2013年8月29日木曜日

キング牧師の「夢」演説から50年

今日(2013年8月28日)マーチン・ルーサー・キング牧師の「私には夢がある(I have a dream)」演説から50周年記念の式典が、50年前と同じ場所、リンカーン記念堂前で行われた。50年前には立錐の余地ないほどの20万人から30万人が集まったといわれる。今回は多く見積もってもその半分か三分の一くらいだろうか。時折雨のちらつく蒸し暑い気候に加え、とにかく警備が厳しく、結局会場に入れなかった人も多くいたのではないだろうか。一般入場者のゲートには10台の金属探知機しかなく、荷物検査も空港の検査場並みの厳しさだった。式典開始の30分前には会場前に着いたが、50メーター先のゲートをくぐるまで2時間かかった。 ゲートからさらに10分ほど歩いてリンカーン記念堂の近くまで行くと、すでに式典の半分は終わり、オプラ・ウィンフリーの演説から聞き始めることになった。三人の女の子の国家斉唱の後、オバマ、クリントン、カーターやキング牧師の子供などが演壇に立ち、熱のこもった演説をした。終わったのが三時半過ぎ。帰りも大混雑で、会場を出るのに小一時間かかった。 ニュースを見ると、聞き逃した前半もキャロライン・ケネディをはじめ何人もの有名人が演説をしたようだ。演説の合間、合間には有名歌手が歌を歌っていたが、要するに弁論大会だった。アメリカ人にとって演説がいかに身近で、重要か肌身で感じた。演説中にも拍手や口笛が絶えることはなかった。毎週日曜日の朝、アメリカのテレビではメガ・チャーチと呼ばれる屋内球場ほどの教会から牧師の説教が放映される。キング牧師が演説がうまいのは説教で慣れていたからだろう。オプラ・ウィンフリーはテレビの司会者だったが、政治家のように演説がうまい。カーターもクリントンも聴衆を引き付ける演説をしていた。要するに皆演説がうまい。 オバマは最後に登壇したが、30分以上の長広舌だった。カーター、クリントンが数分程度だったのに比べ、いささか長かった。夜のCBS のニュースで、「演説はキング牧師ほどではないよ」と前日のインタビューで予防線を張っていたが、やはりキング牧師を意識していたのだろう。彼のいう通り、内容はそれほどでもなかったが、驚いたのは彼が原稿を読んでいなかったことだ。最初から最後まで目線を一度も下に落とすことはなかった。どこかにプロンプターがあったのだろうか。しかし、ほかの演者は明らかに原稿を読んでいた。原稿を見ずに30分以上、言いよどむことなく演説を続けたのは見事としか言いようがない。英語は音声言語であり、日本語は文字言語だということを痛切に感じた。日本人が演説べたなのは、日本が耳から理解する音声言語ではなく目から理解する文字言語に原因があるのではないか。 多くの演者に共通する言葉はやはり夢と自由だ。改めて思うが、アメリカは夢の国だ。夢のような国というのではない。夢がナショナル・アイデンティティになっているということだ。American Dreamからキング牧師のI have a dream そしてディズニーのDreams come trueまで、未来に目を向け、明日を信ずる国民性こそアメリカの原動力になっているのではないか。明日が信じられるからこそ、たとえば子供もたくさん産める。貧富の格差の広がったアメリカの状況では日本人ならとても二人も三人も子供を持とうという気にはならないだろう。ワシントンだけでなくほかの多くの都市でたくさんの子供を連れた家族に出会う。もちろん夢破れた子連れのホームレスも多くいるのだが、彼らもまた夢を信じ、再度チャレンジするのだろう。 対照的なのは日本人だ。八月の敗戦記念日ということもあるが、隣国から口出しされなくても、とにかく過去しか見ていない。懐旧譚にふけるか、ああでもないこうでもないと過去を反省するか。民族性なのだろうか。それとも時代の問題なのだろうか。後ろ向きの徒競走をしているようで、ゴール(夢)が全く見えていない。 イラク戦争の反省もせずシリア攻撃で夢(理想)ばかりを語るアメリカもどうかと思うが、侵略と植民地支配の反省ばかりで夢を語ることを忘れてしまった日本もどうかと思う。

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