2013年1月7日月曜日
憲法九条を日本の国家ブランドに
阿部政権が誕生して、憲法九条改正の可能性が地平線の向こうにかすかに見え始めてきた。これも小選挙区制のなせる業であろうか。中選挙区制の時には、自民党が衆参で多数を占めるものの、常に野党が憲法九条改正阻止に必要な三分の一以上の議席を占めていた。そのため憲法九条改正は実現できなかった。しかし、次期参議院選挙の結果次第では、自民党や日本維新の会など憲法九条改正を主張する政党が連携すれば改正に必要な三分の二以上の議席を衆参両院で獲得することができる。国民投票というハードルはあるものの、昨今の国内外の情勢を見るに、風が吹いて一気に憲法九条改正ということになりかねない。
しかし、冷静に考えてみよう。今憲法を改正して自衛隊を軍隊として認め国防軍と呼称を変えたとして、また「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と自民党改正案の九条二項のように集団的自衛権を認めたとして、現状とどれほどの差があるのだろうか。第一次安倍政権の時に防衛庁が防衛省に名前が変わったが、それで自衛隊が強くなったという噂も、予算が増額されたという話も聞かない。
また集団的自衛権の問題も憲法改正の問題ではなく政府解釈や政策の問題である。国家には個別も集団もなく自衛権はある。何も鶏頭を割くに牛刀を用いるような愚を犯すべきではない。だからと言って、自民党改正案に反対する護憲派原理主義者のように国家の自衛権をすべて否定し国家が国民を守らないのなら、アメリカのように個人の自衛(武装)権を憲法で保障すべきである。自衛権無き国家は近代国家ではないが故に、自衛権の否定は国家の否定である。であれば憲法が保障しなくとも個人に武装権はある。要するに、今憲法九条を改正しても現状と全く変わらない。それどころか百害あるのみである。
今憲法を改正すれば戦後記事浮あげた平和国家としての国家ブランドを大きく毀損することになる。経済大国としての国家ブランドは中国に譲ってしまった。技術大国という国家ブランドも韓国や台湾のメーカーに脅かされている。今や残るは平和大国という国家ブランドだけである。憲法九条の改正は、この国家ブランドを自ら破棄するに等しい。アメリカが自国を自由と民主主義の国として世界中に宣伝しているように、日本も平和大国のイメージを世界中にアピールすることが、日本外交にとって価値観の混迷する国際社会に対するソフトパワーになる。
では中国や北朝鮮から攻撃されたらどうするのか、という反論が改憲派から聞こえてきそうである。今まで通り暗黙の裡に、あるいは集団的自衛権の政府解釈を変更して、今まで以上に日米同盟を強化すればいいのである。自衛権の行使は憲法問題ではなく政策問題である。憲法改正をしなくてもできることである。政府解釈の変更は護憲派からは憲法違反だという絶叫が聞こえてきそうである。ならば現実に中国や北朝鮮などの脅威にどのように対処するのか。国家による防衛に反対するなら、前述のように、個人の武装権を認めるべきである。
改憲派も護憲派も、原理主義的な空理空論の議論ばかりである。憲法を改正しなければ日本を守れない、他方憲法を改悪すればすぐにでも戦争が起きるなどいずれも、現実を無視した議論である。こうした情緒的な議論が交わされること自体、実は憲法九条が現実の日本の安全保障とは無関係であることの証拠である。字義通りに九条を解釈するなら自衛隊が違憲の存在であることは明明白白である。しかし戦後の民意は憲法九条の解釈とは無関係に自衛隊の存在を黙認することで、憲法の理念と現実とを妥協させるという絶妙なバランスを維持し、しかも対外的には平和国家のブランドを築き上げてきたのである。今問われているのは憲法改正ではなく、このブランドをこれからもいかに育てるかである。
それには何よりも憲法九条を実践し、世界に平和大国のブランドを宣伝することである。それは護憲派の使命である。改憲派が非難するように、護憲派は憲法九条を守るために身命を賭したことなど一度たりともない。憲法を守るとは、改憲に反対するというネガティブな政治運動でもなければ、九条教のように読九や写九することでも、「窮状の歌」を歌い「九条ダンス」を踊ることでもない。九条の平和の理念を身命を賭して国内外で実践することである。皮肉にも自衛隊員は自らを否定する憲法(constitution,国体)を守るために身命を賭すことを入隊時に宣誓させられる。護憲派も少なくとも自衛隊員と同じほどの覚悟をもって護憲を実践すべきであろう。
そのために憲法九条部隊を創設しよう。海外に派遣されている自衛隊PKO部隊に代わって、非武装の憲法九条部隊が紛争の調停、平和創設にあたるのである。さしあたりシリアに憲法九条部隊を送って、内戦を停止させる。多くの犠牲者が出るであろう。しかし、その犠牲者が多ければ多いほどいかに日本人が平和を希求しているかを全世界に知らせることができる。かつて内村鑑三は非戦の立場から日露戦争に反対した。その一方で彼はこう主張して出征する兵士に従容として死地に赴くように諭したのである。「戦争も、多くの非戦主義者の無残なる戦死をもってのみ、ついに廃止することのできるものである。可戦論者の戦死は、戦争廃止のため には何の役にもたたない」(「非戦主義者の戦死」『内村鑑三信仰著作全集21』教文館)。
憲法九条部隊には私が真っ先に志願する。憲法九条の会の会員はもちろん、私ごとき名もなき凡夫よりも瀬戸内寂聴氏、大江健三郎氏ら世界的に名を知られた人が志願すれば宣伝効果は絶大である。一層のこと60歳以上の老人は男女を問わず憲法九条部隊に徴兵してはどうか。孫、子のためなら、命を投げ出しても惜しくはないだろう。
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