時には拘束され、また最悪の場合には血を流す覚悟がなければ、「名誉ある地位」を獲得できないのではないか。
 では、憲法9条を遵守し自衛隊に頼らない、しかも資金協力だけではない、そして日本が憲法前文の「名誉ある地位」を占めることができる平和貢献の方策はあるのか、というのが本書のテーマである。
 結論は、イエスである。それは憲法9条部隊あるいは鳩山首相にあやかって「友愛部隊」と呼んでも良いが、他国による護衛や武力による自衛などを一切しない非武装、非暴力の別組織の創設である。これは湾岸戦争時に構想された自衛隊を除外し民間人ボランティアからなる国連平和協力隊や自衛隊を改編したような官主導の別組織ではない。あくまでも護憲派民間ボランティア主導による別組織である。
 自衛隊による国際協力に限界がある以上、非暴力・非武装の憲法9条部隊による人的な平和貢献こそが、現行憲法を遵守すると同時に「名誉ある地位」を占める唯一の現実的方法と私は信じている。だからこそ憲法の平和主義すなわち非暴力・非武装を日頃から熱心に主張している「護憲派」の人々に非暴力による平和のための非武装、非暴力による平和への闘いを有言実行で挑んでもらいたい。
 非武装・非暴力による平和貢献という結論には、必ず反論が出てくる。非武装、非暴力でどうして危険地域で平和構築活動が実施できるのか、と。逆に、問いたい。身命を賭すことなく、どうして平和構築ができるのか、と。他国の兵士が身命を賭して「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと」平和構築の任務にあたっているのに日本人だけが安全地帯にいて金だけ出し他人任せにするだけで事足りるなどと世界に向かって広言できるのか。
 身命を賭して非武装、非暴力で平和のために活動している外国のボランティアや国際NGOの例は枚挙に暇がない。前述のメイリード・マグワイア氏をはじめ先人をたどればキング牧師やガンジーもいるではないか。また非暴力による紛争解決を模索する非暴力平和隊やキリスト教平和隊、メノナイト調停サービスなど、多くの非暴力国際NGOが現在世界中で活動を展開している。
 死にに行けといっているのではない。死をも厭わぬ覚悟をもって国際社会の平和に寄与すべきだと言っているのだ。平和には代償がつきものである。
 もう一度憲法を読み返してみよう。われわれは日本国憲法前文で次のように宣言している。
 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。
 憲法前文が述べるように日本国民は武力ではなく「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することで、「われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。
 現実には「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」したからといって、必ずしも「われらの安全と生存を保持」できるとは限らない。時には必ずしも平和を愛さない諸国民に裏切られ身命を落とすこともあるだろう。しかし、平和を愛さない国民がいる、諸国民の公正と信義をいつも信頼できるわけではないからといって、武力や暴力で「われらの安全と生存を保持しよう」すれば、それは「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」せず、諸国民を裏切る行為である。それは、憲法の平和主義、相互信頼の精神を根底から否定することになる。
 憲法前文が日本国民に求めているのは、相互信頼、利他主義であり時には自己犠牲の精神である。まさにボランティア(志願兵)の精神そのものである。この崇高なる平和主義のボランティア精神を世界に宣命、実践して初めて日本は国際社会において「名誉ある地位」を占めることができるのである。
 自らの犠牲をも省みないが故に憲法9条部隊(友愛部隊)の隊員は、自衛隊員が宣誓する宣誓書に倣って、国際社会の平和と繁栄を守る憲法9条部隊の「使命を自覚し、日本国憲法前文及び9条を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて世界市民の負託にこたえること」(下線部は自衛隊員の宣誓書をもとに改訂)を誓わなければならない。
 相互信頼、利他主義、自己犠牲の精神に依拠する憲法9条部隊(友愛部隊)にボランティア(志願兵)として志願する者など誰もいないだろう、という反論が聞こえてきそうだ。たしかに湾岸戦争の時には、当初自衛隊を除外した海部首相の国連平和協力隊構想には誰も賛同もしなかった。自ら進んで危険を引き受けようという市民など誰もいなかった。その後国連平和協力隊への自衛隊の参加が計画されたことで、なおさら一般国民や護憲派の反発を招き、結局構想倒れになった。
 しかし、現在、状況は全く異なる。阪神淡路大震災で日本人にも相互信頼、利他主義、自己犠牲のボランティアの精神は日本人に完全に根付いた。ボランティアには時には犠牲が伴うということを日本人はすでに知っている。1993年にはカンボジアの復興支援で選挙監視にあたっていた中田厚仁氏、2008年にはアフガニスタンで農業支援をしていたペシャワル会の伊藤和也氏が犠牲になっている。にもかかわらず、ボランティアを目指す若者は増える一方である。国際協力を教える大学もまた増えている。
 一方、憲法9条を護ろうという運動も燎原の火のごとく全国津々浦々に拡がっている。作家の井上ひさし氏や憲法学者の奥平康平氏あるいはノーベル物理学賞の益川敏英氏やなど錚々たるメンバーが呼びかけ人や世話役を務める憲法9条の会は全国に続々と誕生しており、知識人を中心とする賛同者は900人近い。最近では「憲法9条を世界遺産に」という宗教学者の中沢新一氏や「爆笑問題」の太田光氏の主張まである。
 また現在存命中のほとんどの日本国民が戦後の平和憲法の下で平和主義を骨の髄まで教育されてきており、護憲運動に積極的に参加する市民の数は日本全国に無慮数百万いるといっても過言ではないだろう。さらに、これまで戦後一貫して護憲運動の先頭にたち、現民主党政権の母体となっている連合(日本労働組合総連合会)は675万人(2008年)もの組合員を抱えている。
 仮に護憲派市民数百万人のうちわずか0.01%でも志願すれば数百人規模の憲法9条部隊ができる。また護憲派市民一人が護憲と国際平和のために一万円を寄付するだけで、数百億円規模の憲法9条基金が創設できる。また護憲派の連合を中心に憲法9条部隊を編成すれば、自衛隊のPKO部隊など足元にも及ばないほど高い専門性を持った部隊ができる。なにしろ連合には医療、教育、運輸、建築、土木などさまざまな職種の組合員がいる。これら、さまざまな技能を備えた組合員のうち1万人に一人が志願し組合員が1万円を拠出すれば、たちどころに「キリスト教平和隊」、「日暴力平和隊」や「国境なき医師団」など他国のNGOに負けない高度な技能を備えた憲法9条部隊が編成できる。
 憲法9条部隊は自衛隊や「国際平和協力隊」のような国家組織でもなければJICA(国際協力機構)のような独立行政法人でもない。純然たる市民のボランティアによるNGO組織として編成できる。つまり憲法9条部隊は日本市民による地球市民のための平和部隊である。
 このように護憲派による憲法9条部隊はきわめて現実的な日本国の、否、むしろ日本市民の国際協力の方策といえる。平和憲法を世界に輸出しようという運動をしている憲法9条の会の人々や、護憲運動を推進してきた人々、さらには市民による平和を主張している人々がよもや憲法9条部隊への志願を躊躇するはずはない。
 これまで政府や在京大使館などへの抗議運動をしたり街頭でのビラ配りをしたり、各地で仲間内の学習会を開くくらいしか護憲運動の実践の場がなかっただけである。一度憲法9条部隊という国際的な護憲運動の実践の場ができれば、そして憲法9条を世界に輸出できる機会が与えられれば、志の有る人々は我先にボランティアとして参加を申し出ることは必定である。
 実のところ、憲法9条部隊の創設は自衛隊の国軍化や日米同盟の強化を主張する改憲派にとっても意義がある。というのもわが国を取り巻く安全保障の現状を考えると、多数の兵力を国際協力のために海外派遣することは必ずしも容易ではなく、むしろ憲法9条部隊を自衛隊の補完や代替として国際貢献活動に従事させた方が日本の安全保障にとって好都合だからだ。
 平和と安定が訪れた欧州地域とは対照的に、アジア地域では中国やインドの台頭、北朝鮮の核兵器保有など冷戦時代以上に不安定な状況が現出しつつある。また昨今のわが国の財政事情の悪化で2003年以降自衛隊予算は対前年比で縮小するばかりか、国際協力のための定員増も認められないありさまだ。国際貢献の名の下に多数の精鋭の隊員や艦船・航空機を海外に派遣すれば、それこそ国土防衛に支障をきたしかねない。
 自衛隊が抱えるこの問題を解決するために憲法9条部隊は最適の方策である。あくまでも自衛隊は日本の防衛を最優先とし、海外での国際貢献は基本的には憲法9条部隊に任せるのである。
 これまでも自衛隊のPKO活動について護憲派からはさまざまな批判が出ていた。いわく資金をかけすぎ、地元の役に立たない、技術が粗雑など、民間の専門家にまかせればもっと効率的な国際貢献ができるはずなど、さまざまである。誤解や偏見に基づく批判もあったが、多くは至極真っ当で的を射ている。だからこそ連合などから医療、教育、運輸、建設、土木などさまざまな専門家を集めた憲法9条部隊の出番となるだろう。
 もし憲法9条部隊が国際貢献の柱となれば、自衛隊は本来任務である国土防衛の任に心置きなくあたることができる。自衛隊による国際貢献を主張している改憲派も、まさか本土防衛をおろそかにしてまでも国際貢献を重視せよとは主張しないだろう。たしかに国際貢献は自衛隊の本来任務の一つに格上げされた。しかし、やはり本来任務とは国家防衛である。この国土防衛は自衛隊、国際貢献は別組織という構想には社民党など護憲派勢力も反対はすまい。なぜならこの構想こそ彼等の提案であったからだ。
 改憲派の一部からは自衛隊が人的貢献をしないことで日米同盟に悪影響を与えるのではないかとの懸念があるかもしれない。それは杞憂である。日米同盟にも憲法9条部隊は役立つ。米国政府には、アジアの平和と安定こそが自衛隊の最優先の任務であることを理由にそれ以外の地域での対米協力を控えめにしたいと申し入れても、米国との協力関係が損なわれることはないだろう。つまり、アジア地域での安全保障に自衛隊がこれまで以上に多くの責任を負う一方、米国の国際安全保障への活動については、やはりこれまで以上に日本が基地や施設の提供等後方支援で協力を行うのだ。また自衛隊の代わりに憲法9条部隊を派遣すれば、間接的にであれ国際社会への貢献を通じた対米協力にもなるだろう。
 自衛隊の補完や代替の役割を果たすとはいえ、憲法9条部隊はもちろん自衛隊の補完部隊や代替部隊でもなければ、従来の別組織論とも異なる。つまり自衛隊を海外に出さない、出せないから別組織を創設するというのではない。自衛隊が派遣できようが、できまいが、それとは全く無関係に、憲法9条部隊は純然たる人間の安全保障を目指した国際協力組織として編成するのである。
 自衛隊が行う国際貢献はあくまでも国家による国際協力である。他方NGOは地球市民による地球市民のための国際協力である。それこそ真の意味での人間の安全保障すなわち人間の人間による人間のための安全保障である。これまでの国家による「人間の安全保障」とは画然と異なる。
 仮に、万々が一憲法9条が改正され、集団的自衛権の解釈も変更され、自衛隊の海外派遣が可能になったとしても、憲法9条部隊による国際協力の意義は決して失われるものではない。それどころか憲法9条部隊の重要性をなおさら世界にアピールする方策となるだろう。
 護憲派の人々の主張は憲法9条の平和主義の精神を世界に輸出し世界を平和にすることにあるはずだ。仮に日本で護憲に失敗したとしても、その理念が失われることはない。だとすれば日本を越えて世界の恒久理念として憲法9条部隊を通じ憲法9条の精神を世界に広げる運動や非暴力による平和構築の実践は、憲法改正や集団的自衛権の解釈変更などの日本の国内事情に左右されることなく永遠不滅の意義がある。憲法は改正された、しかしわれわれは憲法の精神を永遠に受け継ぎ実践していくと宣言し、憲法9条部隊を通じ実践すればよいのだ。それは、かつてパリ不戦条約が実現できなかった自衛戦争を含めた全ての戦争の廃棄という理想の実践でもある。
 
 とりあえず、言い出しっぺの私が「憲法9条部隊」の可能性を確かめるために、2月19日から3月5日までアフガニスタンとパキスタンを現地調査する。防弾車にも乗らず防弾チョッキも身につけない。憲法9条を「読九」すれば護憲派の人々が信ずるように、私に銃口を向ける人はいないだろうし、仮に撃たれても弾はあたらないだろう。
 闘え!護憲派諸君、今こそ憲法9条部隊に結集せよ!私の後に続け!

2010年1月29日金曜日

武器輸出三原則の緩和を

 2010年1月12日、北沢俊美防衛相が日本防衛装備工業会主催の会合で、武器輸出の原則禁止を定めた政府の「武器輸出三原則」について「基本的な考え方を見直すこともあってしかるべきだ」と述べた。連立を組む社民党の福嶋党首に配慮したのだろう、鳩山首相は直ちに軽率な発言だとして北沢防衛大臣を批判した。
 武器輸出三原則の見直しは防衛省の長年の目標であり、麻生政権下では「安全保障と防衛力に関する懇談会」が昨年8月に三原則の緩和を提言している。
 防衛省が武器輸出三原則の緩和を求める理由は大きく分けて三つある。第1に武器購入価格の高騰。武器輸出ができないために自衛隊しか購入先がなく、少量生産で兵器価格が高騰する。第2に他国との共同開発が困難なために技術交流ができず「技術鎖国」化してしまう。第3に日米間の技術を通じた同盟関係の強化が困難である。
 私は、武器輸出三原則は少なくとも「武器」について再定義した上で、下記の佐藤三原則まで緩和すべきと考える。
 ところで武器輸出三原則には、あえたて言えば2種類ある。
 第1は1967年の佐藤栄作首相の三原則である。それは、以下のような国・地域に「武器」の輸出を認めないこととした。
共産圏諸国向けの場合
国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
③国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
 第2は、1976年に佐藤三原則を拡大した三木武夫首相の修正版三原則である。同政策では、三原則対象地域については「武器」の輸出を認めないとした上で、次のような拡大修正が加えられた。
➀三原則対象地域以外の地域については憲法及び外国為替法及び外国貿易管理法の精神にのっとり、武器の輸出を慎む。
②武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱う。
 現在武器輸出三原則とは、この佐藤三原則より厳しい三木三原則をいう。
 では三木三原則が厳格に遵守されているかといえば、必ずしもそうではない。例外規定が設けられている。その典型が米国に対する技術供与である。1983年の中曽根内閣時代に、「日米安全保障条約の観点から米軍向けの武器技術供与を緩和することを武器輸出三原則の例外とする」との修正が加えられた。
 これだけではない個々の兵器についても時代に応じて例外扱いとされ、輸出対象からはずされた兵器がある。例えば1991年輸出貿易管理令では、地雷探知機や対人地雷除去機は例外扱いとされている。これは地雷被害国に本来なら武器にあたるこうした機器を供与するために、例外扱いせざるを得なかったからである。また2006年には「軍艦」に相当する海上保安庁の巡視船がインドネシアにODAの一貫として例外扱いで輸出された。このように政治的状況によって武器輸出三原則はこれまでも比較的弾力的に運用されてきた。
 こうした例外規定が設けられた背景には政治的理由もあるが、何よりもRMA(軍事革命)と呼ばれるような兵器技術の著しい進歩がある。
 そもそも武器輸出三原則の最大の問題点は「武器」の定義が曖昧なことにある。武器輸出三原則では武器をこう定義している。「軍隊が使用するものであって直接戦闘の用に供されるもの、本来的に、火器等を搭載し、そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段として物の破壊を目的として行動する護衛艦戦闘機戦車のようなもの」をいい、具体的には輸出貿易管理令の第1項にあげられているものを指す。
 この定義はあまりに一般的かつ古典的でコンピュータを中核技術とする現在の武器には必ずしもあてはまらない。
 そもそも「武器」は破壊体、発射体、運搬体そして運用体の四つの部分からなるシステムである。たとえば戦闘機を例にとってみよう。破壊体とはたとえば戦闘機に搭載されている機関砲の弾丸である。弾丸が爆発して相手機を破壊する。発射体とは弾丸を発射する機関砲である。運搬体とは、その機関砲を搭載する戦闘機である。そして運用体とは戦闘機を運用する地上の管制誘導システムである。こうした四つの部分からなるシステムが合体して一つの兵器体系を形成し、戦闘の用に供されるのである。
 この四つの部分のうち、厳密には破壊体と発射体だけが「そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段として物の破壊」をする用に供されるのであって、他の運搬体と運用体は破壊とは直接関係はない。防衛省や日本防衛装備工業会が緩和を求めているのは、専ら運搬体と運用体の技術供与や部品の輸出である。
 実際、運搬体はこれまでなら、「本来的に、火器等を搭載し、そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段として物の破壊を目的として行動する護衛艦戦闘機戦車のようなもの」という定義にあてはまっていたかもしれない。しかし、最近の運搬体は、必ずしも「本来的に、火器等を搭載し、そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段として物の破壊を目的として行動する」とは限らない。
 その典型的な例が、「テクニカ」である。これは主にトヨタのピックアップ・トラックやランド・クルーザー(運搬体)を改良して荷台に機関銃やロケット・ランチャー(破壊体と発射体)をとりつけた戦闘車輛である。イラン・イラク戦争でイラン軍がイラク軍の戦車に対抗して導入したり、またチャドやアンゴラなどアフリカ各地の内戦で盛んに利用された。またヤマハの農薬撒布用の無人ヘリコプターも偵察機に転用可能で、自衛隊がイラクのサマワに持っていった。他国から売却の要請があったというが、これも武器輸出三原則に抵触したために売却できなかったという。
 専ら民生用に開発された技術が組み合わされて軍事に転用されるという例はこれらに限らない。運用体部分では、ソニーのプレステ3を大量に使用して簡便な並列型スーパーコンピュータとして米軍が利用している。またプレステ3のCPUはグラフィック処理に優れているためにミサイルの誘導部分の目標の形状認識に用いられているという。さらにソニーのビデオカメラに用いられている光学素子は精密誘導弾の誘導部に用いられている。 
 武器輸出三原則が制定された60年代や70年代とは異なり兵器は著しい進歩をとげている。昔は軍用技術が民生技術に応用されるスピンオフが主流だったが、今では逆に民生技術が軍事技術に転用されるスピンオン技術が主流となっている。したがって武器輸出三原則で技術を規制してしまうと民生技術、部品、製品にも大きな影響が出る。たとえば国外持ち出しが貿易管理例によって規制されているプレステ3やラップトップコンピュータなどがその典型である。
 このように武器輸出三原則で想定していた「武器」は、RMA時代の現在その様相を一変させている。破壊体や発射体の進歩は事実上とまってしまったが、他方運搬体とりわけコンピュータを基幹技術とする運用体の進歩は著しい。日本がこの部分で他国との技術交流や共同開発ができなければ、日本の兵器の「ガラパゴス」化を起こしかねない。それは事実上絶滅への一里塚である。だからこそ、武器輸出三原則の緩和が求められる。  
 

2010年1月28日木曜日

鳥越俊太郎はどうなっている?

 最近の鳥越声俊太郎はいったいどうしたのだろうか。もともとそうだったのか、とにかくひたすら反米的言辞を弄している。反米的というより、明らかに頑固な老人の繰言だ。若く見えるが、1940年生まれの70歳。世間ではとっくに引退の年だ。
 頑固な年寄りの繰言といえば、それは旧くは小汀利得や細川隆元のように保守派の爺さんと決まっていたものだ。ところが高齢化社会になって旧安保世代のサヨク生き残りが高齢化し、ウヨク爺さんに取って代わったようだ。
 先日(2010年1月27日)のスーパーモーニング(テレビ朝日)のことだ。ハイチへの自衛隊PKO派遣について司会者がその背景について、こう説明した。ハイチ救援は最近ギクシャクしている日米関係を慮った対米配慮だ、と。するとカメラが切り替わる前に鳥越が「ふざけるな」と怒声を発した。「対米配慮などする必要ない、ハイチの人たちのことだけを考えればよい」とまるでウヨク爺さん評論家の三宅久之のように癇癪まぎれに怒鳴りあげた。その語気に気おされたのか、コメンテーターの落合恵子や森永卓郎も「ハイチの人のことを第一に考えるべきだ」と鳥越へのお追従のコメントをしていた。
 この発言に限らず、最近の鳥越の発言は明らかに呆けている。普天間問題の発言にそれが如実に現れている。
 彼は、昨年来一貫して鳩山首相が米国との約束を破って普天間問題を白紙に戻したことを大いに褒め称えていた。アメリカはオバマ新政権に代わってからポーランドとチェコへのMD配備計画を反故にした。だから日本も旧政権の時の約束を反故にしてもかまわない、とずっと言い続けていた。
 確かに約束は必ずしも100パーセント守られるとは限らない。しかし、約束を破れば子どもの間でも信用を失い、嘘つき呼ばわりされる。それは国家間でも同じだ。国家が約束を破れば信用を失い、外交には大きな痛手となる。米国がポーランドやチェコとの約束を破ったことで、両国は対米不信を募らすことだろう。それが今後米国の対東欧政策にどれほどの悪影響を与えるかは不明だ。それを覚悟で米国は約束を反故にした。米国の約束違反をみて、ポーランド、チェコ以外の国々も対米不信を募らせたことだろう。
 鳥声は、日本が辺野古への基地移設の約束を破ることで日本がどれだけの不利益を被るかについては何ら関心がないようだ。実際、約束を破ったからといって米国が直接日本に対して経済制裁や軍事制裁をかけてくるわけではない。だから約束を破ってもいいんだと言わんばかりの主張を鳥越はくり返していた。しかし、経済制裁や軍事制裁以上に日本にとって、鳩山政権にとって米国や国際社会の信頼を失うことの方が遥かに深刻な問題である。日本と約束をしてもいつ反故にされるかわからないと思えば、どこの国も日本との約束をかわすことに二の足を踏むだろう。鳥越は日本が信用を失うことをどのように考えるのだろうか。
 さらに、鳥越は最近になって、新安保条約締結50周年を迎えてもう一度安保条約を全面的に考え直してはどうかという。たしかに、一般論としては納得できる。ただし、具体的にどのように考えるのかが明確でなければ、考え直すといっても単なるスローガンにしかならない。
 とはいえ鳥越が考える安保を考え直すというのは、恐らくは安保条約を破棄せよということでないかと推測する。というのも2007年にある番組で彼はこう発言したことがある。「今の日本は差し迫った防衛上の危機は無い。したがって防衛予算は大幅に削減するべきである」。
 ウヨク爺さんが改憲、安保維持、軍事力強化を叫ぶように、サヨク爺さんは護憲、安保破棄、軍事力削減を声高に叫ぶ。どちらにしても、老人は早く社会の一線から身を引くべきである。とりわけ団塊の世代の還暦過ぎの老人は早く引退すべきだ。若者が色が無くて困っているのも、年金や健康保険の重圧に喘いでいるのも、結局は老人世代のせいである。ウヨ、サヨに関わらず老人が日本を悪くしている。鳥越俊太郎も早くメディアから引退すべきだ。