2010年2月28日日曜日
アフガニスタン訪問について
朝日新聞に思いがけず、私が「日本人旅行者」として記事になってしまった。少し誤解を招きそうなので、事情を記しておく。「旅行者」と言えば、本当に物見遊山気分で気楽にアフガンに来たと思われるかもしれない。私のこれまでの経歴や活動を知らなければ、そう取られても仕方がない。しかし私は紛争専門家として調査研究旅行に来ているのであって、他の人は決して真似をしないように。アフガニスタンは今は観光でくる国ではない。 今回私がアフガンを訪問するに当たっては、用意周到に準備したうえでのことだ。私にとって今回のアフガン訪問は二度目。三年前にNGOの関係で訪問したことがある。今回はその時のつてを頼って訪問した。 当地では現地の治安関係者を運転手兼通訳兼ガイド兼ボディーガードとして雇っている。彼の指示に従い、危険なところには近づかない。また写真の撮影も慎重に行っている。彼と一緒でなければ外出はしない。だから一日にせいぜい二時間程度外出するくらいで、滞在中のほとんどは宿屋で過ごすことにった。 私を知らない人に簡単に経歴を記しておく。 私は一応紛争研究者としては、「超二流」と自負している。とりわけテロやゲリラ戦などのLICに関しては他の追随を許さない。つまり誰もこのような金にもならない研究をする者がいないということだ。だから単なるオヤジ・バックパッカーが旅行しているわけではない。旅行者ではなくあくまで専門家の調査研究旅行だ。 三年前から紛争地観光と称して、紛争地や元紛争地をを渡り歩いている。それはこのブログを見てもらえばわかる。紛争研究者が紛争の実態を知らないでなんで紛争研究ができるだろうか。火山学者が火山の噴火を見ずに火山の研究などできるだろうか。医者が病気を見ずに治療ができるだろうか。紛争のフィールドワークの確立を目指してこれからも紛争地を行くつもりだ。 断じて冒険心で行くわけではない。紛争の実証研究が目的だ。 余談ながら現地時間2月28午前3時58分に震度3程度の地震があった。イランからアフガン、パキスタンはヒマラヤ山脈の造山運動地帯にあるためか地震が多い。カブールの山にへばりついて立っている土づくりの家は無事だろうか。
アフガニスタン カブール自爆テロ概要
自爆テロの概要が分かった。 現地時間午前6時38分、市内中心部にあるアリア・ゲストハウス前で車による自爆テロが発生。同じく被害を受けた近くのハミッド・ゲストハウス前で7時7分に自爆ベストで自爆。残り二人がやはり爆発現場近くにあるパーク・レジデンス・ホテルに逃げ込み軍・警察との間で銃撃戦。3時間余り戦闘が続く。一人は射殺、一人は追い詰められて自爆。激しい銃撃戦は小一時間で終了。銃声が完全におさまったのは10時ころ。 自動車爆弾使用されたのは白のカローラ。アフガンではもっとも人気が高く、走っている車の6割、7割が同車。もっとも目立たない車が使用された。使われた火薬は高性能火薬14キロ。その威力は、衝撃波が通り抜けた商店街の左右の店のガラスがほとんどわれたことでもわかる(グーグル。ブログの写真参照)。私の部屋の窓は、自爆テロ現場から直線で約600m。窓が爆発現場に面していたために、ドンとガラス窓を思い切りたたく音とともに、窓が激しく揺れた。 標的はゲストハウス(短期長期滞在者用のまかないつき下宿のような宿)に滞在していたインド人医師。インドが支援した市内のインディラ・ガンディー病院に勤務していた。4人のインド人医師が死亡。他にイタリアの外交官やアフガンの警官を含め17人が死亡。38人が負傷。 金曜日の休日でまだインド人宿泊者が確実に宿にいる時間を狙った計画的な襲撃事件。最近インド人が狙われるようになった。そのため現在インド大使館は、日本大使館、米国大使などの主要国大使館があり、要塞化されている大使館区域外にあり、現在昼夜兼行の突貫工事で同地区に大使館の建設を急いでいる。インドが標的になる背景は、インド・パキスタン関係にある。今回の事件は、最近インドと和解の方向を示し始めたパキスタン政府に対するパキスタンのタリバンによる犯行という説。 これとは別に、現在南部で米軍をはじめ国際治安部隊による掃討作戦に対する反撃という説。米軍がタリバン掃討に成功しているとの報道を流しているが、タリバンには依然として計画的な襲撃作戦を実行する力量があることを示すための犯行という説。 いずれが正しいかは判然としない。しかし、アフガン紛争はわれわれ日本人が考えているほど単純ではない。地域レベル、国際レベルの双方で各国間の利害が複雑に錯綜し、それが時折火山の爆発のように自爆jテロとなって噴出する。 現地の受け止め方にはいささか驚いた。日本ならこれほどの死傷者が出れば連日トップニュース扱いだが、当地の英字新聞では2段目、3段目の記事扱いだ。翌日に現場を車で通ったが、いつも通りの生活が戻っていた。商店街ではわれたガラスの後片付けに忙しそうだった。
2010年2月27日土曜日
アフガニスタン 自爆テロ事件余話
自爆テロ事件から一昼夜が立った。元の生活にみんなン戻った。宿ではどうもそれほどの話題にもなっていないようだ。ロビーにある大型のテレビのニュースを見ていたのは事件直後だけだった。今はいつもどおりもっぱらサッカー番組だ。
今までわかったことは、17人が死亡し多数が負傷したこと、その中にはインド人、パキスタン人など多くの外国人が含まれていたことだ。タリバンのスポークスマンによると標的は外国人だという。だから外国人の利用が多いホテルが狙われた。実は犠牲が出たのはサフィホテルという高級ホテルだけではなくそばにある、ゲストハウスも狙われたらしい。私が宿泊しているゲストハウスと同じような宿屋だ。高級ホテルに泊まっているから狙われたといううのではない。外国人だから狙われたのだ。タリバンはさしずめ尊王攘夷ならぬ尊アラー攘夷派のようだ。
今宿泊している宿屋も多くのインド人や外国人長期、短期を問わず宿泊している。いつ狙われてもおかしくはない。とは言えあと二日でアフガンを去る。それまでに襲撃されることはないだろう。おまじない程度かもしれないが、この宿の持ち主は軍閥のボスらしい。またすぐ近くには、メッカ巡礼を手配する政府の役所がある。それを巻き添えにすることはないだろう。
今までわかったことは、17人が死亡し多数が負傷したこと、その中にはインド人、パキスタン人など多くの外国人が含まれていたことだ。タリバンのスポークスマンによると標的は外国人だという。だから外国人の利用が多いホテルが狙われた。実は犠牲が出たのはサフィホテルという高級ホテルだけではなくそばにある、ゲストハウスも狙われたらしい。私が宿泊しているゲストハウスと同じような宿屋だ。高級ホテルに泊まっているから狙われたといううのではない。外国人だから狙われたのだ。タリバンはさしずめ尊王攘夷ならぬ尊アラー攘夷派のようだ。
今宿泊している宿屋も多くのインド人や外国人長期、短期を問わず宿泊している。いつ狙われてもおかしくはない。とは言えあと二日でアフガンを去る。それまでに襲撃されることはないだろう。おまじない程度かもしれないが、この宿の持ち主は軍閥のボスらしい。またすぐ近くには、メッカ巡礼を手配する政府の役所がある。それを巻き添えにすることはないだろう。
2010年2月26日金曜日
アフガン カブール爆発事件発生
カブールの治安はいいのか悪いのか判然としない。イスラエル、スリランカ、ミンダナオ、ナイロビと治安の悪いところを歩いたことがあるので慣れてしまったのかもしれない。言われているほどの緊張感はない。 確かに、街のあちこちに銃を持った兵士や警官が警戒している。だから見た目治安が悪そうに見える。しかし、四日もいるとどのような状況なのか少しは実態は把握できる。極めて厳重に警備されているのは、米軍やNATO軍をはじめ外国政府機関、国連機関そしてアフガン政府機関や政府高官の住居などの周囲だ。 たとえば私が滞在している宿屋(ゲストハウスと呼んでいる)の一画は政府要人や富裕階級が暮らしているため。警察や軍そして民間警備会社によって厳重に警備されている。車の往来も制限されており、通りを歩く人影も少ない。私の宿屋の正面玄関は二重の鉄扉で覆われている。鉄扉に開いている小さな小窓を覗いて中にいる警備員に電動式のカギを解錠してもらってから中に入る。中にはも一枚鉄扉があって、それを開けてやっと中に入ることができる。外には防弾チョッキを着用し自動小銃を構えた警備員が24時間体制で警戒している。 ちなみに私の宿泊している宿屋は、聞くところによると、もともとは軍閥の指導者の私邸だったという。要は部屋貸しのまかないつき下宿のような宿屋だ。企業や援助関係者など長期滞在者も多い。そのためタリバンの標的になりやすく、2か月前には近くにある軍閥の関係者の家が自爆テロにあった。その家は今も破壊されたまま放置されている。また同じような宿屋が一月ほど前に襲撃されて国連関係者が死傷した。そのため国連は関係者をより警戒の厳重な宿舎に集めた。カブールに到着した当日、近所の邸宅で、自動車の突入を防ぐために、コンクリートを中に流し込んだ直径三十センチはある鉄パイプを何十本も玄関先に埋め込む情事をしていた。昨日完成したようだ。 こう書くと、みんなピリピリして暮らしているように思われるが、イスラエルやフィリピンのサンボアンガで感じたような緊張感はみじんも感じられない。通りでは子供たちが屈託なく遊んでいる。少し離れたところにあるレストランもにぎわっている。市内の中心部では要所要所に銃を持った兵士や警官の姿をよく見かける。これもスリランカのコロンボで見た光景と同じだが、コロンボと同じように緊張感はない。市内中心部にある露天市場や商店街では活気あふれる人々の生活を見ることができる。ただし様子のよくわからない私のようなよそ者には本当のところはわからないのかもしれない。 在留邦人は日本大使館から基本的には外出禁止を要請されている。大使館員はもちろん政府系のJICAなどの職員そして政府の援助資金を受けている企業、NGOも大使館の要請をうけいれて、外出を自粛している。外出する際には防弾車
とここまで書いていると爆発音とともに窓ガラスが揺れた。同時に銃声もきこえ、爆弾事件が起こった。時刻は現地時間6時40分。自動小銃、重機関銃、ロケット弾などの音が聞こえる。爆破現場は宿から直線距離で3-400メートルくらい離れたカブールシティセンター。サフィアホテルが併設されており、外国人を含め7人が死亡、21人が負傷した(午前9時現在)。銃撃戦は小一時間続いた。その間に7時7分に小規模な爆発音が一回(報道ではもう一回あったという)聞こえた。 6時50分に宿屋の屋上に上がって爆発現場を見ると、薄著色の煙が100メートルほど立ち上り、雨雲と混じって最後は白く薄れていった。重機関銃からと思われる曳航弾の赤い弾が一発空高く上がった。雨はやがて雹に変わり、銃声も次第に間遠になった。部屋に戻ると、宿泊人も従業員もまるでなにごともなかったかのようにいつも通りの生活をしている。慣れっこなのか。人々に緊張感はない。私は銃声がこちらに近づいてくるのではないかと少し心配した。なにしろすぐ近くで散発的に銃声がしたからだ。、 10時現在、被害の様子はテレビでもよくわからない。煙や音からすれば2-300キロの爆発物が爆発したのではないか。テレビでは単独の爆発事件ではなく、作戦を練った襲撃事件のようで、なおも襲撃犯の追跡が行われているようだ。 先ほどガイドから連絡があり、危険なので今日の行動すべて取りやめということになった。今日は部屋で仕事をすることにする。遠くでまだ銃声が聞こえる。続報は後ほど。
とここまで書いていると爆発音とともに窓ガラスが揺れた。同時に銃声もきこえ、爆弾事件が起こった。時刻は現地時間6時40分。自動小銃、重機関銃、ロケット弾などの音が聞こえる。爆破現場は宿から直線距離で3-400メートルくらい離れたカブールシティセンター。サフィアホテルが併設されており、外国人を含め7人が死亡、21人が負傷した(午前9時現在)。銃撃戦は小一時間続いた。その間に7時7分に小規模な爆発音が一回(報道ではもう一回あったという)聞こえた。 6時50分に宿屋の屋上に上がって爆発現場を見ると、薄著色の煙が100メートルほど立ち上り、雨雲と混じって最後は白く薄れていった。重機関銃からと思われる曳航弾の赤い弾が一発空高く上がった。雨はやがて雹に変わり、銃声も次第に間遠になった。部屋に戻ると、宿泊人も従業員もまるでなにごともなかったかのようにいつも通りの生活をしている。慣れっこなのか。人々に緊張感はない。私は銃声がこちらに近づいてくるのではないかと少し心配した。なにしろすぐ近くで散発的に銃声がしたからだ。、 10時現在、被害の様子はテレビでもよくわからない。煙や音からすれば2-300キロの爆発物が爆発したのではないか。テレビでは単独の爆発事件ではなく、作戦を練った襲撃事件のようで、なおも襲撃犯の追跡が行われているようだ。 先ほどガイドから連絡があり、危険なので今日の行動すべて取りやめということになった。今日は部屋で仕事をすることにする。遠くでまだ銃声が聞こえる。続報は後ほど。
2010年2月24日水曜日
アフガン情勢
アフガン人とのインタビューのあらましを忘れないうちに記しておく。 アフガンには三つの反政府勢力がいる。第一がタリバン。第二が軍閥のヘクマティヤル。第三がアルカイダ。彼らの目的はそれぞれに異なる。タリバンはアフガニスタンから外国勢力を一掃し、独立を達成すること。ヘクマティヤルは現政権を倒して権力を奪取すること。アルカイダは米国ひいては反イスラム教国を打倒することだ。究極の目的は異なるものの共通の目的は反米だ。この場合の反米とはNATO諸国や親米諸国も含め米国と協力して戦っているすべての国に反対することを言う。だから韓国も彼らの標的だ。この共通の目的を達成するために、情報の交換や共同訓練を実施している。 アフガン紛争の解決には交渉しかない。いくら武力でタリバンをねじ伏せようとしても、それは一カ月や二カ月程度の短期的な解決にしかならない。交渉の相手は穏健派のタリバンではない。タリバンには穏健派も急進派もない。タリバンはタリバンだ。カルザイ政権は誠実に無条件でタリバンとの交渉をすべきだ。オバマ政権がおこなっている、一方で軍事力を用いて急進派を抑え込み、一方で穏健派と交渉しようというのは水と油のように矛盾しており、根本的に誤りだ。 PRTは結局軍事力の行使にしか過ぎない。地元の人にとって、米軍の対テロの「不朽の作戦」とPRTの治安維持活動にはともに軍事力を行使するという意味でまったく差はない。米軍もISAFもまったく区別はない。みんな同じ米軍だ。 日本は自衛隊をおくるべきではない。制服を着ている者は皆同じ米軍の仲間とみなされる。日本がインド洋での給油活動を打ち切ったことは一般の人は知らないにしても政府や関心を持っている者はよく知っている。非武装の貢献が最適だ。 50億ドルの支援については、金の配り方が問題だ。これまでのように政府に渡せば、大半が賄賂となって政府高官や地方の有力者の私腹を肥やすことになる。本当に必要な人にわたる方法を考えるべきだ。だから金そのもの政府に渡すのではなく、たとえば工場を作ってそこで人々が働けるようにしたほうが効果的だ。仕事があれば長期にわたって人々は金を受け取ることができる。そのために日本人技術者が必要だが、彼らの安全は地元の人々との協力の中で確保すべきだ。アフガン人は非武装の人を襲うというようなことはしない。 確かにペシャワル会の伊藤さんが一部の武装勢力に殺害された。しかし、それまでペシャワル会は全く犠牲者を出していない。そのことの意味を考えるべきだ。犯罪者の取り締まりは必要だ。そのためには警察や軍の腐敗を直さなければならない。 インタビューの概略は以上である。結論は、自衛隊の派遣はいかなる目的であれ、地元には歓迎されそうにもない。誤解を招くだけだ。
アフガニスタン カブールの山のスラム
本日(2010年2月24日)午前、以前から気にかかっていた場所を訪れた。それは山の家だ。カブール市内には二つの小高い岩山がある。急坂が頂上まで続いている。高さは100メートルは優に超えていると思う。その岩肌の山腹にへばりつくように、土で造られた家が山頂まで続く。遠くからみるとそれは美しい景観を見せている。それにしても人々はどのようにして暮らしているのだろうか。それが三年前に来たときからの疑問だった。それが今日氷解した。遠目から見た光景とは全く裏腹に、誠に厳しい生活を人々は強いられているのだ。 何よりも水だ。水は山頂にタンクが設置されており、そこから水道管を使って水が供給されている。といっても各家に配水されているわけではない。何箇所かに共同の水道施設があり、人々はそこでバケツに水を汲んで自宅まで運ぶのだ。こう書くと簡単そうだが、急坂でしかも道があるわけではない。岩だらけの坂を登って行くのだ。私はときどき手をつかないと登れなかった。それほど急で岩だらけの道を水の入った重いバケツを持って上がるのは本当に重労働だ。 一方、下水は垂れ流しだ。中腹から幅50センチほどのU字溝を利用した下水道はあったが、それは上から流れてくる下水をまとめて排水するためだ。しかし、その下水道は麓ではとぎれて、下水はまた垂れ流しだ。生活ゴミはそこいらじゅうに捨ててある。至るところにゴミの山があり、異臭を放っている。足元はゴミと人糞が散乱している。下水と混じり合っているために、ゴミに何度も足を取られそうになった。まさにスラム街だ。同じ光景を20年近く前にパキスタン、ペシャワルのアフガン難民キャンプで見たことがある。 物資の運搬はもっぱらロバに頼っているという。さもなくば人力だ。頂上までの家に行くには三十分はかかるだろう。老人や足の悪い人はとても暮らせない子供たちは坂をものともせずに遊びまわっている。大きな犬が泥の家の屋根で寝そべっていた。ちょっと油断すれば転落しそうな急峻な岩山に、それでもへばりついて暮らす人々のたくましさ,生への執着に、ある種の感動を覚える。 頂上からカブール市内を一望できる。誠に平和な光景だ。しかし、こんな山の上でもかつて戦闘があったという。そして今でも山上でも下界でも軍の監視は厳しく、緊張に包まれている。戦争と平和の境界はどこにあるのだろう。
2010年2月23日火曜日
アフガン貢献とは
アフガニスタンに対して日本はどのような貢献が可能か。
間違いなく、自衛隊は送るべきではない。アフガンの現状に精通している人ほど自衛隊の派遣には反対している。それは、伊勢崎賢治氏も主張していたように、日本が軍隊を派遣していないからだ。それが、アフガンの人々が日本に大変な親近感を抱いている最大の理由といってもよい。
逆に、派兵している国に対しては嫌悪感を懐いている。特に米軍に対する感情は憎悪といってもよい。ソ連軍もひどかったが、女、子供は殺さなかった。しかし、米軍やISAFは女、子供も殺す。だから、米軍や英軍は最悪で大嫌いだ。36歳の政府で治安関係の仕事に就いている男性の感想だ。彼から話を聞いた日に、南部の戦闘で米軍の誤爆のために民間人に犠牲が出た。テレビでは米軍の司令官が謝罪し、アフガン政府の高官が米軍に対する非難の声明を出していた。おそらく、これまで米軍やISAFが攻撃をするたびに、同じ光景が繰り返されてきたのだろう。アフガンの人々に反米感情が募るのもやむをえない。
アフガンには中国人も韓国人も多数いる。世界中どこにでもある中華料理店はカブールではあまり見かけない。つぶれた店を一軒見た。聞くところによると、かつて、といっても、2-3年前だが、中華料理店で女性を斡旋する店があったらしく、市民の不興を買ったことが原因で中華料理店があまりないのだという。真偽のほどは定かではない。だからというわけではないが、中国人もあまり歓迎されているわけではないようだ。また韓国人も日本人ほどには歓迎されていない印象だ。派兵していることが影響しているのかもしれない。
いずれにせよ、日本に対する親近感は絶大だ。自衛隊を送っていないことに加えて、トヨタのカローラの影響かもしれない。カローラを持つことが一種のステータスのようになっている。この日本への親近感をソフトパワーとして利用しない手はない。
それを考えると、インド洋での給油支援を打ちきったのは失策だったかもしれない。私はアフガン特措法に基づく給油支援は憲法に違反すると考えている。ただし、憲法問題と外交政策とを切り分けて考えれば、給油支援は良い外交政策であった。というのも給油支援はアフガン国民にまったく知られない対米外交であったからである。給油支援というアフガンから遠く離れた洋上での対米支援を打ち切ったために、アフガン本土での対米支援そしてアフガン国民への支援という両立が極めて困難な外交政策を鳩山政権はとらなければならなくなってしまった。
対米支援のためには自衛隊の派遣が求められる。一方でアフガン支援のためには自衛隊によらない支援が求められる。自衛隊によらない支援とは何か。金だけ出せばよいのか。それとも危険を覚悟で何らかの人的貢献をするのか。
私の結論は一つ。危険を覚悟で人的貢献を果たすのだ。そのために鳩山政権は友愛部隊、憲法9条部隊を早急に編成してアフガンに送り込むべきだ。対米支援はアフガンではなく他の地域や他の政策で代替すればよい。
アフガンへの支援は直接アフガンで行うしかない。
護憲派諸君!アフガンにいざ来たれ。憲法9条を輸出する最適の国だ。
間違いなく、自衛隊は送るべきではない。アフガンの現状に精通している人ほど自衛隊の派遣には反対している。それは、伊勢崎賢治氏も主張していたように、日本が軍隊を派遣していないからだ。それが、アフガンの人々が日本に大変な親近感を抱いている最大の理由といってもよい。
逆に、派兵している国に対しては嫌悪感を懐いている。特に米軍に対する感情は憎悪といってもよい。ソ連軍もひどかったが、女、子供は殺さなかった。しかし、米軍やISAFは女、子供も殺す。だから、米軍や英軍は最悪で大嫌いだ。36歳の政府で治安関係の仕事に就いている男性の感想だ。彼から話を聞いた日に、南部の戦闘で米軍の誤爆のために民間人に犠牲が出た。テレビでは米軍の司令官が謝罪し、アフガン政府の高官が米軍に対する非難の声明を出していた。おそらく、これまで米軍やISAFが攻撃をするたびに、同じ光景が繰り返されてきたのだろう。アフガンの人々に反米感情が募るのもやむをえない。
アフガンには中国人も韓国人も多数いる。世界中どこにでもある中華料理店はカブールではあまり見かけない。つぶれた店を一軒見た。聞くところによると、かつて、といっても、2-3年前だが、中華料理店で女性を斡旋する店があったらしく、市民の不興を買ったことが原因で中華料理店があまりないのだという。真偽のほどは定かではない。だからというわけではないが、中国人もあまり歓迎されているわけではないようだ。また韓国人も日本人ほどには歓迎されていない印象だ。派兵していることが影響しているのかもしれない。
いずれにせよ、日本に対する親近感は絶大だ。自衛隊を送っていないことに加えて、トヨタのカローラの影響かもしれない。カローラを持つことが一種のステータスのようになっている。この日本への親近感をソフトパワーとして利用しない手はない。
それを考えると、インド洋での給油支援を打ちきったのは失策だったかもしれない。私はアフガン特措法に基づく給油支援は憲法に違反すると考えている。ただし、憲法問題と外交政策とを切り分けて考えれば、給油支援は良い外交政策であった。というのも給油支援はアフガン国民にまったく知られない対米外交であったからである。給油支援というアフガンから遠く離れた洋上での対米支援を打ち切ったために、アフガン本土での対米支援そしてアフガン国民への支援という両立が極めて困難な外交政策を鳩山政権はとらなければならなくなってしまった。
対米支援のためには自衛隊の派遣が求められる。一方でアフガン支援のためには自衛隊によらない支援が求められる。自衛隊によらない支援とは何か。金だけ出せばよいのか。それとも危険を覚悟で何らかの人的貢献をするのか。
私の結論は一つ。危険を覚悟で人的貢献を果たすのだ。そのために鳩山政権は友愛部隊、憲法9条部隊を早急に編成してアフガンに送り込むべきだ。対米支援はアフガンではなく他の地域や他の政策で代替すればよい。
アフガンへの支援は直接アフガンで行うしかない。
護憲派諸君!アフガンにいざ来たれ。憲法9条を輸出する最適の国だ。
(写真)カブール大学にて
アフガニスタン カブールの現況2010年2月)
アフガニスタンのカブールに来て4日目だ。外務省が強く退避勧告を出しているが、体感治安はスリランカやイスラエル、ミンダナオとさほど変わらない。むしろケニアのナイロビがもっとも危険だったような気がする。もっとも今度はガイド兼運転手兼ボディーガードを雇っているからかもしれない。 さてカブールの町の様相は、三年前に比べると、いくつかの点で違いが見られる。 第一は、車の、台数が増えたこと。渋滞がますます激しくなった。理由の一つは、援助インフレがおきて、それなりに経済が活況を呈していること。そのために物流が盛んになり交通量が増えた。物価は発展途上の紛争国相であることを考えると、結構高い。貧富の格差がだんだん大きくなっているようだ。子供や婦人たちの物乞いが結構多い。しかし、フィリピンのミンダナオのような悲惨さは感じない。援助インフレはパレスチナ西岸でも見られた。バブルのような活況と貧困の同居である。 第二の理由は、政府中枢や大使館街に通ずる道路が至るところで封鎖されているために、交通渋滞を招いている。特に米国大使館や英国大使館などがある地域はバグダッドのように地域一帯が封鎖されている。自爆テロやロケット弾攻撃を防ぐためだ。私のいる地区も道路封鎖はしていないものの、辻、辻に武装した警備員が立ってにらみをきかせている。 カブールでも相も変わらず日本の中古車が幅をきかせている。車体に日本語が書かれたままの車が数多く走っている。アフリカでもスリランカでもフィリピンでも見られた現象だ。日本語が車体に描いてあると高く売れるのだろうか、中には日本語ににせた文字が描かれた車を見かけた。ちなみに圧倒的な人気車はカローラだ。日本の大衆車がここでは人々のあこがれの的だ。 またカブールでもUNの車は新車ばかりのような印象で、しかもトヨタのランドクルザーがほとんどだ。世界中の紛争地でUNが使用する車はトヨタのランクルのような印象を受ける。さまざまな利権が絡んでいるとのうわさも聞く。トヨタが米国で狙い撃ちにされている一つの理由は、トヨタのランクル利権も絡んでいるのではないかと邪推したくなる。 第二の違いは、政府の統治がそれなりに進んだような印象だ。政府の規制が厳しく酒が手に入らない。一昨日、昨日とビールを探し回った。結局、ノンアルコール・ビールはあったが、普通のビールはなかった。三年前はこうではなかった。決して堂々と店先においてあったわけではないが、ビールあります、といわんばかりに店先の隅っこにはビールのカートンが置いてあった。しかし、今はまるで麻薬の取引のようなありさまだ。こっそりと店員に話を持ちかけると、おもむろに1カートン6000円近い値段を吹っかけてくる。税金を考えると、大変な値段だ。その上、秘密でもビールや酒を扱っている店は少ない。 また規制の強化とは裏腹に、テレビは自由化が進んだようだ。タリバン時代はテレビは許されなかったが、今は22チャンネルもあるという。ネットも中国のように検閲はないようだ。政府の管理の下で、報道の自由は進んでいるようだ。 当地に長く暮らしている日本人に聞くと、昨年末以来、明らかに治安が悪くなっているという。確かに宿も2重の鉄扉で、小窓から中の警備員に扉を開けてくれるよう頼んではじめて、電動ロックを解錠してくれる。扉の外には自動小銃を構えた警備員が24時間常駐している。イスラエルやフィリピンのサンボアンガのホテルと同じだ。ただし、鉄扉はカブールが初めてだ。 カブールは紛争の中の平和という状況だ。
2010年2月9日火曜日
「闘え!護憲派」-「憲法9条部隊」の創設を-
最初に述べておく。私はいわゆる護憲派ではない。地域紛争や「新しい戦争」など冷戦後の安全保障環境には必ずしもそぐわない憲法9条を改正し、自衛隊を軍隊と認め集団的自衛権の政府解釈も変更し、自衛隊を国連PKOや国際警察活動や国際治安維持活動に積極的に参加させるべきだと考える改憲派である。
にもかかわらず、現時点では改憲ではなく、次善の策として護憲による国際協力を主張せざるを得ない。後に詳述するが、その理由は二つある。
第1に、政権交代という国内政治情勢の変化、平和憲法に対する国内外の肯定的世論などを考慮すると、憲法9条改正はもちろん集団的自衛権に関する政府解釈の変更もここ当分難しいと考えられるからだ。
これよりももっと重要な第2の理由がある。それは日本の平和憲法が日本にとって最も強力なソフトパワーの一つになったことである。自衛隊というハードパワーが国際社会で使えない以上、代わりのパワーを考えざるを得ない。これまでは軍事力に代えて経済力をハードパワーとして用いてきた。しかし、その経済力にも翳りが出てきた。そこで経済力の補完、代替として平和憲法がソフトパワーとして重要性が増してきたのである。
しかし、平和憲法を軍事力や経済力のハードパワーを補うに足るソフトパワーとするには平和の実践が必要となる。それは護憲派がこれまで行ってきたよう憲法9条を護れと政府に向けて叫ぶことではない。『9条を輸出せよ』(吉岡達也、大月書店、2008年)と護憲派が主張するように世界に日本の平和憲法を輸出しなければならない。平和憲法の輸出とは単に憲法の前文や9条を世界に「布教」、「伝道」することではない。具体的には非暴力による、自衛隊に頼らない、軍事力に依拠しない国際協力の実践である。それが実現できてはじめて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とある憲法前文の「名誉ある地位」を日本が占めることができる。
では、非暴力による国際協力の実践とは具体的にどのようなことをいうのか。
これまで日本の国際協力といえばほぼ資金協力、経済協力しかしてこなかった。湾岸戦争の時も、そしてアフガニスタンでの対テロ戦争でもしかりである。しかし、現在の日本の財政状況を考えると、資金提供による国際協力もいずれは困難となる。また資金協力だけでは、「小切手外交」と揶揄された湾岸戦争の例を引くまでもなく、「名誉ある地位」を確かなものにすることは難しい。本来ならば資金協力だけではなく、汗をかく人的協力が求められるはずだ。
たしかに現在自衛隊やJICAそして一部のNGOが人的協力をしている。しかし、その人数や規模は他国に比べるべくもないほどに限定的である。憲法9条の制約から国際NGOよりも機能においても地域においても自衛隊の活動は限定的だ。またJICAは危険地域では他国の軍隊に防護してもらう、あるいは日本人職員の代わりに地元の人や外国人を雇うなど、外国人に武力で安全を確保してもらいながら活動しているだけだ。つまり自らは武力を行使せず、他人に間接的に武力を行使してもらって安全を確保しているということだ。日米同盟で米国に安全を保障してもらっている日本の国家のありようと同じだ。
また日本政府の資金を受けているNGOは、外務省の指導で危険地域での活動を自粛させられている。加えて自ら危険に身を曝してまで紛争地域で支援活動に貢献しようという日本のNGOはほぼ皆無だ。ましてやスマコミで盛んに軍事支援よりも経済支援をと訴える「評論家」や「文化人」そしていわゆる「護憲派」の人々においておや、だ。かれらは自らに危険が降りかかることなど絶対にない日本国内で非武装、非暴力で民生支援、市民への援助をせよと言うばかりで、有言不実行、言行不一致、知行不一で、まさに巧言令色少なし仁である。
北アイルランドのノーベル平和賞受賞者メイリード・マグワイア氏とは大違いだ。彼女は2009年6月にガザに支援物資を届けようとしてイスラエル軍に船ごと拘束された。彼女のように自ら平和を実践してこそ、憲法9条の輸出であろう。
現状のままでは、他国が軍人や警察官あるいは文民に多数の犠牲を出しながらも平和構築活動を実施している一方、日本だけは人的犠牲を出すのが厭なために資金協力や他国に肩代わりさせているとの印象を国際社会に与えかねない。危険なことはあなた任せ、他人任せで、はたして日本は憲法前文の「名誉ある地位」を占めることができるのか。「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」他国の人々同様に汗をかき、時には拘束され、また最悪の場合には血を流す覚悟がなければ、「名誉ある地位」を獲得できないのではないか。
では、憲法9条を遵守し自衛隊に頼らない、しかも資金協力だけではない、そして日本が憲法前文の「名誉ある地位」を占めることができる平和貢献の方策はあるのか、というのが本書のテーマである。
結論は、イエスである。それは憲法9条部隊あるいは鳩山首相にあやかって「友愛部隊」と呼んでも良いが、他国による護衛や武力による自衛などを一切しない非武装、非暴力の別組織の創設である。これは湾岸戦争時に構想された自衛隊を除外し民間人ボランティアからなる国連平和協力隊や自衛隊を改編したような官主導の別組織ではない。あくまでも護憲派民間ボランティア主導による別組織である。
自衛隊による国際協力に限界がある以上、非暴力・非武装の憲法9条部隊による人的な平和貢献こそが、現行憲法を遵守すると同時に「名誉ある地位」を占める唯一の現実的方法と私は信じている。だからこそ憲法の平和主義すなわち非暴力・非武装を日頃から熱心に主張している「護憲派」の人々に非暴力による平和のための非武装、非暴力による平和への闘いを有言実行で挑んでもらいたい。
非武装・非暴力による平和貢献という結論には、必ず反論が出てくる。非武装、非暴力でどうして危険地域で平和構築活動が実施できるのか、と。逆に、問いたい。身命を賭すことなく、どうして平和構築ができるのか、と。他国の兵士が身命を賭して「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと」平和構築の任務にあたっているのに日本人だけが安全地帯にいて金だけ出し他人任せにするだけで事足りるなどと世界に向かって広言できるのか。
身命を賭して非武装、非暴力で平和のために活動している外国のボランティアや国際NGOの例は枚挙に暇がない。前述のメイリード・マグワイア氏をはじめ先人をたどればキング牧師やガンジーもいるではないか。また非暴力による紛争解決を模索する非暴力平和隊やキリスト教平和隊、メノナイト調停サービスなど、多くの非暴力国際NGOが現在世界中で活動を展開している。
死にに行けといっているのではない。死をも厭わぬ覚悟をもって国際社会の平和に寄与すべきだと言っているのだ。平和には代償がつきものである。
もう一度憲法を読み返してみよう。われわれは日本国憲法前文で次のように宣言している。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。
憲法前文が述べるように日本国民は武力ではなく「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することで、「われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。
現実には「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」したからといって、必ずしも「われらの安全と生存を保持」できるとは限らない。時には必ずしも平和を愛さない諸国民に裏切られ身命を落とすこともあるだろう。しかし、平和を愛さない国民がいる、諸国民の公正と信義をいつも信頼できるわけではないからといって、武力や暴力で「われらの安全と生存を保持しよう」すれば、それは「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」せず、諸国民を裏切る行為である。それは、憲法の平和主義、相互信頼の精神を根底から否定することになる。
憲法前文が日本国民に求めているのは、相互信頼、利他主義であり時には自己犠牲の精神である。まさにボランティア(志願兵)の精神そのものである。この崇高なる平和主義のボランティア精神を世界に宣命、実践して初めて日本は国際社会において「名誉ある地位」を占めることができるのである。
自らの犠牲をも省みないが故に憲法9条部隊(友愛部隊)の隊員は、自衛隊員が宣誓する宣誓書に倣って、国際社会の平和と繁栄を守る憲法9条部隊の「使命を自覚し、日本国憲法前文及び9条を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて世界市民の負託にこたえること」(下線部は自衛隊員の宣誓書をもとに改訂)を誓わなければならない。
相互信頼、利他主義、自己犠牲の精神に依拠する憲法9条部隊(友愛部隊)にボランティア(志願兵)として志願する者など誰もいないだろう、という反論が聞こえてきそうだ。たしかに湾岸戦争の時には、当初自衛隊を除外した海部首相の国連平和協力隊構想には誰も賛同もしなかった。自ら進んで危険を引き受けようという市民など誰もいなかった。その後国連平和協力隊への自衛隊の参加が計画されたことで、なおさら一般国民や護憲派の反発を招き、結局構想倒れになった。
しかし、現在、状況は全く異なる。阪神淡路大震災で日本人にも相互信頼、利他主義、自己犠牲のボランティアの精神は日本人に完全に根付いた。ボランティアには時には犠牲が伴うということを日本人はすでに知っている。1993年にはカンボジアの復興支援で選挙監視にあたっていた中田厚仁氏、2008年にはアフガニスタンで農業支援をしていたペシャワル会の伊藤和也氏が犠牲になっている。にもかかわらず、ボランティアを目指す若者は増える一方である。国際協力を教える大学もまた増えている。
一方、憲法9条を護ろうという運動も燎原の火のごとく全国津々浦々に拡がっている。作家の井上ひさし氏や憲法学者の奥平康平氏あるいはノーベル物理学賞の益川敏英氏やなど錚々たるメンバーが呼びかけ人や世話役を務める憲法9条の会は全国に続々と誕生しており、知識人を中心とする賛同者は900人近い。最近では「憲法9条を世界遺産に」という宗教学者の中沢新一氏や「爆笑問題」の太田光氏の主張まである。
また現在存命中のほとんどの日本国民が戦後の平和憲法の下で平和主義を骨の髄まで教育されてきており、護憲運動に積極的に参加する市民の数は日本全国に無慮数百万いるといっても過言ではないだろう。さらに、これまで戦後一貫して護憲運動の先頭にたち、現民主党政権の母体となっている連合(日本労働組合総連合会)は675万人(2008年)もの組合員を抱えている。
仮に護憲派市民数百万人のうちわずか0.01%でも志願すれば数百人規模の憲法9条部隊ができる。また護憲派市民一人が護憲と国際平和のために一万円を寄付するだけで、数百億円規模の憲法9条基金が創設できる。また護憲派の連合を中心に憲法9条部隊を編成すれば、自衛隊のPKO部隊など足元にも及ばないほど高い専門性を持った部隊ができる。なにしろ連合には医療、教育、運輸、建築、土木などさまざまな職種の組合員がいる。これら、さまざまな技能を備えた組合員のうち1万人に一人が志願し組合員が1万円を拠出すれば、たちどころに「キリスト教平和隊」、「日暴力平和隊」や「国境なき医師団」など他国のNGOに負けない高度な技能を備えた憲法9条部隊が編成できる。
憲法9条部隊は自衛隊や「国際平和協力隊」のような国家組織でもなければJICA(国際協力機構)のような独立行政法人でもない。純然たる市民のボランティアによるNGO組織として編成できる。つまり憲法9条部隊は日本市民による地球市民のための平和部隊である。
このように護憲派による憲法9条部隊はきわめて現実的な日本国の、否、むしろ日本市民の国際協力の方策といえる。平和憲法を世界に輸出しようという運動をしている憲法9条の会の人々や、護憲運動を推進してきた人々、さらには市民による平和を主張している人々がよもや憲法9条部隊への志願を躊躇するはずはない。
これまで政府や在京大使館などへの抗議運動をしたり街頭でのビラ配りをしたり、各地で仲間内の学習会を開くくらいしか護憲運動の実践の場がなかっただけである。一度憲法9条部隊という国際的な護憲運動の実践の場ができれば、そして憲法9条を世界に輸出できる機会が与えられれば、志の有る人々は我先にボランティアとして参加を申し出ることは必定である。
実のところ、憲法9条部隊の創設は自衛隊の国軍化や日米同盟の強化を主張する改憲派にとっても意義がある。というのもわが国を取り巻く安全保障の現状を考えると、多数の兵力を国際協力のために海外派遣することは必ずしも容易ではなく、むしろ憲法9条部隊を自衛隊の補完や代替として国際貢献活動に従事させた方が日本の安全保障にとって好都合だからだ。
平和と安定が訪れた欧州地域とは対照的に、アジア地域では中国やインドの台頭、北朝鮮の核兵器保有など冷戦時代以上に不安定な状況が現出しつつある。また昨今のわが国の財政事情の悪化で2003年以降自衛隊予算は対前年比で縮小するばかりか、国際協力のための定員増も認められないありさまだ。国際貢献の名の下に多数の精鋭の隊員や艦船・航空機を海外に派遣すれば、それこそ国土防衛に支障をきたしかねない。
自衛隊が抱えるこの問題を解決するために憲法9条部隊は最適の方策である。あくまでも自衛隊は日本の防衛を最優先とし、海外での国際貢献は基本的には憲法9条部隊に任せるのである。
これまでも自衛隊のPKO活動について護憲派からはさまざまな批判が出ていた。いわく資金をかけすぎ、地元の役に立たない、技術が粗雑など、民間の専門家にまかせればもっと効率的な国際貢献ができるはずなど、さまざまである。誤解や偏見に基づく批判もあったが、多くは至極真っ当で的を射ている。だからこそ連合などから医療、教育、運輸、建設、土木などさまざまな専門家を集めた憲法9条部隊の出番となるだろう。
もし憲法9条部隊が国際貢献の柱となれば、自衛隊は本来任務である国土防衛の任に心置きなくあたることができる。自衛隊による国際貢献を主張している改憲派も、まさか本土防衛をおろそかにしてまでも国際貢献を重視せよとは主張しないだろう。たしかに国際貢献は自衛隊の本来任務の一つに格上げされた。しかし、やはり本来任務とは国家防衛である。この国土防衛は自衛隊、国際貢献は別組織という構想には社民党など護憲派勢力も反対はすまい。なぜならこの構想こそ彼等の提案であったからだ。
改憲派の一部からは自衛隊が人的貢献をしないことで日米同盟に悪影響を与えるのではないかとの懸念があるかもしれない。それは杞憂である。日米同盟にも憲法9条部隊は役立つ。米国政府には、アジアの平和と安定こそが自衛隊の最優先の任務であることを理由にそれ以外の地域での対米協力を控えめにしたいと申し入れても、米国との協力関係が損なわれることはないだろう。つまり、アジア地域での安全保障に自衛隊がこれまで以上に多くの責任を負う一方、米国の国際安全保障への活動については、やはりこれまで以上に日本が基地や施設の提供等後方支援で協力を行うのだ。また自衛隊の代わりに憲法9条部隊を派遣すれば、間接的にであれ国際社会への貢献を通じた対米協力にもなるだろう。
自衛隊の補完や代替の役割を果たすとはいえ、憲法9条部隊はもちろん自衛隊の補完部隊や代替部隊でもなければ、従来の別組織論とも異なる。つまり自衛隊を海外に出さない、出せないから別組織を創設するというのではない。自衛隊が派遣できようが、できまいが、それとは全く無関係に、憲法9条部隊は純然たる人間の安全保障を目指した国際協力組織として編成するのである。
自衛隊が行う国際貢献はあくまでも国家による国際協力である。他方NGOは地球市民による地球市民のための国際協力である。それこそ真の意味での人間の安全保障すなわち人間の人間による人間のための安全保障である。これまでの国家による「人間の安全保障」とは画然と異なる。
仮に、万々が一憲法9条が改正され、集団的自衛権の解釈も変更され、自衛隊の海外派遣が可能になったとしても、憲法9条部隊による国際協力の意義は決して失われるものではない。それどころか憲法9条部隊の重要性をなおさら世界にアピールする方策となるだろう。
護憲派の人々の主張は憲法9条の平和主義の精神を世界に輸出し世界を平和にすることにあるはずだ。仮に日本で護憲に失敗したとしても、その理念が失われることはない。だとすれば日本を越えて世界の恒久理念として憲法9条部隊を通じ憲法9条の精神を世界に広げる運動や非暴力による平和構築の実践は、憲法改正や集団的自衛権の解釈変更などの日本の国内事情に左右されることなく永遠不滅の意義がある。憲法は改正された、しかしわれわれは憲法の精神を永遠に受け継ぎ実践していくと宣言し、憲法9条部隊を通じ実践すればよいのだ。それは、かつてパリ不戦条約が実現できなかった自衛戦争を含めた全ての戦争の廃棄という理想の実践でもある。
とりあえず、言い出しっぺの私が「憲法9条部隊」の可能性を確かめるために、2月19日から3月5日までアフガニスタンとパキスタンを現地調査する。防弾車にも乗らず防弾チョッキも身につけない。憲法9条を「読九」すれば護憲派の人々が信ずるように、私に銃口を向ける人はいないだろうし、仮に撃たれても弾はあたらないだろう。
闘え!護憲派諸君、今こそ憲法9条部隊に結集せよ!私の後に続け!
にもかかわらず、現時点では改憲ではなく、次善の策として護憲による国際協力を主張せざるを得ない。後に詳述するが、その理由は二つある。
第1に、政権交代という国内政治情勢の変化、平和憲法に対する国内外の肯定的世論などを考慮すると、憲法9条改正はもちろん集団的自衛権に関する政府解釈の変更もここ当分難しいと考えられるからだ。
これよりももっと重要な第2の理由がある。それは日本の平和憲法が日本にとって最も強力なソフトパワーの一つになったことである。自衛隊というハードパワーが国際社会で使えない以上、代わりのパワーを考えざるを得ない。これまでは軍事力に代えて経済力をハードパワーとして用いてきた。しかし、その経済力にも翳りが出てきた。そこで経済力の補完、代替として平和憲法がソフトパワーとして重要性が増してきたのである。
しかし、平和憲法を軍事力や経済力のハードパワーを補うに足るソフトパワーとするには平和の実践が必要となる。それは護憲派がこれまで行ってきたよう憲法9条を護れと政府に向けて叫ぶことではない。『9条を輸出せよ』(吉岡達也、大月書店、2008年)と護憲派が主張するように世界に日本の平和憲法を輸出しなければならない。平和憲法の輸出とは単に憲法の前文や9条を世界に「布教」、「伝道」することではない。具体的には非暴力による、自衛隊に頼らない、軍事力に依拠しない国際協力の実践である。それが実現できてはじめて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とある憲法前文の「名誉ある地位」を日本が占めることができる。
では、非暴力による国際協力の実践とは具体的にどのようなことをいうのか。
これまで日本の国際協力といえばほぼ資金協力、経済協力しかしてこなかった。湾岸戦争の時も、そしてアフガニスタンでの対テロ戦争でもしかりである。しかし、現在の日本の財政状況を考えると、資金提供による国際協力もいずれは困難となる。また資金協力だけでは、「小切手外交」と揶揄された湾岸戦争の例を引くまでもなく、「名誉ある地位」を確かなものにすることは難しい。本来ならば資金協力だけではなく、汗をかく人的協力が求められるはずだ。
たしかに現在自衛隊やJICAそして一部のNGOが人的協力をしている。しかし、その人数や規模は他国に比べるべくもないほどに限定的である。憲法9条の制約から国際NGOよりも機能においても地域においても自衛隊の活動は限定的だ。またJICAは危険地域では他国の軍隊に防護してもらう、あるいは日本人職員の代わりに地元の人や外国人を雇うなど、外国人に武力で安全を確保してもらいながら活動しているだけだ。つまり自らは武力を行使せず、他人に間接的に武力を行使してもらって安全を確保しているということだ。日米同盟で米国に安全を保障してもらっている日本の国家のありようと同じだ。
また日本政府の資金を受けているNGOは、外務省の指導で危険地域での活動を自粛させられている。加えて自ら危険に身を曝してまで紛争地域で支援活動に貢献しようという日本のNGOはほぼ皆無だ。ましてやスマコミで盛んに軍事支援よりも経済支援をと訴える「評論家」や「文化人」そしていわゆる「護憲派」の人々においておや、だ。かれらは自らに危険が降りかかることなど絶対にない日本国内で非武装、非暴力で民生支援、市民への援助をせよと言うばかりで、有言不実行、言行不一致、知行不一で、まさに巧言令色少なし仁である。
北アイルランドのノーベル平和賞受賞者メイリード・マグワイア氏とは大違いだ。彼女は2009年6月にガザに支援物資を届けようとしてイスラエル軍に船ごと拘束された。彼女のように自ら平和を実践してこそ、憲法9条の輸出であろう。
現状のままでは、他国が軍人や警察官あるいは文民に多数の犠牲を出しながらも平和構築活動を実施している一方、日本だけは人的犠牲を出すのが厭なために資金協力や他国に肩代わりさせているとの印象を国際社会に与えかねない。危険なことはあなた任せ、他人任せで、はたして日本は憲法前文の「名誉ある地位」を占めることができるのか。「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」他国の人々同様に汗をかき、時には拘束され、また最悪の場合には血を流す覚悟がなければ、「名誉ある地位」を獲得できないのではないか。
では、憲法9条を遵守し自衛隊に頼らない、しかも資金協力だけではない、そして日本が憲法前文の「名誉ある地位」を占めることができる平和貢献の方策はあるのか、というのが本書のテーマである。
結論は、イエスである。それは憲法9条部隊あるいは鳩山首相にあやかって「友愛部隊」と呼んでも良いが、他国による護衛や武力による自衛などを一切しない非武装、非暴力の別組織の創設である。これは湾岸戦争時に構想された自衛隊を除外し民間人ボランティアからなる国連平和協力隊や自衛隊を改編したような官主導の別組織ではない。あくまでも護憲派民間ボランティア主導による別組織である。
自衛隊による国際協力に限界がある以上、非暴力・非武装の憲法9条部隊による人的な平和貢献こそが、現行憲法を遵守すると同時に「名誉ある地位」を占める唯一の現実的方法と私は信じている。だからこそ憲法の平和主義すなわち非暴力・非武装を日頃から熱心に主張している「護憲派」の人々に非暴力による平和のための非武装、非暴力による平和への闘いを有言実行で挑んでもらいたい。
非武装・非暴力による平和貢献という結論には、必ず反論が出てくる。非武装、非暴力でどうして危険地域で平和構築活動が実施できるのか、と。逆に、問いたい。身命を賭すことなく、どうして平和構築ができるのか、と。他国の兵士が身命を賭して「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと」平和構築の任務にあたっているのに日本人だけが安全地帯にいて金だけ出し他人任せにするだけで事足りるなどと世界に向かって広言できるのか。
身命を賭して非武装、非暴力で平和のために活動している外国のボランティアや国際NGOの例は枚挙に暇がない。前述のメイリード・マグワイア氏をはじめ先人をたどればキング牧師やガンジーもいるではないか。また非暴力による紛争解決を模索する非暴力平和隊やキリスト教平和隊、メノナイト調停サービスなど、多くの非暴力国際NGOが現在世界中で活動を展開している。
死にに行けといっているのではない。死をも厭わぬ覚悟をもって国際社会の平和に寄与すべきだと言っているのだ。平和には代償がつきものである。
もう一度憲法を読み返してみよう。われわれは日本国憲法前文で次のように宣言している。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。
憲法前文が述べるように日本国民は武力ではなく「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することで、「われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。
現実には「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」したからといって、必ずしも「われらの安全と生存を保持」できるとは限らない。時には必ずしも平和を愛さない諸国民に裏切られ身命を落とすこともあるだろう。しかし、平和を愛さない国民がいる、諸国民の公正と信義をいつも信頼できるわけではないからといって、武力や暴力で「われらの安全と生存を保持しよう」すれば、それは「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」せず、諸国民を裏切る行為である。それは、憲法の平和主義、相互信頼の精神を根底から否定することになる。
憲法前文が日本国民に求めているのは、相互信頼、利他主義であり時には自己犠牲の精神である。まさにボランティア(志願兵)の精神そのものである。この崇高なる平和主義のボランティア精神を世界に宣命、実践して初めて日本は国際社会において「名誉ある地位」を占めることができるのである。
自らの犠牲をも省みないが故に憲法9条部隊(友愛部隊)の隊員は、自衛隊員が宣誓する宣誓書に倣って、国際社会の平和と繁栄を守る憲法9条部隊の「使命を自覚し、日本国憲法前文及び9条を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて世界市民の負託にこたえること」(下線部は自衛隊員の宣誓書をもとに改訂)を誓わなければならない。
相互信頼、利他主義、自己犠牲の精神に依拠する憲法9条部隊(友愛部隊)にボランティア(志願兵)として志願する者など誰もいないだろう、という反論が聞こえてきそうだ。たしかに湾岸戦争の時には、当初自衛隊を除外した海部首相の国連平和協力隊構想には誰も賛同もしなかった。自ら進んで危険を引き受けようという市民など誰もいなかった。その後国連平和協力隊への自衛隊の参加が計画されたことで、なおさら一般国民や護憲派の反発を招き、結局構想倒れになった。
しかし、現在、状況は全く異なる。阪神淡路大震災で日本人にも相互信頼、利他主義、自己犠牲のボランティアの精神は日本人に完全に根付いた。ボランティアには時には犠牲が伴うということを日本人はすでに知っている。1993年にはカンボジアの復興支援で選挙監視にあたっていた中田厚仁氏、2008年にはアフガニスタンで農業支援をしていたペシャワル会の伊藤和也氏が犠牲になっている。にもかかわらず、ボランティアを目指す若者は増える一方である。国際協力を教える大学もまた増えている。
一方、憲法9条を護ろうという運動も燎原の火のごとく全国津々浦々に拡がっている。作家の井上ひさし氏や憲法学者の奥平康平氏あるいはノーベル物理学賞の益川敏英氏やなど錚々たるメンバーが呼びかけ人や世話役を務める憲法9条の会は全国に続々と誕生しており、知識人を中心とする賛同者は900人近い。最近では「憲法9条を世界遺産に」という宗教学者の中沢新一氏や「爆笑問題」の太田光氏の主張まである。
また現在存命中のほとんどの日本国民が戦後の平和憲法の下で平和主義を骨の髄まで教育されてきており、護憲運動に積極的に参加する市民の数は日本全国に無慮数百万いるといっても過言ではないだろう。さらに、これまで戦後一貫して護憲運動の先頭にたち、現民主党政権の母体となっている連合(日本労働組合総連合会)は675万人(2008年)もの組合員を抱えている。
仮に護憲派市民数百万人のうちわずか0.01%でも志願すれば数百人規模の憲法9条部隊ができる。また護憲派市民一人が護憲と国際平和のために一万円を寄付するだけで、数百億円規模の憲法9条基金が創設できる。また護憲派の連合を中心に憲法9条部隊を編成すれば、自衛隊のPKO部隊など足元にも及ばないほど高い専門性を持った部隊ができる。なにしろ連合には医療、教育、運輸、建築、土木などさまざまな職種の組合員がいる。これら、さまざまな技能を備えた組合員のうち1万人に一人が志願し組合員が1万円を拠出すれば、たちどころに「キリスト教平和隊」、「日暴力平和隊」や「国境なき医師団」など他国のNGOに負けない高度な技能を備えた憲法9条部隊が編成できる。
憲法9条部隊は自衛隊や「国際平和協力隊」のような国家組織でもなければJICA(国際協力機構)のような独立行政法人でもない。純然たる市民のボランティアによるNGO組織として編成できる。つまり憲法9条部隊は日本市民による地球市民のための平和部隊である。
このように護憲派による憲法9条部隊はきわめて現実的な日本国の、否、むしろ日本市民の国際協力の方策といえる。平和憲法を世界に輸出しようという運動をしている憲法9条の会の人々や、護憲運動を推進してきた人々、さらには市民による平和を主張している人々がよもや憲法9条部隊への志願を躊躇するはずはない。
これまで政府や在京大使館などへの抗議運動をしたり街頭でのビラ配りをしたり、各地で仲間内の学習会を開くくらいしか護憲運動の実践の場がなかっただけである。一度憲法9条部隊という国際的な護憲運動の実践の場ができれば、そして憲法9条を世界に輸出できる機会が与えられれば、志の有る人々は我先にボランティアとして参加を申し出ることは必定である。
実のところ、憲法9条部隊の創設は自衛隊の国軍化や日米同盟の強化を主張する改憲派にとっても意義がある。というのもわが国を取り巻く安全保障の現状を考えると、多数の兵力を国際協力のために海外派遣することは必ずしも容易ではなく、むしろ憲法9条部隊を自衛隊の補完や代替として国際貢献活動に従事させた方が日本の安全保障にとって好都合だからだ。
平和と安定が訪れた欧州地域とは対照的に、アジア地域では中国やインドの台頭、北朝鮮の核兵器保有など冷戦時代以上に不安定な状況が現出しつつある。また昨今のわが国の財政事情の悪化で2003年以降自衛隊予算は対前年比で縮小するばかりか、国際協力のための定員増も認められないありさまだ。国際貢献の名の下に多数の精鋭の隊員や艦船・航空機を海外に派遣すれば、それこそ国土防衛に支障をきたしかねない。
自衛隊が抱えるこの問題を解決するために憲法9条部隊は最適の方策である。あくまでも自衛隊は日本の防衛を最優先とし、海外での国際貢献は基本的には憲法9条部隊に任せるのである。
これまでも自衛隊のPKO活動について護憲派からはさまざまな批判が出ていた。いわく資金をかけすぎ、地元の役に立たない、技術が粗雑など、民間の専門家にまかせればもっと効率的な国際貢献ができるはずなど、さまざまである。誤解や偏見に基づく批判もあったが、多くは至極真っ当で的を射ている。だからこそ連合などから医療、教育、運輸、建設、土木などさまざまな専門家を集めた憲法9条部隊の出番となるだろう。
もし憲法9条部隊が国際貢献の柱となれば、自衛隊は本来任務である国土防衛の任に心置きなくあたることができる。自衛隊による国際貢献を主張している改憲派も、まさか本土防衛をおろそかにしてまでも国際貢献を重視せよとは主張しないだろう。たしかに国際貢献は自衛隊の本来任務の一つに格上げされた。しかし、やはり本来任務とは国家防衛である。この国土防衛は自衛隊、国際貢献は別組織という構想には社民党など護憲派勢力も反対はすまい。なぜならこの構想こそ彼等の提案であったからだ。
改憲派の一部からは自衛隊が人的貢献をしないことで日米同盟に悪影響を与えるのではないかとの懸念があるかもしれない。それは杞憂である。日米同盟にも憲法9条部隊は役立つ。米国政府には、アジアの平和と安定こそが自衛隊の最優先の任務であることを理由にそれ以外の地域での対米協力を控えめにしたいと申し入れても、米国との協力関係が損なわれることはないだろう。つまり、アジア地域での安全保障に自衛隊がこれまで以上に多くの責任を負う一方、米国の国際安全保障への活動については、やはりこれまで以上に日本が基地や施設の提供等後方支援で協力を行うのだ。また自衛隊の代わりに憲法9条部隊を派遣すれば、間接的にであれ国際社会への貢献を通じた対米協力にもなるだろう。
自衛隊の補完や代替の役割を果たすとはいえ、憲法9条部隊はもちろん自衛隊の補完部隊や代替部隊でもなければ、従来の別組織論とも異なる。つまり自衛隊を海外に出さない、出せないから別組織を創設するというのではない。自衛隊が派遣できようが、できまいが、それとは全く無関係に、憲法9条部隊は純然たる人間の安全保障を目指した国際協力組織として編成するのである。
自衛隊が行う国際貢献はあくまでも国家による国際協力である。他方NGOは地球市民による地球市民のための国際協力である。それこそ真の意味での人間の安全保障すなわち人間の人間による人間のための安全保障である。これまでの国家による「人間の安全保障」とは画然と異なる。
仮に、万々が一憲法9条が改正され、集団的自衛権の解釈も変更され、自衛隊の海外派遣が可能になったとしても、憲法9条部隊による国際協力の意義は決して失われるものではない。それどころか憲法9条部隊の重要性をなおさら世界にアピールする方策となるだろう。
護憲派の人々の主張は憲法9条の平和主義の精神を世界に輸出し世界を平和にすることにあるはずだ。仮に日本で護憲に失敗したとしても、その理念が失われることはない。だとすれば日本を越えて世界の恒久理念として憲法9条部隊を通じ憲法9条の精神を世界に広げる運動や非暴力による平和構築の実践は、憲法改正や集団的自衛権の解釈変更などの日本の国内事情に左右されることなく永遠不滅の意義がある。憲法は改正された、しかしわれわれは憲法の精神を永遠に受け継ぎ実践していくと宣言し、憲法9条部隊を通じ実践すればよいのだ。それは、かつてパリ不戦条約が実現できなかった自衛戦争を含めた全ての戦争の廃棄という理想の実践でもある。
とりあえず、言い出しっぺの私が「憲法9条部隊」の可能性を確かめるために、2月19日から3月5日までアフガニスタンとパキスタンを現地調査する。防弾車にも乗らず防弾チョッキも身につけない。憲法9条を「読九」すれば護憲派の人々が信ずるように、私に銃口を向ける人はいないだろうし、仮に撃たれても弾はあたらないだろう。
闘え!護憲派諸君、今こそ憲法9条部隊に結集せよ!私の後に続け!
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