2010年3月1日月曜日

アフガニスタン カブール雑感

足かけ10日のカブール滞在を終えて、今日の午後(2010年3月1日)イスラマバードに向けて出発する。昨夜は春雷がとどろき、遠くで砲爆撃でもしているのではないかと思えるような激しい雷鳴だった。窓をたたく雨は、テレビの音をかき消すほどだった。雷雨の一夜が明け、今朝は三日ぶりの快晴だ。宿泊客も自爆事件のせいかどうかはわからないが、めっきりと減った。 収穫の多い旅行だった。 何よりも爆弾襲撃事件に遭遇できたのは、不謹慎の誹りを免れないが、全く幸運だった。自爆テロや襲撃事件が日常生活にどのような影響を与えるのか、この目で見、耳で聞き、実体験することができた。紛争研究者としてこれほどの経験は願ってもそうあるものではない。距離は600メートル、これがもう少し近ければ窓が割れけがをしていたかもしれない。偶然にも屋上からは事件現場が見渡せ、銃撃戦の生々しい音を聞き、立ち上る爆弾の煙を見ることができた。 事件に対する人々の冷静な対応にも新鮮な驚きがあった。当日にはテレビで盛んに放送されていたが、翌日になるともう過去のことのようにテレビの放送量も減り、日常生活が戻った。割れたガラスを黙々と片付ける人、破壊されたホテルの残骸の横を何事もなかったように通りすぎる人。新聞の扱いも、二段、三段目の記事扱いだ。人々の関心の薄さは、テロがあまりに日常化しているためのか。 第二は、山のスラム街を訪問したこと。カブールの中でも最も貧しい人々の暮らす地域だ。遠くから見ると世界遺産のような山上の穴居のような趣がある。しかし、実際に訪れてみると、近くの山肌から切り出した岩と泥とでできた家だ。夜になると小さな窓から淡い光がこぼれる家もある。電気などもちろん来ていない。あの光は蝋燭だろうか。 水は山頂のタンクから何か所かある給水場まで水道で給水されている。下水道はなく垂れ流し。ゴミの収集などもちろん無い。家の周りはゴミだらけだ。上のゴが雨などで次第に下に落ちていき、麓にはゴミの山が築かれている。ゴミの山はフィリピンやスリランカでも見た光景だ。国が発展しているかどうかの一つの目安はゴミや汚物の処理にあることは間違いない。 それにしても山頂近くに暮らす人々は毎日の生活をどうしているのだろうか。どんなに急いでも登りは三十分はかかる。下りは早いが、ゴミに足を取られたり急坂で、転げ落ちそうになる。老人や体の不自由な人が暮らすのはとても無理だ。本当にどうやって人々は日常生活を送っているのだろうか。 第三は、マンデーマーケット。秋葉原のような電気街があり、また食料品を扱う露天がカブール川沿いに何百もある。まさに人々の普段の生活に触れた。品物はあふれている。ある人によると、タジキスタンの首都ドゥシャンベよりも物資は豊かだという。 日本でもおなじみの食材が結構ある。羊肉料理の付け合わせに必ず付いてくるのが生の大根だ。絡みは全くない。油っこくなった舌を洗ってくれる。思いがけないことに里芋があった。里芋のカレー煮は結構いける。カリフラワーも一般的な食材のようで、露天に山のように積まれていた。肉は羊、鶏そして牛肉もある。無いのは当然豚肉である。魚を扱う店も結構あった。内陸の国で魚は少ないかと思っていた。種類は少ないが、淡白な味の淡水魚が取れるようだ。 羊肉を一口大に切って、三つか四つほどを平たい鉄串に刺して炭火で焼いたケバブを売る店も多い。羊肉の焼ける香ばしい香りや油が炭火に落ちて立ち上る煙が食欲を誘う。新宿の小便横町を思い起こさせる。 第四はカブール大学。アメリカの大学のように広大な敷地に校舎や寮が点在している。校舎は戦火を浴びてお世辞にも立派とはいえないが、学生たちは真剣に学業に励んでいるような印象を受けた。女子学生が多いのは予想外だった。 アフガニスタンに平和が訪れる日がそれほど早くはないだろう。諸外国の対応とアフガンの人々の思惑との間には相当な隔たりがある。欧米諸国は善意の押し売りを慎むべきだろう。他方アフガンの人々は自立と自律の精神の涵養が何よりも必要だ。そして日本は府相を恐れずもう少し勇気を持ってアフガンの人々の中人に入り、支援に取り組むべきだろう。 とりあえず、アフガニスタンを離れる前の感想を記しておく。

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