2013年12月27日金曜日
安倍首相の靖国参拝は安保解消への一里塚
以前日米同盟が解消するのではないかとの懸念を本欄に記したことがある。理由として真っ先に挙げたのが日米の歴史認識の相違である。日中、日韓の歴史認識の相違ではない。日米の間でも歴史認識の相違が日米同盟に暗い影を落とし始めている。そんな中、安倍首相が靖国参拝を強行した。これでは自ら日米関係に楔を打ち込み安保解消、対米自主独立を目指していると内外に宣言するに等しい。
安倍首相は戦後レジームからの脱却こそ自らの使命と思い定めているようだ。その目的実現に向けて安倍首相は国家安全保障会議の設置、国家安全保障戦略の策定、特定秘密保護法の制定など矢継ぎ早に安全保障体制に強化を図ってきた。今後は武器輸出三原則の見直し、集団的自衛権の容認、さらには憲法改定までも視野に収めている。確かにこれら政策は個々には世界の常識に照らして必ずしも非難されるものではない。しかし、これらの政策はいわば「合成の誤謬」を起こし、平和大国日本というソフトパワーを台無しにし、結果的に日本の安全保障を大きく毀損する結果となっている。
確かに安倍首相がこれまでとってきた上記の政策は日米同盟強化に多いに資するものだ。また普天間基地移転問題に解決の道筋をつけたことで、鳩山政権以来日米同盟に突き刺さった棘をようやく抜くことができた。中韓からの非難にも関わらず、少なくともアメリカの支持は得られ、国家安全保障戦略の「日米同盟の強化」の目的は着実に達成されつつあった。しかし、九仞の功を一簣に欠くような靖国神社参拝でこれまでの日米同盟強化の努力はすべて水泡に帰した。
冷戦終焉後共通の目標を見失った日米同盟は漂流を繰り返してきた。今、日米同盟は、現状打破の姿勢を露わにする中国やますます独裁化する北朝鮮の抑え込みを共通の目標にしている。しかし、安倍首相の靖国参拝の結果、日本こそが戦後の国際秩序の打破を目指す現状打破勢力となり、米中が戦後国際秩序を維持する現状維持勢力となってしまった。というのも靖国参拝が象徴する安倍首相の戦後レジームからの脱却とは、日本から見れば第二次世界大戦の敗戦条件の拒否である一方、アメリカから見れば対日支配体制の否定、中国から見れば戦後国際秩序の否認に他ならないからである。
安倍首相の真意が何であれ、首相の靖国参拝は諸外国からは戦後国際秩序の否定と解釈される。いかに安倍首相が意を尽くして説明しても、理解されることはない。なぜならたとえ史実に反していようとも歴史認識は国家、民族のアイデンティティであり、他国から説明されて変更できるものではない。同様に日本国内においても戦後レジームからの脱却は、戦後の平和国家日本というアイデンティティの変更を国民に迫るものであり、単に「英霊に尊崇の念を捧げる」という問題ではない。
安倍首相の靖国参拝の当日のニューヨークタイムズにヒロコ・タブチ記者が、China and South Korea, both victims of Japan's wartime aggressionと記していた。アメリカではもはやこのような歴史認識が広がっていると考えたほうがよい。安倍首相の靖国参拝は、この誤った歴史認識を裏打ちする結果となりかねない。
2013年8月29日木曜日
キング牧師の「夢」演説から50年
今日(2013年8月28日)マーチン・ルーサー・キング牧師の「私には夢がある(I have a dream)」演説から50周年記念の式典が、50年前と同じ場所、リンカーン記念堂前で行われた。50年前には立錐の余地ないほどの20万人から30万人が集まったといわれる。今回は多く見積もってもその半分か三分の一くらいだろうか。時折雨のちらつく蒸し暑い気候に加え、とにかく警備が厳しく、結局会場に入れなかった人も多くいたのではないだろうか。一般入場者のゲートには10台の金属探知機しかなく、荷物検査も空港の検査場並みの厳しさだった。式典開始の30分前には会場前に着いたが、50メーター先のゲートをくぐるまで2時間かかった。
ゲートからさらに10分ほど歩いてリンカーン記念堂の近くまで行くと、すでに式典の半分は終わり、オプラ・ウィンフリーの演説から聞き始めることになった。三人の女の子の国家斉唱の後、オバマ、クリントン、カーターやキング牧師の子供などが演壇に立ち、熱のこもった演説をした。終わったのが三時半過ぎ。帰りも大混雑で、会場を出るのに小一時間かかった。
ニュースを見ると、聞き逃した前半もキャロライン・ケネディをはじめ何人もの有名人が演説をしたようだ。演説の合間、合間には有名歌手が歌を歌っていたが、要するに弁論大会だった。アメリカ人にとって演説がいかに身近で、重要か肌身で感じた。演説中にも拍手や口笛が絶えることはなかった。毎週日曜日の朝、アメリカのテレビではメガ・チャーチと呼ばれる屋内球場ほどの教会から牧師の説教が放映される。キング牧師が演説がうまいのは説教で慣れていたからだろう。オプラ・ウィンフリーはテレビの司会者だったが、政治家のように演説がうまい。カーターもクリントンも聴衆を引き付ける演説をしていた。要するに皆演説がうまい。
オバマは最後に登壇したが、30分以上の長広舌だった。カーター、クリントンが数分程度だったのに比べ、いささか長かった。夜のCBS のニュースで、「演説はキング牧師ほどではないよ」と前日のインタビューで予防線を張っていたが、やはりキング牧師を意識していたのだろう。彼のいう通り、内容はそれほどでもなかったが、驚いたのは彼が原稿を読んでいなかったことだ。最初から最後まで目線を一度も下に落とすことはなかった。どこかにプロンプターがあったのだろうか。しかし、ほかの演者は明らかに原稿を読んでいた。原稿を見ずに30分以上、言いよどむことなく演説を続けたのは見事としか言いようがない。英語は音声言語であり、日本語は文字言語だということを痛切に感じた。日本人が演説べたなのは、日本が耳から理解する音声言語ではなく目から理解する文字言語に原因があるのではないか。
多くの演者に共通する言葉はやはり夢と自由だ。改めて思うが、アメリカは夢の国だ。夢のような国というのではない。夢がナショナル・アイデンティティになっているということだ。American Dreamからキング牧師のI have a dream そしてディズニーのDreams come trueまで、未来に目を向け、明日を信ずる国民性こそアメリカの原動力になっているのではないか。明日が信じられるからこそ、たとえば子供もたくさん産める。貧富の格差の広がったアメリカの状況では日本人ならとても二人も三人も子供を持とうという気にはならないだろう。ワシントンだけでなくほかの多くの都市でたくさんの子供を連れた家族に出会う。もちろん夢破れた子連れのホームレスも多くいるのだが、彼らもまた夢を信じ、再度チャレンジするのだろう。
対照的なのは日本人だ。八月の敗戦記念日ということもあるが、隣国から口出しされなくても、とにかく過去しか見ていない。懐旧譚にふけるか、ああでもないこうでもないと過去を反省するか。民族性なのだろうか。それとも時代の問題なのだろうか。後ろ向きの徒競走をしているようで、ゴール(夢)が全く見えていない。
イラク戦争の反省もせずシリア攻撃で夢(理想)ばかりを語るアメリカもどうかと思うが、侵略と植民地支配の反省ばかりで夢を語ることを忘れてしまった日本もどうかと思う。
2013年8月28日水曜日
シリア攻撃で窮地に立つオバマ大統領
アメリカによるシリア爆撃の可能性が高まっている。状況は1999年のユーゴスラビア空爆の時にそっくりだ。NHK の夜九時のニュースが解説したイラク戦争ではない。ユーゴ空爆では、ユーゴの「民族浄化」をやめさせるために、人道の名のもとに米、英を中心に約二か月半空爆が続けられた。
今回も化学兵器の使用をやめさせるために人道の名のもとに攻撃が行われるようだ。国際法上、攻撃をどのように正当化するかが問題だ。ロシアが強硬に反対している以上、安保理が承認するはずはない。
ユーゴの時もそうだ。住民虐殺、民族浄化が起きているといわれていたが、実際には、伝えられたほどの規模ではなかった。また反セルビア国家が宣伝工作に関与したことも後で明らかになった。さらに人道目的といわれていたが、セルビアがとても受諾できないようなコソボ紛争調停案を米英が提案し、それをミロシェビッチが拒否したことが空爆の大きな理由であったことも判明した。
人道を目的にするなら、反駁の余地のない証拠が必要だ。しかし、化学兵器が使用されたことは確かだが、だれが使用したか、国連の調査団は明らかにしていない。しかも、どのような種類の化学兵器で、どのようして使用されたかいまだに明らかになっていない。砲弾なのか爆弾なのか、いずれであれ砲弾や爆弾の破片から、だれが使用したかはある程度推測できるはずだ。英米ともに政府軍が使用したといっているが、その根拠はいまだに示されていない。
また今に至るも毒ガスの種類が明確になっていないのはなぜなのだろうか。神経ガスのサリンが疑われているが、ビデオで見る限り、治療や看護にあたっている人が比較的軽装でサリンに対処できるような恰好をしていない。みんな死体に平気で触れている。除染、中和したのだろうか。
映像で見ると、死体や負傷者に子供が多いのも気にかかる。かつてイラク軍がハラブジャでサリンを使った時には、瞬時に何百人もの人が死に、最終的には千人とも五千人とも言われる多数の死者が出ている。また毒ガスでは犬や猫も死ぬ。ハラブジャの写真には道路に人間だけでなく犬や猫の死骸も映っていた。今のところ、そうした映像は出ていない。
ユーゴ空爆のことを考えると、反政府側の宣伝工作の可能性は捨てきれない。ワシントンでは亡命シリア人が精力的にアメリカに支援を要請する活動を続けており、アメリカのシンクタンク、NGOも彼らの活動を支援している。アメリカの情報機関も彼らからの情報に基づいていると思われる。
化学兵器が使用されたのはダマスカス近郊だという。昨年私が行ったときには、中心部から2-3キロには反体制派が支配している地区があった。そこに連日のようにヘリから銃撃やミサイル攻撃をしていた。私はそれを撮影しようとして逮捕されたのだが、戦術的に見て、毒ガスを使うような場所とは思われない。またアサド政権が毒ガスを使用するほどに追い詰められている状況とも思えない。今毒ガスを使用して利があるのは、こう着した局面を打開したい反政府側だろう。シリア政府が強硬に否定し、国連の調査団を受け入れたのは自信があるからかもしれない。
一方で追い詰められているのはオバマ政権だ。オバマ政権は「核兵器なき世界」と大言壮語し、「チェンジ」と理想を語るばかりで、シリア問題でなんら指導力を発揮してこなかった。その間に数万人とも言われる犠牲者が出た。シリア問題だけではない、エジプトの反革命運動も拱手傍観するだけだ。リビア、パレスチナなども含め中東政策で具体的な成果はない。中東に関心の深いケリーが国務長官になって、彼のイニシアチブでパレスチナ問題が少し動き始めただけである。ただしすぐに行き詰ったが。さらに言えばオバマ政権は外交が苦手なのか、関心がないのか、演説でノーベル平和賞をとったこと以外に全く成果を出していない。ここで何らかの実績を挙げないと、無能の大統領という名を歴史に残すことになりかねない。
とはいえ、軍事力を行使しようにも、金がない。10月には最悪の場合、政府は財政破たんする恐れがある。イラク戦争のように地上軍を投入するような大規模な攻撃はとてもできない。ユーゴ空爆のように空からの攻撃だけで、しかも1998年のアルカイダによるナイロビ、ダルエスサラム米大使館自爆テロ攻撃の報復として、クリントン大統領がアフガニスタン、スーダンのアルカイダ施設を巡航ミサイルで攻撃(ちなみに国際法上この攻撃をどのようにアメリカ政府は正当化したのだろうか)したように、トマホーク巡航ミサイルの攻撃が精いっぱいだ。しかし、何を標的にするのだろうか。アルカイダ攻撃の時は、彼らの拠点(といってもテントだが)を目標にしたが、シリアでは何を目標にするのか。二次被害を考えれば、化学兵器の貯蔵施設を攻撃するわけにはいかない。だからと言って運用部隊を攻撃しようにも兵士は攻撃に備えて隠れるだろう。空になった兵舎を破壊しても意味はない。
ではユーゴ空爆のように電気、通信、交通などの重要インフラを目標にするのだろうか。ユーゴ空爆では、最後には目標がなくなるほど徹底的に重要インフラを破壊した挙句、空爆で決定的な成果を得られないNATOと戦禍で疲弊したセルビアの両者痛み分けのような恰好で二か月半後に停戦した。今回は、財政難のため、巡航ミサイルによる2-3日の爆撃にとどまるようだ。大使館を攻撃された腹いせに巡航ミサイルを何十発かアルカイダのテントに撃ち込んだクリントン大統領と同じように、オバマ大統領も何十発かミサイルを空の兵舎に撃ち込んで終わりということになるのではないか。
何もしなければ無能の烙印を押され、攻撃しようにも金がない。窮地に陥っているのはアサド大統領ではなくオバマ大統領だ。
2013年8月27日火曜日
朝日・産経の仁義なき戦い
2013年8月26日夜のNHKニュースで潘基文国連事務総長が日本の憲法改正や歴史認識を批判したニュースが伝えられた。27日の朝刊で朝日と産経(iPAD版)がどのようにこのニュースを伝えているかを見て驚いた。産経は一面で報じていたが、朝日は全く載っていない。朝日はデジタル版では伝えていたが、紙の朝刊では伝えたのだろうか。
嫌韓新聞産経が一面に持ってきた理由はわかる。一方朝日が記事にしなかったのは、なぜかがわからない。単に親韓だからか、それとも日韓関係に配慮したからなのか、あるいは潘基文氏が当然のことを言っているに過ぎないと判断したからなのか、それとも彼が韓国寄りの発言をするのはいつものことだからか。実際、ここ数か月、というよりも以前から韓国寄りの発言が繰り返されており、別に今回に限ったことではないから、記事に値しないのか。あるいは英米が批判するようにあまりに無能で記事で批判するのは気の毒と思ったからなのか。事実「潘基文 無能」で検索すると数年前から、関連記事が大量に出てくる。
いずれの理由か定かではないが、朝日が潘基文氏にやさしい新聞であることは2013年7月15日春日芳晃特派員の「特派員メモ」から推察できる。
「ニューヨークで親しくなった韓国紙の特派員チャンさん(36)が1年の任期を終えて帰国することになった。送別会で心残りを尋ねたら、意外な答えが返ってきた。「国連の潘基文(パンギムン)事務総長の批判記事が思うように書けなかった」
ボツになった原稿の一つが「シリア内戦で指導力発揮せず」。死者10万人近い内戦は現代の人道危機だ。ただ、これは潘さんというより、安全保障理事会の責任が重い。アサド政権への制裁を求める米英仏と、反対する中ロが対立して何もできないからだ。
もう一つは「中国の人権問題を批判しない」。私も同感だが、大国との「間合い」には歴代事務総長が苦労した」。
韓国の記者以上に潘基文氏に同情した内容の記事だ。安全保障理事会に根回しする指導力を発揮してこそ事務総長ではないのか。これでは冷戦時代に米ソが対立して安全保障理事会がマヒし、国連が村議会と揶揄された時と同じではないか。それでもハマーショルドのように紛争解決に奔走し、殉死した国連事務総長もいるのだから、指導力を発揮しなくても当然といわんばかりの記事は、実際に内戦で犠牲になっている人に思いを致せば、どうかと思う。権力と立ち向かうのがジャーナリストなら、もう少し誇りと勇気を持って権力と闘ってほしい。闘う相手は安倍政権だけではないだろう。
今日の紙面で、両紙を読み比べて、いささか両紙とも常軌を逸しているのではないかと思う記事があった。それは「はだしのゲン」をめぐる松江市の閲覧制限騒動である。朝日は「はだしのゲン」は名作だから閲覧制限などもってのほかと徹底的に松江市教育委員会を批判した。産経は、表現の自由を守る立場から、閲覧制限を積極的に支持するわけにもいかず、「はだしのゲン」を凡作と批判し、暴力的な描写には閲覧にも配慮が必要との歯切れの悪い論調だった。
私自身は、1972年に少年ジャンプに連載されていたころに読んだ覚えがあるが、あまりにメッセージ性の強い漫画で、とても週刊マンガ誌で読む内容ではなかったことを覚えている。途中で読む気をなくして読まなくなったが、読者投票でも不人気で約二年で打ち切られ、結局共産党や日教組の媒体で続編が書かれていた。ジャンプ以後の連載内容については、まったく知らない。ところがいつの間にか学校での推薦図書となったり、教師が読むことを奨励するなどしたためか、下の世代に広く読まれるようになったという。
どう見ても朝日、産経の評価が反戦、平和という単純な政治的基準にあるように思えて仕方ない。なぜなら、今回の騒動とは立場が全く逆の事件があり、その時の両紙の記事の扱いはまさに真逆だったからである。それは2001年8月に起きた船橋市西図書館蔵書破棄事件である。「船橋市西図書館の女性司書が、西部邁や新しい歴史教科書をつくる会会員らの著書計107冊を、自らの政治思想に基づき、廃棄基準に該当しないにもかかわらず除籍・廃棄した」(ウイキペディア)のである。この事件を最初に2002年4月に報じたのが産経新聞だった。産経は張り切り、朝日は淡々と事実を伝えるだけだった。
はだしのゲンの評価については、呉智英のコメントが最も納得できる。
「『はだしのゲン』は少年ジャンプの連載時から読んでいました。当時から「平和や反核へのメッセージ」というような政治的文脈で読まれることが多く、違和感を覚えていました。確かに原爆の悲惨さを告発していることは間違いない。とはいえ、そんな反戦、反核のアジビラみたいな単純な作品じゃない、と。
たとえばこんなシーン。画家を志していた青年、政二が被爆してヤケドを負い、優しかった家族からは「ピカの毒がうつる」と疎まれ、近所からも「おばけ」と 不気味がられます。ゲンは1日3円の報酬で政二の身の回りの世話を引き受ける。ゲンがリヤカーに乗せて連れ出すと、政二は突然、自分の包帯を取り、「この みにくい姿をみんなの目の奥にたたきこんで一生きえないようにしてやる それがわしのしかえしじゃ」と、その姿を町民の前にさらすのです。政二にとって憎 むべきは、原爆を落としたアメリカでも、泥沼の戦争を長引かせた日本政府でもなかった。程度の差こそあれ同じ被爆者である近所の人たちだったのです。
(中略)
このように、「ゲン」には人間の汚さや醜さ、不条理な衝動や現象、心の影といったことに至るまで、被爆という悲しい現実が描かれています。大江健三郎氏は「被爆者による原爆体験の民話である」と評しました。表面的な報道、政治家や識者が語るきれいごとの平和論では触れられることのない民衆の現実。それが、作品の魅力となって読む人の心を引き付けるのです」(『週刊朝日』2013年8月9日号)(下線引用者)
朝日も産経も我田引水的に「政治的文脈」で評価するのはやめたほうがよい。
ネットが普及してから、メディアはたちまちのうちに批判にさらされ、消費されるようになった。主張の強い記事を書けば、たちまちのうちに賛否両論の意見がネットにあふれ、かつてのように新聞の権威など全く失われた。ブログの一つとして扱われているに過ぎない。ネット上では個人のメルマガも大新聞のサイトも内容において変わらない。はだしのゲンの騒ぎも、表現は丁寧でも本質はネトウヨ、ネトサヨ(?)の対立と同じである。要するに、好き嫌いの感情論でしかない。
それと同じ現象が、紙媒体でも起こり、朝日、産経がまるでブログのように悪口罵詈雑言をオブラートに包みながら話題を炎上させている。思想も哲学もなく、単なる好き嫌いの感情論だけだ。うんざりしてストレート・ニュースを読もうとしても、産経は記者が少ないせいかストレート・ニュースそのものが少ない。他方朝日は特派員の書く記事は多いものの、地元の人たちのブログやyoutubeのほうが新鮮で的確なことが多い。テレビ・メディアも含めて、最近の特ダネの多くはネットからのものだ。特に事故現場や、災害現場そして戦地からのニュースがそうだ。
いずれ新聞もテレビも個人の媒体となり、取材、編集、発表まで一人でできるような時代になるのではないか。情報を独占することで金を儲けたり、権威を得たりする時代は終わりになりつつある。それはメディアだけではない、知を占有してきた大学もいずれは権威を失って解体していくだろう。朝日、産経のブログ化はメディアの解体過程を見ているようだ。
潘基文国連事務総長の日本非難
2013年8月26日潘基文国連事務総長が、日本の歴史認識について、記者会見で日本を非難する発言をした。「正しい歴史認識を持ってこそ、ほかの国々からも尊敬と信頼を受けるのではないか」、「日本政府の政治指導者は、とても深い省察と国際的な未来を見通すビジョンが必要だ」と、名指しこそしなかったが明らかに日本政府を非難した発言だ。この発言の前に「国連事務総長として個別の問題に深く介入するのは望ましくないが」と述べていることから、要するに、「個別の問題に深く介入した」ということだ。彼の発言は、日本に対して改めて満州侵略や韓国併合の責任をとれと、国連事務総長の立場から非難している。
1992年のクマラスワミ報告、1998年のマクドゥーガル報告書で一貫して日本は中韓だけでなく国連からも侵略責任や植民地支配責任について追及されている。もはやサンフランシスコ講和条約は全く空文に堕し、国連復帰は間違っていたといわんばかりだ。安倍首相が戦後レジームからの脱却を叫んでいたが、日本が戦後レジームから脱却する前に韓国、中国が戦後レジームから脱却してしまった。それどころか国連までがサンフランシスコ講和条約を破棄して、再度日本と中国、韓国との間で平和条約を締結しなおせと言っているに等しい。
日本が国際連盟を脱退した時の様子は、今のような状況だったのだろうか。リットン調査団の報告を不満とし、最終的には国連から脱退してしまった。いくら満州事変が自存自衛の戦争といっても、1929年のパリ不戦条約以後戦争が非合法化された当時の国際状況からそのような言い分が通るはずもなく、実際他国の領土で戦争しており、侵略したことには間違いがない。同じようにいくら現在の人権基準から歴史を裁いているとか、慰安婦に対する解釈が違うと反論しても全く通用しない。現在慰安婦問題は人権問題であって歴史認識問題ではない。日本が批判されているのは、公娼制度の一部としての慰安婦問題であり、公娼制度における人身売買や奴隷労働が批判されているのである。もはや慰安婦問題で日本に勝ち目はない。ケヴィン・メイヤーのようなアメリカの知日派からも日本政府は歴史認識問題で口をつぐむべきだ、との批判が出るほどだ。
ちなみに日本人の妻を持ち、日本に長く暮らしているメイヤーでさえも年季奉公を奴隷労働とみなしている。何度も書いているが、貧しさと口減らしのために奉公に出された「おしん」は奴隷として人身売買されたのであり、国際法に照らせば債務奴隷として人身売買された以外の何ものでもない。ましてや遊郭の遊女たちは債務奴隷どころかまさに性奴隷のために人身売買されたとしか言いようがない。加えて慰安婦は朝鮮人女性を性奴隷として人身売買したのであり、民族差別までもが加わっている言語道断の犯罪である。おそらく外国の交際法に明るい知識人の多くがこのような理解だろう。
私たち戦中戦後の世代の慰安婦に対する理解は、美輪(丸山)明宏の「祖国と女」に尽くされているだろう。また若い女性の目から見れば怒り心頭だろうが、慰安所を戯画化した勝新太郎の『兵隊やくざ』の慰安所や、高級将校相手の芸者(要するに慰安婦)音丸の描写から、慰安所や慰安婦の様子を垣間見た。確かではないが朝鮮半島出身という慰安婦の登場人物がいたように思う。おしん同様に貧しさのあまり口減らしのため国外で娼婦になった日本人女性を描いた山崎朋子のノンフィクション『サンダカン八番娼館』(1972)もまた団塊世代には強烈な印象を残しているだろう。1974年には栗原小巻と田中絹代で映画化され大きな話題になった。1920年代に貧困のゆえにマレーシア、サンダカンの娼館で娼妓として働いたいわゆる「からゆきさん」の半生記である。私は、2008年にサンダカンを訪れたことがある。フィリピンとの海上交易の拠点となるボルネオ島の小さな港街である。今も何十人かの「からゆきさん」の墓がある。どれほど望郷の念で胸をかきむしったことか。貧困の故の悲劇である。
私たちは公娼制度や年季奉公の背景には貧困があり、社会のゆがみ、人間の喜怒哀楽があったことを知っている。だからこそ古くは浄瑠璃、歌舞伎、文楽、落語などの芸能、浮世絵や浮世草子などの美術や古典文学など、また最近は落語、小説、映画などの題材となってきたのである。誰も公娼制度や奴隷制度を肯定はしていない。恥ずかしいことであるからこそ、日本人慰安婦はごく1~2人の例外を除いて誰も名乗りを上げなかったのだろう。丸山明宏の「祖国と女たち」は慰安婦の屈辱をこう唄っている。
「戦に負けて帰れば 国の人たちに
勲章のかわりに 唾をかけられ
後ろ指さされて 陰口きかれて
祖国の為だと死んだ仲間の
幻だいて 今日も街に立つ
万歳 万歳
ニッポン 万歳
大日本帝国 万歳 万歳 万歳」
また元従軍看護婦で戦後米兵相手の娼婦「パンパン」になった女性の手記をもとに作詞された「星の流れに」や、米兵に強姦や売春あるいは恋愛したものの結局親に捨てられた混血児の孤児たちを収容したエリザベス・サンダースホームの話を私たちは知っている。米兵を相手にしたパンパンは人身売買されていないから、自由恋愛だから罪にはならないのだろう。それとも戦勝国の米兵だから罪にはならないのだろうか。日本人の貧乏に付け込んで関係を持ち、挙句の果てに親子とも捨てて帰った米兵はごまんといる。別に日本だけではない。ベトナムでもそうだ。そんなアメリカ人が慰安婦問題で下院決議までして日本に謝罪を要求することにいらだちを覚える人は多いだろう。ましてや従軍慰安婦問題は「奴隷制と奴隷売買」、「戦争犯罪としてのレイプ」「人道に対する罪」と非難する国連のマクドゥーガル報告書を否定したい気持ちはよくわかる。
今我々日本が置かれている立場は、明らかにサンフランシスコ講和条約以前に逆戻りしている。つまり、今我々は戦争の責任を改めて問われているのである。韓国の目的は、明らかに日韓基本条約を全面破棄して再度個人補償を含めた基本条約を締結しなおすことであろう。また中国も日中平和条約を破棄し、中国の要求に沿って国境線を線引きした条約を新たに締結しない限り歴史認識問題は解決しないだろう。さらに、潘基文国連事務総長の発言は、事実上国連からの日本追放勧告に等しい。将来、だれか第二の松岡洋右になるのだろうか。我々は今こそ、敗戦をかみしめなければならない。
慰安婦問題は普遍的な人権問題
「慰安婦問題は国際的な倫理基準に照らし、普遍的な人権問題として、広く国際社会が日本の責任を問うているものなのだ」(坂本義和「中日新聞 2012年9月8日(土曜日) 朝刊2面、下線引用者」と坂本元東大教授が指摘するように、慰安婦問題は普遍的な人権問題として国際社会(国連、米国)では理解されており、もはや歴史問題ではない。1998年の国連のマクドゥーガル報告書は慰安婦制度を「レイプ・センターでの性奴隷制」として、下記のように「奴隷制と奴隷売買」、「戦争犯罪としてのレイプ」「人道に対する罪」の三つをあげ、日本を非難している。
「第二次大戦後のニュルンベルグ裁判は「それまでは…国際法の言外に含まれていたこと、すなわち…一般住民に対する皆殺し、奴隷化、追放は国際犯罪であることを明確にし、あいまいさをなくした」にすぎない。事実、とくに奴隷制禁止は明らかに強行法規(juscogens)としての地位を獲得している。 従って、第二次大戦中に日本軍がアジア全域で女性を奴隷化したことは、当時ですら、奴隷制を禁じた慣習的国際法に明らかに違反していたのである」。
「戦争法は奴隷制と共にレイプと強制売春も禁止していた」「奴隷化に加えて、広範囲ないし計画的なレイプ行為もまた、ニュルンべルグ条例や極東国際軍事裁判条例に含まれた人道に対する罪の従来の枠組みにおける「非人道的行為」の範疇に入る」(「アジア女性基金」資料)
人道に対する罪が遡及的に適用できるかどうかはニュルンベルグ裁判でも問題になったが、報告書は、この主張を退けている。奴隷制と奴隷売買に対する報告書の内容は日本の社会の歴史を知る者にはとても合点がいかない。現在日本の反論は、日本の社会的背景に基づく奴隷制や人身売買論への反論である。「普遍的な人権問題」となった以上、特殊日本社会論からの反論は何の有効性も持たない。
議論はとっくの昔に、すでに歴史家から国際法の専門家の手に移ってしまったのである。慰安婦問題が人権問題に移ってしまったことは、ある意味日本が反論できる機会が広がったことを意味する。日本は慰安婦問題を人道に対する罪で非難されているからだ。慰安婦問題で謝罪,補償が認められるならば日本はアメリカに対して原爆投下や無差別都市爆撃を人道に対する罪で非難、謝罪を求めることができるはずだ。戦勝国であろうがなかろうが、「普遍的な人権問題」の観点からすれば、アメリカの原爆投下は明らかに「非人道的行為」の範疇に入るだろう。
実際、慰安婦問題で日本が国連の報告書やアメリカ下院議会の議決に従うなら、日本は原爆投下や無差別爆撃の非人道性でアメリカ政府に謝罪を求め、慰安婦同様に被爆者は個人補償を求めることができるはずだ。
実際には日米関係を考えれば、そのようなことはできない。国際法の問題でなく国際政治の問題になるからだ。歴史を見てもわかるが、国際法は倫理だけではなく力があってはじめて有効となる。逆に考えれば、韓国が日本に謝罪と補償を求めるのは、日韓関係よりも慰安婦問題が重要な理由があるからだ。つまり、慰安婦問題の本質は慰安婦問題にあるのではなく、すぐれて現在の日韓の政治関係あるいは韓国の政治にある。別の小論でも指摘したが、それは日韓の国力の差が縮小し、民族感情が噴出したこと。韓国が国民の流失で国家衰退の危機にあり、反日による民族団結が必要だからではないか。5000万人国民の14パーセントの700万人が在外居留者というのは、やはり異常としか言いようがない。おそらく韓国の最終的な政治目標は現在の日韓基本条約を破棄し、新条約を締結するか改定することにあるのだろう。いくら謝罪しても韓国が満足できないのは、国家は感情、倫理を持った人間ではなく、もともと謝罪も反省もできないからである。できるのは過去への補償と未来への約束だけである。
いずれにせよ、日本政府は慰安婦問題についてこれ以上表立って反駁しないほうがよい。アメリカにこれから慰安婦像が立ち続けるかもしれない。しかし、中国よりもましだ。ワシントンには天安門事件で中国を非難する写真や解説文つきの自由の女神像が立っている。中国に「度量の大きさ」を見習うべきかもしれない。
2013年8月24日土曜日
汚染水漏れ事故はサボタージュ
福島第一原発の汚染水漏れが深刻だ。深刻度はレベル3にまで引き上げられたにもかかわらず、日本のメディアにもそれほどの緊張感はない。あるメディア(Bloomberg)はこれで安倍政権の原発輸出が難しくなったとの記事を書いている。なぜ難しくなったのか、理由は明記されていない。日本の原子力技術があてにならないということなのだろうか。
しかし、今回の事故は原子力技術とは全く関係のない、もっと基本的な問題だからこそ深刻なのだ。要するにタンクから汚染水が漏れただけなのである。言い換えるなら、技術的には水漏れしないタンクを作れなかっただけであり、水漏れを早期に発見できなかった管理体制の不備の問題である。即製のタンクは継ぎ目をゴムのパッキンをかませただけで、放射線で脆くなったのかもしれない、という。ならば、それを見越して管理体制を強化するのが常識であろう。それを東電は怠っていた。調査をした関係者は、タンクの管理の記録も残されていなかったという。技術の問題よりも深刻なのは、管理の問題である。
しかし、管理が杜撰になるのも無理もない。原発事故以降、東電が非難されることはあっても、評価されることは全くない。給料も下げられ、事実上国営化されて、将来性もない。これで社員の士気が下がらないわけがない。自業自得だと、外部から非難をし続けるわけにもいかない。彼らがいないと原発を管理することも、廃炉にすることもできない。
事実上国営化されたといっても、東電は民間企業だ。自衛隊員のように「敵前逃亡」が罪に問われるわけではない。将来に失望し、また現場に嫌気がさして多くの社員が原発から「敵前逃亡」退社すれば原発はどうなるのだろうか。そもそも今現在福島原発に従事している社員の士気は何によって保たれているのだろうか。社会的使命感か金銭か。社員は、かつての自衛隊員のように、制服を着て外を歩くことすらできない状況だ。事故以前の高額の給料はもはや夢のまた夢だ。
今回の汚染水漏れは、意図的ではないにしろ士気の下がった東電の、事実上のサボタージュではないか。本当のサボタージュが起こらないように政府も、社会も、東電の問題としてではなく国家の問題として原発の管理体制を考える必要がある。
徴用工判決の背景
2013年7月10日ソウル高裁は、戦時中、日本の軍需工場に動員された韓国人の元徴用工4人の損害賠償請求を認め、新日鉄住金に1人あたり1億ウォン(約890万円)を支払うよう同社に命じた。
原告の一部は日本でも訴訟を起こしているが、日本の最高裁では1965年の日韓請求権協定で個人の請求権は消滅し、行使できなくなったとの判断が確定している。一方韓国では2012年5月に、大法院(最高裁)が「個人請求権は消えていない」との判断を示している。
この問題の核心は、日韓基本条約や付属の日韓請求権協定にあるのではない。いくら日本が条約や協定を盾にとって、個人請求権は消滅しているといっても、全く無意味である。
そもそも韓国大法院が「個人請求権は消えていない」と判断した理由は、
① 日本の植民地支配が非合法であり、強制動員は違法。
② 日韓請求権協定は、日韓の債権債務に対するものであり、植民地支配による違法な強制労働対する個人の賠償請求権は消えていない。
(菊池 勇次「【韓国】 戦時徴用工個人の賠償請求権に関する韓国大法院判決」『外国の立法』国立国会図書館調査及び立法考査局(2012.7))。
つまり、昨年5月の韓国大法院の判決は、日韓請求権協定とは全く無関係に、日本の植民地支配に対する個人賠償請求権を認めたことになる。今回のソウル高裁の判決は、大法院の判決に沿って下されたものである。日本の支援組織である「日鉄元徴用工裁判を支援する会」事務局長の山本直好氏が、「ソウル高等法院判決の意義の第1は、強制連行強制労働を「反人道的不法行為」と認定し、1965年の日韓請求権協定では不法行為による個人の損害賠償請求権は消滅していないと判断したことだ」(メルマガ『Weekly MDS』 2013年08月02日発行 1291号)と、判決を高く評価していることからも明らかなように徴用工問題を慰安婦問題と同じように人道問題として取り上げているのである。慰安婦問題も徴用工問題もいつの間にか論点が強制性から人道問題にすり替えられている。いくら日本政府が強制性はない、条約で解決済みといっても、サッカーをやっていたらいつの間にかラグビーに代わっていたようなもので、もはやラグビーでは日本の完敗である。
いったいなぜゲームのルールが変わったのか。いくつか理由が考えられるが、些末な話からすれば、冷戦の崩壊で日本の左翼が目標を失い、人道問題として日本の植民地問題を韓国や国連で扇動した。あるいは東日本大震災による日本の国力の相対的低下、韓国の相対的上昇を背景に、今こそ植民地支配の恨み晴らさでおくものかとばかりに攻勢に出ているのかもしれない。しかし、これらの理由以上に深刻な社会的背景があるように思われる。それは在外韓国人問題である。
2月のパククネ大統領の就任演説を聞いて驚いたことがある。それは冒頭で「700万人の海外同胞の皆さん」といったことである。まさかと思って調べてみると、2009年時点で在外韓国人は683万人(米国243万人、日本90万人など)だ。間違いではなかった。2012年の韓国の人口は約5000万人。全人口の約14%が海外で暮らしている。この数字は、出稼ぎ労働が社会問題になっているフィリピンとほぼ同じである。ただフィリピン人の多くが出稼ぎでいずれ帰国するのとは異なり、在外韓国人の多くは在日、在米のように永住者が多く、事態はフィリピンより深刻である。ちなみに日本は、2,009年の統計によると人口約1億2800万人で在外邦人は113万人、全人口の1パーセントにも満たない。
他国のことながら、これでは国家は発展するどころか崩壊するのではないかと心配になる。反日であれ何であれ民族感情を扇動しなければ、次々と国民が流失して韓国は国家を維持できなくなるのではないか。追い打ちをかけるように日本以上に少子化が進んでいる。国民流出は80年代から進み、今ではロサンゼルスのウエスト・アベニューの通りの両側はソウルと見まごうばかりにハングルであふれている。在米韓国人には祖国を捨てたことへの負い目でもあるのか、とにかく反日運動や慰安婦問題を盛り上げて祖国と連帯し、贖罪しようとしているかのようである。
こうした韓国の社会情勢を考えれば、徴用工の問題が条約や協定の問題でないことがわかるはずだ。日本政府が協定で請求権は完全解決済みと突き放しても、ましてやいまさら請求権協定の第三条第1項の紛争調停のための仲裁委員会を設置して済む問題ではない。韓国が今日本にせまっているのは、歴史認識問題ではなく、植民地支配問題である。謝罪でも償い金でもなく、日本が一度は韓国の植民地にならない限り、彼らの怨念は晴れないだろう。
2013年8月17日土曜日
敗北をかみしめて
参議院選での自民党の圧勝で憲法改定が現実味を帯びてきた。憲法改定については第96条の憲法改正要件、第九条の安全保障を中心に第一条の天皇制の問題など逐条ごとの議論がかまびすしい。しかし、論議しなければならないのは、むしろ憲法を改定することの意味そのものである。
もし憲法改定の真の狙いが安倍首相の目指す戦後レジームつまりはヤルタ・ポツダム体制からの脱却にあるなら、それは敗戦の忘却であり戦後の日米関係そのものを否定しかねない。侵略、植民地支配を非難する中韓はもちろん戦勝国アメリカからも安倍首相の「右傾化」を危惧する声が上がるのは、憲法改定に戦前回帰への動きが透けて見えることが一因であろう。
暗礁に乗り上げた中韓関係のみならず、次第に疎遠になりつつある日米関係にとって憲法改定がどのような意味を持つのか。それを考える上でわれわれは今一度、次の三つの問題に思いを馳せる必要がある。第一は敗戦とは何であったのか。第二は天皇制をどうするのか。第三は敗戦体制をどう克服するか。
第一の問題に一言で答えれば、日本はアメリカの支配下に置かれ、平和憲法によって二度と戦争のできない国家に改造させられたということである。確かにジョン・ダワーが活写するように、被占領期に日本人は「敗北を抱きしめて」いたかもしれない。しかし、同時にダワーも指摘するように、そこには「押し付け」の構造すなわち支配・従属構造があり、しかもそれは日米安保体制で補強され、日本は軍事的にはもちろん政治的、経済的そして社会的にも二度とアメリカに刃向えないよう平和憲法が制定されたのである。
古来より歴史は、敗戦国が戦勝国の支配の軛から脱する手段が戦争であることを教えている。だから日本は平和憲法を押し付けられ二度と戦争ができないようにさせられたのだと改憲派は言う。他方護憲派は、たとえ押し付けられたにせよ日本は平和憲法を護り戦争など二度としないから米軍は出ていけという。いずれも敗戦の意味を理解していない。戦争に負けた以上、アメリカが日本との支配・従属関係を維持する能力や意志を失わない限り、アメリカは日本をその支配下に置き続け、友好の美名の下で日本の敗戦体制は永遠に続く。
忘れられがちだが、日本が平和憲法を受け入れたのは単に「押し付けられた」からではない。天皇制の存続と引き換えに受け入れたのである。日本は黙契のうちに天皇制の存続を唯一の要件としてポツダム宣言を受諾した。アメリカの草案に基づく憲法で日本は戦争放棄(第九条)と引き換えに、あるいは戦争放棄とともに天皇制の存続(第一条)を認められたのである。天皇制の存続が許された以上、戦勝国アメリカが憲法を「押し付けた」からといって、「押し付け憲法」に従うしかない。もちろん独立を回復した日本が「押し付け憲法」を改定することに何ら法的問題があるはずがない。しかし天皇制の存続を議論することなく憲法を改定するということは、まるで敗戦が無かったかのように戦前に回帰するに等しい。つまり憲法改定は必然的に第二の天皇制存続の問題を惹起する。
戦前の天皇は君主、戦後の天皇は象徴とその地位や役割が異なるが故に天皇制の存続に問題はないとの反論が聞こえてきそうだ。しかし、戦前と戦後の天皇制が異なるのであれば、天皇制を存続させたことになるのだろうか。自民党の改憲論が天皇を象徴ではなく君主に位置づけようとしているのは、戦後の象徴天皇制が間違っているとの思いを吐露しているようなものだ。改憲派は、明治天皇や昭和天皇のように、いずれ皇太子に軍服を着せ白馬にまたがらせるつもりなのか。
本当にそれでよいのか。だからこそ憲法改定とともに議論しなければならないのは、昭和天皇が「堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ」護持した天皇制とは一体何だったのか、という問いである。この問いに答えない限り、天皇の名の下に犠牲となった国内外の多くの犠牲者の霊は浮かばれない。また皇位継承問題で揺れる現在の天皇制の存続も危うい。
敗戦を終戦と呼び換え象徴天皇制の下で日本はまるで戦勝国のような戦後の長い繁栄と平和の時代を享受してきた。それももはや限界にきた。長期のデフレで経済力を低下させ、さらに東日本大震災が追い打ちをかけ、往時の繁栄の面影はどこにもない。中韓は歴史認識、領土問題、慰安婦問題等で衰退する日本に外交攻勢を仕掛け、平和もさえ脅かされている。われわれは「敗北を抱きしめ」るのではなく、今こそ昭和20年8月15日に立ち戻って「敗北をかみしめ」なければならない。
敗戦の結果我々は多くのものを失った。その一方で得たものは何かを考えてみること、それが第三の問い、即ち敗戦体制をどう克服するかの回答となる。
戦後の敗戦体制の下でわれわれは一体何を得たろう。戦勝国アメリカに次ぐ経済大国として経済的繁栄を獲得できた。しかし、それ以上に重要なものをわれわれは会得したのではないか。それは自由、民主主義、個人の人権等の普遍的価値である。仮にこれらの価値がアメリカによる「押し付け」であったとしても、これらの普遍的価値そのものにアメリカとの間で支配・従属の関係はない。だからこそこれらの普遍的価値に基づいて日米関係を構築しなおすことで、また天皇を普遍的価値の体現者として位置づけることで、われわれは敗戦体制を克服することができるのではないか。
オバマ大統領はプラハ演説で「米国は核兵器保有国として、また核兵器を使用したことがある唯一の核兵器保有国として、行動を起こす道義的責任があります」と慎重な言い回しながら、はじめて原爆投下に対して「道義的責任」を明らかにした。オバマ大統領のこの言葉は、道義において日米の関係が対等あるいは逆転したことを表している。またオバマ政権は「核兵器のない世界」を目指すものの、歴代の政権と異なり自由、民主主義、人権などのアメリカの建国の理念に基づいて世界を指導しようとする外交姿勢が見られない。自ら超大国から普通の大国へと降りたがっているような外交姿勢である。日米関係で言えば、オバマ大統領は日本との支配・従属関係を打ち切ろうとしているかのようである。
だからこそ安倍政権はオバマ政権を叱咤激励するためにも自由、民主主義の価値観外交を実践していくべきである。
F35Bといずも
7月中旬に、ワシントン・ダレス国際空港に隣接する「国立航空宇宙博物館別館」(スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター)に行った。ワシントン市内にある「国立航空宇宙博物館」に付属するセンターで、本館よりもはるかに大きく、館内にはおよそ200の航空機と135の宇宙船が展示されている。
そこで興味深いものを見つけた。飛行機のエンジン部だけの展示である。排気ノズルの向きが変更できるような仕組みがあったので垂直離着陸機であることはすぐにわかった。説明を読むとF35Bとあった。恥ずかしながら日本が導入しようとしているF35に垂直離着陸型があるとは知らなかった。デモビデオを見ると、確かにF35だった。調べてみると、垂直離着陸にはつい最近成功したとのことだ。
一方8月に入って、海上自衛隊の艦艇で最大となるヘリコプター搭載護衛艦(全長248メートル、基準排水量約1万9500トン)「いずも」の命名・進水式が行われた。甲板は全通型で最大9機のヘリ(オスプレイーを搭載するのだろうか)を運用するヘリ空母ということだ。「垂直離着陸型の戦闘機を搭載する構想はなく、攻撃型空母にはあたらない。海上交通の保護や災害支援の任務を想定している」(『朝日新聞』8月7日、2013年)。
海自は否定するが、F35導入の本当の狙いは垂直離着陸機の導入にあるのではないか。いずもにF35Bを搭載して空母を持つ計画ではないだろうか。日本が空母を持つにしても、アメリカの空母のように全世界を航行する必要などない。日本近海とりわけ南西諸島方面で運用できれば十分である。F35Bだけでなく、ひょっとすると無人攻撃機を搭載する計画もあるのではないか。
7月に米海軍が無人機の空母着艦に成功した。このことは空母の運用方法が根本的に変わる可能性がある。無人機にどれほどの将来性があるのか、それを確かめるために、8月にワシントンで開催された無人機(Unmanned Vehicle)の展覧会に行った。大きな会場に百数十のブースがあり、様々な機器を展示していた。
航空機、車両、船舶などが展示してあるのではないかと思っていたが、実際に展示されていた武器を搭載した完成品はごく少数で、大半が部品であった。それこそケーブルやコネクター、エンジン、搭載するカメラ、通信機器等専門家、開発者向けの展示会という印象である。現在どれほど無人機が進歩しているかは展示会からはわからなかった。しかし無人機の開発に高い関心が寄せられているのはよくわかった。日本は当然参加していなかったが、韓国と中国(本土か台湾化不明)の企業が一社ずつ参加していた。またアメリカの大学が参加していたことには驚いた。
海自が無人機を開発してヘリ空母から運用できるかどうか、現時点では夢のような話だが、無人機の開発競争は止められないだろう。潘基文国連事務総長が無人機を国際人道法によって制限しようとしているのは、無人機が有効な証拠だろう。ちなみにホワイトハウス前では、しばしば無人戦闘機に反対するデモが行われている。
F35の無人型も開発されているようだから、いずれいずもが無人戦闘機F35の空母になっても驚くことはない。
新聞のブログ化
ワシントンに来てから朝日新聞と産経新聞をiPADで読むのを楽しみにしている。日本の朝六時、ワシントン時間前日午後4時には朝刊が読める。昔には考えられなかったことだ。一年近く両紙を読み比べて、気が付いたことがある。それは、両紙ともブログ化していることだ。両紙とも、ブログのように主張がきわめて明確で、客観報道の建前はとっくにかなぐり捨てている。
特に安倍政権誕生以降の両紙の安倍首相個人のみならず政策についての報道姿勢は全く対照的だ。産経はひいきの引き倒しといってもいいくらい安倍首相を褒めちぎり政策を支持している。他方朝日は安倍首相に私怨でもあるのか、とにかく彼のやることなすこと、どんな小さなアラでも見つけ出し安倍首相個人や政策をこき下ろしている。参議院選挙の時には、日本はいつからアメリカのように新聞社が支持政党を明確にするようになったのかと思うほど、産経は自民党支持、朝日は反自民の姿勢が明白だった。
iPADで新聞を読んでいるせいか、メルマガやブログの記事を読んでいるような思いにとらわれる。メルマガやブログは明確に自らの主張を打ち出し、賛成であれ反対であれ、それなりに読んでいて興味をひかれる。産経も朝日も、メルマガやブログのように旗幟鮮明にして読者の関心を引き、読者離れを食い止めようとしているのだろうか。
気になるのは、どちらか一紙しか読んでいない人は、それぞれの新聞からしか世界が見えず、世論が二分化していくのではないか、ということだ。もっとも産経の発行部数は2011年で160万部、対する朝日が771万部で四分の一以下だ。世論が二分されることはないかもしれない。ただネットでは、なぜか表現や論理が明確でわかりやすい産経のほうが読みやすい。
他方iPADで天声人語や日曜日の読書欄を読もうという気にならない。表現も論理も複雑で高尚で衒学的な天声人語や書評はネットに合わないようだ。天声人語の深い教養と知識に裏打ちされた内容をいったいどれほどの人が理解できるだろうか。わかりにくければ指でスワイプして読み飛ばす習慣がついたせいか、天声人語など2-3回スワイプして終わりということがほとんどだ。ネット配信の新聞は、紙媒体を単にネットに写し替えればそれで十分というわけではなさそうだ。ネットにあった内容の記事が求められるだろう。新聞のブログ化はその一端かもしれない。
話は違うがワシントン・ポストがアマゾンに売却された。もはや紙媒体の新聞は生き残れないだろう。ワシントン・ポストが経営に行き詰ったのは当然である。アメリカの新聞は街角の自動販売機か新聞スタンドで買うのが基本だ。日本のように宅配制度は発達していない。新聞販売の主力である自動販売機は昔と全く変わらず、コインしか受け付けない。30年以上も前ニューヨーク・タイムズは30セントだった。25セントと5セントの合わせて2枚の硬貨で買えた。現在ワシントン・ポストは、確か2ドルだったと思う。買ったことがないので正確な金額は知らない。2ドルだとすれば25セント硬貨が8枚もいる。ほとんどのアメリカ人は一ドル程度の少額の買い物でもデビット・カードでするために、そもそも硬貨をふだんあまり持っていない。わざわざ新聞を買うために硬貨を持ち歩く人などいない。つまり誰も新聞を買わない。実際新聞を買う人を見たことは一度もない。最近では自動販売機もあまり見かけない。またiPADでワシントン・ポストもニューヨーク・タイムズも無料でたいていの記事は読める。いったい誰が不便をしてまで紙の新聞を買いたいと思うだろうか。日米ともに紙の新聞の将来は暗い。
2013年7月27日土曜日
中米諸国の印象
1990年台まで内戦やクーデターなどで政権不安が絶えなかった中米諸国の現状を体感す
るために五日間かけてパナマからグアテマラまでを中米縦断バスで駆け抜けた。とりあえ
ず印象を記しておく。
通過した国(括弧内は街)はパナマ(パナマ・シティ)、コスタリカ(サンホセ)、ニ
カラグア(マナグア)、ホンジュラス(地方都市を通過)、エルサルバドル(サンサルバ
ドル)、グアテマラ(グアテマラ・シティ)、メキシコ(グアテマラ国境のタパチュラと
メキシコ・シティ)の7カ国である。経済規模を概観するためにGDPを比較する。
名目GDP(2012年)の順位(括弧内は世界順位)は上位からメキシコ(14)、グア
テマラ(77)、コスタリカ(81)、パナマ(88)、エルサルバドル(100)、ホンジュラス
(107)、ニカラグア(127)
一人あたりの名目GDP(括弧内はUS ドル換算)は上位からメキシコ66(10,247)、パ
ナマ67(9,918)、コスタリカ68(9,672)、エルサルバドル107(3,382)、グアテマラ
118(3,302)、ホンジュラス130(2,242)、ニカラグア134(1,756)である。参考まで
に日本13(46,735)である。個人GDPから判断すると、メキシコを除けば中米はパナマ、
コスタリカが第一グループ、エルサルバドル、グアテマラが第二グループ、ホンジュラ
ス、ニカラグアが第三グループである。
一方、道路、橋、建物等のインフラや人々の生活の様子等から受けた印象では経済発展
の度合いではグアテマラ、エルサルバドルが第一グループ、パナマ、コスタリカが第二グ
ループ、番外がホンジュラス、ニカラグアである。
中南米の経済大国メキシコに隣接するグアテマラそしてグアテマラに隣接するエルサ
ルバドルはメキシコ経済のトリクルダウン効果なのか、他の中米4か国よりは発展して
いる印象を受けた。グアテマラの発展の印象はメキシコと遜色はない。高速道路も本格
的なコンクリート造り、片側2車線ある。他の国はアスファルトの簡易舗装がほとんど
で、中米を縦断する長距離バスは上下、左右にずっと揺さぶられていた。グアテマラ
・シティは近代的な大都会で高層ビルも林立している。小メキシコ・シティといった印
象である。メキシコ経済の恩恵を受けているのか農業だけでなく商業や、軽工業も発展
しているようで、他の中米諸国ではあまり見かけなかった工場も散見された。エルサル
バドルは、メキシコ、グアテマラのトリクルダウン効果で恩恵を得ているのかインフラ
も比較的整備されており発展しつつある印象を受けた。
パナマの印象はロサンジェルスのヒスパニック地域といった趣である。パナマ運河両
岸は米国が租借しており、中米諸国の中でもっともアメリカの影響が強い国である。パ
ナマは自国紙幣を持たずアメリカドルで代用している。ただし単位はドルではなく、バ
ルボアである。硬貨は自国硬貨だが、アメリカの硬貨とそっくりである。
ドルが通用するかどうかがアメリカとの距離や経済の規模を物語る一つの指標とな
る。基本的にどの国でもドルは通用する。コスタリカは自国紙幣をもっているがドル札
は街中で通用する。エルサルバドルでもホテルの支払いはドル札、メキシコの国境の街
たパクラウゼヴィッツのホテルでもドル札で支払いができた。ただし経済規模が大きく
なるにつれ自国通貨への信用がまし、グアテマラ、メキシコでは基本的に自国通貨が優
先されるようだ。
今回の調査で驚いたことが二つある。一つはグアテマラ、エルサルバドルが予想以上
に発展した国家であったこと、そして今一つはニカラグア、ホンジュラスが破綻国家の
ような国であったことだ。両国の印象はあくまでも車窓から垣間見る人々の暮らしぶり
や国境地帯で旅行客相手の物売りの人々から得た印象である。
コスタリカからニカラグアに入って驚いたのは道路わきにたむろする馬の多さであ
る。牧畜に使用するのかと思ったが、放牧地と思われる場所には牛や羊などは見かけな
かった。交通の手段にしているのだろうか。ちなみにグアテマラ、エルサルバドルでは
放牧地に牛や羊の群れをよく見かけた。首都マナグアには車も少なく、三輪自転車の輪
タクが手軽な交通手段になっているようだ。木々に覆われた静かな街だが、要するに発
展していないということだ。首都に到着したことがわからないほどに車の往来も少なく
活気のない印象を受けた。バスの通り道が中心部を外れていたのかもしれない。それに
しても他の年に比較して活気の失せた街という印象である。
ニカラグアからホンジュラスに入り、地方を駆け抜けた。車窓から見るホンジュラス
の様相は一体この国の産業は何だろうかと思うくらい何もなかった。牧草地のような場
所に牛も羊もいなかった。畑のような場所にトウモロコシや他の作物が植えられている
様子もなかった。エルサルバドルやグアテマラでは平地にはもちろん、山の傾斜地にま
でトウモロコシが植えてあり、それだけにホンジュラスの様子が異様に映った。
さて今回の最大の目的は、日本で軍隊のない平和、民主主義、人権擁護、環境保護の
先進国として一部の日本人に高く評価されているコスタリカを調査することにあった。
結論はコスタリカは外交宣伝の上手な小国ということである。軍隊なき国家がニカラグ
アの三倍もの国境警備や治安維持費を計上している事、永世中立と言いながら親米であ
り安全保障は実質的にアメリカに依存している事、台湾と断交して中国と国交を樹立し
たことなど、表と裏の顔が全く違うことはいくらでも指摘できる(「加瀬ブログ」で現
地に在住する加瀬かずき氏がコスタリカの現状を詳しくリポートしている)。ある意味
予想通りの普通の国だった。
予想外だったのは首都のサンホセが海抜1000メートルの山間にある小さな街で、印象
はやはり高原にあるアフリカのルワンダの首都キガリに似ていたことである。このよう
な小国を外部勢力が侵略するなどあり得ない。脅威があるとすれば、他の中米諸国同様
(運河をもつパナマを除く)内戦が最大の脅威であり、内戦の脅威となる軍隊を廃止す
るのが最大の安全保障であることがよくわかる。また農業以外に産業が無かったために
教育に力を入れて人材を育成しなければならなかったこともよく理解できた。その結果
インテルが貿易特区に進出し中米では珍しく工業製品の輸出国になっている。
もう一つ予想外のことがあった。物価の高さである。食料品は日本の地方都市並み程
度の高さである。これでは暮らしていけない貧困層が多くいるはずだ。街には物乞い
や、わずかばかりの品物を並べて売る街路商があふれていた。そうかと思うと公園でジ
ョッギングを楽しむ人もいる。貧富の格差があるということは治安が悪いということで
あり、家や商店の窓や玄関には頑丈な鉄の格子が備え付けられ、塀には鉄条網が張り巡
らされていた。裏通りの小さな商店はケニア、フィリピン、パキスタンのように鉄格子
越しに商売をしている。
サンホセには中華街があり、多くの中国人が暮らしている。彼らの多くはパナマ運河
建設の際に移住してきた中国人の子孫のようだ。街にはam/pm、ケンタッキー、マグド
ナルド(ちなみにグアテマラはバーガーキングが目についた)など外資も随分と進出し
ている。
コスタリカは首都の地勢学的条件だけでなく経済構造もルワンダに似ている。ルワン
ダはIT、農業そしてゴリラ見物の観光 で成長している。ルワンダの先を行くコスタリカ
もITと農業そして自然観光で成長する普通の国である。にもかかわらずとりわけ日本人
しかも一部の日本人がコスタリカを平和と人権の国として高く評価するのはどういうこ
となのだろうか。一度もいった事のない人が憧れでコスタリカを賛美するのは無知の一
言で批判できる。しかし、実際に訪れた人までもが事実と反することを言うのはどうし
てなのだろうか。たとえば元朝日新聞の記者伊藤千尋氏が「マガジン9」というメルマ
ガのインタビューに応えて、コスタリカの警官は銃を所持していないと記していたが、
私が見た街のあちこちに拳銃を持った制服姿の男女は警官ではなかったのだろうか、警
官でなければ一体誰だったのだろうか。
コスタリカは日本人平和愛好者がスイスに代えて平和国家に仕立て上げたいのだろ
う。確かにコスタリカは他の中米諸国と比べてある意味では特異な国である。それはス
イスやルワンダのように山間の小さな国家という地勢学的条件が大いに寄与している。
コスタリカの場合はスイスよりさらに地政学的条件に恵まれている。脅威となる外部勢
力といっても地続きなのは南北のパナマとニカラグアだけである。東西はカリブ海と太
平洋である。大きな町といっても首都のサンホセくらいしかない。そのサンホセも標高
約1000メートルの高地にあり、ある意味要塞のような国家である。サンホセの中心部は
端から端まで歩いて一時間もかからない。つまり外部の脅威に対処する軍隊など初めか
ら必要のない国なのである。コスタリカを平和国家として賛美する人々の前提条件は、
コスタリカがあえて軍隊を持たない国ということにあるのだろうが、もともと外部勢力
に対処するための軍隊や政治の手段としての軍事力などとは無縁の国家である。
コスタリカを日本の目標にするなら、日本もコスタリカ程度に世界の政治、経済に影
響力のない小国になることだろう。ひいきの引き倒しにならないように、北朝鮮を地上
の楽園と囃し立てたような悲劇が二度と起こらないように、日本のコスタリカ「愛国主
義者」はあまりコスタリカを地上の楽園のように宣伝しない方が良い。
2013年7月8日月曜日
慰安婦問題は歴史問題ではない
橋本徹大阪市長のいわゆる「慰安婦問題」発言をめぐって20年ぶりに同問題をめぐって日本国内では議論が大いに盛り上がっているようだ。ワシントンでは、一部の利益団体を除き、ほとんど関心の埒外である。
ネットで秦郁彦と吉見義明のTBSのラジオ討論を聞いて驚いた。慰安婦問題に20年前とは全く違った争点が出てきている。現在の慰安婦問題の核心は、慰安婦に「居住の自由、外出の自由、廃業の自由、接客拒否の自由」が無かったから「性奴隷」の状態にあったということ、さらに慰安婦制度のみならず公娼制度も事実上の人身売買に基づく制度だということである。20年前の吉見氏の論点は、軍による強制連行の有無だった。彼は、防衛研究所にあった陸軍大蜜記を元に軍の強制連行があったと主張していたはずだ。しかし、その資料では、軍が直接強制連行した証拠としては弱く、強制性や広義の強制と言ったあいまいな言葉にすり替えられ、国内では次第に論争は沈静化していった記憶がある。もっとも国連では日本弁護士連合会が慰安婦問題を国連で取り上げるようにロビー活動を展開し、国内よりも国際社会では盛り上がっていたのかもしれない。国連だけではなくアメリカにおいても2007年にはマイク・ホンダ米下院議員らが慰安婦問題で日本を非難する下院決議121号を可決させ、以後慰安婦問題は、のどに刺さった魚の小骨のように日米同盟をチクチクと痛めている。
同決議を読むと、吉見氏が現在慰安婦問題の核心として取り上げている問題点(下線部)がそっくりそのまま記されている。誤解のないように原文を掲載する。
Whereas the `comfort women' system of forced military prostitution by the Government of Japan, considered unprecedented in its cruelty and magnitude, included gang rape, forced abortions, humiliation, and sexual violence resulting in mutilation, death, or eventual suicide in one of the largest cases of human trafficking in the 20th century;
(日本政府が強制した兵士のための娼婦すなわち「慰安婦」制度はその残虐さや規模において前例のないものと考えられる。それは20世紀における最大規模の人身売買の一つであり、そこでは集団強姦、強制堕胎、辱めそして女性器切除や死に至る、あるいは最後には自殺に追い込まれるような性的暴行等が行われた)。
Whereas the Government of Japan, during its colonial and wartime occupation of Asia and the Pacific Islands from the 1930s through the duration of World War II, officially commissioned the acquisition of young women for the sole purpose of sexual servitude to its Imperial Armed Forces, who became known to the world as ianfu or `comfort women';
慰安婦問題はアメリカでは人身売買に軍が関与しており、さらに「性奴隷」の目的だけに日本政府が慰安婦システムを作ったことにされている。つまり 慰安婦問題は軍の強制があったかどうかという問題ではなく、性奴隷とするために日本政府が人身売買を行っていたことになっている。
もし、これが事実なら(吉見氏ら日本人も含めほとんどの外国人はこれが事実だと思っている)、日本政府は1921年の「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」すなわち売春とそれに伴う女性と児童の人身売買を禁止するための条約に違反することになる。それどころか軍であろうが民間であろうが、誰であっても売春と売春目的の人身売買は禁止されており、日本政府は取り締まらなければならなかった。しかし、実態は条約以降も売春は続いている。
それは、抜け道があるからである。強制売春ではなく自ら仕事として行う自由売春や自由恋愛という形態をとれば問題が無いからである。だから今でも売春はある。たとえばセックス・ワークとしての自由売春はオランダの飾り窓やアメリカのネバダ州など世界でもいくつかの国や地域が公娼制度を認めている。また自由恋愛という形式をとれば、日本のソープランドや風俗店や援助交際のようにほぼ公然と売春ができる。
また人身売買も、借金を返すという方便で身を売るという方法によって、法の網をかいくぐったのである。この借金の代わりに働くというのは、世界中どこでも行われていた労働形態である。売春に限られた労働形態ではない。日本では年季奉公(indentured servitude)という徒弟制度の中で多く行われた労働形態である。ただし、いつまでも借金が減らない、年季が明けても解放されないなど奴隷と変わらない状況になりがちで、現在では年季奉公は多くの国で奴隷労働として禁止されている。
秦、吉見両氏の論点は、結局前借による売春が人身売買にあたるかどうかということにあり、もはや軍が関与したかどうかではない。もし人身売買にあたるとするのであれば、戦地での慰安所の問題だけでなく内地での遊郭も問題となる。吉見氏は戦前の遊郭も人身売買に基づいており奴隷制度であると非難している。つまり日本政府全体の問題であり、単に軍が関与したかどうかが主要な争点ではない。
一方で秦氏は当時の状況を踏まえ、前借による売春は人身売買とはみなさない。親のため、家族のために身を売るということもあったろう、時には女衒に騙されて苦界に身を沈めることもあったろう、事情は人それぞれであり、人身売買とひとくくりにして糾弾することは難しい、というのが秦氏の主張である。慰安所は遊郭の延長線上にあると秦氏が主張するのも、そうした思いがあるからだろう。
私は心情的には秦氏を支持する。吉見氏の論に従えば、いわゆる遊郭文化は女性の人権を蔑にする不届きな奴隷文化ということになりかねない。さしあたり落語家は「明烏」「品川心中」などの廓噺を語ることはご法度になるだろう。廓文化を肯定することも憚られようになるだろう。遊郭を舞台にした宮尾登美子の小説は焚書になりかねない。文化と制度は違うという声が聞こえてきそうだが、少なくとも廓文化を肯定することは許されなくなるだろう。
日本人ですら遊郭を知らない昨今、外国人に日本の遊郭について理解せよというのは土台無理な話である。TVタックルの慰安婦問題の回でアメリカ人のジェームス・スキナー氏が奴隷の定義を盛んに他の出演者に問いかけていた。売春であろうが丁稚奉公であろうが親が借金のかたに子を売るのは立派な人身売買であり、借金を返済するまで働かされるのは文字どおり奴隷というのが彼の主張である。というよりも現在の国際社会の通念である。「おしん」はまさに奴隷だったのだ。親や家族のためにわが身を犠牲にすることを倫理的によしとするか、親子であっても別人格と考えるか、慰安婦問題の根底には文化の断絶がある。
慰安婦問題は今や日本と中韓の間の歴史認識問題ではない。ちょうどイスラム文化と欧米文化が女性の人権をめぐって対立しているように、欧米のグローバル・スタンダード文化と日本文化の対立という側面が出始めている。人権は普遍的概念であり、文化によって人権概念が変わることはない、というのが現在の国際通念である。
今、慰安婦問題は欧米のグローバル・スタンダードの人権概念に基づいて議論されている。いくら日本が昔ああだった、こうだったと言っても、何の役にも立たない。慰安婦問題は歴史問題ではない。現在の人権問題である。小林よしのりが言うように、慰安婦問題の議論で日本は周回遅れになっている。外交的にはもはや全面的に敗北である。やくみつるが言うように謝って、謝って謝り倒すしか方法はない。それは具体的には現在の人権基準で慰安婦問題を解決し、中韓とりわけアメリカからの批判を跳ね返し、彼らに対して倫理的に優位に立つ必要がある。
残念ながら日本は敗戦国である。中韓が国力を増大した今、日本は尖閣問題や慰安婦問題によって彼らから敗戦の落とし前を要求されているのである。そしてアメリカも金の切れ目が縁の切れ目とばかりに米中関係重視に動き始めている。金と力の亡者が暗躍する国際社会で日本が生き残るには道義国家となること以外にない。
2013年6月11日火曜日
米中「同盟」に楔を
米中首脳会談で中国の帝国主義的性格が露わになった。それは、次の文言である。「太平洋には両国を受け入れる十分な空間がある」。言い換えるなら、現在の空間は不十分だということに他ならない。その背景には帝国主義、植民地主義の人口過剰、資源不足という問題意識があるのだろう。
我々日本人は、この空間概念には苦い思い出がある。日本の大陸進出のイデオローグである徳富蘇峰は『大日本膨張論』で「六畳の部屋に二人の同居を要するがごとき窮屈なる国土」(11ページ)と、当時の日本の人口に比して国土が狭いことを理由に大陸への進出は不可避と論じた。その結果が惨憺たる敗戦である
人口過剰のイデオロギーは日本固有のものではない。後発帝国主義国であったドイツ、イタリアも同じである。アメリカの国際政治学者ハンス・モゲンソーは、これらの国は、「空間に恵まれぬ国民」であり、もし「生活空間」を獲得できなければ「窒息」するほかなく、またもし原料の供給源を獲得できなければ「餓死」するほかない、とのイデオロギーでその膨張政策を正当化し、帝国主義的目標を偽装したと『国際政治』で論じている。日独伊に続くのは中国である。
これまでオバマ政権は中国と北朝鮮の核問題やサイバー戦争などをめぐって外交戦や低強度戦を戦ってきた。すでに米中は戦争状態にある。そのアメリカが首脳会談を中国に呼びかけたことは、中国に休戦を申し入れたに等しい。その意味で今回の首脳会談はアメリカが超大国の座から滑り落ちる分水嶺となった会談として歴史に残るだろう。
なぜアメリカが休戦を望んだのか、最大の理由は経済問題であろう。国防費の大幅な削減で将来的にはかつてのイギリスのように世界から軍事力を引かざるを得なくなる。その時まず間違いなく中東よりもアジアが先だ。今はアジア回帰を標榜しているが、それはこれまで中国が政権交代期に当たり、比較的安定していた中東よりも焦点を当てざるを得なかったからである。
しかし、シリア情勢やイランの核開発など中東情勢が次第に緊迫し始め、今後は再び中東に回帰することになるだろう。そのためには中国と協力してアジア太平洋の安定を確保する必要がある。かつては日米同盟こそアジア太平洋に不可欠と言われたが、今回の首脳会談でオバマは「米中関係は両国の繁栄と安全保障だけでなく、アジア太平洋と世界全体にとっても重要だ」と述べている。日米関係よりも米中関係が重視される時代になってきている。
振り返ってみるとオバマ政権になってから外交政策で見るべき成果は上がっていない。核兵器のない世界の演説で世界を熱狂させ、核兵器のない世界が実現する前にノーベル平和賞を授賞してしまった。ノーベル平和賞をとって歴史に名を残せたので十分と言わんばかりに外交に身が入らない。そこに中国が台頭し、なりふり構わぬ膨張政策を展開している。オバマ政権は防戦一方である。心理的にはアメリカはもはや負け戦を戦っているようだ。
その何よりの証拠が、尖閣問題である。アメリカは尖閣問題に巻き込まれるのを嫌がっている事自体、同盟国としての責任放棄である。尖閣諸島の施政権を日本に返還する決定を下した(日本にとっては当然だが)のはアメリカである。尖閣問題をめぐっては、決してアメリカは第三者ではない。また学界でもオフショアー・バランシングなる戦略論が学界で話題になり、それをゲイツ元国防長官がアメリカの次の大戦略などともてはやした。オフショア・バランシングは19世紀のイギリスの戦略の焼き直しに過ぎない。オフショア・バランシング論が議論されること自体、アメリカがすでにイギリスと同じ島国になっている証拠だ。
島国のアメリカにはトルーマン・ドクトリンに匹敵するような世界像を描ける指導者、学者がいない。仮にオバマ政権が世界像を描いたとして、もしそれがG2の米中共同覇権で太平洋分割なら、日本外交の最大の悪夢「朝海の悪夢」が正夢になる。その結果、日本は中国の属国になるか、歴史が繰り返され米中との対立に追い込まれるか。日本は米中関係に楔を打つ以外に生き残ることはできない。。
2013年6月9日日曜日
憲法改定に断固反対する
憲法の改正に断固反対する。とりわけ憲法96条の改正は百害あって一利なしだ。今、日本と中韓は思想戦の真っ最中である。中韓は閣僚の靖国参拝や橋本発言をとらえて、日本が戦後の民主主義の価値観を守らず戦前の軍国主義の価値観に戻ろうとしていると非難している。そのような時に、憲法改正の動きを見せれば、中韓に塩を送るようなものだ。知日派を除けばアメリカ人の多くも決して日本には味方しない。憲法を改正しなくても、集団的自衛権は政府解釈を変更すれば済むことだ。自衛隊の名前を国防軍に変えたところで自衛隊が急に強くなるわけではない。憲法改正は対米自主独立、自主防衛を夢見る一部の人々の自己満足に過ぎない。
知日派のジョンズ・ホプキンズ大学ケント・カルダー教授が2008年の『日米同盟の静かなる危機』で、ワシントンだけでなくアメリカ全体で日本の存在が希薄なっていることに警鐘を鳴らしていた。それから、すでに5年がたっている。ワシントンでは今や日本の姿は4月の桜祭りでしか見られない。安倍首相の訪米は地元のニュースにもならなかった。ましてや、ゴールデン・ウィークを利用して訪米した閣僚や議員のニュースは地元新聞でさえほとんど載らない。NHKやネットのニュースを見たり、日本の新聞を読んで彼らの訪米を知ることがほとんどだ。
その一方で中国や韓国の存在感は驚くほどだ。中国系、韓国系アメリカ人はもとより在米中国、韓国人は日系アメリカ人や在米日本人の数をはるかに凌駕している。中国人の人口の多さを物語るように、ワシントンでは中国の新聞販売機を街角のあちこちで見かける。アメリカのメディアの関心も中国や韓国に移りつつある。韓国の朴大統領の訪米やインタビューはCBSが全米放送した。だから中国や韓国が取り上げる反日ニュースは、アメリカでも即座にニュースになる。特にワシントン・ポストは昨秋以後、とりわけ安倍政権誕生以降、慰安婦問題や歴史認識で日本の右傾化を記事にしている。アメリカ・メディアが手ぐすね引いて待ち構えているところに、「飛んで火にいる夏の虫」になった橋本徹大阪市長が飛び込んでいった。まさに橋本炎上だ。
ためしにamzon usでcomfort women japanで検索を掛けてみてほしい。196件も出てくる。もっと絞り込んで comfort women sexual slavery in the japanese military during world war ii で検索を掛けてみても23件も出てくる。どれほど、慰安婦問題がアメリカで注目されてきたかがわかるだろう。いくら慰安婦の証拠はないと言っても、アメリカも日本やベトナムに慰安所を作ったではないかと言っても、アメリカ人には決して伝わらない。キリスト教文化圏の彼らには、落語の「明烏」や「品川心中」に描かれたような遊郭の文化はない。あるのは韓国や日本でもそうした文化を否定してきたキリスト教の人権概念だけだ。反論すればするほどかえって韓国や中国の反日宣伝に利用される。
ことは慰安婦問題だけではない。憲法改正を言えば歴史認識も疑われてしまう。安倍首相が侵略の定義はないと言っただけでも右傾化の証拠にされてしまう。こんな時に憲法改正を持ち出そうものなら、日米同盟に致命傷を与えかねない。日米同盟は「トモダチ作戦」で万全になったわけではない。それどころか、「トモダチ作戦」くらいしか日米同盟を結びつける理由がないと考えた方が良い。同盟は軍隊同士の結びつきだけで維持されているわけではない。もっと重要なのは日米両国が価値観を共有することである。そもそも日米同盟はイデオロギー同盟だった。小泉政権時代にはブッシュと自由民主主義の価値観を共有し同盟関係は安定していた。しかし、反米左派的民族主義の傾向が強かった鳩山政権はアメリカとの間で価値観に齟齬が生じ、対中戦略、対朝鮮半島戦略の土台である日米同盟に亀裂が入った。安倍政権は土台に入った亀裂をふさがなければならない。その安倍政権が憲法改正等反米右派的民族主義政策をとってどうするのだ。アメリカでは反米右派的民族主義を軍国主義という。それには、アメリカに日本が右傾化したと思われないよう、また中国や韓国に決して反日の口実を与えないよう、親米派安倍政権には慎重な政策運営が必要である。今憲法改正を提案する等、下策の下策である。
2013年4月23日火曜日
日本・NATO政治共同宣言は対米イエロー・カードだ
2013年4月15日、日本と北大西洋条約機構(NATO)の初めての共同政治宣言が安倍首相とラムスセンNATO事務総長の間で調印された。今回の政治宣言のもとになったのは、2007年1月12日にラトビアの首都リガで開かれたNATO 理事会における安倍首相(当時)の演説にある。今回の政治宣言の内容は、ほぼその時の演説の内容をなぞったものであり、ある意味リガ演説を政治公約として今回NATOに提示したことになる。
共同政治宣言の肝は、「日本及びNATOは,個人の自由,民主主義,人権及び法の支配といった価値を支持している。我々は,これらの共通の価値及び各々の国民の自由及び安全を擁護する決意を有している」にある。リガでの演説でも、「日本とNATOはパートナーです。日本とNATOは、自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有しています。これらの価値を擁護 し、普及していくために日本とNATOが協力していくのは当然のことです」と、冒頭で首相は明言している。今回の宣言は、その意味で、日本とNATOは同じ価値観を共有する「イデオロギー同盟」であることを確認したのである。
ところで、日本とNATOが自由と民主主義の同じ価値観を有するのは、当然のことである。なぜなら戦後日米が安保条約を締結する際に手本としたのがNATO条約(正確にはNATというべきだが通例にしたがってNATO条約としておく)だからである。旧安保条約では第四条と第九条がそれぞれNATO条約の第三条、第九条を参考にして書かれている。
他方、新安保条約は前文の内容はNATOとほぼ同じである。たとえば、新安保条約では「日本国及びアメリカ合衆国は、両国の間に伝統的に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し」とある。一方NATO条約は、「締約国は、民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配の上に築かれたその国民の自由、共同の遺産及び文明を擁護する決意を有する」。両条約に明記されている「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配」の原則は、戦後一貫して日本、アメリカ、NATO諸国を結びつける共通の価値であり、三者は価値同盟を形成してきたのである。
さらに専門家もあまり注目していないが、両条約の第一条、第二条は句読点(ピリオド、カンマ)まで含めてそっくりである。第一条は国連の枠組みの中に条約があることを明記しており、同じ内容になることはある意味当然である。注目すべきは新安保条約の第二条である。第二条が経済条項であることはよく知られている。この条項はアメリカが日本政府の反対を押し切ってNATO条約の第二条をそっくりそのまま挿入したのである。この経済条項の故に日本とNATO諸国は経済同盟の関係にあると言ってもよい。
アメリカの意図がどこにあったのか必ずしも明確になっていないが、日米安保は集団的自衛権の問題を除けば、NATOとの集団安全保障体制に実質参加できる。それほどに両条約の内容はそっくりである。実際、今回の政治共同宣言はそうした動きの一歩とも思えるほど国際紛争での協力関係を謳っている。
日米安保とNATO 条約はアメリカを媒介項としてつながってきた。冷戦時代は対ソ軍事同盟であり経済同盟であり何よりも価値(イデオロギー同盟)だった。
価値同盟としての日、米、NATOの間にひびが入ったのは、米中国交回復の時である。ヨーロッパの勢力均衡の旧い政治から決別したはずのアメリカが、キッシンジャーの勢力均衡外交(ニクソンが主導したと最近ではいわれているが)によって、価値を共有しないはずの中国と事実上の対ソ軍事同盟を締結したのである。この時明らかにアメリカは、三者の間にある「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配」の原則を無視したのである。そして現在キッシンジャーをはじめ一部の親中派は、今またこの基本原則、共通の価値を無視して、単に力の論理のみで中国との覇権の共有を画策している。アメリカが共有すべきは日本やNATO諸国との「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配」の価値であって、中国との権力政治ではない。
今回の日本・NATOの政治共同宣言は、日本とNATOが国際紛争の解決で協力する安全保障同盟でありまた価値同盟であることを確認した。また同宣言は、中国に対するけん制というよりもむしろ権力政治を志向し、「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配」の価値同盟を否定しかねない対中政策を志向するアメリカへのイエローカードである。
2013年3月30日土曜日
自由民主主義を守れ
フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」(『ナショナル・インタレスト』1989年、夏号)で高らかに自由民主主義の勝利を宣言し、歴史は終わったとまで言い切った。東欧諸国の民主化、ソ連の事実上の敗戦というまさに世界史的な国際情勢の変化を受けて、フクヤマの高揚感はアメリカ国民ならず日本を含めて西側諸国民に共通する感情だったろう。そのフクヤマが「歴史の未来-自由民主主義は中産階級の没落から生き残ることができるか」(『フォーリン・アフェアーズ』2012年、1月/2月号)と題する論文を寄稿している。現代の世界標準の思想(the default ideology around much of the world today)である自由民主主義を支えている中産階級が、産業構造のスマート化や経済のグローバル化で衰退しており、自由民主主義の「歴史の未来」が危機に瀕している、というのである。中でも、自由民主主義に対する「単一で最も深刻な挑戦」は、部分的な市場経済と専制政府が合わさった中国である、というのである。
フクヤマの見立て違いやご都合主義的な世界解釈をあげつらうつもりは毛頭ない。冷戦終焉直後に中国の台頭を予想できた者はほぼ皆無だった。ましてや、中国が資本主義経済を導入し事実上共産主義を放棄する一方共産党独裁を堅持することなど予想もしなかった。いずれ中国も自由民主主義に基づく政治経済体制が樹立されると思われていた。しかし、中国は民主化されるどころか、独裁的政治をますます強めつつある。こうした現在の世界を、山本吉宣らは「先進国/新興国(ポストモダン/モダン)複合体」(『日本の大戦略』)と呼んでいる。フクヤマもナショナリズム中心の歴史国(モダン)とグローバリズム中心の脱歴史国(ポストモダン)の混在する世界を想定していたが、それはあくまでもいずれ世界はポストモダンになるとの予想があった。しかし、ポストモダンの指標が自由民主主義とすれば、モダン国家はモダンにとどまり続けるだけでなく、山本らも懸念するように欧米や日本のような自由民主主義のポストモダン国家がモダン国家に逆戻りする可能性さえある。
自由民主主義が、フクヤマの言うようにある程度の財産と知識を持った人々によって支持されるとするなら、中国で自由民主主義が根付くのは絶望的に困難である。何しろGDPで中国がアメリカを追い越したとしても、人口比から考えれば、一人当たりGDPはアメリカの三分の一という新興国のレベルにしかならないからだ。豊かな中産階級が増えるどころかむしろ、欧米や日本のように市場主義経済のグローバル化が進み貧富の格差が広がるだろう。このことは、中産階級が支える自由民主主義が必ずしも未来の世界標準の思想にはならない可能性があるということだ。
では自由民主主義に代わって何が世界標準の思想となるのか。それが何か今はまだ不明である。しかし、国力の増大とともに中国の一部で主張され始めている「イーストファリア体制」にその未来の思想が垣間見える。現在の西洋キリスト教文明に基づくウエストファリア体制を否定する、つまり西欧流の自由民主主義ではなく自由と民主主義を共産党の独裁の下に置く反西洋の専制思想である。現代版華夷思想と言えるかもしれない。将来の世界はウエストファリア体制とイーストファリア体制の対立となるかもしれない。
フクヤマの見立てが間違っていたとしても、自由民主主義こそ世界標準の思想であることにいささかの疑いをさしはさむ余地はない。自由民主主義は、これまでドイツや日本のファシズム、ソ連の共産主義の挑戦を受け、これらを退けてきた。フクヤマが間違えたのは、中国の東洋的専制主義を見落としていたことだ。日米欧のポストモダン国家は一致協力して自由民主主義を中国の専制独裁主義から死守すべきだ。
2013年1月7日月曜日
憲法九条を日本の国家ブランドに
阿部政権が誕生して、憲法九条改正の可能性が地平線の向こうにかすかに見え始めてきた。これも小選挙区制のなせる業であろうか。中選挙区制の時には、自民党が衆参で多数を占めるものの、常に野党が憲法九条改正阻止に必要な三分の一以上の議席を占めていた。そのため憲法九条改正は実現できなかった。しかし、次期参議院選挙の結果次第では、自民党や日本維新の会など憲法九条改正を主張する政党が連携すれば改正に必要な三分の二以上の議席を衆参両院で獲得することができる。国民投票というハードルはあるものの、昨今の国内外の情勢を見るに、風が吹いて一気に憲法九条改正ということになりかねない。
しかし、冷静に考えてみよう。今憲法を改正して自衛隊を軍隊として認め国防軍と呼称を変えたとして、また「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と自民党改正案の九条二項のように集団的自衛権を認めたとして、現状とどれほどの差があるのだろうか。第一次安倍政権の時に防衛庁が防衛省に名前が変わったが、それで自衛隊が強くなったという噂も、予算が増額されたという話も聞かない。
また集団的自衛権の問題も憲法改正の問題ではなく政府解釈や政策の問題である。国家には個別も集団もなく自衛権はある。何も鶏頭を割くに牛刀を用いるような愚を犯すべきではない。だからと言って、自民党改正案に反対する護憲派原理主義者のように国家の自衛権をすべて否定し国家が国民を守らないのなら、アメリカのように個人の自衛(武装)権を憲法で保障すべきである。自衛権無き国家は近代国家ではないが故に、自衛権の否定は国家の否定である。であれば憲法が保障しなくとも個人に武装権はある。要するに、今憲法九条を改正しても現状と全く変わらない。それどころか百害あるのみである。
今憲法を改正すれば戦後記事浮あげた平和国家としての国家ブランドを大きく毀損することになる。経済大国としての国家ブランドは中国に譲ってしまった。技術大国という国家ブランドも韓国や台湾のメーカーに脅かされている。今や残るは平和大国という国家ブランドだけである。憲法九条の改正は、この国家ブランドを自ら破棄するに等しい。アメリカが自国を自由と民主主義の国として世界中に宣伝しているように、日本も平和大国のイメージを世界中にアピールすることが、日本外交にとって価値観の混迷する国際社会に対するソフトパワーになる。
では中国や北朝鮮から攻撃されたらどうするのか、という反論が改憲派から聞こえてきそうである。今まで通り暗黙の裡に、あるいは集団的自衛権の政府解釈を変更して、今まで以上に日米同盟を強化すればいいのである。自衛権の行使は憲法問題ではなく政策問題である。憲法改正をしなくてもできることである。政府解釈の変更は護憲派からは憲法違反だという絶叫が聞こえてきそうである。ならば現実に中国や北朝鮮などの脅威にどのように対処するのか。国家による防衛に反対するなら、前述のように、個人の武装権を認めるべきである。
改憲派も護憲派も、原理主義的な空理空論の議論ばかりである。憲法を改正しなければ日本を守れない、他方憲法を改悪すればすぐにでも戦争が起きるなどいずれも、現実を無視した議論である。こうした情緒的な議論が交わされること自体、実は憲法九条が現実の日本の安全保障とは無関係であることの証拠である。字義通りに九条を解釈するなら自衛隊が違憲の存在であることは明明白白である。しかし戦後の民意は憲法九条の解釈とは無関係に自衛隊の存在を黙認することで、憲法の理念と現実とを妥協させるという絶妙なバランスを維持し、しかも対外的には平和国家のブランドを築き上げてきたのである。今問われているのは憲法改正ではなく、このブランドをこれからもいかに育てるかである。
それには何よりも憲法九条を実践し、世界に平和大国のブランドを宣伝することである。それは護憲派の使命である。改憲派が非難するように、護憲派は憲法九条を守るために身命を賭したことなど一度たりともない。憲法を守るとは、改憲に反対するというネガティブな政治運動でもなければ、九条教のように読九や写九することでも、「窮状の歌」を歌い「九条ダンス」を踊ることでもない。九条の平和の理念を身命を賭して国内外で実践することである。皮肉にも自衛隊員は自らを否定する憲法(constitution,国体)を守るために身命を賭すことを入隊時に宣誓させられる。護憲派も少なくとも自衛隊員と同じほどの覚悟をもって護憲を実践すべきであろう。
そのために憲法九条部隊を創設しよう。海外に派遣されている自衛隊PKO部隊に代わって、非武装の憲法九条部隊が紛争の調停、平和創設にあたるのである。さしあたりシリアに憲法九条部隊を送って、内戦を停止させる。多くの犠牲者が出るであろう。しかし、その犠牲者が多ければ多いほどいかに日本人が平和を希求しているかを全世界に知らせることができる。かつて内村鑑三は非戦の立場から日露戦争に反対した。その一方で彼はこう主張して出征する兵士に従容として死地に赴くように諭したのである。「戦争も、多くの非戦主義者の無残なる戦死をもってのみ、ついに廃止することのできるものである。可戦論者の戦死は、戦争廃止のため には何の役にもたたない」(「非戦主義者の戦死」『内村鑑三信仰著作全集21』教文館)。
憲法九条部隊には私が真っ先に志願する。憲法九条の会の会員はもちろん、私ごとき名もなき凡夫よりも瀬戸内寂聴氏、大江健三郎氏ら世界的に名を知られた人が志願すれば宣伝効果は絶大である。一層のこと60歳以上の老人は男女を問わず憲法九条部隊に徴兵してはどうか。孫、子のためなら、命を投げ出しても惜しくはないだろう。
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