2010年2月9日火曜日

「闘え!護憲派」-「憲法9条部隊」の創設を-

 最初に述べておく。私はいわゆる護憲派ではない。地域紛争や「新しい戦争」など冷戦後の安全保障環境には必ずしもそぐわない憲法9条を改正し、自衛隊を軍隊と認め集団的自衛権の政府解釈も変更し、自衛隊を国連PKOや国際警察活動や国際治安維持活動に積極的に参加させるべきだと考える改憲派である。
 にもかかわらず、現時点では改憲ではなく、次善の策として護憲による国際協力を主張せざるを得ない。後に詳述するが、その理由は二つある。
 第1に、政権交代という国内政治情勢の変化、平和憲法に対する国内外の肯定的世論などを考慮すると、憲法9条改正はもちろん集団的自衛権に関する政府解釈の変更もここ当分難しいと考えられるからだ。
 これよりももっと重要な第2の理由がある。それは日本の平和憲法が日本にとって最も強力なソフトパワーの一つになったことである。自衛隊というハードパワーが国際社会で使えない以上、代わりのパワーを考えざるを得ない。これまでは軍事力に代えて経済力をハードパワーとして用いてきた。しかし、その経済力にも翳りが出てきた。そこで経済力の補完、代替として平和憲法がソフトパワーとして重要性が増してきたのである。
 しかし、平和憲法を軍事力や経済力のハードパワーを補うに足るソフトパワーとするには平和の実践が必要となる。それは護憲派がこれまで行ってきたよう憲法9条を護れと政府に向けて叫ぶことではない。『9条を輸出せよ』(吉岡達也、大月書店、2008年)と護憲派が主張するように世界に日本の平和憲法を輸出しなければならない。平和憲法の輸出とは単に憲法の前文や9条を世界に「布教」、「伝道」することではない。具体的には非暴力による、自衛隊に頼らない、軍事力に依拠しない国際協力の実践である。それが実現できてはじめて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とある憲法前文の「名誉ある地位」を日本が占めることができる。
 では、非暴力による国際協力の実践とは具体的にどのようなことをいうのか。
 これまで日本の国際協力といえばほぼ資金協力、経済協力しかしてこなかった。湾岸戦争の時も、そしてアフガニスタンでの対テロ戦争でもしかりである。しかし、現在の日本の財政状況を考えると、資金提供による国際協力もいずれは困難となる。また資金協力だけでは、「小切手外交」と揶揄された湾岸戦争の例を引くまでもなく、「名誉ある地位」を確かなものにすることは難しい。本来ならば資金協力だけではなく、汗をかく人的協力が求められるはずだ。
 たしかに現在自衛隊やJICAそして一部のNGOが人的協力をしている。しかし、その人数や規模は他国に比べるべくもないほどに限定的である。憲法9条の制約から国際NGOよりも機能においても地域においても自衛隊の活動は限定的だ。またJICAは危険地域では他国の軍隊に防護してもらう、あるいは日本人職員の代わりに地元の人や外国人を雇うなど、外国人に武力で安全を確保してもらいながら活動しているだけだ。つまり自らは武力を行使せず、他人に間接的に武力を行使してもらって安全を確保しているということだ。日米同盟で米国に安全を保障してもらっている日本の国家のありようと同じだ。
 また日本政府の資金を受けているNGOは、外務省の指導で危険地域での活動を自粛させられている。加えて自ら危険に身を曝してまで紛争地域で支援活動に貢献しようという日本のNGOはほぼ皆無だ。ましてやスマコミで盛んに軍事支援よりも経済支援をと訴える「評論家」や「文化人」そしていわゆる「護憲派」の人々においておや、だ。かれらは自らに危険が降りかかることなど絶対にない日本国内で非武装、非暴力で民生支援、市民への援助をせよと言うばかりで、有言不実行、言行不一致、知行不一で、まさに巧言令色少なし仁である。
 北アイルランドのノーベル平和賞受賞者メイリード・マグワイア氏とは大違いだ。彼女は2009年6月にガザに支援物資を届けようとしてイスラエル軍に船ごと拘束された。彼女のように自ら平和を実践してこそ、憲法9条の輸出であろう。
 現状のままでは、他国が軍人や警察官あるいは文民に多数の犠牲を出しながらも平和構築活動を実施している一方、日本だけは人的犠牲を出すのが厭なために資金協力や他国に肩代わりさせているとの印象を国際社会に与えかねない。危険なことはあなた任せ、他人任せで、はたして日本は憲法前文の「名誉ある地位」を占めることができるのか。「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」他国の人々同様に汗をかき、時には拘束され、また最悪の場合には血を流す覚悟がなければ、「名誉ある地位」を獲得できないのではないか。
 では、憲法9条を遵守し自衛隊に頼らない、しかも資金協力だけではない、そして日本が憲法前文の「名誉ある地位」を占めることができる平和貢献の方策はあるのか、というのが本書のテーマである。
 結論は、イエスである。それは憲法9条部隊あるいは鳩山首相にあやかって「友愛部隊」と呼んでも良いが、他国による護衛や武力による自衛などを一切しない非武装、非暴力の別組織の創設である。これは湾岸戦争時に構想された自衛隊を除外し民間人ボランティアからなる国連平和協力隊や自衛隊を改編したような官主導の別組織ではない。あくまでも護憲派民間ボランティア主導による別組織である。
 自衛隊による国際協力に限界がある以上、非暴力・非武装の憲法9条部隊による人的な平和貢献こそが、現行憲法を遵守すると同時に「名誉ある地位」を占める唯一の現実的方法と私は信じている。だからこそ憲法の平和主義すなわち非暴力・非武装を日頃から熱心に主張している「護憲派」の人々に非暴力による平和のための非武装、非暴力による平和への闘いを有言実行で挑んでもらいたい。
 非武装・非暴力による平和貢献という結論には、必ず反論が出てくる。非武装、非暴力でどうして危険地域で平和構築活動が実施できるのか、と。逆に、問いたい。身命を賭すことなく、どうして平和構築ができるのか、と。他国の兵士が身命を賭して「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと」平和構築の任務にあたっているのに日本人だけが安全地帯にいて金だけ出し他人任せにするだけで事足りるなどと世界に向かって広言できるのか。
 身命を賭して非武装、非暴力で平和のために活動している外国のボランティアや国際NGOの例は枚挙に暇がない。前述のメイリード・マグワイア氏をはじめ先人をたどればキング牧師やガンジーもいるではないか。また非暴力による紛争解決を模索する非暴力平和隊やキリスト教平和隊、メノナイト調停サービスなど、多くの非暴力国際NGOが現在世界中で活動を展開している。
 死にに行けといっているのではない。死をも厭わぬ覚悟をもって国際社会の平和に寄与すべきだと言っているのだ。平和には代償がつきものである。
 もう一度憲法を読み返してみよう。われわれは日本国憲法前文で次のように宣言している。
 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。
 憲法前文が述べるように日本国民は武力ではなく「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することで、「われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。
 現実には「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」したからといって、必ずしも「われらの安全と生存を保持」できるとは限らない。時には必ずしも平和を愛さない諸国民に裏切られ身命を落とすこともあるだろう。しかし、平和を愛さない国民がいる、諸国民の公正と信義をいつも信頼できるわけではないからといって、武力や暴力で「われらの安全と生存を保持しよう」すれば、それは「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」せず、諸国民を裏切る行為である。それは、憲法の平和主義、相互信頼の精神を根底から否定することになる。
 憲法前文が日本国民に求めているのは、相互信頼、利他主義であり時には自己犠牲の精神である。まさにボランティア(志願兵)の精神そのものである。この崇高なる平和主義のボランティア精神を世界に宣命、実践して初めて日本は国際社会において「名誉ある地位」を占めることができるのである。
 自らの犠牲をも省みないが故に憲法9条部隊(友愛部隊)の隊員は、自衛隊員が宣誓する宣誓書に倣って、国際社会の平和と繁栄を守る憲法9条部隊の「使命を自覚し、日本国憲法前文及び9条を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて世界市民の負託にこたえること」(下線部は自衛隊員の宣誓書をもとに改訂)を誓わなければならない。
 相互信頼、利他主義、自己犠牲の精神に依拠する憲法9条部隊(友愛部隊)にボランティア(志願兵)として志願する者など誰もいないだろう、という反論が聞こえてきそうだ。たしかに湾岸戦争の時には、当初自衛隊を除外した海部首相の国連平和協力隊構想には誰も賛同もしなかった。自ら進んで危険を引き受けようという市民など誰もいなかった。その後国連平和協力隊への自衛隊の参加が計画されたことで、なおさら一般国民や護憲派の反発を招き、結局構想倒れになった。
 しかし、現在、状況は全く異なる。阪神淡路大震災で日本人にも相互信頼、利他主義、自己犠牲のボランティアの精神は日本人に完全に根付いた。ボランティアには時には犠牲が伴うということを日本人はすでに知っている。1993年にはカンボジアの復興支援で選挙監視にあたっていた中田厚仁氏、2008年にはアフガニスタンで農業支援をしていたペシャワル会の伊藤和也氏が犠牲になっている。にもかかわらず、ボランティアを目指す若者は増える一方である。国際協力を教える大学もまた増えている。
 一方、憲法9条を護ろうという運動も燎原の火のごとく全国津々浦々に拡がっている。作家の井上ひさし氏や憲法学者の奥平康平氏あるいはノーベル物理学賞の益川敏英氏やなど錚々たるメンバーが呼びかけ人や世話役を務める憲法9条の会は全国に続々と誕生しており、知識人を中心とする賛同者は900人近い。最近では「憲法9条を世界遺産に」という宗教学者の中沢新一氏や「爆笑問題」の太田光氏の主張まである。
 また現在存命中のほとんどの日本国民が戦後の平和憲法の下で平和主義を骨の髄まで教育されてきており、護憲運動に積極的に参加する市民の数は日本全国に無慮数百万いるといっても過言ではないだろう。さらに、これまで戦後一貫して護憲運動の先頭にたち、現民主党政権の母体となっている連合(日本労働組合総連合会)は675万人(2008年)もの組合員を抱えている。
 仮に護憲派市民数百万人のうちわずか0.01%でも志願すれば数百人規模の憲法9条部隊ができる。また護憲派市民一人が護憲と国際平和のために一万円を寄付するだけで、数百億円規模の憲法9条基金が創設できる。また護憲派の連合を中心に憲法9条部隊を編成すれば、自衛隊のPKO部隊など足元にも及ばないほど高い専門性を持った部隊ができる。なにしろ連合には医療、教育、運輸、建築、土木などさまざまな職種の組合員がいる。これら、さまざまな技能を備えた組合員のうち1万人に一人が志願し組合員が1万円を拠出すれば、たちどころに「キリスト教平和隊」、「日暴力平和隊」や「国境なき医師団」など他国のNGOに負けない高度な技能を備えた憲法9条部隊が編成できる。
 憲法9条部隊は自衛隊や「国際平和協力隊」のような国家組織でもなければJICA(国際協力機構)のような独立行政法人でもない。純然たる市民のボランティアによるNGO組織として編成できる。つまり憲法9条部隊は日本市民による地球市民のための平和部隊である。
 このように護憲派による憲法9条部隊はきわめて現実的な日本国の、否、むしろ日本市民の国際協力の方策といえる。平和憲法を世界に輸出しようという運動をしている憲法9条の会の人々や、護憲運動を推進してきた人々、さらには市民による平和を主張している人々がよもや憲法9条部隊への志願を躊躇するはずはない。
 これまで政府や在京大使館などへの抗議運動をしたり街頭でのビラ配りをしたり、各地で仲間内の学習会を開くくらいしか護憲運動の実践の場がなかっただけである。一度憲法9条部隊という国際的な護憲運動の実践の場ができれば、そして憲法9条を世界に輸出できる機会が与えられれば、志の有る人々は我先にボランティアとして参加を申し出ることは必定である。
 実のところ、憲法9条部隊の創設は自衛隊の国軍化や日米同盟の強化を主張する改憲派にとっても意義がある。というのもわが国を取り巻く安全保障の現状を考えると、多数の兵力を国際協力のために海外派遣することは必ずしも容易ではなく、むしろ憲法9条部隊を自衛隊の補完や代替として国際貢献活動に従事させた方が日本の安全保障にとって好都合だからだ。
 平和と安定が訪れた欧州地域とは対照的に、アジア地域では中国やインドの台頭、北朝鮮の核兵器保有など冷戦時代以上に不安定な状況が現出しつつある。また昨今のわが国の財政事情の悪化で2003年以降自衛隊予算は対前年比で縮小するばかりか、国際協力のための定員増も認められないありさまだ。国際貢献の名の下に多数の精鋭の隊員や艦船・航空機を海外に派遣すれば、それこそ国土防衛に支障をきたしかねない。
 自衛隊が抱えるこの問題を解決するために憲法9条部隊は最適の方策である。あくまでも自衛隊は日本の防衛を最優先とし、海外での国際貢献は基本的には憲法9条部隊に任せるのである。
 これまでも自衛隊のPKO活動について護憲派からはさまざまな批判が出ていた。いわく資金をかけすぎ、地元の役に立たない、技術が粗雑など、民間の専門家にまかせればもっと効率的な国際貢献ができるはずなど、さまざまである。誤解や偏見に基づく批判もあったが、多くは至極真っ当で的を射ている。だからこそ連合などから医療、教育、運輸、建設、土木などさまざまな専門家を集めた憲法9条部隊の出番となるだろう。
 もし憲法9条部隊が国際貢献の柱となれば、自衛隊は本来任務である国土防衛の任に心置きなくあたることができる。自衛隊による国際貢献を主張している改憲派も、まさか本土防衛をおろそかにしてまでも国際貢献を重視せよとは主張しないだろう。たしかに国際貢献は自衛隊の本来任務の一つに格上げされた。しかし、やはり本来任務とは国家防衛である。この国土防衛は自衛隊、国際貢献は別組織という構想には社民党など護憲派勢力も反対はすまい。なぜならこの構想こそ彼等の提案であったからだ。
 改憲派の一部からは自衛隊が人的貢献をしないことで日米同盟に悪影響を与えるのではないかとの懸念があるかもしれない。それは杞憂である。日米同盟にも憲法9条部隊は役立つ。米国政府には、アジアの平和と安定こそが自衛隊の最優先の任務であることを理由にそれ以外の地域での対米協力を控えめにしたいと申し入れても、米国との協力関係が損なわれることはないだろう。つまり、アジア地域での安全保障に自衛隊がこれまで以上に多くの責任を負う一方、米国の国際安全保障への活動については、やはりこれまで以上に日本が基地や施設の提供等後方支援で協力を行うのだ。また自衛隊の代わりに憲法9条部隊を派遣すれば、間接的にであれ国際社会への貢献を通じた対米協力にもなるだろう。
 自衛隊の補完や代替の役割を果たすとはいえ、憲法9条部隊はもちろん自衛隊の補完部隊や代替部隊でもなければ、従来の別組織論とも異なる。つまり自衛隊を海外に出さない、出せないから別組織を創設するというのではない。自衛隊が派遣できようが、できまいが、それとは全く無関係に、憲法9条部隊は純然たる人間の安全保障を目指した国際協力組織として編成するのである。
 自衛隊が行う国際貢献はあくまでも国家による国際協力である。他方NGOは地球市民による地球市民のための国際協力である。それこそ真の意味での人間の安全保障すなわち人間の人間による人間のための安全保障である。これまでの国家による「人間の安全保障」とは画然と異なる。
 仮に、万々が一憲法9条が改正され、集団的自衛権の解釈も変更され、自衛隊の海外派遣が可能になったとしても、憲法9条部隊による国際協力の意義は決して失われるものではない。それどころか憲法9条部隊の重要性をなおさら世界にアピールする方策となるだろう。
 護憲派の人々の主張は憲法9条の平和主義の精神を世界に輸出し世界を平和にすることにあるはずだ。仮に日本で護憲に失敗したとしても、その理念が失われることはない。だとすれば日本を越えて世界の恒久理念として憲法9条部隊を通じ憲法9条の精神を世界に広げる運動や非暴力による平和構築の実践は、憲法改正や集団的自衛権の解釈変更などの日本の国内事情に左右されることなく永遠不滅の意義がある。憲法は改正された、しかしわれわれは憲法の精神を永遠に受け継ぎ実践していくと宣言し、憲法9条部隊を通じ実践すればよいのだ。それは、かつてパリ不戦条約が実現できなかった自衛戦争を含めた全ての戦争の廃棄という理想の実践でもある。
 
 とりあえず、言い出しっぺの私が「憲法9条部隊」の可能性を確かめるために、2月19日から3月5日までアフガニスタンとパキスタンを現地調査する。防弾車にも乗らず防弾チョッキも身につけない。憲法9条を「読九」すれば護憲派の人々が信ずるように、私に銃口を向ける人はいないだろうし、仮に撃たれても弾はあたらないだろう。
 闘え!護憲派諸君、今こそ憲法9条部隊に結集せよ!私の後に続け!

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