2010年7月23日金曜日

浅井先生への質問

浅井基文氏(もと外交官)のブログに「日朝関係の現状と課題:天動説的国際観と他者感覚の欠如」http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2010/index.htmlと題する論文が掲載されていた。その中の以下の一文が気になって、浅井先生あてに次のようなコメントを書いた。
「私たちが考えなければならないのは、朝鮮(中国)という他者自身の立場に自らをおいて、朝鮮(中国)から見た世界はどう映っているかについてできる限り想 像力を働かせることである。アメリカ及びアメリカに全土を基地として提供して全面協力する日本、そして朝鮮の場合にはさらに韓国も加わって襲いかかろうとしている。それが実態なのだ」。
 この主張を100%受け入れたとして、だからといって北朝鮮の核武装化や中国の軍拡を正当化することにはならないのではないでしょうか。浅井先生の論理によれば、米国や日本や韓国が天動説的国際観に基づいて北朝鮮や中国を軍事恫喝しているから、北朝鮮の核開発も中国の軍拡もしかたのないことなのでしょうか。
 もし浅井先生が親北、親中派でないのなら、もし浅井先生が本当の平和主義の愛国者なら、米国や日本政府に軍備縮小を呼びかける一方、北の核開発にも中国の軍拡にも同等に反対を呼びかけるべきでしょう。すでに呼びかけているのであれれば、ご容赦ください。ただし、よびかけをされたということあれば、それにもかかわらず北は核兵器を開発し、中国は軍拡を続けている状況についてどのようにお考えでしょうか。
 北の核開発を阻止できなかったことは、反米平和主義者にとっても日米同盟支持派にとっても敗北です。とりわけ日米同盟支持派にとって衝撃だったのは、韓国の哨戒艦が北朝鮮によって撃沈されたにも関わらず、また米国がテロ行為ではなく、北による戦闘行為だと認めたにも関わらず米韓安全保障条約が発動しなかったことです。北や中国が日本を攻撃したとしても日米安全保障条約が発動しない危険性があることを今回の哨戒艦撃沈事件は証明しました。北や中国は今回の事件を教訓に、さほどのリスクをとらずに日本に対する軍事的圧力をかけることができると考えているかもしれません。
 この意味であれば、日本が対米盲従をやめるべきだという先生の主張には共感いたします。ではどのように対米盲従をやめるのでしょうか。対米戦(心理戦、経済戦等です)を覚悟して日本はどのように米国からの独立を果たすことができるでしょうか。浅学非才なる小生にはなかなか思いつきません。これまでも右、左を問わず多くの識者、論者が日米同盟破棄、対米独立などを主張してきました。しかし、どの主張をとっても、具体的な政策として語られたものはありません。先生には是非、具体的な対米独立の方法、手順についてご教示願えればと思います。スローガンを掲げる時はすでにすぎていると思います。残されているのは、行動のみです。とりわけ北朝鮮、 中国に対する反核、軍縮の呼びかけです。
 妄言多謝 加藤

(追伸)
日本における平和主義者のほとんどが反米主義者であって、仮に反核を主張していたとしても反米という立場から北朝鮮やイランの核開発には賛成、あるいは容認する人が多いようです。かつて日本共産党が米国の核兵器には反対しソ連の核兵器開発には賛成していたことを思い起こさせます。要するに反米派は親米派と合わせ鏡であって、左右が逆転しているだけで思想、論理は同じ現実主義、戦略論に依拠しているようです。決して非暴力主義、非武装主義、反核主義ではないのではないでしょうか。浅井先生の立ち位置は単なる反米主義者なのか、それとも非暴力平和主義、反核主義者なのか、いずれでしょうか。

2010年7月13日火曜日

つかこうへい

つかこうへいが死んだ。つかこうへいを知ったのは、1974年のことだ。私が所属していた早稲田の学生劇団「騎馬民族コア」の隣のアトリエで、やはり早稲田の学生劇団「暫」の演出をしていたのがつかこうへいだった。
毎日のように、早稲田の6号館屋上で隣り合わせで稽古をしていたにも関わらず、つかこうへい自身に会ったことはない。つかの芝居にたくさんの客がきていることを知って、彼への嫉妬があったのだと思う。私は当時4年生で、密かに演劇プロデューサーを目指して、芝居の製作を担当していた。その時すでにつかの「暫」は大変な人気だった。
「暫」の役者(といってもみんな学生だったが)には、三浦洋一(早稲田政経の二年生)、平田満(当時早稲田第1文学部の三年生)や根岸李依らがいた。三浦にはアトリエ横の控室のようなところで会った覚えがある。パリッとした三つ揃えのスーツを着ていたのをいまでも鮮明に覚えている。三浦がなぜその時スーツを着ていたのかはわからない。友人から、BP(ブリティッシュ・ペトローリアム)のエンジン・オイルのネズミ講で金回りの良い役者がいると聞いて、興味で彼に会ったような気がする。多分芝居の制作費の工面で汲々としていたから、ネズミ講で金儲けをする方法を訊こうと思って会ったのだろう。
私が製作した芝居は多額の借金だけを残して失敗した。借金返済のためにも卒業して就職せざるをえなくなり、以後演劇とは全く無関係な世界に生きることになった。しかし、その後も演劇や映画のプロデューサーは見果てぬ夢となり、ずんとつかこうへいのことは気にかけていた。
つかも三浦、平田、根岸らもその後の活躍はご存じのとおりである。彼らが活躍するのをテレビや映画で見るたびに、昔の夢が思い出され胸が騒いだ。だから、つかの芝居を見ようとは思わなかった。また見る勇気もなかった。おのれの無能さを知ることを恐れたからだ。
でも1982年の映画『蒲田行進曲』は見た。弱者が弱者であることを逆手にとって強者に対抗するという自虐的な構図がひどく印象的だった。つかが在日韓国人であることを知ったのはその後のことだ。在日韓国人であろうがなかろうが、私も含めて弱者の立場に立つ者には圧倒的な共感を呼ぶ映画だった。『蒲田行進曲』以後、すなおにつかこうへいを評価できるようになった。そして自分の才能の無さを思い知らされた。
つかは小説『蒲田行進曲』で直木賞をとってから演劇からは暫く遠ざかっていた。再び芝居に戻ってからは、新作よりも旧作の再演が多くなったようだ。朝日新聞の演劇記者扇田昭彦(大学生時代からその名前を知っている。第一線の演劇記者として40年以上活躍している)も今日(7月13日)の朝日新聞でつかは自らの作品を古典として再演してきたと論評し、新作を見たかったと記していた。大衆演劇のように口立ての芝居だからこそ役者に合わせて内容を変えることができ、再演がしやすかったのかもしれない。
唐十郎の赤テント、佐藤信の黒テント(ちなみに私は大学一年の時、黒テントの鼠小僧次郎吉を見て演劇を志した)、麿赤児の大駱駝館などアングラ演劇が全盛で、また連合赤軍事件に象徴される騒然とした1970年代当時、つかの現代的大衆演劇的なわかりやすい芝居は非常に斬新であり、革命的だった。つかはたしかに一時期、時代に添い寝をしていた。しかし、80年代以降、時代はつかを置き去りにしていったようだ。だから自作の再演で時代に追いつこうしていたのかもしれない。
在日韓国人二世のつかこうへいは満州引き揚げ者の五木寛之のデラシネの系譜に連なる作家かもしれない。だからこそ、日本人以上に日本人らしい、韓国人以上に韓国人らしい感性をもった創造者になったのだと思う。我が心のライバルが永眠したことを本当に無念に思う。合掌

2010年7月8日木曜日

窒素からみた戦争の本質

 戦争の本質とは、農業時代にはNと工業時代にはUの戦いである。つまり火薬の主原料である窒素と核兵器の主原料であるウランをいかに獲得するか、つきつめればこれが農業時代と工業時代の戦争の勝敗を決したのである。その窒素をいかに獲得するか、窒素の獲得をめぐる物語がトーマス・ヘイガー著、渡会圭子訳『大気を変える錬金術』(みすず書房、2010年)である。
 今から100年以上前、19世紀末から20世紀初頭にかけて二人の科学者によって、空中の窒素を固定しアンモニアが大量に生産できるようになった。その二人とは窒素の固定の方法を編み出したフリッツ・ハーバーそして工業化によるアンモニアの大量生産システムを完成させたカール・ボッシュである。二人の業績をとって、空中窒素の固定はハーバー・ボッシュ法と呼ばれている。筆者は「空気をパンに変える方法」と称賛している。というのも植物の三大栄養素である窒素肥料を人工的に大量に製造できるようなったからである。この結果、小麦をはじめ多くの作物を大量に生産できるようになった。その一方でハーバー・ボッシュ法は「空気を火薬に変える方法」でもあった。ほとんどの火薬はアンモニアから合成される硝酸化合物を原料としているからである。
 ハーバー・ボッシュ法が発明されるまで、人類はさまざまな方法で肥料と火薬の原料となる窒素化合物を手に入れようとしてきた。最も簡単な方法は、天然の硝石を入手することだった。しかし、天然に存在する硝酸化合物の多くは硝酸ナトリウムや硝酸カルシウムなど水溶性のため、砂漠のような乾燥地帯にしか存在しなかった。そのため古来インド、中国そして南米のチリなど限られた乾燥地域からしか産出しなかった。そのため天然硝石のない日本をはじめヨーロッパ諸国では人造で硝石を生産する方法を編み出したのである(ちなみにこの人造硝石の製造方法やその起源等について体系的な研究はいまだにない。現在、私が科研の挑戦的萌芽研究で3年間の調査を今年から開始した。3年後を乞うご期待)。
 人造硝石の製造法には越中五箇山、飛騨白川の培養法、ヨーロッパの牧畜法(硝石プランテーション)そして世界中広く行われている古土法の三種がある。いずれの方法であれ黒色火薬の7割を占める硝石の生産量は微々たるものである。日本の場合でも越中五箇山で一年間の硝石生産量は100トンにも満たない。つまり19世紀末までは戦場で使用される弾薬の量は日本やヨーロッパでもわれわれが想像するほどには多くはなかった。
 状況が一転したのは、ハーバー・ボッシュ法によって窒素を空中から無尽蔵に入手できるようになって以降のことである。プロシア皇帝ウイルヘルムⅡ世が、ハーバー・ボッシュ法を知って、これで心置きなく戦争ができると語ったのは有名な話だ。第1次世界大戦が大量破壊の凄惨な戦争になったのは、ハーバー・ボッシュ法によって大量の火薬を生産できるようになったからである。ちなみに第1次世界大戦で使用された塩素ガスをはじめ毒ガスもハーバー・ボッシュ法によって大量生産が可能になった。
 大量に生産された弾薬は戦場に大量輸送しなければならない。そのために自動車、鉄道が発達した。また戦場で弾薬を大量に消費するために機関銃が発明され、また大砲の大型化が進んだ。巨砲を搭載するために陸上では戦車や自走砲が登場し、海上ではイギリスのドレッド・ノートのように大砲による海上決戦が本格化した。このように窒素の獲得は戦争の形態をも一変させたのである。
 現在、窒素に代わってウランの獲得が安全保障上の問題となっている。状況は19世紀末の窒素の獲得に各国が鎬を削っていたときにそっくりである。窒素がパンや火薬をわれわれに与えたように、ウランはエネルギーと核兵器をわれわれにもたらした。そしてなによりも問題なのは、窒素もウランも大きな環境問題をわれわれにもたらしたことである。ウランが環境に破滅的な影響を与える可能性があることはよく知られている。その一方で空中から固定された窒素の多くが植物に栄養として消費されないままに大量に川や湖、海を汚染していることは案外知られていない。ヘイガーは、本書の最後で窒素による環境問題について指摘している。まさに卓見である。
さて、こうしてみると戦争も国際政治も窒素とウランという二つの元素の争奪の歴史に還元できるのではないか。さらに情報時代の戦争はDすなわちデジタル化された情報の争奪ということになるのではないか。