2015年3月23日月曜日
イスラム国は国家である
3月18日にチュニジアのチュニスで発生したバルドー美術館襲撃事件に関し、イスラム国からの声明が発表され、同事件へのイスラム国の関与が強まった。この事件を報道するメディアが「イスラム国」をイスラム過激組織あるいはテロ組織と呼んでいるが、この呼称は人々に誤解を与え、事件の本質を覆い隠すことになりかねない。イスラム国はあくまでも国家である。ただ、国際社会が承認しないだけである。
今回の事件同様に観光客を標的にした無差別テロがあった。1997年9月、エジプトのカイロ考古学博物館で観光バスが襲撃され、ドイツ人観光客10人が死亡した。そして2か月後の11月にエジプトのルクソールで日本人10名を含む観光客61人が殺害されるテロ事件が起こった。いずれも当時のムバラク政権を打倒しイスラム国家の樹立を狙ったイスラム原理主義勢力「イスラム集団」の仕業であった。エジプトは観光業が主要産業であり、観光客へのテロはエジプト経済に大きな影響を与え、政権への大きな打撃となった。チュニジアもエジプト同様に観光業が主要産業であり、今回の事件による政権への打撃は図りしれない。
今回の事件はイスラム国ではなく、チュニジアのアンサール・アル・シャリアが実行したとの説もあるが、いずれであれイスラム国家の樹立という目的で両者は一致している。むしろアンサール・アル・シャリアがイスラム国のカリフであるバクル・バグダディに忠誠を誓い、テロ事件を起こしたのではないか。アンサール・アル・シャリアはリビア、イエメンにもあり、いずれもイスラム国家の樹立を目指している。
スンニ派イスラム原理主義力は、かつてはまず政権の打倒を目指し、各国で反政府テロを繰り返してきた。しかし、イラク、シリア、エジプト、リビア、シリア、イエメン、チュニジアなど独裁政権による弾圧でその活動が封じ込まれてきた。ところが2011年にチュニジアで始まった民主化運動で独裁政権が次々と倒れると、各国のイスラム組織が活動を活発化さえ、次の目標に向かって闘争が激化したのである。その目標とはオスマン朝以後途絶えたカリフ制イスラム国家の再興である。この目標をいち早く達成したのがイスラム国であり、カリフに就任したアブー・バクル・バグダディはすべてのイスラム国家(ウンマ)を目指すスンニ派原理主義勢力の指導者となったのである。言い換えるなら、イスラム国を承認し、バクル・バグダディをカリフと認める組織が、今イスラム国の拡大を目指してイスラム各地で活動を活発化させているのである。実際、チュニジアの事件の二日後にイエメンでイスラム国によると思われる自爆テロが起こり、敵対するシーア派教徒137人が死亡した。
イスラム国の誕生は、実はイスラエルの建国の過程と瓜二つである。オスマン朝が滅亡した後、パレスチナはイギリスの委任統治下に置かれた。しかし、アラブ系住民とユダヤ系住民との対立が絶えず、またユダヤ系のテロ組織による反英闘争も激化し、1948年5月ついにイギリスは委任統治を放棄した。イスラエルはただちに建国を宣言し、反対する周辺アラブ諸国との第一次中東戦争をしのぎ、イスラエル国家を樹立した。
考えてみるとイスラム国も同様である。フセイン政権崩壊後イラクは事実上アメリカの占領下に置かれた。スンニ派イスラム原理主義勢力が反米闘争を展開し、その後対立するシーア派との宗派間闘争が始まり、2011年12月ついに米軍はイギリス同様に間接統治を諦めイラクから撤退した。治安の混乱に乗じて、イスラム国がモスルやラッカを支配し、建国を宣言したのである。支配領域を持ったカリフ制国家はオスマン朝以来初めてである。イスラエルとイスラム国の違いは、イスラエルが建国直後にアメリカやソ連など国際社会の国家承認を受けた反面、イスラム国は国際社会の承認が無いことである。その一方で各地のイスラム原理主義勢力からカリフへの忠誠を受けている。つまり、イスラム国は国際社会から承認されないものの、建国当時のイスラエルよりも広大な国土を持つ「国家」なのである。決して単なるテロ組織などではない。
したがってイスラム国に対しては、テロ組織に対するような対応は間違っている。イスラム国が戦術としてとるテロが問題なのではない。イスラム国のような「国家」に対してどのように対応するかが問題なのである。しかし、イスラム国をテロ組織と呼ぶ限り、その対応は貧困の撲滅のような相も変わらぬテロ対策になる。他方イスラム国を国家として認めれば、かつてPLO(パレスチナ解放機構)を準国家として主権国家体制に取り込んだように、イスラム国を準国家として国際社会に取り込むか、あるいは軍事的に壊滅するかのいずれかである。いずれにせよパレスチナ問題が半世紀以上たっても解決しないように、イスラム国問題の解決もまた数十年単位となるだろう。
安倍ドクトリンの問題
3月20日、自民党と公明党が、新たな安全保障法制の基本方針について正式合意した。
遂に吉田ドクトリンに代わる安倍ドクトリンとでもいうべき、国家安全保障戦略の大転換が現実となった。
振り返ってみると安倍政権は安全保障戦略の方針転換を一気呵成に行ってきた。2013年12月4日、国家安全保障会議発足、同月6日特定秘密保護法成立、同月17日国家安全保障戦略策定、2014年4月1日防衛装備移転三原則閣議決定、7月1日集団的自衛権行使容認閣議決定、そして2015年3月20日の新たな安全保障法制の制定である。
安倍ドクトリンの最大の目的は、対中国抑止にある。そのためにはアメリカの抑止力が不可欠である。アメリカの抑止力を確実なものにするためには、自衛隊にアメリカ軍の代替や後方支援にあたらせ、日米同盟を深化させることが必要だ。自衛隊とアメリカ軍との軍事協力関係を密接にする(自衛隊が事実上米軍の隷下に入るということ)ために安倍政権は、特定秘密保護法で日米間の情報共有を確実にし、防衛装備移転三原則で日米間の武器開発・製造を円滑にし、そして集団的自衛権行使容認で自衛隊の活動の場を拡大し、安全保障法制で米軍と共に戦う態勢を法的に整備するなど、着実に手を打ってきた。
とはいえ安倍ドクトリンによってはたして抑止力は高まるのか。安倍ドクトリンの問題は、アメリカの抑止力の信頼性である。抑止の能力から見れば、日米の軍事の一体化が進めば、抑止力が高まる可能性はある。中国側として米軍が同盟国日本の防衛にどれだけ軍事力を投入するかわからなくなるからである。いずれ中国の軍事力は質、量とも自衛隊を凌駕するにしても、米軍が日本に協力すれば、中国は太刀打ちできない。しかし、問題はアメリカに中国を抑止する意志があるかどうかである。はたして日本がアメリカに対米協力という恩を売るだけで、アメリカの抑止の意志が高まるだろうか。
中国側はまさに、この点をついて、心理戦、歴史戦を仕掛けている。中国は米中がかつて第二次世界大戦で日本と戦った同盟国であることを強調し、また戦後レジームからの脱却を主張する安倍首相に歴史修正主義者のレッテルを張って日米の離間を図ろうとしている。安倍首相も靖国参拝をしたことでアメリカから猜疑心を持って見られており、レーガン・中曽根、ブッシュ・小泉政権時代ほど安倍・オバマの信頼関係は深くない。日米関係がどこまで緊密化できるかは、国家安全保障の基本理念の「自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配といった普遍的価値」をアメリカとどれほど共有できるかにかかっている。とはいえ、米中関係には常に第二の「朝海の悪夢」(1972年のニクソン・ショックのように事前通告なしの米中関係改善が行われること)の恐れがあることを念頭に、日本は対米関係を考える必要がある。
抑止力の信頼性に関してはもう一つの問題がある。それは、どこまでアメリカに協力すれば抑止が確実になるかはわからないことだ。そのためアメリカに際限なく追随する恐れがあり、かえって日本の安全保障にマイナスになるかもしれない。特に国際安全保障分野での対米協力である。もし再びイラク紛争のような紛争が起こり、アメリカが有志連合への協力を要請してきた場合、集団的自衛権の行使を容認した以上、憲法を盾にしたかつてのイラク支援のような復興支援だけというわけにはいかない。より積極的な対米協力をすれば、アメリカの紛争に巻き込まれ恐れがある。他方アメリカにとっても、日本への協力がアメリカの国益を損なう恐れもある。尖閣問題が典型である。アメリカは尖閣を第一次世界大戦の契機となった第二のサラエボにするつもりはない。他方日本は尖閣を、国際社会が事実上併合を認めてしまった第二のクリミアにするつもりはない。日米双方で国益の違いから、抑止力の信頼性に疑問符が付く場合がある。
安倍ドクトリンの最大の問題は、安倍首相が描く将来日本の国家像が不明なことである。吉田ドクトリンは経済優先の国家目標があった。では安倍ドクトリンには具体的にどのような国家目標があるのだろうか。安倍首相は日本をどのような国家にしようとしているのかがわからない。かつては「美しい国」であり、今では「強い国」であり、そして「強い国を取り戻す」というのが安倍首相の国家目標のようである。しかし、災害に強い国を取り戻すことはできても、二度と世界第二の経済大国という座を取り戻すことはできないし、ましてや安全保障で強い国になることなどあり得ない。
国家には秩序を形成する能力のある大国、その秩序を維持する能力のある中級国家、そしてその秩序に追随する能力しかない小国の三種類がある。戦前の日本は秩序を形成する能力のある大国だった。しかし、新たな秩序形成に失敗し小国へと転落した。幸いにも戦後経済大国として復活したが、その実態はアメリカが形成した秩序を維持する中級国家でしかなかった。慶応大学の添谷芳秀教授が『日本の「ミドルパワー」外交』(ちくま新書、2005年)で指摘するように吉田ドクトリンはまさに中級国家戦略だったのである。安倍ドクトリンははたして戦前のような大国日本の復活を目指しているのだろうか。それとも世界の大国でもアジアの指導国でもない日本の現状を踏まえ身の丈にあった中級国家を築こうとしているのか。坂の上にもう雲はない。
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