2012年8月30日木曜日
ダマスカス拘束120時間-秘密警察での48時間の拘束-
ダマスカス拘束120時間-秘密警察での48時間の拘束-
【拘束の顛末】
私がダマスカス郊外のプルマン・バスステーションで逮捕された時、逮捕した男は「セキュリティー・ポリス」と名乗っていた。シリアには警察「ショルタ」、秘密警察「ムハバラート」そして兵役中の軍人「アスカリ」が町の治安を保っているといわれる。私を逮捕したのは、その中のムハバラートすなわち秘密警察だと思われる。
逮捕されバスセンターないにあった事務症に連行され、人体尋問を受けた。これからどうなるのか問うと、ホテルに行く、というので、無罪放免になるとタカをくくっていた。しばらくすると、私を逮捕した係官が友達を呼ぶといって、電話を掛けていた。パスポートをホテルにおいてあったので、パスポートを確認するためにホテルまで私と同行するために車で送ってくれるのだろうと甘く考えていた。30分ほどすると、出川哲朗にそっくりな小太りの戦闘服姿の「友達」とAK47をもち防弾チョッキを着た神経質そうな男が現われた。そして私を小型のセダンに押し込み、バスセンターを後にした。車には若い運転手、そして助手席には「出川」、私は後部座席左側に乗せられ、右横には銃をもった男が乗り込んだ。バスセンターから15~20分くらい走ったろうか、明らかにホテルとは違う方向に向かっていた。近道なのかと思っていたら、連行された「ホテル」は秘密警察の収容施設だった。
秘密警察の収容、尋問施設というよりは拷問施設は、ダマスカス市内の住宅街の一角にあった。制服を着た兵士や民兵なのか私服姿の男たちがカラシニコフを手に警備し、施設に通ずる道路は何重にも封鎖されていた。表取りからは想像つかないような緊迫した雰囲気が漂っていた。
【収容所の概略】
施設そのものは、地上二階、地下一階の大きな邸宅のような建物であった。地上部分が事務所、そして地下が拘置施設になっていた。外部から直接、地下に続く階段があり、10段ほど降りたところには頑丈な鉄格子がはまっていた。中には二人の看守がカラシニコフを横に立てかけ椅子に陣取っていた。収容所の建物全体の床面積はせいぜい20メートル×30メートル程度ではなかったろうか。階段を降りて中に入ると、右手に鉄扉がはまった拷問室が四つ並びんで据えつけられており、左手には警官の宿泊施設や休憩所などがあった。私が放り込まれたのは、階段を降りて左手に行き、さらに左手に曲がった突き当たりにある拘置施設である。拘置施設に入る前はちょっとした炊事場となっており冷蔵庫、ガス台、流し台があった。その炊事場の奥に拘置施設があった。
この拘置施設は三つに分かれていた。入ってすぐ左手が独房、そして右側には幅1.2メートル長さ10メートル高さ3メートルの廊下が続き、その突き当たりに階段3段あがった踊り場があり、この踊り場の右手が雑居房である。私は、実はこの廊下の部分に拘置されていたのである。本来の拘置施設は独房と雑居房だけだと思われる。廊下には中古のコンピュータが何十台も積み上げられており、明らかに本来の拘置施設ではなかった。
独房、雑居房そして廊下にはそれぞれ別の拘置者が収容されていた。独房には中年の小太りの男性が拘置されていた。また雑居房には数十人もの「クリミナルズ」(私と同房の兵士の話による)が閉じ込められていた。一般犯罪ではなく、多分反政府勢力の政治犯罪あるいは治安犯罪の嫌疑をかけられた者たちではないか。
独房、雑居房それぞれに厳重に鍵がかけられていたが、私がいた廊下には炊事場に続く鉄扉しか扉はなく、しかも、その扉は閉められてはいたものの施錠はされていなかった。台所には一応見張り(常時みはりがいたわけではない)がいたものの、許可さえ得れば比較的自由に出入りができた。もっと台所を出たところには地下室と外部との出入り口になっているところに常時二人が見張っていたので、彼らの許可を得なければ、便所には行けなかった。水を汲んだりするために台所までは比較的自由に出入りができた。もっとも私は自由に出入りしていたわけではない。
台所までは比較的自由があったのには恐らく三つ理由がある。一つは、尋問官が雑居坊へ頻繁に出入りするために炊事場に通ずる出入り口の扉をしめるのが煩わしいこと、また廊下に収容されている拘置者が全員兵士で雑居房の拘置者とは扱いが違うこと、そして何よりも、仮に逃げ出そうとしても、地上に通ずる出口は一つしかなく、そこは常時銃を持った看守によって厳重に監視されており、事実上逃亡は無理だからだ。
【収容者の実態】
集団があるところには必ずリーダーがいる。牢屋ではいわゆる牢名主だ。秘密警察の拘置所にも牢名主がいた。炊事場をとおって扉を開け中に入るとすぐに牢名主のごとく陣取っていた髭もじゃの年寄りが目についた。彼が廊下に拘束されていた兵士たちのリーダーであった。一番年をとっているからなのか、それとも長く収容されているからなのか、リーダー的存在になったのではないかとずっと思っていた。二日目の夜に親しくなった若い男が収容者のことを話してくれた。それによると廊下に収容されているのは全員兵士だということだ。英語で説明してくれた若い男は軍曹だといっていた。彼によると、年寄りが一番階級が高く、どうやら陸軍の少尉のようだ。それで牢名主のような役割を果たしているようだ。話しによると、見た目よりも随分と若く五十歳前後ではないかと思う。他にも40歳代の中年の兵士が二人いた。彼らはいつも三人で入口近くに陣取っていた。食事も、彼ら三人は他の兵士とは別に食べていた。
この牢名主の采配で中に入り、開いた場所に座る。といっても、座る場所程度のスペースしかない。10人ほどの二十代から三十台前半の兵士が、コンクリートの床に毛布を引いただけの狭い廊下に寝たり、座り込んだりしていた。兵士の中には病気なのかと思ったほど寝汗を大量にかきながら眠り込んでいるものもいた。また雑談しているものもおり、思い思いに時間をつぶしていた。
廊下にはもちろんエアコンなどはない。廊下には、もちろん屋根も壁もあった。しかし、どうやら後で増築されたのではないかと思う。というのも、窓一つない科米の反対側、すなわち係官らが宿泊している部屋側には頑丈な鉄格子のはまった窓がとりつけられており、エアコンのダクトが部屋に引き込まれていたからである。明らかに建物があって、その後廊下にあたる部分に壁と屋根がつけられたような造りだったのである。係官らの宿泊している部屋にはエアコンがあり、いつもではなかったが、エアコンが運転されているのがダクトの音でわかった。
それに引き換え、外部に通ずるのは台所への出入り口一カ所がけという廊下はいつも空気が淀み、蒸し暑かった。そのため昼間はほとんど全員が上はシャツ一枚だ。夜はさすがに少し温度が下がり、床から伝わってくる冷たさで、中には上着を羽織る者もいた。私は空港の収容施設で服を着替えるまで、全くの着たきり雀状態だった。昼間はじっとしていても、汗が体からにじみ出て来る。外気が入らないから、空気が澱み、だんだん息苦しくなる。それよりも閉じ込められていると思うだけで、精神的に圧迫され、息が詰まる。
拘置所には犯罪者、軍人そして独房の一人と、三種類の留置人がいた。軍人は最も罪が軽いようで、他の留置人に比べて扱いが寛大だった。入り口の鉄扉は、半開きにしたままで、施錠はされなかった。寛大な代わりに、他の留置人の食事の面倒などを引き受けていた。(続く)
2012年8月24日金曜日
日韓共に冷静に
日本と 韓国との間で親書の受け取りを巡って、外交問題に発展している。いや、正確には外交問題が親書の受け取り問題に反映されているにすぎない。親書の受け取り問題が最終的に戦争の引き金になったことがある。それは1991年1月にジュネーヴで開催されたベーカー米国務長官とアジズイラク外務大臣との湾岸危機の最終交渉の席でのできごとである。
アジズ外相は、クウェートからの即時撤退、イラクが国際社会から孤立している現状そして米国の軍事力の強大さを記したジョージ・H・W・ブッシュ大統領の親書を手渡されると「このような手紙を我が大統領閣下には渡せない」と付き返し交渉は決裂した。そして時を待たず湾岸戦争が始まった。
会談も親書の提出も米国の思惑通りに運んだ。イラクも米国も最後まで湾岸危機の平和的解決の努力を続けているとのジェスチャーを国際社会に示す必要があった。そして米国は親書という形でイラクに最後通牒を突き付けたのである。外交交渉ではもはや解決ができないということの象徴が親書の受け取り拒否ということである。
8月18日の読売テレビ、ウェークアップ!プラスで民主党の前原誠司幹事長が、竹島問題の解決を訊かれて、最後には「実力」でと口走りスタジオが凍りついた。東京のスタジオから猪瀬直樹東京都副知事がすかさずツッコミをいれ、「 実力」とはどいうことかと前原に詰問した。前原も、口が滑ったと思ったのか、突然しどろもろになり、返答に窮した。なおも猪瀬が質問を続けた。たまらず、司会の辛坊が助け舟を出し、「そういうことではなく」つまり軍事力ではなく、平和的な実力という意味で前原が使ったと私たちは理解していると述べた。聞いている限り、猪瀬が正しい。そしてまた前原も正しい。領土問題が全く一発の銃弾を交えず解決した例は極めて少ない。思い浮かぶのは、沖縄返還だけである。
今、日韓双方とも国民世論の扇動でチキンゲームをしている。弱気になればどちらも政権(韓国は現政権よりも次期政権)がもたない。野田政権には、どこでチキンレースから降りるか、戦略はあるのだろうか。親書の受け取り拒否は外交交渉の終わりでもある。あとは制裁をかけるしか手段はない。制裁の行き着く先は前原の言うとおり実力行使である。米国もイラクに武力行使をした。
しかし、平和憲法を持つ我が国が武力を行使できるだろうか、との疑問を大方の人は持つだろう。しかし、領土問題は自衛権の発動と解すれば、憲法の現行解釈では合憲である。だからこそ日韓両政権共に冷静になってチキンレースをやめなければ、まさに正面衝突してしまう。
2012年8月23日木曜日
山本さんの冥福を衷心より御祈り申し上げます
シリアのアレッポでもフリージャーナリストの山本美香さん が死亡した。心より 哀悼の意を表したい。ジャーナリストと研究者の職業の違いはあるものの、戦時下の人々の暮らしを 伝えたいという思いは同じである。
フリーのジャーナリストには政府側のビザはおりにくいのであろう。だからトルコ側の反政府勢力 の支配地域からの潜入取材に ならざるを得ないのか。であればこそ、政府側の 攻撃は覚悟の 上だったと思う。不謹慎の誹りを承知の上でいえば、本望の最後ではなかったか。
反政府勢力との内戦 でアレッポは混乱の極みのように思われている。しかし、私がダマスカスに滞在した八月上旬は、飛行機もバスも問題なく運行されていた。アレッポには是非行きたかったが、残念ながら、その前に拘束され、願いは叶わなかった。
確かに反政府勢力の攻撃は続いているが、ダマスカスの様子を見る限り、政権は安定しているように思える。
ネットは制限されていると思ったが、特に規制はかけられていない。人々の暮らしや生活にも思ったほどの 影響は表向き 見られない。流石に観光業は大打撃のようで、宿泊したホテルも閑古鳥がないていた。内戦のせいなのか、内戦による不況のせいなのかシャッターが閉じられた店を ダマスカスでは多く見た。しかし、下町の食料品を売る 市場には活気が溢れていた。多くの人にとって、戦争は社会現象ではなく、台風や地震のような自然現象なのかもしれない。
山本さんは、不謹慎だが、名誉の戦死で救われたかもしれない。彼女と一緒に取材していたトルコとパレスチナの取材人が拘束されたとの報道がある。もし、事実なら、彼らには体を横たえる空間もないような 劣悪な収容施設に放り込まれ、最悪、凄まじい拷問が加えられるだろ。女性もおそらく似たような扱いだろう。
政府側の拷問の実態は、この目で目撃した。また不法入国者の収容施設でも、スパイ容疑で秘密警察の拷問を受けた男を見た。タバコの火のあとが身体中についていた。
シリアの内戦は、アサド政権の政府軍と自由シリアの反政府軍の戦いだけではない。政府系民兵組織と反政府系の自由シリア軍、それに加担する外国民兵、テロリストなどが加わり、戦時国際法の埒外で戦われている無法の戦争である。そして両者は世界のメディアに向けた熾烈な報道合戦をも繰り広げている。この戦いで圧倒的に不利な立場におかれている政府側は反政府側から取材するジャーナリストにも容赦なく銃口を向けるだろう。まさに仁義なき戦いである。
2012年8月18日土曜日
ダマスカス戦線異常なし
今日(2012年8月17日)TBSと日テレの取材チームがシリア北部の町アザーズにトルコ国境から入国し、政府軍による攻撃のもようをリポートしていた。まるで両局の報道ぶりは、まるでシリア全体が戦場であるかのような局部拡大方式のメディア操作としか言いようがない。トルコ国境から入国できたということは、少なくともシリア側の国境管理が反政府勢力が掌握していることの証拠である。それはまたトルコがシリアの反政府勢力を支援していることの現れでもある。つまり、今回の報道は、少なくとも反政府側の便宜供与を受けた取材であることをまずは確認しておかなければならない。現在シリア政府は外国メディアの取材や立ち入りを厳しく制限している(というよりは事実上禁止している)ために、政府側の立場に立った取材はできない。だから政府が支配を確立していると思われるダマスカスの様子は外部に伝わってこない。またそこはあまりに平和であるためにニュースにもならないのだろう。
ダマスカスを見た限りでは、人々の暮らしは比較的安定している。内戦激化のために食糧不足が起こっているとの報道が一部ではあったが、全くのでたらめである。ダマスカス市内のスークに足を運んだが、生鮮食品や食料品はあふれている。なによりも秘密警察に収監されている「犯罪者」への日々の食糧も十分すぎるほどに行われていることを身をもって体験した。主食のイスラム風のパンも毎日大量に留置所に運び込まれていた。副菜も十分にあった。少なくとも食料品が足らなくて(金が足らなくてということはもちろんある)人々が困窮しているなどということはダマスカス市内ではなかった。
食糧供給が安定しているということは、治安が安定していることの証左でもある。イスラエル、アフガニスタン、スリランカ、フィリピン・ミンダナオ島などこれまで戦時下の町には何ヶ国も、何度も行ったが、印象で言えば、ダマスカスは戦時下にあるとは思えないほど安定していた。その一つに要因は、私服でダマスカスの治安を監視している公安警察の存在が大きいと思われる。反政府勢力を徹底的に監視、取り締まりを行っている。だから拷問も日常茶飯事に行われている。表通りを歩いているだけでは気がつかなかったが、護送車に乗せられて路地裏をあちこち連れ回されたときに、車窓からは民兵なのか私服の警官なのかわからないが、銃を持った大勢の男たちが路地のあちこちで周囲の監視にあたっていた。まさに私は、そうした監視の中でスパイ容疑で逮捕された。逆に言えば、徹底した監視網がダマスカスの治安を維持していといえるだろう。さらにアサドに忠誠を誓う兵士、警官、役人たちは今も数多くいる。その証拠といえるかどうか、まるで北朝鮮のように公共機関には必ずアサド親子の写真が貼られていた。アサドの権威、権力、いまだ衰えずである。
とはいえ私が滞在していた一週間で政府軍ヘリによる攻撃を一度目にし、また反政府側の爆弾攻撃にも一度遭遇した。反政府勢力の爆弾と銃撃による攻撃に対し、政府軍側は約10分で掃討を終えた。たまたま日本でいえば入管のような施設に拘束されているときだった。建物を封鎖し職員が銃をもって攻撃にそなえたが、10分ほどで猛烈な銃撃戦が終わり、係官も20分もしないうちに平常業務に戻った。政府側に負傷者は出たようだが、その後の報道では死者は出なかったようだ。火力では圧倒的に政府側が勝っているように思えた。
また強制退去を受けて空港へ護送される途中、車窓からは、2カ所で装甲車に乗った兵士が道路を監視しているのを見ただけである。シリア到着時にタクシーで市内に向かったが、その時には兵士の姿や装甲車など全く見なかった。また強制退去させられた時の空港の様子も普通の空港と全く変わらなかった。空港に銃を構えた兵士がいるわけでもない。ただ、日本の地方空港並の規模でしかなく、また乗降客の数も少ないために、わびしい雰囲気は拭えなかった。しかし、便数は少ないものの航空機は24時間態勢できちんと運行されていた。私が乗ったエティハド航空機も毎日運行されていた。
また空港の待合室にもどこにでもある日常風景があった。家族ずれが多く、小さな子供たちがロビーを走り回っていた。ひょっとするとシリアを脱出するためかと思われるかもしれない。しかし、アブダビからシリアに向かうときにも家族ずれが何組もいたことを考えれば、必ずしもシリア脱出とは言えないのではないか。
シリア情勢に対するメディアの報道は、だれが取材許可を出すかによって全く異なる。現在、欧米メディアを受け入れているのは反政府勢力側である。日本も欧米メディアの一貫として反政府勢力側からの報道姿勢をとったのであろう。そうすると、アサド政権は今にも崩壊、瓦解しそうなニュアンスで伝えられ事が多くなる。一方で、アサド政権側からの報道にある、恐らくロシアや中国しか伝えられないのであろうが、反政府勢力はアルカイダのようなテロリストや欧米など外部勢力の支援を受けているといったニュースは全く外部に伝わってこない。
戦時下の報道で気をつけなければいけないのは、メディアがいかなる便宜供与をいかなる勢力から受けているかを吟味することである。そうでなければ一方的な報道によって判断を誤る原因となる。私が紛争地に入る際に、こうしたバイアスをさけるために一貫して実行しているのが、ツーリスト・ビザで入国できるかどうかである。今回在日シリア大使館はツーリスト・ビザを発給してくれた。またスパイ容疑でつかまったものの、最終的にツーリストとして釈放してくれたシリア政権は、その一事をもってしても、まだ安定しているといえる。
別にアサド政権の肩を持つわけではない。それどころか、その人権侵害政策には満腔の怒りを覚えている。しかし、客観的な事実と主観的な思いとは明確に区別しなければならない。アサド政権が転覆するとするなら、また反政府勢力がアサド政権を打倒することができるとするなら、やはりダマスカスの攻防戦にかかっていると思われる。だが、今のところ「ダマスカス戦線、異常なし」である。
2012年8月14日火曜日
紛争地を歩く-シリア編(拘束の顛末)-
本当に専門家としてあるまじき、恥ずかしい失態を演じ、7日午後から12日午後まで当局に拘束されました。帰国できたのは、今思い返せば、単に運が良かっただけかもしれません。一時は死を覚悟しました。事の顛末は以下のようなものです。
8月7日後2時頃、戦闘が激しくなっていると言われるアレッポの現状を見たいと思い、
同市行きのバスがあるかを確認するためにダマスカス郊外にあるプルマン・バスステーションへ行きました。7日の午前中にダマスカス市内の観光地ウマヤド・モスクやスークを見物したのですが、内戦の様子など微塵も感じられませんでした。メディアが報じる内戦の状況とは全くことなった様相に、過剰な報道がなされているのではないかと疑っていました。そこでアレッポでもダマスカスと同じ状況ではないかと思いアレッポ行きを決意しました。
バス・ステーションに着くと、客引きにアレッポ行きバスを運行する会社に連れて行かれました。その時上空で異様な音が聞こえました。見上げると、軍用ヘリが旋回しながら、地上に銃撃を加えていました。思わずカバンからビデオ・カメラを取り出して、撮影しようとした瞬間公安警察の私服警官に逮捕されました。撮影しているのがわからないような超小型のウェブ・カメラも持っていたのですが、早く撮影しなければと思い、思わず小型ビデオ・カメラを取り出してしまいました。撮影をする前に止められたために、カメラには警官がカメラを押さえる指しか写っていません。これまでもイスラエル、エジプトでも同様に撮影をとがめられたことがありました。その時には映像が残っていました。しかし、今回は一切写していませんでしたので、今回も注意処分でその場で釈放ではないかと高を括っていました。しかし、事態は最悪の方向に向かいました。
かれこれ30分ほども尋問を受けた後、これからどうなるのかと逮捕した警官に訊いたところ、ホテルだというので、てっきり宿泊先のホテルに送りとどけられるのかと思っていました。しかし、その後10分ほどしてから警官の上司と思しき、出川哲朗そっくりの小太りの戦闘服姿のオヤジと、カラシニコフを抱えたいかにもすぐに切れそうな兵士が私を車に押し込み、バス・ステーションをあとにしました。そして着いたところが、市内にある公安警察の尋問施設でした。そこは、付近の道路も建物も兵士によって厳重に警備されていました。それを見た時、事態はどうやら最悪の方向に向かっていることに気づきました。
すぐに、建物の地下室にある拘置場所に放り込まれました。この施設は警察の取調室と留置所などという場所ではなく、拷問施設です。ここには三種類の人が拘置されていました。独房に入れられた人一人、そして犯罪者(どういう犯罪かはわからなかった)数十人、そして軍事グループ。私は軍人グループに入れられました。軍人グループは軍の中で何か問題を起こして逮捕された人たちのようです。
丁度48時間後に公安警察から身柄を日本で言えば出入国管理局に移され、そこでの取り調べの後、9日木曜日の午後、不法滞在や不法入国者の一時収容施設に移され、やはり48時間収容されました。私の場合にはパスポート、ビザ、帰国のチケットも全て持っており、不法滞在ではなかったのですが、収容されました。強制退去処分にするために、一時収容されたのでしょう。一体何の罪で収容されるのかなんの説明もありませんでした。また運が悪ことに翌日が休日の金曜日で一切の手続が進まず、結局土曜日の午前中まで収容施設にとどまることになりました。
土曜日の午前中に収容施設から再び出入国管理局の事務所に戻され、強制退去の手続が始まりました。そして夕方に空港内にある小部屋に他の強制退去者など5人とともに拘束されました。以後、飛行機の搭乗手続が始まる日曜日の午後2時まで、およそ20時間を冷房の効きすぎる、壊れたソファ以外になにも無い部屋で待つことになりました。
拘束された時の詳しい様子はあらためてブログに書きます。今回、拘束を受けて、いろいろなことがわかりました。
第1に、ホッブズは人間は何故戦うのかという問いに身体的な自己保存を挙げました。しかし、今回の経験を受けて私は身体的な理由ではなく、自由にあると確信しました。人間は自由を求めて戦うのであって、そして自由を確保するために共同体や国家を形成していくのだと考えるようになりました。自由をうばわれることが如何につらいことか、わずかの期間でしたが、実感しました。
第2に、なぜユダヤ人は唯々諾々と処刑されていったのか、何故叛乱しなかったのか、その一旦がわかったような気がします。希望がなければ、死ぬ事でしか救われない。希望を失えば、もはや抵抗する意味も無く、ただ残された唯一の希望である神にすがる、つまりは死以外にないということでは無いのか。暴力の前に人間はいかに弱いかがわかります。わずか二日でしたが、拷問施設で見聞きした光景は生涯忘れられません。恐らく日本の平和主義者も含め誰もが、シリアの秘密警察の尋問官の怒声、ビンタ、蹴り、皮鞭等の拷問には堪えられず、唯々諾々と命じられたことに従うようになるでしょう。
第3に、人間はあまりの困難に遭遇すると、コンピュータでいうスリーピング・モードにはいるようです。拘束されている人が皆横になって寝ているのはやることがないからだ思っていました。しかし、そうではなくどうやら寝ることでつらい現実から目をそらす、身体の拒否反応のようです。私かも48時間のうち三分の二は寝ていました。といっても、ただ単に考えることを拒否するための睡眠です。頭が普通モードになるとさまざまなことを考えて、堪えられなくなります。
第4に、太陽の光、時間の感覚が人間にとって如何に重要かがわかりました。拘束施設は全て24時間蛍光灯で照らされています。一切窓がなく、太陽の光がありません。時間がわからなくなり、不安に陥ります。長期の拘束に備えて、他の人をみならって、壁に日付用の印をつけました。
個々の拘束に関する詳細については、いずれブログでアップします。
ご心配をおかけした皆さまにはこころよりお詫びを申し上げます。
2012年8月7日火曜日
紛争地を歩くーシリア編ー
八月五日、夜九時過ぎに成田を出発、現地時間早朝四時にアブダビ到着。八時間の待ち合わせの後、二時間半の飛行でダマスカス空港に到着。エティハド航空のA320-200の半分程度の座席が埋まっていた。100人前後はいたろうか。予想とは全く違っていた。脱出する人は多数いてもシリア人行く人はほとんどいないと思っていた。しかし、普通のフライト到着。変わりはない。入国審査のところでわかったのだが、シリア人だけでなく、他のアラブ諸国のひとや、それ以外の国の人も結構いた。中国人ビジネスマンと思われる三十代の男性が一人と私だけがアジア系であった。
入国審査も何の問題もなかった。聞かれたのは、型通りに、目的と滞在場所、滞在期間だった。観光です。五日間、ダマスカスに滞在すると告げると、係官が事務所に 行き、何やら上司と相談ししたらしい。二、三分後に戻って来ると、入国スタンプを押してくれた。
ダマスカス空港は日本の地方空港の規模だ。内戦中だからなのか、比較的閑散としていた。しかし、到着ロビーにはタクシーの客引きが多勢いて盛んに客を漁っていた。いつものことながら、この駆け引きが一番疲れる。めんどくさいのでほぼ言い値で承諾した。白タクだったので多分通常の倍以上だとおもう。運転手に25ドルとチップに5ドル、手引きして通訳してくれたおっさんに5ドルのチップ、都合35ドルでホテルに着いた。空港から市内に向かう道路に兵士の姿はほとんどなかった。四年前の内戦最後の局面に あったスリランカでは数百メートルおきに兵士が歩哨に立っていた様相とは全く異なる。伝えられているような内戦の影は全く感じられない。
市内に入れば、そこはまるでカイロのような人ごみと渋滞だ。中心部にあるシャンパレスホテルは客がいなくて閑散としていたが、中国料理屋や日本料理屋も開いていた。ちなみに夕食は中華料理屋に行き、
チャーハン、サンラータン、レバノンのビール二本では約千円だった。六時に行ったが、客はわたし一人だった。ホテルの中にある旅行会社約土産物屋は店を閉じていた。客がいないからかどうかはわからない
シリアで 驚くことは、あまりイスラム国とは思えないほどみんな開けている。女性も普通の格好をしている人がおおい 。またあまり厳格にラマダンを守っていない印象を受けた。飛行機の中で女性を中心に飲食をしている人が多かった。スーダン、エジプト、リビアとは多いに印象が異なる。
食事の前にホテルの周りを散歩したが、産業省を始め政府機関が結構あった。すぐにわかるのは、シリア国旗を、これでもかとはいうくらい飾り立てているからだ。警備の兵士には緊張感がない。エジプトのタハリール広場を警備していた兵士とは質が違うようだ。
早朝に このブログを書いている。市の中心部なのにまことに 静かだ。イスラム教国にはつきもののモスクからのアザーンモスク聞こえてこない。モスクの数が少ないのだろうか。
シリアの第一印象は全く気抜けするほどの平穏さだ。
登録:
投稿 (Atom)