つかこうへいが死んだ。つかこうへいを知ったのは、1974年のことだ。私が所属していた早稲田の学生劇団「騎馬民族コア」の隣のアトリエで、やはり早稲田の学生劇団「暫」の演出をしていたのがつかこうへいだった。
毎日のように、早稲田の6号館屋上で隣り合わせで稽古をしていたにも関わらず、つかこうへい自身に会ったことはない。つかの芝居にたくさんの客がきていることを知って、彼への嫉妬があったのだと思う。私は当時4年生で、密かに演劇プロデューサーを目指して、芝居の製作を担当していた。その時すでにつかの「暫」は大変な人気だった。
「暫」の役者(といってもみんな学生だったが)には、三浦洋一(早稲田政経の二年生)、平田満(当時早稲田第1文学部の三年生)や根岸李依らがいた。三浦にはアトリエ横の控室のようなところで会った覚えがある。パリッとした三つ揃えのスーツを着ていたのをいまでも鮮明に覚えている。三浦がなぜその時スーツを着ていたのかはわからない。友人から、BP(ブリティッシュ・ペトローリアム)のエンジン・オイルのネズミ講で金回りの良い役者がいると聞いて、興味で彼に会ったような気がする。多分芝居の制作費の工面で汲々としていたから、ネズミ講で金儲けをする方法を訊こうと思って会ったのだろう。
私が製作した芝居は多額の借金だけを残して失敗した。借金返済のためにも卒業して就職せざるをえなくなり、以後演劇とは全く無関係な世界に生きることになった。しかし、その後も演劇や映画のプロデューサーは見果てぬ夢となり、ずんとつかこうへいのことは気にかけていた。
つかも三浦、平田、根岸らもその後の活躍はご存じのとおりである。彼らが活躍するのをテレビや映画で見るたびに、昔の夢が思い出され胸が騒いだ。だから、つかの芝居を見ようとは思わなかった。また見る勇気もなかった。おのれの無能さを知ることを恐れたからだ。
でも1982年の映画『蒲田行進曲』は見た。弱者が弱者であることを逆手にとって強者に対抗するという自虐的な構図がひどく印象的だった。つかが在日韓国人であることを知ったのはその後のことだ。在日韓国人であろうがなかろうが、私も含めて弱者の立場に立つ者には圧倒的な共感を呼ぶ映画だった。『蒲田行進曲』以後、すなおにつかこうへいを評価できるようになった。そして自分の才能の無さを思い知らされた。
つかは小説『蒲田行進曲』で直木賞をとってから演劇からは暫く遠ざかっていた。再び芝居に戻ってからは、新作よりも旧作の再演が多くなったようだ。朝日新聞の演劇記者扇田昭彦(大学生時代からその名前を知っている。第一線の演劇記者として40年以上活躍している)も今日(7月13日)の朝日新聞でつかは自らの作品を古典として再演してきたと論評し、新作を見たかったと記していた。大衆演劇のように口立ての芝居だからこそ役者に合わせて内容を変えることができ、再演がしやすかったのかもしれない。
唐十郎の赤テント、佐藤信の黒テント(ちなみに私は大学一年の時、黒テントの鼠小僧次郎吉を見て演劇を志した)、麿赤児の大駱駝館などアングラ演劇が全盛で、また連合赤軍事件に象徴される騒然とした1970年代当時、つかの現代的大衆演劇的なわかりやすい芝居は非常に斬新であり、革命的だった。つかはたしかに一時期、時代に添い寝をしていた。しかし、80年代以降、時代はつかを置き去りにしていったようだ。だから自作の再演で時代に追いつこうしていたのかもしれない。
在日韓国人二世のつかこうへいは満州引き揚げ者の五木寛之のデラシネの系譜に連なる作家かもしれない。だからこそ、日本人以上に日本人らしい、韓国人以上に韓国人らしい感性をもった創造者になったのだと思う。我が心のライバルが永眠したことを本当に無念に思う。合掌
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