2013年8月27日火曜日

朝日・産経の仁義なき戦い

 2013年8月26日夜のNHKニュースで潘基文国連事務総長が日本の憲法改正や歴史認識を批判したニュースが伝えられた。27日の朝刊で朝日と産経(iPAD版)がどのようにこのニュースを伝えているかを見て驚いた。産経は一面で報じていたが、朝日は全く載っていない。朝日はデジタル版では伝えていたが、紙の朝刊では伝えたのだろうか。  嫌韓新聞産経が一面に持ってきた理由はわかる。一方朝日が記事にしなかったのは、なぜかがわからない。単に親韓だからか、それとも日韓関係に配慮したからなのか、あるいは潘基文氏が当然のことを言っているに過ぎないと判断したからなのか、それとも彼が韓国寄りの発言をするのはいつものことだからか。実際、ここ数か月、というよりも以前から韓国寄りの発言が繰り返されており、別に今回に限ったことではないから、記事に値しないのか。あるいは英米が批判するようにあまりに無能で記事で批判するのは気の毒と思ったからなのか。事実「潘基文 無能」で検索すると数年前から、関連記事が大量に出てくる。  いずれの理由か定かではないが、朝日が潘基文氏にやさしい新聞であることは2013年7月15日春日芳晃特派員の「特派員メモ」から推察できる。 「ニューヨークで親しくなった韓国紙の特派員チャンさん(36)が1年の任期を終えて帰国することになった。送別会で心残りを尋ねたら、意外な答えが返ってきた。「国連の潘基文(パンギムン)事務総長の批判記事が思うように書けなかった」   ボツになった原稿の一つが「シリア内戦で指導力発揮せず」。死者10万人近い内戦は現代の人道危機だ。ただ、これは潘さんというより、安全保障理事会の責任が重い。アサド政権への制裁を求める米英仏と、反対する中ロが対立して何もできないからだ。  もう一つは「中国の人権問題を批判しない」。私も同感だが、大国との「間合い」には歴代事務総長が苦労した」。  韓国の記者以上に潘基文氏に同情した内容の記事だ。安全保障理事会に根回しする指導力を発揮してこそ事務総長ではないのか。これでは冷戦時代に米ソが対立して安全保障理事会がマヒし、国連が村議会と揶揄された時と同じではないか。それでもハマーショルドのように紛争解決に奔走し、殉死した国連事務総長もいるのだから、指導力を発揮しなくても当然といわんばかりの記事は、実際に内戦で犠牲になっている人に思いを致せば、どうかと思う。権力と立ち向かうのがジャーナリストなら、もう少し誇りと勇気を持って権力と闘ってほしい。闘う相手は安倍政権だけではないだろう。  今日の紙面で、両紙を読み比べて、いささか両紙とも常軌を逸しているのではないかと思う記事があった。それは「はだしのゲン」をめぐる松江市の閲覧制限騒動である。朝日は「はだしのゲン」は名作だから閲覧制限などもってのほかと徹底的に松江市教育委員会を批判した。産経は、表現の自由を守る立場から、閲覧制限を積極的に支持するわけにもいかず、「はだしのゲン」を凡作と批判し、暴力的な描写には閲覧にも配慮が必要との歯切れの悪い論調だった。 私自身は、1972年に少年ジャンプに連載されていたころに読んだ覚えがあるが、あまりにメッセージ性の強い漫画で、とても週刊マンガ誌で読む内容ではなかったことを覚えている。途中で読む気をなくして読まなくなったが、読者投票でも不人気で約二年で打ち切られ、結局共産党や日教組の媒体で続編が書かれていた。ジャンプ以後の連載内容については、まったく知らない。ところがいつの間にか学校での推薦図書となったり、教師が読むことを奨励するなどしたためか、下の世代に広く読まれるようになったという。 どう見ても朝日、産経の評価が反戦、平和という単純な政治的基準にあるように思えて仕方ない。なぜなら、今回の騒動とは立場が全く逆の事件があり、その時の両紙の記事の扱いはまさに真逆だったからである。それは2001年8月に起きた船橋市西図書館蔵書破棄事件である。「船橋市西図書館の女性司書が、西部邁や新しい歴史教科書をつくる会会員らの著書計107冊を、自らの政治思想に基づき、廃棄基準に該当しないにもかかわらず除籍・廃棄した」(ウイキペディア)のである。この事件を最初に2002年4月に報じたのが産経新聞だった。産経は張り切り、朝日は淡々と事実を伝えるだけだった。 はだしのゲンの評価については、呉智英のコメントが最も納得できる。 「『はだしのゲン』は少年ジャンプの連載時から読んでいました。当時から「平和や反核へのメッセージ」というような政治的文脈で読まれることが多く、違和感を覚えていました。確かに原爆の悲惨さを告発していることは間違いない。とはいえ、そんな反戦、反核のアジビラみたいな単純な作品じゃない、と。   たとえばこんなシーン。画家を志していた青年、政二が被爆してヤケドを負い、優しかった家族からは「ピカの毒がうつる」と疎まれ、近所からも「おばけ」と 不気味がられます。ゲンは1日3円の報酬で政二の身の回りの世話を引き受ける。ゲンがリヤカーに乗せて連れ出すと、政二は突然、自分の包帯を取り、「この みにくい姿をみんなの目の奥にたたきこんで一生きえないようにしてやる それがわしのしかえしじゃ」と、その姿を町民の前にさらすのです。政二にとって憎 むべきは、原爆を落としたアメリカでも、泥沼の戦争を長引かせた日本政府でもなかった。程度の差こそあれ同じ被爆者である近所の人たちだったのです。 (中略) このように、「ゲン」には人間の汚さや醜さ、不条理な衝動や現象、心の影といったことに至るまで、被爆という悲しい現実が描かれています。大江健三郎氏は「被爆者による原爆体験の民話である」と評しました。表面的な報道、政治家や識者が語るきれいごとの平和論では触れられることのない民衆の現実。それが、作品の魅力となって読む人の心を引き付けるのです」(『週刊朝日』2013年8月9日号)(下線引用者) 朝日も産経も我田引水的に「政治的文脈」で評価するのはやめたほうがよい。 ネットが普及してから、メディアはたちまちのうちに批判にさらされ、消費されるようになった。主張の強い記事を書けば、たちまちのうちに賛否両論の意見がネットにあふれ、かつてのように新聞の権威など全く失われた。ブログの一つとして扱われているに過ぎない。ネット上では個人のメルマガも大新聞のサイトも内容において変わらない。はだしのゲンの騒ぎも、表現は丁寧でも本質はネトウヨ、ネトサヨ(?)の対立と同じである。要するに、好き嫌いの感情論でしかない。 それと同じ現象が、紙媒体でも起こり、朝日、産経がまるでブログのように悪口罵詈雑言をオブラートに包みながら話題を炎上させている。思想も哲学もなく、単なる好き嫌いの感情論だけだ。うんざりしてストレート・ニュースを読もうとしても、産経は記者が少ないせいかストレート・ニュースそのものが少ない。他方朝日は特派員の書く記事は多いものの、地元の人たちのブログやyoutubeのほうが新鮮で的確なことが多い。テレビ・メディアも含めて、最近の特ダネの多くはネットからのものだ。特に事故現場や、災害現場そして戦地からのニュースがそうだ。 いずれ新聞もテレビも個人の媒体となり、取材、編集、発表まで一人でできるような時代になるのではないか。情報を独占することで金を儲けたり、権威を得たりする時代は終わりになりつつある。それはメディアだけではない、知を占有してきた大学もいずれは権威を失って解体していくだろう。朝日、産経のブログ化はメディアの解体過程を見ているようだ。

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