2010年12月26日日曜日

大きなお世話だ。朝日新聞の「孤族の国の私たち」

 今朝(12月26日)朝日新聞が一面で「孤族の国の私たち」と題する特集シリーズを開始する記事を一面に掲載した。見出しを見てオヤッと思った。自他ともにリベラルを認める朝日新聞が個人の自由な選択の結果である人々の孤立をネガティブに捉えるようなニュアンスが伝わってきたからだ。産経新聞も以前同様の記事を特集したことがある。産経の主張は、だから家族や地域の復活、再生が必要だということだった。朝日も同じように、家族の再生を主張するのかと思ったら、全く違っていた。結論から言えば、一人でツッコンデ、一人でボケルという一人漫才のような展開であった。
 関心をもって2面を読み進めていったら、「個から孤 加速」と見出しがある。個が孤であるというのは当たり前と私は思っているので、思わず「何でやねん」と突っ込みを入れたくなった。読み進んでいくと、思わずのけぞった。「意識と政策変えるとき」との小見出しに続いて、こう記されていた。
「ここで、立ち止まって考えたい。いま起きていることは、私たちが望み、選び取った生き方の帰結とはいえないだろうか。目指したのは、血縁や地縁にしばられず、伸びやかに個が発揮される社会。晩婚・非婚化もそれぞれの人生の選択の積み重ねだ。時計の針を逆回しにはできない」。
 全くその通りだ。だったら、「孤族の国の私たち」や「個から孤 加速」という傾向はむしろ喜ばしいことではないか。喜ばしい、というのが言い過ぎなら、何ら記事にするような問題ではないだろう。何を朝日新聞は問題にしているのか。
記事はこう続けている。「問題なのは、日本が『個人を単位とする社会』へと変化しているにもかかわらず、政策も人々の意識も、まだ昭和/高度成長期にとどまっていることではないか・・・・『個』を選んだ結果、『孤』に足を取られている。この国に広がっているのは、そんな風景なのだろう。誰もが「孤族」になりうることを前提にして、新しい生き方、新しい政策を生み出すしか道はない、と考える」。
「意識も、まだ昭和/高度成長期にとどまっている」のは真鍋弘樹記者や朝日新聞社ではないのか。
そもそもなぜ「個」が「孤」であってはいけいなのか。また中高年男性の孤独死のデータや記事を掲載して、あたかも孤独死が大罪かのようにいうのは何故なのか。孤独死の一体どこがいけないのか。孤独の内にだれにも看取られずに死んでいくからいけないのか。死んだ後始末が大変だからいけないというのであれば、それはそれで理由になるだろうが、特集記事を組むほどのことも無い。粗大ゴミの後片付けをしない人がいて困るという程度の話でしかない。
仲村和代記者はこう記している。「悲惨な孤独死が問題なのは迷惑だからでない。それが、孤独な人間の苦しみの末路だからだ」。大きなお世話だ。何故他人に「孤独な人間の苦しみの末路」などとおためごかしのようなことをいわれなくてはいけないのだ。孤独であることが何故いけないのだ。だれにも看取られず、孤独と、そして病苦と貧困の中で死んでいったとしても、それもまた運命ではないか。仮に社会が悪い、政府が悪いとしても、そうした社会をつくり、政府を選んだのも少なくとも中高年であれば個人の責任である。責任の結果を運命として甘受するのは当然であろう。中高年の孤独死対策をするよりも、出産の補助、児童の保育支援、若年層の就職支援をする方が先決である。
朝日新聞は、中高年世代しか新聞を読まなくなったためか、中高年世代に媚びを売るような記事づくりは止めた方がよい。中高年に残された最後の仕事は、自殺であれ病死であれ、死ぬことである。若者に教訓を垂れたり、長生きを自慢することではない。
かくいう私は、来年還暦を迎える孤独死予備軍である。孤独死予備軍が理想とする最高の死に方は他人に迷惑をかけないように、自らの意識が清明な時に、生に決着をつけることである。それは決して「孤独な人間の苦しみの末路」なのではない。「個」としての尊厳ある生き方の結末である。
人の生き死にを、他人にとやこう言われる筋合いはない。

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