2009年6月28日日曜日

民主党の安全保障政策

 民主党がいよいよ政権を奪取しそうだ。だからだろうが、アメリカでも民主党の安全保障政策に不安を覚える声が高まりつつある。議会でハーバード大学のジョセフ・ナイ教授をはじめいわゆる知日派の人々からは、民主党が政権を取れば日米同盟に摩擦が起きかねないいとの懸念がしきりにマスメディアに流されている。
 民主党が取るべき戦略は、米国に見捨てられないようにこれまで以上に米国に「思いやり」をかける「勝ち馬戦略」をとるか、あるいは日米中の正三角形による対等な関係を結ぶ「勢力均衡戦略」をとるか、あるいはまた国連や東アジア共同体を重視する「多国間協調戦略」のいずれかである。「勝ち馬戦略」は自民党主流派の政策であり、また民主党では長島昭久、前原誠司ら親米派が主張している。対米独立的な「勢力均衡政策」は自民党では加藤紘一ら非主流派、民主党では親中派が主張している。国連重視は小沢一郎、アジア共同体構想は鳩山一郎、アジア非核地帯構想は岡田克也の主張である。ところで民主党はいずれの戦略をとるのか。政策原案集を見ても、いまだに不明瞭だ。
 大国と同盟を結ぶ小国には常に見捨てられ論と巻き込まれ論の二つの恐怖がつきまとう。冷戦時代のように米ソ核戦争に巻き込まれる恐れはなくなったものの、今もなお自民党は見捨てられないようにできる限り米国に思いやりをかけるべきだと主張している。しかし、冷静に考えてみれば、安全保障環境は9.11同時多発テロ以後激変している。96年の再定義で「アジア・太平洋の平和と安定に欠かせない」はずの日米安保は、米中の戦略的協力関係に取って代わられようとしている。日本の最大の脅威である北朝鮮の核問題も北朝鮮には対米、対中問題でしかない。日本の最大の外交カードである経済力も中国に追い抜かれるのは必至だ。強いと自惚れていた自衛隊の戦力も憲法9条で自縄自縛の上に防衛予算の実質的な削減で弱体化しつつある。今や日本の安全保障上の地位はアジア・太平洋でも国際社会でもじり貧状態にある。
 このような安全保障環境の下で民主党がいずれの戦略をとるにせよ、実は憲法改正かもしくは集団的自衛権の解釈の変更による、より積極的な安全保障政策は避けられない。民主党親米派の「勝ち馬戦略」に基づく対米関係強化政策はアフガンをはじめ国際紛争で日本がどれほど軍事的な対米協力ができるかにかかっている。それは自民党以上の「思いやり」政策となる。対米自主独立派の「勢力均衡戦略」に基づく日米中正三角形政策は、対米、対中との勢力均衡を図るためになおのこと日本の軍事力の強化が求められる。鳩山由紀夫代表の祖父鳩山一郎ばりの改憲、軍備強化が必要だ。また「多国間協調戦略」に基づく小沢一郎代表代行の国連重視政策では国連憲章第41条、42条に基づく自衛隊の海外派遣を覚悟しなければならない。さらに同戦略に基づく鳩山代表の東アジア共同体構想や岡田幹事長の北東アジア非核地帯構想では、北朝鮮、中国、ロシアの核保有国と対等に交渉しようとすれば、潜在的核兵器開発可能国として日本はそれなりの覚悟を決めなければならない。北朝鮮はもちろん中国やロシアが核放棄や核軍縮、非核地帯化について非核国の日本を対等な交渉相手国とみなすことなどありえないからだ。
 今こそ民主党は、見捨てられるかもしれないと怯える自民党の臆病なタカとなるよりも、獰猛なハトとなって「百万人といえども我ゆかん」の自主独立の気概をもって憲法を改正し集団的自衛権を明確にし、日米安全保障条約の再々定義により対米軍事依存から脱却し、アメリカの核の傘から出るために少なくとも脱兵器化核武装を宣言し、国連憲章第41条、42条、43条に基づき国連軍への自衛隊参加を明言し、それらの政策を実践する覚悟を決めなければならない。それが民主党が責任ある政権与党となる唯一の方策である。

2009年6月14日日曜日

対北朝鮮国連制裁に秘められた米中の戦略

 北朝鮮に対する国連安保理決議が採択された。決議は、高須国連大使が胸を張って言うほどには実質的な意味を持たない内容となった。北朝鮮に入港する船舶の検査も各国に要請するだけで、義務化はできなかった。もっとも義務化した場合に、北朝鮮船籍の船舶検査をする場合に日本は困った立場に置かれたことだろう。海上自衛隊や海上保安庁が公海上で船舶検査を行うには現行法では周辺事態法を摘要しなければならない。つまり「武力攻撃」が差し迫っているという前提条件が必要だ。それこそ、北朝鮮が言うように、船舶検査は事実上の戦争行為である。恐らくはどこの国もそうした切迫した事態を避けるために、北朝鮮船籍の船舶に対しては、核兵器関連物資など禁止品目を積載していると「信じるに足る合理的情報がある」と認定できないとの理由をつけて船舶検査を実施しないだろう。北朝鮮以外の船舶への検査を実施してお茶を濁すということになるのは目に見えている。
 核実験から17日も経ってやっと国連決議が採択されたこと自体、北朝鮮に対する制裁が本気でないことの証である。北の核兵器が脅威となっているのは日本だけである。だから米国も含めて中国もロシアもその他の安保理事国も北の制裁には熱心になれない。オバマにとって最優先の政策は国内経済の建て直しである。それには中国の協力が不可欠である。また核脅威についても盟邦イスラエルへの脅威となるイランの核開発、またがテロ組織に渡るおそれのあるパキスタンの核のほうが北朝鮮の核よりもはるかに米国にとっては深刻だ。核不拡散体制が事実上崩壊した今、北への核拡散を阻止して核不拡散体制を維持することよりもイランやテロ組織への個別の核拡散にどう対応するかが問題だ。
 だからか、米国はすでに北が核兵器保有国であることを前提にして外交を行っているようだ。ブッシュ政権の末期以来、アメリカは北朝鮮に対してはほぼ一貫して宥和政策を取り続けている。今回の制裁決議も表向き強硬姿勢を見せているが、実質的には中国の対北朝鮮宥和政策をいいわけに米国も宥和的姿勢に終始した。オバマ政権は米朝の二国間交渉開始の時機をうかがっているのであろう。そのきっかけは現在拘束されている二人のジャーナリストの解放交渉になるだろう。3ヶ月先か半年先かはわからないが、いずれは米朝二国間交渉が始まり、日本は置いてきぼりをくわされるのは必至だ。
 米朝交渉が始まるまでは、北朝鮮は核実験やミサイル発射で盛大に危機を煽ることだろう。もはや米朝直接交渉しか解決の方法はないとの国際世論を醸成するのである。そして最終的に米朝国交回復、平和条約締結によって朝鮮戦争の終戦を宣言するのである。中国を仲介人にすでに米朝の間ではこうしたシナリオができているのではないか。米朝そして中国の3カ国による三文芝居をこれからわれわれは見せつけられることになるだろう。だから北朝鮮がもはや6者協議にもどることはない。静岡県立大の伊豆見元教授がNHKニュースで自身たっぷりに、いずれ北朝鮮は6カ国協議に復帰するとコメントしていたが、はたして私と彼との予測でいずれが正しいだろうか。興味深い。
 いずれにせよ日本の政治的、経済的地盤沈下は著しい。もはや日米同盟は形骸化しつつある。おなじく地盤沈下しつつある韓国は、こうした情勢の変化を素早く察知したのか、米国に対し核の傘を保証するよう、今月16日に米ワシントンで行われる米韓首脳会談での合意文書に明記するよう求めている。米韓同盟の再保証措置である。私の記憶に間違いがない限り、日米同盟にはこうした明文規定はない。何度もこのブログで取り上げているように、日本に対する核の傘は開かない。
 最悪のケースは北朝鮮による日本への核攻撃が行われ、米国も反撃もせず日米同盟が破綻し、日本も憲法9条の下でなにもできないままに日本が弱小化していくという事態である。日本が破綻したところで米国も中国も、ましてや韓国、北朝鮮が破綻するはずもない。休戦協定が平和協定になり朝鮮半島問題が米朝韓中の間で解決すれば、その時日本は核保有国に囲まれ、さらに憲法9条によって完全に事実上の非武装国家化し極東の小国となるのだろう。朝鮮戦争の勃発によって止むをえず図日本の再軍備を認めたために実現できなかったが、それこそ米国が第2次世界大戦終戦時に望んだことだ。米中安全保障体制が日米安全保障体制に代わる日は近い。北朝鮮の核問題はそうした米中両国のアジア戦略の一貫にすぎない。

2009年6月7日日曜日

朝日と産経の差のない対北朝鮮政策

 昨日(2009年6月6日)日本の対北朝鮮政策について対照的な記事が朝日と産経に掲載された。一見全く真逆の見解のようでいて、実は両記事とも本質的に同様の政策、すなわちいかに米国との同盟を強化するかという対米政策の強化を主張しているにすぎない。
 朝日も産経も程度の差こそあれ、自民党を中心に一部の議員が主張している「敵基地攻撃論」に否定的である。では日本にはどのような政策があるのか。朝日の社説はこう主張する。「北朝鮮の脅威が深刻であればあるほど、米国との信頼、近隣国との結束を固めるべきだ」。一方産経の「くにのあとさき」(湯浅博)は西ドイツがパーシング2を導入したように、日本も「米国核」を導入せよと主張する。そして「日本が巡航ミサイルを持つにしろ、『米国傘』導入の検討にしろ、米国との協調なくしては成り立たない」と続ける。期せずして、普段なら意見が対立することが多い両紙が同じ日に対米協調を主張したのである。
これは、もはや対北朝鮮政策では対米協調以外に打つ手がないという日本外交の手詰まりを如実に示している。
 たしかに、北の核保有そして北の核保有を利用しながら対米交渉や対アジア戦略を進めている中国外交を考えれば、一見、最後の頼みの綱は米国以外にないように思われる。しかし、外交はギブ・アンド・テイクの関係である。日本がいくら対米協調を望んだところで一体日本は何をギブできるのだろうか。両紙とも具体的にどのようにして対米協調をはかるか、具体的な提案は全くない。
 冷戦時代ならソ連や中国に対する前方展開基地として日本は戦略的価値があった。しかし、今や戦略的価値は著しく低下している。では苦境にある米国経済への支援ということになるのだろうか。とはいえ米国の自動車産業を壊滅に追い込んだのは日本だし、また米国債を買い支える役割も中国に奪われている。残るは沖縄の普天間基地移設問題の早期解決や米軍のグアム移転費用の負担増加ということになるのだろうか。しかし、民主党が政権をとれば、こうした対米思いやり政策は白紙撤回されるだろう。
 そもそも、冷戦時代のような安全保障を事実上金で買うような同盟関係のあり方はもはや通用しない。同盟とは、相手のためにともに血を流す関係である。日本は流さないが、アメリカには流してもらうというご都合主義的関係を精算しないかぎり、米国の核の傘も開かなければ、米兵が日本のために血を流すということもないだろう。
 オバマ政権が日本に望むのはアフガニスタンでの日本の協力だろう。北の核の脅威に備えて、対米協調を望むのなら、直近の政策としては、憲法改正は間に合わないからせめて憲法解釈を変更して集団的自衛権を認めて米国の対アフガン政策に協力するのが最も適切ではないだろうか。その上で、長期的には以前にも述べた日本の脱核兵器化核武装政策をとるのがよいと思うが、いかがだろうか。

2009年6月5日金曜日

コンラッド『密偵』を読む


 「暴力・連帯・国際秩序」の題名に惹かれて『思想』(岩波書店、2009年4月)を購入した。その中に興味深い論考があった。中村研一「テロリズムのアイロニー-コンラッド『密偵』の表象戦略-」である。ジョセフ・コンラッド『密偵』をテキストに、テロとは何かを明らかにしようとする論文、否、文学評論といってよいだろう。中村は、作者コンラッドやテロ研究者ウォルター・ラカーの言葉を引用しながら、文学の社会科学に対する優位を認めている(31-32頁)。中村はこの評論で、『密偵』をテロという視点から、そこに関わるさまざまな人物、主人公ヴァーロック、その妻ウィニー、妻の弟のスティーブ、ヴァーロックにテロを使嗾するロシア大使館員ウラジミール、爆弾作りのプロッフェッサー、アナーキストのミハエリス、ロンドン警視庁の警視官などの心理描写を通じてコンラッドが『密偵』でどのようにテロを物語ったか、そして読まれてきたか、さらにどのように読まれるべきかを考察している。
 テロ研究では社会科学は文学に負けるというのは、悔しいが納得できる。特に9.11同時多発テロは、私も「ニヒリズム・テロ」(拙著『テロ』中公新書、2002年)と名付けざるを得なかったように、近代合理性の枠組みでは理解不能な現象である。だからこそ、1894年に起こった「グリニッジ爆弾事件」を題材にとった1907年出版の『密偵』であっても、そこに描かれたアナーキストの心理を誰もが参考にしたいと思うのであろう。たしかにテロリストを主人公に、テロの政治ではなくテロリストの心理を描写した小説は多くはない。ましてや世界的な名声を得た小説となると、恐らく『密偵』一冊くらいか。『密偵』が政治小説やハードボイルドであったなら、これほどまでに現在、読み込まれることはなかったろう。実際、私はうかつにも知らなかったが、特に9.11以降『密偵』がテロ研究者や実務家に多く読まれ、現在の自爆テロを少しでも理解しようとする努力が続けられているという。
 どんな名作でもそうだが、『密偵』の粗筋は、すこぶる簡単である。ロシア大使館の密偵であり同時にロンドン警視庁への情報内通者である主人公ヴァーロックがウラジミールに命令され、プロフェッサーのつくった爆弾を、知恵遅れの義弟スティーブに持たせてグリッニッジ天文台を爆破しようとする。ところがスティーブが途中で転んで、弾みに爆弾が爆発、目的を果たせないままにスティーブが吹き飛んだ。それをヴァーロックから訊いた妻ウィニーが弟の仇を討つべくヴァーロックを刺殺し、本人もまた船から身を投げて自殺する。この過程で登場するさまざまな人々の心の動きや葛藤が細密に心理描写される。波瀾万丈な筋立てというものは全くない。ひたすら登場する人物の考えや心理に焦点が当てられる。だからこそ今でも読み込まれる小説となっている。これがもし、当時の政治状況に焦点をあてた政治小説であったら、陳腐な駄作にしかならなかったろう。
 逆に言えば、この小説を現在の政治状況にあてはめて解釈することは誤読以外の何ものでもないだろう。だからこの小説を現代のテロという文脈にあてはめて解釈すること自体が誤りであろう。むしろ、コンラッドの名作『闇の奥』(映画『地獄の黙示録』の原作)の延長線上にある人間の本性の不可知性あるいはヨーロッパ近代に生れた近代主義的人間が抱える近代ヨーロッパの暴力性といった問題として読み解くべきであろう。
 グリニッジ爆弾事件が起こった19世紀末にはヨーロッパでは数多くの爆弾テロ事件が起きた。この時代は、丁度産業革命による農業時代から工業時代への時代の転換点であり、国家体制が封建国家から近代国家へ、そして人々もまた群集(マルチチュード)から個人への変容を強いられた時代である。こうした時代の境目には必ず社会的混乱、政治的腐敗、アイデンティティーの喪失などからテロ事件が起きる。現在のイスラムによる自爆テロもまさに工業時代から情報時代への時代の転換点、近代国家から脱近代国家への変容そして近代的自我の崩壊にともなう個人のアイデンティティーの喪失という中で起きた社会的、政治的そして人間的な事象である。
 最後に、中村の評論は最後の段落でもって破綻したようだ。彼はこう記している。
「コンラッドが描いたのは、アナーキストのルポルタージュでもなく、その思想の実証主義的再現でもなかった。当時の英国人たちがアナーキストに対して抱いた理念型を選び出し、それを戯画、モンタージュ、アイロニーなどの手法を用いて笑えるように表象したのである。その結果、通常の社会科学が表現し得ないテロリズムの内的真実を照明し、暴力に対応する戦略の提示に成功している」(48頁)。
「テロリズムの内的真実」とはどういうものかがわかっていなくては、このような表現はできないだろう。しかし、「テロリズムの内的真実」がわからないから科学は文学に負けているのだし、また「テロリズムの内的真実」がわからない限り、はたして文学が「テロリズムの内的真実」を明らかにしたかどうかも不明のはずである。現代のテロの問題は「テロリズムの内的真実」などというものがあるのだと前提にするその近代合理主義的姿勢を問うている。ましてや「暴力に対応する戦略の提示に成功している」などとは到底言えないし、コンラッドが対テロ戦略を明らかにしようなどとはおもってもいないだろうし、また『密偵』をそこまで読み込むことなどできない。とういよりも、そのような近代合理主義的な読み込みを拒否するのが現在のテロである。
 だから今必要なのは『密偵』を解釈することではなく、『密偵』に匹敵する文学を創造することである。 「暴力・連帯・国際秩序」の題名に惹かれて『思想』(岩波書店、2009年4月)を購入した。その中に興味深い論考があった。中村研一「テロリズムのアイロニー-コンラッド『密偵』の表象戦略-」である。ジョセフ・コンラッド『密偵』をテキストに、テロとは何かを明らかにしようとする論文、否、文学評論といってよいだろう。中村は、作者コンラッドやテロ研究者ウォルター・ラカーの言葉を引用しながら、文学の社会科学に対する優位を認めている(31-32頁)。中村はこの評論で、『密偵』をテロという視点から、そこに関わるさまざまな人物、主人公ヴァーロック、その妻ウィニー、妻の弟のスティーブ、ヴァーロックにテロを使嗾するロシア大使館員ウラジミール、爆弾作りのプロッフェッサー、アナーキストのミハエリス、ロンドン警視庁の警視官などの心理描写を通じてコンラッドが『密偵』でどのようにテロを物語ったか、そして読まれてきたか、さらにどのように読まれるべきかを考察している。
 テロ研究では社会科学は文学に負けるというのは、悔しいが納得できる。特に9.11同時多発テロは、私も「ニヒリズム・テロ」(拙著『テロ』中公新書、2002年)と名付けざるを得なかったように、近代合理性の枠組みでは理解不能な現象である。だからこそ、1894年に起こった「グリニッジ爆弾事件」を題材にとった1907年出版の『密偵』であっても、そこに描かれたアナーキストの心理を誰もが参考にしたいと思うのであろう。たしかにテロリストを主人公に、テロの政治ではなくテロリストの心理を描写した小説は多くはない。ましてや世界的な名声を得た小説となると、恐らく『密偵』一冊くらいか。『密偵』が政治小説やハードボイルドであったなら、これほどまでに現在、読み込まれることはなかったろう。実際、私はうかつにも知らなかったが、特に9.11以降『密偵』がテロ研究者や実務家に多く読まれ、現在の自爆テロを少しでも理解しようとする努力が続けられているという。
 どんな名作でもそうだが、『密偵』の粗筋は、すこぶる簡単である。ロシア大使館の密偵であり同時にロンドン警視庁への情報内通者である主人公ヴァーロックがウラジミールに命令され、プロフェッサーのつくった爆弾を、知恵遅れの義弟スティーブに持たせてグリッニッジ天文台を爆破しようとする。ところがスティーブが途中で転んで、弾みに爆弾が爆発、目的を果たせないままにスティーブが吹き飛んだ。それをヴァーロックから訊いた妻ウィニーが弟の仇を討つべくヴァーロックを刺殺し、本人もまた船から身を投げて自殺する。この過程で登場するさまざまな人々の心の動きや葛藤が細密に心理描写される。波瀾万丈な筋立てというものは全くない。ひたすら登場する人物の考えや心理に焦点が当てられる。だからこそ今でも読み込まれる小説となっている。これがもし、当時の政治状況に焦点をあてた政治小説であったら、陳腐な駄作にしかならなかったろう。
 逆に言えば、この小説を現在の政治状況にあてはめて解釈することは誤読以外の何ものでもないだろう。だからこの小説を現代のテロという文脈にあてはめて解釈すること自体が誤りであろう。むしろ、コンラッドの名作『闇の奥』(映画『地獄の黙示録』の原作)の延長線上にある人間の本性の不可知性あるいはヨーロッパ近代に生れた近代主義的人間が抱える近代ヨーロッパの暴力性といった問題として読み解くべきであろう。
 グリニッジ爆弾事件が起こった19世紀末にはヨーロッパでは数多くの爆弾テロ事件が起きた。この時代は、丁度産業革命による農業時代から工業時代への時代の転換点であり、国家体制が封建国家から近代国家へ、そして人々もまた群集(マルチチュード)から個人への変容を強いられた時代である。こうした時代の境目には必ず社会的混乱、政治的腐敗、アイデンティティーの喪失などからテロ事件が起きる。現在のイスラムによる自爆テロもまさに工業時代から情報時代への時代の転換点、近代国家から脱近代国家への変容そして近代的自我の崩壊にともなう個人のアイデンティティーの喪失という中で起きた社会的、政治的そして人間的な事象である。
 最後に、中村の評論は最後の段落でもって破綻したようだ。彼はこう記している。
「コンラッドが描いたのは、アナーキストのルポルタージュでもなく、その思想の実証主義的再現でもなかった。当時の英国人たちがアナーキストに対して抱いた理念型を選び出し、それを戯画、モンタージュ、アイロニーなどの手法を用いて笑えるように表象したのである。その結果、通常の社会科学が表現し得ないテロリズムの内的真実を照明し、暴力に対応する戦略の提示に成功している」(48頁)。
「テロリズムの内的真実」とはどういうものかがわかっていなくては、このような表現はできないだろう。しかし、「テロリズムの内的真実」がわからないから科学は文学に負けているのだし、また「テロリズムの内的真実」がわからない限り、はたして文学が「テロリズムの内的真実」を明らかにしたかどうかも不明のはずである。現代のテロの問題は「テロリズムの内的真実」などというものがあるのだと前提にするその近代合理主義的姿勢を問うている。ましてや「暴力に対応する戦略の提示に成功している」などとは到底言えないし、コンラッドが対テロ戦略を明らかにしようなどとはおもってもいないだろうし、また『密偵』をそこまで読み込むことなどできない。とういよりも、そのような近代合理主義的な読み込みを拒否するのが現在のテロである。
 だから今必要なのは『密偵』を解釈することではなく、『密偵』に匹敵する文学を創造することである。

2009年6月2日火曜日

日本の対北朝鮮政策はどうあるべきか

 政府は意図的に北朝鮮の核の脅威を低く見積もっているのだろうか。自民党の細田幹事長は、北の核兵器はまだ小型化できていないとの見方を示している。日本政府の対応はまだ手遅れではないということを強調したいのだろうか。しかし、最悪に備えるという危機管理の要諦からすれば、核兵器の小型化が完成し、ノドンに搭載できることを前提にして対策を考えるべきであろう。昨日(09年5月31日)のサンデー・プロジェクトで北朝鮮、パキスタン、イランの3ヶ国による核兵器開発について報道していた。北の核兵器開発は、これら3ヶ国の共同開発でてあり、単に北朝鮮単独で実施しているわけではないことは明々白々である。以前にも書いたが、少なくともパキスタン並みのプルトニウム型核兵器を保有していると考えるべきであろう。
 では、北朝鮮の核保有に対して日本はどのように対応すべきか。
 第1に国連との協力で北朝鮮に圧力をかけ、これ以上の核開発を思い止まらせる。
現在、日本がとっている政策である。国連決議違反を理由にさらなる制裁を北朝鮮にかけるのである。国連を舞台にした対北朝鮮政策は、つまるところ北を支援する中国をいかに説得するかにかかっている。経済制裁や最も有効な金融制裁であっても、中国が北に宥和的な姿勢をとる限り、まったく効果はない。中国は北に宥和的な姿勢をとることで金正日政権への影響力を確保できる。一方、日本に協力して北への圧力を強化しても、中国は日本から得るものはなにもない。日本は今のところ対中カードを全く持っていない。昔なら経済協力カードがあったのだろうが、今となっては全く無意味だ。米国の軍事カードを利用して中国に圧力をかけることも、現在の米中関係を考えればアメリカがそのようなリスクを犯すはずも無く、ほぼ不可能だ。結局、日本が中国に対して持つことのできる唯一のカードは、日本の核武装論である。核武装論については脱兵器化核武装論について詳述したことがあるので、そちらを参照してほしい。
 第2に日米同盟のさらなる強化によって、米国の軍事力を抑止力として北朝鮮に核開発、や核使用を思いとどまらせる。これについても以前「核の傘は開かない」「対北宥和政策と日米同盟」で詳述したので、そちらを読んでほしい。結論を言えば、万一北が日本に対して核攻撃をした場合に米国が核あるいは通常戦力で反撃する蓋然性は限りなく0に近いということだ。ましてや北朝鮮が米本土にまで届く弾道ミサイルの開発に成功すれば、米国が犠牲を覚悟で日本のために北に報復するなど有り得ない。つまり米国の核の傘は開かない、ということである。
 この問題はかつて欧州諸国と米国との間で議論された問題と同じである。ソ連が欧州諸国を核攻撃した場合、米国は犠牲覚悟でソ連に報復するかという問題である。この問題を解決するためには、欧米は一衣帯水の関係にあることをソ連に信じさせること、そして欧州諸国が単独(英、仏は報復可能)ソ連に報復できるようにすることの二つが必要だった。冷戦時代にはこの二つの要件は満たされていた。一方日米同盟においても、アメリカの核の傘の信憑性は高かった。それは日本という戦略的資産が米国の世界戦略にとって、つまり米国の国益にとって必要不可欠だったからである。しかし、今や日本の戦略的価値は冷戦時代に比べて著しく低下している。
 第3は北への宥和政策である。北の要求を受け入れれば、北が日本に対して攻撃することもない、との理屈である。事実上の全面降伏である。紆余曲折はあるだろうが、憲法9条を持つ日本にとってはこの政策の蓋然性が一番高い。
 米国が北朝鮮と干戈を交える蓋然性は低い。オバマ政権は軍事力で北朝鮮と対峙する勇気はない。米朝間のチキン・ゲームはどうみても、失うものもあまりない捨て身で米国に挑んでいる北朝鮮に有利である。他方、米国にとって北朝鮮問題は、二の次、三の次の問題である。まずは国内の経済の建て直し、次にアフガニスタン問題、そしてイラン核問題、パレスチナ問題そして北朝鮮問題であろう。いざとなれば、米国は北朝鮮問題については中国にイニシアチブをわたしかねない。中国を通じて間接的に北朝鮮をコントロールするのである。つまり米国はいずれ北朝鮮と交渉し、平和条約を締結するだろう。そうなれば日本は単独で北朝鮮と渡り合うこともできず、結局北朝鮮と日韓基本条約のように事実上の平和条約を締結することになる。この経緯は、核武装した中国が核兵器を背景に政治力を高め結局米国と国交回復し、日本があわてて日中平和条約を結んだ経緯に良く似ることになる。そして中国にしたように、日本は韓国以上に北朝鮮にも莫大な経済援助を実施することになる。
 プライドも何もかもかなぐり捨てて、「死んで花実が咲くものか」と考えれば、北朝鮮の言いなりになるのも一つの手かもしれない。「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」日本国民であれば、金正日政権が日本国民を手ひどく痛めつけることはないと確信しているはずだ。なにしろ最近では教育勅語を暗記するように憲法前文を暗記することや、写経ならぬ写九すなわち憲法9条を書き写すことがはやっている。平和憲法はまさに国家宗教になりつつある。この憲法教を持ってすれば、怨敵退散すること間違いない。