2013年8月17日土曜日
敗北をかみしめて
参議院選での自民党の圧勝で憲法改定が現実味を帯びてきた。憲法改定については第96条の憲法改正要件、第九条の安全保障を中心に第一条の天皇制の問題など逐条ごとの議論がかまびすしい。しかし、論議しなければならないのは、むしろ憲法を改定することの意味そのものである。
もし憲法改定の真の狙いが安倍首相の目指す戦後レジームつまりはヤルタ・ポツダム体制からの脱却にあるなら、それは敗戦の忘却であり戦後の日米関係そのものを否定しかねない。侵略、植民地支配を非難する中韓はもちろん戦勝国アメリカからも安倍首相の「右傾化」を危惧する声が上がるのは、憲法改定に戦前回帰への動きが透けて見えることが一因であろう。
暗礁に乗り上げた中韓関係のみならず、次第に疎遠になりつつある日米関係にとって憲法改定がどのような意味を持つのか。それを考える上でわれわれは今一度、次の三つの問題に思いを馳せる必要がある。第一は敗戦とは何であったのか。第二は天皇制をどうするのか。第三は敗戦体制をどう克服するか。
第一の問題に一言で答えれば、日本はアメリカの支配下に置かれ、平和憲法によって二度と戦争のできない国家に改造させられたということである。確かにジョン・ダワーが活写するように、被占領期に日本人は「敗北を抱きしめて」いたかもしれない。しかし、同時にダワーも指摘するように、そこには「押し付け」の構造すなわち支配・従属構造があり、しかもそれは日米安保体制で補強され、日本は軍事的にはもちろん政治的、経済的そして社会的にも二度とアメリカに刃向えないよう平和憲法が制定されたのである。
古来より歴史は、敗戦国が戦勝国の支配の軛から脱する手段が戦争であることを教えている。だから日本は平和憲法を押し付けられ二度と戦争ができないようにさせられたのだと改憲派は言う。他方護憲派は、たとえ押し付けられたにせよ日本は平和憲法を護り戦争など二度としないから米軍は出ていけという。いずれも敗戦の意味を理解していない。戦争に負けた以上、アメリカが日本との支配・従属関係を維持する能力や意志を失わない限り、アメリカは日本をその支配下に置き続け、友好の美名の下で日本の敗戦体制は永遠に続く。
忘れられがちだが、日本が平和憲法を受け入れたのは単に「押し付けられた」からではない。天皇制の存続と引き換えに受け入れたのである。日本は黙契のうちに天皇制の存続を唯一の要件としてポツダム宣言を受諾した。アメリカの草案に基づく憲法で日本は戦争放棄(第九条)と引き換えに、あるいは戦争放棄とともに天皇制の存続(第一条)を認められたのである。天皇制の存続が許された以上、戦勝国アメリカが憲法を「押し付けた」からといって、「押し付け憲法」に従うしかない。もちろん独立を回復した日本が「押し付け憲法」を改定することに何ら法的問題があるはずがない。しかし天皇制の存続を議論することなく憲法を改定するということは、まるで敗戦が無かったかのように戦前に回帰するに等しい。つまり憲法改定は必然的に第二の天皇制存続の問題を惹起する。
戦前の天皇は君主、戦後の天皇は象徴とその地位や役割が異なるが故に天皇制の存続に問題はないとの反論が聞こえてきそうだ。しかし、戦前と戦後の天皇制が異なるのであれば、天皇制を存続させたことになるのだろうか。自民党の改憲論が天皇を象徴ではなく君主に位置づけようとしているのは、戦後の象徴天皇制が間違っているとの思いを吐露しているようなものだ。改憲派は、明治天皇や昭和天皇のように、いずれ皇太子に軍服を着せ白馬にまたがらせるつもりなのか。
本当にそれでよいのか。だからこそ憲法改定とともに議論しなければならないのは、昭和天皇が「堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ」護持した天皇制とは一体何だったのか、という問いである。この問いに答えない限り、天皇の名の下に犠牲となった国内外の多くの犠牲者の霊は浮かばれない。また皇位継承問題で揺れる現在の天皇制の存続も危うい。
敗戦を終戦と呼び換え象徴天皇制の下で日本はまるで戦勝国のような戦後の長い繁栄と平和の時代を享受してきた。それももはや限界にきた。長期のデフレで経済力を低下させ、さらに東日本大震災が追い打ちをかけ、往時の繁栄の面影はどこにもない。中韓は歴史認識、領土問題、慰安婦問題等で衰退する日本に外交攻勢を仕掛け、平和もさえ脅かされている。われわれは「敗北を抱きしめ」るのではなく、今こそ昭和20年8月15日に立ち戻って「敗北をかみしめ」なければならない。
敗戦の結果我々は多くのものを失った。その一方で得たものは何かを考えてみること、それが第三の問い、即ち敗戦体制をどう克服するかの回答となる。
戦後の敗戦体制の下でわれわれは一体何を得たろう。戦勝国アメリカに次ぐ経済大国として経済的繁栄を獲得できた。しかし、それ以上に重要なものをわれわれは会得したのではないか。それは自由、民主主義、個人の人権等の普遍的価値である。仮にこれらの価値がアメリカによる「押し付け」であったとしても、これらの普遍的価値そのものにアメリカとの間で支配・従属の関係はない。だからこそこれらの普遍的価値に基づいて日米関係を構築しなおすことで、また天皇を普遍的価値の体現者として位置づけることで、われわれは敗戦体制を克服することができるのではないか。
オバマ大統領はプラハ演説で「米国は核兵器保有国として、また核兵器を使用したことがある唯一の核兵器保有国として、行動を起こす道義的責任があります」と慎重な言い回しながら、はじめて原爆投下に対して「道義的責任」を明らかにした。オバマ大統領のこの言葉は、道義において日米の関係が対等あるいは逆転したことを表している。またオバマ政権は「核兵器のない世界」を目指すものの、歴代の政権と異なり自由、民主主義、人権などのアメリカの建国の理念に基づいて世界を指導しようとする外交姿勢が見られない。自ら超大国から普通の大国へと降りたがっているような外交姿勢である。日米関係で言えば、オバマ大統領は日本との支配・従属関係を打ち切ろうとしているかのようである。
だからこそ安倍政権はオバマ政権を叱咤激励するためにも自由、民主主義の価値観外交を実践していくべきである。
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