2013年3月30日土曜日

自由民主主義を守れ

フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」(『ナショナル・インタレスト』1989年、夏号)で高らかに自由民主主義の勝利を宣言し、歴史は終わったとまで言い切った。東欧諸国の民主化、ソ連の事実上の敗戦というまさに世界史的な国際情勢の変化を受けて、フクヤマの高揚感はアメリカ国民ならず日本を含めて西側諸国民に共通する感情だったろう。そのフクヤマが「歴史の未来-自由民主主義は中産階級の没落から生き残ることができるか」(『フォーリン・アフェアーズ』2012年、1月/2月号)と題する論文を寄稿している。現代の世界標準の思想(the default ideology around much of the world today)である自由民主主義を支えている中産階級が、産業構造のスマート化や経済のグローバル化で衰退しており、自由民主主義の「歴史の未来」が危機に瀕している、というのである。中でも、自由民主主義に対する「単一で最も深刻な挑戦」は、部分的な市場経済と専制政府が合わさった中国である、というのである。  フクヤマの見立て違いやご都合主義的な世界解釈をあげつらうつもりは毛頭ない。冷戦終焉直後に中国の台頭を予想できた者はほぼ皆無だった。ましてや、中国が資本主義経済を導入し事実上共産主義を放棄する一方共産党独裁を堅持することなど予想もしなかった。いずれ中国も自由民主主義に基づく政治経済体制が樹立されると思われていた。しかし、中国は民主化されるどころか、独裁的政治をますます強めつつある。こうした現在の世界を、山本吉宣らは「先進国/新興国(ポストモダン/モダン)複合体」(『日本の大戦略』)と呼んでいる。フクヤマもナショナリズム中心の歴史国(モダン)とグローバリズム中心の脱歴史国(ポストモダン)の混在する世界を想定していたが、それはあくまでもいずれ世界はポストモダンになるとの予想があった。しかし、ポストモダンの指標が自由民主主義とすれば、モダン国家はモダンにとどまり続けるだけでなく、山本らも懸念するように欧米や日本のような自由民主主義のポストモダン国家がモダン国家に逆戻りする可能性さえある。 自由民主主義が、フクヤマの言うようにある程度の財産と知識を持った人々によって支持されるとするなら、中国で自由民主主義が根付くのは絶望的に困難である。何しろGDPで中国がアメリカを追い越したとしても、人口比から考えれば、一人当たりGDPはアメリカの三分の一という新興国のレベルにしかならないからだ。豊かな中産階級が増えるどころかむしろ、欧米や日本のように市場主義経済のグローバル化が進み貧富の格差が広がるだろう。このことは、中産階級が支える自由民主主義が必ずしも未来の世界標準の思想にはならない可能性があるということだ。  では自由民主主義に代わって何が世界標準の思想となるのか。それが何か今はまだ不明である。しかし、国力の増大とともに中国の一部で主張され始めている「イーストファリア体制」にその未来の思想が垣間見える。現在の西洋キリスト教文明に基づくウエストファリア体制を否定する、つまり西欧流の自由民主主義ではなく自由と民主主義を共産党の独裁の下に置く反西洋の専制思想である。現代版華夷思想と言えるかもしれない。将来の世界はウエストファリア体制とイーストファリア体制の対立となるかもしれない。  フクヤマの見立てが間違っていたとしても、自由民主主義こそ世界標準の思想であることにいささかの疑いをさしはさむ余地はない。自由民主主義は、これまでドイツや日本のファシズム、ソ連の共産主義の挑戦を受け、これらを退けてきた。フクヤマが間違えたのは、中国の東洋的専制主義を見落としていたことだ。日米欧のポストモダン国家は一致協力して自由民主主義を中国の専制独裁主義から死守すべきだ。