2011年9月9日金曜日

ボランティア体験記

 8月、9月と合わせて三日間、いわゆるボランティア活動に参加した。
8月23日には、福島原発行動隊の有志約50人がいわき市四倉 久之浜(ひさのはま)地区でボランティア活動をした。活動内容は、川べりの空き地および道路の草刈り。花火大会に向けて、大会場への通路をつけるのが目的だった。震災以来繁りっぱなしになっていた茅や野茨などを刈り取っていった。幸い曇りで、気温はそれほど上がらなかったが湿度が高く、作業中2~3リットルの水を飲んだ。頭に被ったタオルを絞ると、汗がどっと滴り落ちた。
 久之浜を訪れたのは2回目だ。5月に20キロ制限区域まで行った時に通りかかった。その時は、まだ完全に瓦礫の撤去は終わっていなかった。火災で焼け焦げた建物があちこちに残ったままで、20キロ圏の南側では最も甚大な被害を受けた地区の一つとの印象を受けた。現在、瓦礫はほぼ撤去され、空き地が海岸まで広がっていた。
 久之浜は避難準備区域の30キロ圏内の29キロ地点にある。しかし、いわき市の行政区画にあるために緊急時避難準備区域の指定は受けていない。隣接する広野町が役場ごと移転したのとは対照的に久之浜では若い人たちが地区の復興を目指して頑張っている。しかし、30キロ圏内ということでボランティアの集まりがあまり良くないという。危険を省みず義に勇むというボランティア精神はどこに行ったのか、風評被害の影響はボランティア活動にまで及んでいる。
 9月6日、7日には、ゼミ学生7人とともに南三陸町志津川天王前、国道45線沿いの住宅跡と裏山の瓦礫の撤去に参加した。個人で、当日にボランティアを受け入れてくれるボランティア・センターがあまりなく、仙台に泊まって、車で2時間半の南三陸町にまで行くことになった。南三陸町のボランティア・センターは「世界食料計画」(WFP)が提供したテントを拠点に効率的に運営されている。ボランティアの中にはセンター近くの道路沿いにテントを張り、長期にわたって活動している人が10~20人いた。
 8時半受付開始、9時出発。我々のチームは約50人。作業時間は午前中約2時間、午後約2時間半。土台しか残っていない住宅跡の瓦礫を、これほどまでに丁寧にする必要があるのかと思うほど、まるで遺跡の発掘作業のように可燃ゴミ、不燃ゴミ、金属と分別して清掃していった。
グーグルのストリート・ビューで震災前の様子を見て驚いた。天王前には多くの住宅が立ち並んでいたのだ。今は全く何もない。ただ空き地が広がるだけだ。海岸から1キロ以上離れているにもかかわらず、木に引っかかっている発泡スチロールから判断すると津波は数メートルの高さにまで達したようだ。
南三陸町は甚大な被害を受けた町で、テレビでも幾度と無く紹介されてきた。実際に現場を目にしても、元の町がどのようなものであったのかがよくわからない。そのため被害の大きさが実感できない。警察署、病院、アパートなどわずかに残された建物から想像するしかない。あとはただ空き地と瓦礫の山が広がるだけだ。4階建てのアパートの屋上には乗用車が乗ったままだ。窓もガラスが無くなっているというだけではない。窓枠も残っていない。放置されたままのトラックも、どのようにしたら水の力だけでこれほどまでに圧縮し、ねじることができるのかというほど変形していた。
わずか2カ所の被災地でボランティア活動に参加しただけで断言するのは憚られるが、もはや被災地復旧のための長靴,手袋、マスクを装備したボランティアの出番はあまりないように思われる。これからは社会再建、教育支援等の復興のためのボランティアが求められるのだろう。しかし、もともと過疎地の上に震災でさらに人口が減少していき、市や町の復興が危ぶまれている。
南三陸町も震災前は人口17378人(2011年3月11日、ウイキ)だった。しかし、『朝日新聞』(9月9日朝刊)9月1日現在、2003人が転出している。死者行方不明者655人を合わせると、1万5千人足らず。警察、病院、商店、鉄道等社会インフラがほぼ壊滅した状況では、この人口では復興どころか復旧さえままならない。
心が折れてしまえば、二度とたちあがることはできない。被災地の多くがそんなぎりぎりの状況に追い込まれているように思える。だからなのだろうか、「がんばろう」のスローガンが至る所に張り出してある。「がんばろう日本」、「がんばろう東北」、「がんばろう宮城」「がんばろう南三陸」等々、このスローガンが思い出となる日は来るのだろうか。

2011年8月16日火曜日

大文字騒動

 陸前高田から送られた松の木を京都市が放射能汚染を理由に大文字焼きに使うことを拒否した。そして成田山新勝寺でも同様に陸前高田の松の木をおたきあげに使うかどうかをめぐってもめている。少しでもセシウムが検知されれば、おたきあげには使用しないという。京都市は国が薪を燃やすに安全かどうかの基準値を決めないから、結局は放射性物質が検知されればやめざるを得ないという。しかし、一部の反原発の専門家からは、自然界や医療による被曝を除いて、できる限り被曝しない方が良いという意見がある。これは専門家の意見というよりも素人の知恵だろう。であれば、安全な基準値などないわけだから、少しでも放射線が検出されれば被曝しないように放射性物質を避けるべきだということになる。
 徹底して放射性物質を排除し被曝しないようにという議論を実行しようとすれれば、恐らくそのいくつき先は、松の木だけでなく陸前高田に暮らす人々をも事実上拒否することになる。実際、原発事故当初、除染証明がなければ避難所に入居させるべきではないといった意見があったという。汚染されていない地域に暮らす人々から見れば、被曝を避けるためには当然ではないかという主張だろう。しかし、この主張の正当性は、差別を助長するどころか、その主張をしている人々もまた差別される側に回ることを覚悟しておかなければならない。
 8月上旬に訪れたリビアの田舎で、道路沿いの食堂に入った。私が日本人であることを知ると、小学生くらいの男の子が「フクシマ、フクシマ」とはやし立てた。内戦下のリビアの、しかも周りは砂漠しかない、道路沿いに立つ食堂で、まさか子どもからフクシマといわれるとは思わなかった。彼は、フクシマが何を意味しているのか、恐らくは正確にはわかっていないだろう。しかし、もはや日本や日本人は世界から差別されているのである。
神戸ビーフ、高級野菜や果物も、はては中古車に至るまで放射能汚染の風評被害で輸出が大幅に落ち込んでいる。もはや日本全体が原発事故で放射性物質に汚染されているイメージが世界中に広がりつつある。
こうした皮肉な状況にも関わらず国内ではヒロシマ、ナガサキですでにわれわれが経験している被爆者差別を助長するような傾向が広がりつつある。とりわけ宗教行事の送り火やおたきあげにおいてさえ被爆者差別につながる動きがあったことは怒りを通り越して、悲しい限りである。同じ日本人として、同胞として、原発の影響を受けた人々に少しでも共感を寄せ、たとえ被曝してでも、ともに助け合うことが必要だろう。まるで病的な潔癖症のように被曝を恐れて少しの汚染も許さないのでは、もはや東北の復興は望めない。いつから日本人はこれほどの潔癖症になったのだ。昭和生まれの世代は大国とりわけ中国の核実験でたっぷりと放射性物質を浴びている。それでも寿命は伸び続けている。
汚染をおそれてかもしれないが、これほど未曾有の大震災にも関わらず、ボランティア数は7月31日現在で62万である。阪神淡路大震災では4カ月目の時点で120万である。いろいろな条件の違いがありにわかに比較できないが、参加者数が少ない理由の一つは被曝を恐れてのことだろう。5月末にいわき市に行き、福祉協議会の人から聞いた話では、30キロ圏内はもちろんその外でも原発に近いところにはボランティアに行く人が少ないという。
内外のメディアでは、東北の人々の秩序だった振る舞いについて日本では東北人の美徳、そして世界では日本人の美徳として賛美する論調が多い。しかし、その賛美の裏側に、賛美することによって差別を償うという構図が透けて見える。大文字焼きとおたきあげの問題に日本人の本音が現れた。それは、同時に世界が日本人全体に対して向ける視線と同じだということを、「潔癖症」の人は肝に銘じておく必要がある。

2011年8月14日日曜日

ラファ訪問記

 8月1日から11日まで中東の民主化の動向調査のためにエジプトとリビアを訪問した。
まずはガイドブック風に旅行の概要を記しておく。

 8月8日(月)7時半にトルゴマーン・バス・ステーションからバスでシナイ半島の最東端の街アリーシュを目指し出発。2009年2月にも一度、ガザへの入境を目指したが、その時はまさに門前払いであった。そこで再び挑戦した。今回は、エジプト新政権がラファの検問所を開放したとのことで、その実態を調査するためにラファを再訪することが目的であった。そして運が良ければガザに入境することを目指していた。
 昼過ぎにアリーシュの街に入ると、エジプト軍の装甲車が目につき始めた。2年前にはなかった光景だ。聞けば、一週間前にイスラム反政府勢力との間で銃撃戦が起こったとのことだ。民主化闘争以降、イスラム勢力の台頭と共にシナイ半島の治安が悪化しているとのことだったが、装甲車の姿を見ると、それが現実ものとして受け止められた。
 バス・ステーションの周辺は河川工事のために、様相が一変していた。工事のためかつてはたくさん並んでいた露店が姿を消していた。また人の往来が激しくなったせいか、バスの乗客目当てにタクシーの客引きが多くいた。2年前には一台もタクシーはなかった。その時は仕方なくバス・ステーションの係員に白タクを調達してもらいラファまで行ったほどだ。今回は全くそのような手間をかけ無くてすんだ。70ポンドという高額の料金を支払って、ラファまで行った。途中、数カ所の検問所があったが、誰何されることもなくラファの検問所まで20分程度でついた。2年前よりも兵士や装甲車の数が増えている。
ラファの検問所の様相も一変していた。前回は検問所の手前で軍の情報機関の係官と思しき男に即座に追い返された。しかし、今回は検問所のゲートは開いており、ゲートの中に入ってエジプトの出国審査の国境係官にガザまで行きたい旨を告げることができた。彼は、同僚となにごとか話して、アメリカ、イギリス、日本はノー、パレスチナはオッケーと言った。予想通りパレスチナ人以外は入出国できない。
JMAS(日本地雷処理を支援する会)の研究員の証明書を出して、NGOのメンバーの肩書で入境を試みようと思ったが、残された時間がわずかしかなく、思いとどまった。入境するよりも検問所の周りの様相が一変していることを粒さに観察した方がよいと判断した。
検問所の周りには数十台の白タクが客待ちをしていた。また両替商も何人かいて、ポンドとイスラエルのシュケルの両替をしていた。2年前には検問所周辺にはエジプト軍の兵士以外だれもいなかった。それが、今ではタクシー運転手、両替商、そしてパレスチナから出る人、入る人でごった返していた。
タクシー運転手の間では客の取り合いで殺気立っていた。たまたま私を呼び止めた運転手が50ポンドでアリーシュまで行くというので、一旦オーケーした。すると、どうもその運転手が客引きをしては行けないところで私と交渉したと言うので、運転手同士で口論が始まった。一人の運転手が5ポンドでいいと言うので、そちらに乗り換えた。すでにパレスチナから出てきた家族連れが5人乗り込んでいた。私が乗り換えたことで再び運転手の間で口論が激しくなった。客の数、すなわち出国するパレスチナ人の数がそれほど多くないのが原因かもしれない。実際、一日に出入国できるパレスチナ人の数は制限されているとのことだ。
とはいえ、事実上ガザの封鎖には風穴が開いた。一本しかないガザに続く道路には、ガザ行きには物資を満載したトラックや、逆にガザから帰る空のトラックがひっきりなしに往来していた。2年前にはアリーシュからラファの検問所まではほとんど車の往来はなかった。
 イスラエルはこうした状況に神経をとがらせている。イランからスーダン経由でシナイ半島、ラファそしてガザへと武器が流入することを恐れている。実際、これだけトラックの量が多くなり、またシナイ半島の治安が悪化した現状を考えれば、イスラエルの懸念もあながち杞憂と言えない。これまでは地下トンネルを監視していれば良かっただけだったが、エジプトにトラックによる物資輸送の管理を委ねざるをえなくなった。
 ラファの検問所が完全に開放されたら、150万人の人口を抱えるガザ地区はもちろん近隣のアリーシュをはじめシナイ半島は多いに発展するだろう。その時パレスチナがエジプトに吸収されるか、それともシナイ半島がパレスチナ化するか、いずれにせよラファの開放は地域全体を大きく揺るがす出来事になりつつある。
 そんな妄想に耽りつつ、再び6時間バスに揺られてカイロに帰った。

リビア訪問記 

 8月1日から11日まで中東の民主化の動向調査のためにエジプトとリビアを訪問した。
まずはガイドブック風に旅行の概要を記しておく。

 8月4日早朝、いよいよベンガジに向けて出発。朝6時半にカイロ市内のトルゴマーン・バス・ステーションからバスに乗り、カイロから約600キロのマルサマトルーフについたのが昼の12時半。料金は65エジプト・ポンド(約850円)。ここで1時半に地中海に面した国境の町イルサローム行きのバスに乗り換え、約200キロを2時間半で走り、4時に到着。料金は20エジプト・ポンド(約250円)。
ここからは公共の交通機関はなく、国境までの数㎞を乗合の白タクでいくことになる。料金は2ポンド。リビアに帰る二人連れと一緒にオンボロの白タクに乗り国境まで行く。地図ではわからなかったが、エジプトとリビアの国境は台地で隔てられている。壁のようにリビア台地がイルサロームの町の前にそびえている。車は急な坂道を2~300メートル昇りつめると、そこには平原が広がっている。平原をさらに走るとエジプト・リビアの国境検問所が見えてくる。
国境検問所でエジプトの出国手続の場所や要領がわからず、同乗したリビア人の若者に手助けをしてもらった。なんとかエジプトの出国が済むと、今度は再び白タクに乗り換えて数百メートル先のリビアの検問所に行く。歩いても良いくらいの距離だが、2ポンドとられた。カダフィ政権側が支配している国境検問所なら、恐らく東京で事前にビザを入手しなければならないところだ。しかし、反政府側が管理しているためにビザは不要だった。若い、英語の流暢な係官、といっても役人のような風体ではなく、反カダフィの一般市民が役人の代行をしているような様子だった。それは警戒にあたっている民兵にも言える。戦闘服は着ているが、とても職業軍人には見えない。恐らく一般市民から志願した民兵だろう。民兵の中にはどうみても私と同じくらいの年格好の老人も混じっていた。
いろいろと思いがけないことが起こったが、なんとかリビア入国手続をすませることができた。一番の心配は、ベンガジまで行く交通手段があるかどうかということだ。事前に朝日のカイロ特派員の方からは、交通手段があるかどうかが問題といわれていた。ところが幸運にもベンガジ行きの大型バスが止まっていた。乗り込むと外国人は私と欧米系の若い青年ジャーナリストの二人だけであった。彼とは、翌日に偶然にベンガジの町で再会した。
ベンガジまで恐らく5~600㎞はあったろう。夕方の6時半に出発して、ベンガジに到着したのは、8月5日の午前3時過ぎだ。料金は20リビア・ディナール(約1200円)と記憶している。途中、夕食のために30分もの休憩をとった。通常はこれほど長く休憩はとらない。ラマダンのために昼間全く食事をしないので、日が暮れるとすぐに運転手も乗客も皆たらふく夕食をとる。そのために普段よりも休憩が長くなる。
ベンガジまでの道中、十数回にわたってしつこく、しかも本格的な検問を受けた。銃を抱え、戦闘服を着た民兵がバスに乗り込み、乗客のパスポートや身分証明書を丹念にチェックしていた。それが2~3回ならまだしも、ほぼ30分に一回は検問を受けた。これほど厳しい検問体制を布いているところをみるとよほど治安が悪いのかと緊張した。しかし、実際にはベンガジの治安は全くといってよいほど悪くはなかった。またリビアからの帰路では一回も検問を受けることもなかった。昼間だったからなのか、それとも地元のマイクロバスを使っていたからなのか、理由はよくわからないが、昼と夜の検問の厳しさの違いには驚いた。
ベンガジのバス・ステーションに午前3時15分に着いたものの、ホテルを予約していたわけではなく、いささか途方にくれた。なんとか白タクをつかまえて、ホテルに案内してもらった。高級ホテルに行ってくれと頼んだのだが、言葉がうまく通じなかったのか、私の服装をみて運転手が判断したのか、連れて行かれたのは一泊25ディナールの安宿だった。
ひと眠りしてから、朝早くに街を歩いていると、荒れ果てた元高級ホテルのような建物があった。周りは焼け焦げたモニュメントや荒れ果てた公園などがあり、いかにも戦闘があった痕跡がそこかしこに残っているような場所だ。ホテルの窓は砂で汚れ、また人影も全くなかった。どうみても営業しているようには見えなかった。しかし、良くみるとエアコンの音がし、灯がついているところもあった。念のためさらに近づくと、玄関に人がいた。営業していたのだ。後でわかったが、そこはベンガジの最高級ホテルのテイベスティ(Tibesty)・ホテルだった。さっそく安宿を引き払い、ティベスティ・ホテルに移った。予約無しで直接宿泊を申し込んだが、全く何の問題もなかった。一泊約100ドルだった。
帰国後わかったことだが、このティベスティ・ホテルは6月1日に爆発事件が起こり、7月4日には敷地内に駐車してあった車から3-40キロの爆弾が発見されたという。このホテルが標的になっているのは、反政府勢力の要人や外交官、外国メディアが頻繁に利用しているからだろう。たしかにホテルの宿泊客をみると欧米系のいかにもジャーナリストらしい連中を多く見かけた。またビジネスマンらしい人もいた。アジア系でビジネスマン風の多分中国人らしき男性を一人見かけた。噂によると、米英の諜報機関の連中が多く滞在しているのではないかということだ。とにかく宿泊客があまり多くはない、多分20~30人程度でホテルの部屋数の一割も埋まってはいなかった。私も相当目立つ存在だったと思われる。
8月5日は金曜日でイスラムの休日。朝、人通りがあまりなかった。内戦で街がすっかりさびれてしまったと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。午後から多くの人が街に繰り出し、他のイスラムの街と少しもも変わらぬ賑わいを見せていた。
ベンガジの街をタクシーや徒歩で回ってみたが、とりたてて変わったところはない。民兵を見かけたのはティベスティ・ホテルや海岸の通りの検問所くらいである。ホテルの警備はカイロでも同じで、むしろカイロのホテルの方が厳しい。ホテル以外では道路の検問所以外、民兵の姿もほとんど見かけなかった。警官と思われる風体の人物はついに見かけなかった。兵士や警官がいたるところに目につくカイロやパレスチナとの国境の町アリーシュよりも、見た目、治安はよさそうだ。
タクシーがあまりなく、白タクが一般的だ。だから手を挙げればすぐに車がとまり、行き先を告げると連れて行ってくれる。私はいつも5ディナール(300円)程度を払っていた。カイロのタクシーの水準からすると高すぎる気もしたが、日本に比べれば、とつい5ディナール紙幣を渡してしまった。
町中にゴミがあふれていた。公共サービスが上手く機能していない印象を受けた。内戦の混乱のせいかと思ったが、ゴミ収集車は市内を巡回しており、単に人手が足りないということなのかもしれない。ゴミといえば、リビアにはいってから特に目についたのが高速道路の周辺で一面に白い花が咲いているかのようなレジ袋の多さだ。エジプトでも見かけないわけではなかったが、とにかくすさまじいレジ袋の数量だ。運転手が皆ゴミを車から放り投げているためだ。
ベンガジでは物資や食糧が不足しているのではないかと言われていたが、露店や商店、市場を見た限り、そんなことは全くなかった。野菜も果物も新鮮なものが多く並べてあった。また私自身、すり切れ破れたズボンに代えて新しいズボンを買ったが、服屋には商品が豊富にあった。車も高級車は日本製という印象だ。私が帰路に雇った車は、日本からエジプトのアレキサンドリアに陸揚げされたことを示す車の配送伝票が誇らしげに窓に張り付けてあった。一般車では韓国のヒュンダイが特に目についた。
内戦下で人々が呻吟苦吟しているのではないかとの予断は見事にはずれた。内戦の爪痕を残していたのは、私が見た限り、ホテルの周辺の焼け焦げた建物と海岸近くに立てられた内戦の犠牲者を悼むテント村だけだった。海岸には十数張りのテントが立てられ、そこには恐らく内戦の犠牲者と思われる人々の遺影が飾られていた。
ベンガジが反政府勢力の勢力下にあることは、国旗でわかる。今年2月に反政府勢力の国民評議会は赤、黒、緑の三色旗に三日月と星を中央にあしらった1951年から69年まで王政時代に使用されていた旗を国旗として採用した。リビアに入国して以来、どこに行ってもこの旗があふれかえっていた。玄関の扉にわざわざペンキで国旗を描いている家も数多くあった。露店でも大小の国旗が数多く売られていた。
ラマダン中は日が暮れてからが、人々の活動の時間帯である。イフタールと呼ばれる断食開けの食事を家族で食べるために、町から人や車がほとんどいなくなる。ホテルでも夕食時にはレストランに宿泊客が一斉に押しかけ、皿一杯にご馳走を盛って、宴会のような騒ぎである。そして食後には人々は外に繰り出し、子どもたちは夜遅くまで遊び回っている。大人は喫茶店で水タバコを燻らしながら友人、家族と会話を楽しむ。ベンガジもカイロと全く変わらず人々はイフタールを楽しんでいた。
カイロに帰ってからわかったが、私がベンガジを訪れた前日に小池百合子議員が、まさに寸暇を惜しんでベンガジ入りし、国民評議会のアブドルジャリル議長と会談していた。聞くところによると当初陸路でのベンガジ入りを計画していそうだが、時間がかかるために国連機を使ってギリシアからベンガジに飛んだということだ。現在リビアには民間航空機の乗り入れは全て禁止されている。テレビ朝日が小池議員の会談の模様や犠牲者の遺影を見入る様子を放映していた。遺影が展示されている場所は、私も訪れた海岸近くの国民評議会の建物とおぼしきあたりではなかったろうか。
一般旅行者がリビアに入るには、今のところはエジプトから陸路で入国するしかない。反政府側はビザがいらないが、チュニジアから陸路でトリポリに入ろうとすれば、ビザが必要となる。多分国境をまだカダフィ側が制圧していると思われるので、個人ではなかなかビザがとれない。在京リビア大使館のホームページを見ると、個人によるビザ取得は困難を極めるようだ。ベンガジの街中で偶然再会した若いジャーナリストはチュニジアから陸路でトリポリに入ったということだ。またCNNもトリポリからチュニジアに陸路で脱ける模様を放映していた。ジャーナリストにはビザを発給しているのかもしれない。
私のパスポートにはすでにリビアの入国スタンプが押されている。これは反政府側独自の入国スタンプなのか、それとも従来からあるリビアの入国スタンプなのかがわからない。もし前者なら、トリポリ政府が支配しているチュニジアからリビア西部やトリポリに入ろうと思っても、カダフィ政権はビザを発給しないだろ。そもそも在京リビア大使館は、カダフィ、反カダフィのどちら側についているのだろうか。
ベンガジのネットは規制されている。カイロが全く規制を受けていないのも驚きだったが、反政府勢力支配下のベンガジで規制をしているのは驚きだ。カダフィ政権下での規制をまだそのままにしているのかもしれない。GMAIL への接続ができない。スカイプができるので、海外へのメール、通信が完全に規制されているわけではない。海外へのラインがあまりないのか、ネットカフェからスカイプでビデオ電話をしようとしても途切れ途切れでうまく繋がらない。ただしSMSは繋がる。だからGMAILを規制しても無意味なように思える。
ホテルでは一応WIFIが使えるらしい。らしいというのは、私のPCでは何故か接続できなかった。他に何人もが接続していたためか、接続オーバーで接続できないとのメッセージがいつも出てきた。私のPCに問題あるのかもしれない。部屋から備え付けの固定電話で国際電話をしようとしたが、繋がらなかった。また携帯は私のドコモの携帯ではリビア国内では接続できなかった。というわけで海外に向けた通信事情は必ずしも良くない。国内向けは問題ないようだ。ネットカフェでは、となりに座った男がずっとスカイプを利用していた。
私の宿泊した部屋は6階にあった。最近全く窓拭きをしておらず、窓には茶色砂がこびりついていた。その窓越しにベンガジの街を眺めると、平穏な地中海の街という印象しかない。内戦下にあると思わせるような景色は全く見ることができない。完全に反政府勢力側の支配下に入ったようである。一方CNNが伝えるトリポリの様子も平穏なようだ。ただし、NATO軍の爆撃を除けば。カダフィと反政府力の戦闘が行われているのは、ベンガジとトリポリとの間だ。しかも、ニュースで見る限り本格的な交戦というレベルではないようだ。反政府勢力の主力は戦闘には素人の民兵、カダフィ側は金で戦う傭兵で、正規軍同士の衝突とは少し様相を異にしている。片や戦闘能力不足し、片や戦闘意志が不足している。そのために相手を殲滅することができない。
反政府勢力には、いわばイラン革命の時の革命防衛隊のような印象を受けた。犠牲者の遺影を掲示し市民の士気の鼓舞を図るところなど、1985年にテヘランに行った時に見かけた光景にそっくりだ。もっともすでに革命派が政権を掌握した当時、イランが戦っていたのはイラクだが。当時イランでは入国管理から街の警備にいたるまであらゆるところで市民の志願からなる革命防衛隊が動員されていた。同じようにリビアでも民兵が検問や街の警備にあたっていた。
入国した時からどのようにして出国するかをいろいろ模索した。当然来たのとは全く逆にまた大型バスに乗って国境まで行くことを考えた。ところが、ホテルのインフメーションやタクシーの運転手にエジプト往きのバス乗り場を尋ねても、来たときに利用したバス・ステーションとは異なる、マイクロバス乗り場を教えられた。呼び込みの若者にマイクロバスの料金を尋ねると、カイロまで70ディナール、アレキサンドリアまで60ディナールと格安の運賃だ。これにはからくりがあって、マイクロバスが満席になったときの値段ということである。だから、満席にならなければ出発しない。満席でなければ、事実上、マイクロバスを借り上げることになる。
8月6日朝、マイクロバスの乗り場に行くと案の定、今日はカイロまでは行かないという。国境線までなら借り上げで110ドルで行くというので、マイクロバスを借り上げることにした。要するに安い運賃を提示して客を呼び、実際には客との交渉で運賃を決めるのだ。出発して国境線に近づくともう200ドルを払えばカイロまで行ってもよいと持ちかけてきた。その途中のアレキサンドリアまで100ドルなら払うということで交渉が成立。結局朝の8時半にベンガジを出発し、アレキサンドリアに夜の9時半に到着した。チップも含めて合計日本円で2万円足らずを支払った。走行距離は約1200キロ、燃料代は運転手持ちである。燃料代といっても軽油がリビアではリッター9円、エジプトでも15円である。ちなみにガソリンはエジプトでは15円である。トヨタハイエースの燃費をリッター10キロとして、1200キロ走っても燃料代は日本円では1200~1300円程度だろう。支払った金のほとんどは運転手の労賃ということだ。国境の手続のことを考えると、お互いにまあ納得せざるを得ない。恐らく運転手がいなければ、国境をスムースに越えることはできなかったろう。
リビアの出国審査はともかく、エジプトの入国手続が全く複雑でスローで、私一人ではその日の内に入国できたかどうか自信はない。運転手は私と自分のパスポートを持って、あちこちの係官に早くしろとせっついていた。入国審査官がコンピュータに入力するのだが、一件入力するのにずいぶんな時間がかかる上、手元には何十冊ものパスポートが山積みになっていた。このペースでは何時間もかかると覚悟を決めたが、運転手としては一刻も早く仕事を終えたい一心で、私のパスポートを振りかざしながら、係官に先に入力を終えるように必死に頼んでいた。彼の努力が効を奏したのか、30分ほどで無事エジプトに入国できた。
往路では全く気がつかなかったのだが、リビアとエジプトの入出国審査場の間に、アフリカ系と見られる難民が何十とテントを張って暮らしていた。店まで出している難民もいたから相当長期間滞在しているのだろう。UNHCR、IOM、WHOがエジプト側の検問所に事務所を構え、彼らの面倒を見ていた。どこから来た難民なのか、よく分からなかいが、服装や肌の色から判断するとアフリカ系と思われる。ベンガジでは紛争も沈静化しており、紛争を逃れてリビア人が難民になるということは今はないと思われる。
結局リビア滞在は入国から出国まで約50時間だった。いろいろな幸運に恵まれて本当に思いがけずにスムースに入国、出国ができた。予定では、後1~2日はかかるだろうと思っていた。逆にあまりにスムースに行き過ぎたために、リビアにとどまる時間が短くなってしまった。要するに、内戦下とはいえ、リビアの反政府地域では国民評議会による入出国管理や交通等の国家機能、社会機能が機能していることの証左でもある。


エジプト訪問記 

 8月1日から11日まで中東の民主化の動向調査のためにエジプトとリビアを訪問した。
まずはガイドブック風に旅行の概要を記しておく。

アラブ首長国連邦国営のエティハド航空で8月1日の夜に成田を出発、アブダビで6時間の乗り換え待ちで、翌2日の正午にカイロに入った。エジプトの民主化闘争が激化するまでエジプト航空が東京・カイロ間の直行便を運行していたが、政情不安で観光客が激減したために、現在は直行便の運行を取りやめている。
今回利用したエティハド航空はこれまで名古屋を拠点にしていたが、昨年やっと成田への乗り入れが認められた新参の航空会社だ。現在プロモーションのために安売りチケットを販売しているため、行きも帰りも満席だった。ただ、乗客の大半の最終目的地はエジプトや中東ではなく、ヨーロッパだ。往きの飛行機にも日本人の二グループあわせて数十人が搭乗していたが、全員ヨーロッパ便に乗り換えた。

 2009年の2月に訪れて以来カイロは2年ぶりだった。様変わりしたのは観光客の激減だった。宿泊したラムセス・ヒルトン・ホテルは、いつもなら観光客であふれかえっているはずだが、今回は宿泊客が少なくまさにガランとした印象だった。日本人はほとんど見かけなかった。ひょっとすると8月1日から始まったラマダンのために観光客がエジプトを敬遠したのかもしれない。それにしても帰国前日に訪れたギザのピラミッドでも観光客は皆無といってもよい。広い砂漠に観光客が十数人程度と数えるほどしかいなかったのには驚いた。もっとも、ヒルトン・ホテルの近くにあるエジプト考古学博物館には欧米系の観光客が多く入館していた。とはいえ観光客を多く見かけたのは、ここだけだった。
8月3日はたまたまムバラク前大統領の裁判の日だった。エジプト国民がどのような反応を見せるか、興味津々であった。結論から言えば、裁判が行われた軍の施設の前でムバラク支持派と反対派の小競り合いがあった程度で、カイロ市内では大きな混乱はなかった。
軍は混乱を防ぐために事前に、市の中心部にある民主化闘争の聖地になっているタハリール広場の反対派のテントや横断幕などを7月30日に全部撤去していた。また当日は、反対派がタハリール広場に集結しないように、広場の周辺に多数の兵士や警察官を動員していた。その広場の模様をビデオで撮影していたら、突然兵士に呼び止められ、若い上官の元に連行された。ビデオを取り上げられるかと覚悟したが、何とか切り抜けた。観光客らしき人物は私だけで、あまりに目立ちすぎた。
その後市民の反応を見るために街を歩いたが、街は全く平穏だった。人だかりがあったのは喫茶店だけだ。水タバコを燻らしながら、十数人の客がムバラクの登場をいまかいまかと待ち構え、テレビを凝視していた。午前10時過ぎにベッドに横たわったムバラクが他の容疑者とともに檻の中に登場した。喫茶店の客の中から大きなどよめきでもおこるのかと思ったが、予想外に何の反応も無く、皆冷静にテレビを見続けていた。
エジプトの民主化闘争が今後どうなるかは別にして、観光客の激減による経済の落ち込みが、今後の民主化闘争に少なからず影響をあたえるのではないか。

2011年7月21日木曜日

坂本龍一の戯言

 以前「年寄りの責任と義務」で池沢夏樹を批判した。その要旨は、自らは原子力の恩恵を受けて散々暖衣飽食の生活を享受したことを棚に挙げて、これから日本はキューバのような「良き貧しき」国になれというのはあまりに無責任ではないか、ということだった。池沢はこれからどれほど生きるかは知らないが、老後を豊かに暮らせるだけの資産も名誉もあるだろう。もしも本当に「良き貧しき」国になれというのなら、自ら率先垂範して全ての資産を処分して貧しき良き暮らしをしてはどうか。
 今また同じ戯言をほざいている老人がいる。坂本龍一だ。池沢と同じように、脱原発で貧乏肯定派だ。『週刊文春』で日本経済が世界第3位から10位、20位になってもいいから自然エネルギーに転換すべきだといっている。坂本も池沢と同じように経済発展の恩恵を受けた世代ではないか。本人はニューヨークに自宅を構え、エネルギー消費大国のアメリカで散々豊富なエネルギーの恩恵を受けている。
坂本は20年前から極力自然エネルギーを利用したエコな生活をするようにしているという。しかし、考えてみれば家庭生活でいくら節電したとしても、彼の仕事そのものは電気なしには成り立たない。音楽は、ライブであれCDであれネットであれ、電気の存在なしには成り立たない。音楽産業は電気産業でもある。なぜ、こうしたことに思いが及ばないのだろうか。
「トイレで流す水に水道水が使われていること。水道水は水を濾過するのに大量の電気を使う。コストがかかったものすごく無駄なことをしている。トイレで流す水は雨水で十分です」。なせ、これほど能天気なことをいえるのか。雨水で流したとしても汚物を処理するのにどれほどの電気を使用するのかわかっているのだろうか。経済力が10位、20位に落ちるということは、上水道だけではなく下水道までが衛生を保てなくなるということだ。エコを徹底するのなら、かつての日本のよう最悪再びくみ取り式の便所に戻る覚悟はあるのだろうか。もっとも日本の経済力が落ちたしとしても、ニューヨークで暮らす坂本には何の痛痒もないことだろう。
ところで私は原発は全て停止せざるを得ないと考えている。それは以前のブログにも書いたが、原発技術者が今後不足することが理由だ。したがって今後は火力発電やエネファームのような天然ガスによる発電に頼らざるを得ない。最終的にはウルトラ・キャパシタやスマート・グリッドさらにはクリーン・コールといった新技術に基づいた効率的なエネルギーに移行することが必要だ。新技術の開発によって経済力を維持し、さらに発展させていくことがなによりも重要だ。池沢や坂本のように貧乏でもいいではないか、といった功成り名を遂げた、将来に責任のない老人の戯言には本当に怒髪天をつく思いである。
日本人、とりわけ正規の職もなく就職先もなかなか見つからない若い世代は十分に貧乏だ。老人世代は今の豊かさを、そして自分たちが味わった豊かさを若い世代に引き継ぐ義務がある。

2011年6月3日金曜日

日本に民主化の春を

 管首相は2回も震災に救われた。強運の持ち主だ。言い換えれば、2度も震災を利用してその地位にしがみついた。
 一回目目は3月11日、大震災当日。その日まさに管の命運は尽きようとしていた。在日外国人からの不正献金問題を国会で追及されていた。同じく在日外国人からの不正献金で前原はすでに3月6日に外相の職を辞していた。献金額も総額104万円と、4年間で25万円を受け取っていた前原よりも多い管の責任は前原以上に重大だった。しかし、管の不正献金問題を追及している国会審議の最中に震災が起き、管は命拾いをした。
 二回目は6月2日、内閣不信任案の採決。民主党の代議士会で管は奇策を講じた。「大震災の対応に一定のめどがついた段階で、若い世代に責任を引き継いでいきたい」と辞任を示唆し、内閣不信任案に賛成する小沢、鳩山グループを抑え込んだのだ。結果は圧倒的多数で否決。管はまたもや命拾いした。
 その後の「一定のメド」の解釈をめぐるドタバタの茶番劇はあまりの阿呆らしさに、言うべき、書くべき言葉が見つからない。辞任の時期を明確にすれば、その時点で直ちにレイムダック化することは火を見るよりも明らかで、管にしてみれば口が避けてもいつ辞任するかなどとは言えない。いつやめるかわからないという状況が管の権力を支える結果になった。いつやめるかは管次第という、独裁政権のような状況になってしまった。
小沢は、辞任するという言質をとったのだから、一歩前進だといって、戈をおさめてしまった。小沢の完敗だ。自民、公明も最強のカードを切ったつもりが、肩すかしを食らわされてしまった。もはや打つ手なし。残るは国会審議で国会のねじれを利用して、民主党提出の法案に反対やケチをつけて、管の足を引っ張ることくらいだ。
負け組の中で最大のピエロは鳩山だ。辞任の時期は復興基本法の成立か第2次補正予算案の早期編成のめどがついたころと考えていたらしい。しかし、管は福島原発の低温冷却までと辞任どころか事実上の続投を示唆した。これに驚いた鳩山は、自分が首相の時は普天間問題で散々ウソを並べ立て結局首相辞任に追い込まれたにも関わらず、今度は管に向かって「人間うそをついてはいけない」という皮肉。「ウソつきがウソをいってはいけない」という言葉は真か偽か、まるで論理学の問いや禅問答のような話になってきた。
民主党を壊し、自民党政権に逆戻りさせるかどうかは別にして、民主党は管と鳩山の確認事項を破棄し、一旦解党して下野し出直しをした方がよい。管も鳩山も被災した人々のことなど二の次にして、権力闘争に明け暮れているような党に政権は委ねられない。実際、確認事項の第1に「民主党を壊さないこと」、第2に「自民党政権に逆戻りさせないこと」と、自分たちの権力維持しか頭にないのだから。そして、なんと大震災の復興については三番目だ。これが民主党の本音か。
もはや管を政権の座から引きずり降ろす合法的手段はなくなった。皮肉にも「民主」を掲げる民主党政権の時に、事実上の独裁政権が誕生してしまった。チュニジア、エジプトの民主化のように、ありとあらゆる手段を使って国民の手で管を引きずり降ろすしかない。日本に民主化の春を。

2011年5月28日土曜日

 原発事故は「戦争」だ

昨日(2011年5月27日)、思い立っていわき市から広野町を訪問した。目的は地震、津波、原発、風評被害の四重苦にある地域の現状を見たかったからだ。いわき市中心部から原発の30㎞、20㎞区域へと近づくに連れて、雰囲気が徐々に変わってくるのがわかる。まるでパレスチナのガザ地区やスリランカの検問所に近づいて行くときのような緊張感が漂ってくる。日本は今、原発という「敵」と戦っている。われわれはまさに有事の真っ只中にいる。
上野からバスで3時間、まず市役所近くにある市の災害救援ボランティアセンターに行き、救援活動の現状について担当者に話を聞いた。いわき市は東京から近いこともあって、放射線の風評問題を抱えながらも、ボランティアは平日でも約200人、週末には約500人程度の申し込みがあり、結構多いという。ボランティアセンターでは初めてのボランティアに対するオリエンテーションからはじまって、作業に必要なスコップ、ほうき等の道具の貸与、保険の加入手続など、受け入れ態勢は非常に整っている。また送り出し態勢も、被災者からの作業依頼の受け付け、ボランティアへの作業の割り振り等の業務も効率的に行われている。
感心して聞いていると、担当者から意外な悩みが出てきた。それは作業依頼と作業の割り振りが必ずしもマッチしない場合があるということだ。
第1に、依頼件数とボランティアの人数のアンマッチ。依頼件数に比してボランティアの数が少なかったり、多かったりすること。特にボランティアの数が多い場合には、ボランティアセンターのスタッフが逆に作業を探さなければならず、スタッフの数が少ないセンターでは大きな負担となっている。はるばる全国からボランティアに駆けつけてくれた人のことを考えると、無下に作業がないからといって引き取ってもらうわけにも行かないようだ。それでも時には何も作業依頼がなく、一日ボランティアセンターに待機ということもあるということだ。
第2に、作業内容のアンマッチ。実際の作業は津波でふさがった溝の掃除や被災した瓦礫の片付けなど、直接被災者の顔が見える作業ではないことも多い。そのため、自分は震災で困った人たちを助けるという気持ちでボランティアに参加したのに、ドブ掃除とは何だといって怒って帰る人もまれではないという。
第3に、最初に依頼された作業とは別に、現地で別の作業を依頼されることも多く、これがトラブルを生むことがあるという。たとえば魚の加工工場の後片付けを依頼されて行ってみると、本来会社がやるべき作業まで頼まれることもあり、ボランティアが無給のアルバイトのような扱いになることがあるという。
総じての印象だが、適材適所がいかに難しいかということだ。ボランティアのあふれんばかりの善意が、時に目詰まりをおこして、上手く行動や結果に繋がらない。実は私もその一人だ。ボランティアセンターを訪れたのは、原発警戒区域内ではボランティアの数が足りないということを聞き、まさに「義を見てせざるは勇無きなり」の思いからだ。若者に比べて放射線をあまり気にしないですむ年寄りにも何かできることはないかという気持ちだった。
しかし、担当者に、言下に言われた。「ありません」。年寄りだからないというのではない。そもそもボランティアの作業依頼がないのだ。20㎞圏内の避難区域はもちろん30㎞圏内の避難準備区域でも住人が避難して町や村にはおらず、行政も丸ごと避難所に移転してまっているために、ボランティアを支援する組織も人もおらず、ボランティア活動の機会がないのだ。
「志願兵」への志申し込みを諦めて、国道6号線を北上し、Jヴィレッジの入り口に設けられた20㎞圏内の避難区域の検問所まで行った。いわき市内では地面が陥没したり、建物が一部壊れるなど地震の跡が残っていたが、街そのものに地震の影響はほとんど見られなかった。一時風評被害でいわき市に生活物資が入らなかったというが、いまはガソリンも食糧も豊富にあり、平常にもどったようだ。
 しかし、一旦市街に出て海岸線を走ると様相は一変する。津波の被害で倒壊した家屋がいまだに手つかずのまま残されている場所が多い。岸壁が崩落し、テトラポットが散乱している。四倉漁港では津波で打ち上げられた漁船が何隻も海岸に横たわり放置されたままだ。
四倉漁港からさらに北上を続け久之浜漁港を過ぎたところから30㎞圏内に入る。いわき市は30㎞圏内の避難準備区域に一部が入っているが、行政単位上、避難準備区域には指定されていない。そのため、北に隣接する広野町とは違って、人々の姿を見かけることができた。
広野町に入るころから、車窓の雰囲気が変わってくる。車といえばダンプカーや工事関係の車輛くらいで、一般車(多くが軽)の通行はぐっと減る。また対向車線には警戒区域から帰ってくる警察や自衛隊の車輛が目につくようになった。また道路沿いの食堂、店そしてラブホテルも全て閉まっていた。どこかで似た風景があったなと、記憶を思い起こせば、それはまさにイスラエルとスリランカの思い出だった。検問所に近づくにつれ軍用車輛の数が増していった、あの時の緊張感が甦った。
広野町には東京電力の火力発電所がある。そのおかげか道路や公園も整備され、豊かな町という印象だ。そしていよいよ20㎞圏内の入り口、Jビレッジの入り口に到着した。ここから先は関係車輛以外の立ち入りが禁止されている。自衛隊、警察、工事関係など多くの車輛が出入りしていた。警察車輛は配備されていたが、意外にも検問にあたっていたのは景観ではなく、民間警備会社のガードマンだった。これほど緩やかな検問でいいのだろうか。
帰路は国道6号線をなるべく避けて、海岸沿いの小さな道を走って帰った。驚くことに、広野町では復旧作業は遅々として進んでいない印象を受けた。津波の被害を受けた海岸沿いの家はまだ壊れたままに放置されていた。またそれほど被害を受けていない家も片づけが行われた様子がない。とにかく住民全員が避難したために、個人の家屋などてつかずのままで全く復旧されていない。橋の復旧にあたっていた工事関係者は見かけたが、それ以外に広野町では人は見かけなかった。商店街の店のシャッターはどこも閉められたままで、まさにゴーストタウンとなっている。
一方、いわき市に入ると復旧工事は広野町に比べれば多少は進んでいるようだ。四倉漁港では津波で壊滅的な被害を受けたが、町の瓦礫の撤去に何台もの重機が投入され、また電話線の修理も行われていた。
四倉漁港から小名浜漁港に至る海岸通りのレストラン、ペンションなど全壊は免れたもの一階部分に被害を受けた建物が多かった。津波の高さは三陸に比べ低かったのかもしれない。高さ1メートルほどの網状のフェンスには乾いた海草がたくさん絡みついて垂れ下がっていた。建物には津波の被害をあまり受けなかった地域でも、津波によって運ばれた土砂が側溝につまり、生活に不便をきたしているところが多い。ボランティアセンターでドブ掃除の依頼が結構あると聞いた。
実際、ボランティア10人ほどが民家横の側溝をシャベルで掻きだしていた。掻きだされた土砂が土嚢に入れられて、積み上げられていた。その量の多さを見ると、大変な作業だということがわかる。体力のない年寄りではかえって足でまといになるような重労働だ。
わずか半日ではあったが、三陸地域とはちがって原発問題に苦しむ福島の現状を少しは知ることができた。ゴーストタウン化した広野町を見ると、まさに今「戦争」が行われているのだという感想を持ってしまう。かつてスリランカでは戦闘地域から住民を追い出し、また戦闘地域から住民たちが逃れ、避難民は難民キャンプでの暮らしを強いられていた。現在、原発避難区域から逃れている原発避難民と紛争地域から逃れていたスリランカの紛争避難民そして今も世界各地で紛争のために難民キャンプで暮らす紛争避難民と、一体どこに差があるのかと思ってしまう。
原発問題は安全保障問題そのものだ。はたして管政権にその自覚があるのだろうか。帰りの列車の中で、幸せにもビールを飲みながら独り言ちていた。

2011年5月26日木曜日

年寄りの責任と義務

 最新号『朝日ジャーナル』「原発と人間」を読んだ。朝日ジャーナルらしい左テーストあふれる編集だ。懐かしい。それもそのはずだ。執筆者の年齢をみて驚いた。ほとんどが右手に『少年マガジン』、左手に『朝日ジャーナル』の団塊の世代だ。懐かしい名前もあった。最首悟。『朝日ジャーナル』の常連寄稿者だった。当時肩書は東大助手だった。何年経っても助手のままだった。反体制派で左遷されているのだろうとは思ったが、それならなぜいつまでも東大にしがみついているのか不思議で、その名前が忘れられなくなった。
ちなみに一番真っ当な議論をしているのは、石井彰「真っ当なエネルギー論議のための押さえておきたい『10の基本』」だ。金権欲望の原発推進派、お花畑願望の自然エネルギー派の両方の空理空論を事実に基づいてバッサリと論破している。『朝日ジャーナル』の他の記事のほとんどは、老人のたわごとにしかすぎない。とりわけ池沢夏樹の「落胆して泣いて・・・良き貧しき国の再生を」には「落胆して泣いた」。
 原発大国のフランスで長く暮らして、原発の恩恵をたっぷり受けながら、その反省はどこにあるのだろうか。東電の批判、政府の批判など老人の繰り言を延々と書きつらねるよりも、原発の恩恵それは経済的な豊かさや快適な暮らしであり、その恩恵があればこそ自らも筆一本で身すぎ世すぎができたことを「自己批判」すべきではないのか。
池沢は、将来の日本は現在のキューバのように「良き貧しき国」になれという。いまだに他国を理想として日本はこうあるべしという明治以来の他国礼賛、植民地根性から抜け出せないでいる。はるか昔は社会主義のソ連、次に文革の中国、そして主体思想の北朝鮮を理想の国として『朝日ジャーナル』周辺の「文化人」たちは讃えてきた。いまは、それらの国は崩壊、変質、独裁化したために震災後の国家モデルとしてあてはまらなくなった。だから別の国を探したのだろう。しかし、言うに事欠いて経済破綻国家キューバとは。
 「ソ連が崩壊した後キューバには、燃料も肥料も入ってこなくなった。そこで彼らは何をしたか。必死で都市型の有機農業を始めた。それがなかなかうまくいっているらしい。その一方で、キューバの人口当たりの医師の数は日本の3倍で、医療は無料。しかも、その医師がほかの貧しい国に派遣されてそこで医療に携わっている」(9頁)。そういう「良き貧しき国」になれと池沢はご高説を垂れている。これはまるで分析も批判もない、ただどこかの観光宣伝パンフ丸写しのような中学生や高校生レベルのレポートではないか。池沢は本気で言っているのだろうか。単なる商品としての論、売文のための論ではないのか。そうでなければ池沢には是非理想の国キューバで「良き貧しき」老後をおくってもらいたい。
 「ぼくは65歳だ。昔の貧しくて明るかった日本を知っているからそう(良き貧しき生き方ができるということ-引用者注)言える」。池沢夏樹、老いたり。昔を懐かしむようになったら、完全に老人だ。男も「老いては子に従う」ことだ。老人は昔の自分の価値観を若者世代に押しつけるな。かつて全共闘運動は旧い世代の価値観を破壊することを目的としてきたはずだ。その一端に連なっていたはずの池沢が若い世代に「昔は良かった」式のごりごりの保守的価値観を押しつけてどうするつもりだ。
 池沢と同様の主張を哲学者の木田元が保守系老人向け雑誌『新潮45』に書いている。「経済水準が下がっても、もう少し自然に謙虚な社会の設計をする必要がある」。左右のイデオロギー(木田元が右だといっているわけではない。右のメディアに寄稿しているという意味だ)を越えて、老人の主張は「昔は良かった」で、変わらないようだ。
 人間還暦を過ぎたら社会の一線を退いて、若い世代に全てを委ね、若い世代の手本となるような、若い世代のためになるような良き死にかたを模索すべきだ。老人は将来に責任を持てない。だからこそ老人の繰り言などをいわず、また「山上の垂訓」のごとき「高説」を垂れることもせず、ただひたすら若い世代の邪魔にならないように、静かに「溶融」ではなく溶暗していくべきだ。日本が「良き貧しき国として再生」するのではなく、日本の老人が「良き貧しき老人として殉死」すべきだ。
老人諸君!それが老人の責任であり義務だろう。

2011年5月23日月曜日

日本の全ての原子炉を廃炉に

 日本の電力会社は一刻も早く日本の全ての原発は停止すべきである。それは、地震や津波による被害の甚大になる危険性が高いからではない。また原発技術そのものの信頼性に問題があるからでもなければ、廃棄物の処理法が確立されていないからでもない。懸念されるのは、原発技術者がいなくなる、あるいは技術者の質が低下し、今ある原発を制御できずフクシマ以上の被害を出す危険性があることである。
 今福島原発で献身的に原発の制御にあたっている原発技術者は使命感に燃えて頑張っている。彼らがいなければ、どれほど悲惨な結果になっていたか火をみるよりも明らかである。彼らが使命感を持っている限り、福島第一原発は、現在の原発技術者で冷温停止まで何とか制御できるだろう。またそう願っている。しかし、はたしていつまで原発技術者が使命感を持ち続けることができるだろうか。東電はもちろん原発を抱える他の電力会社に原発技術者たちが残り続けるだろうか。電力会社に勤務しているというだけで、まして原発に勤務しているというだけで、今や後ろ指をさされるような状況である。今のままでは原発が廃炉になるまで本人はもちろん家族も世間の白眼視に絶えなければならなくなるだろう。それは自衛隊と同じ境遇だ。旧軍とは関係がないのに、自衛隊は戦後数十年にわたって差別されてきた。
自衛隊員は国防という使命によってなんとか職業意識を保つことができる。しかし、原発度術者はどうだろうか。国防と同じように原発を維持することに高い使命観をもつことができるだろうか。原発の電力は他のものでも代替できる。というよりも将来的には再生可能エネルギーに代替することが国策としてすでに決まっている。原発は時代後れの技術であり、再生エネルギーが本格的に登場するまでのつなぎのエネルギーでしかなくなってしまった。
こんな未来のない仕事に誰が就きたいと思うだろうか。現在東電も含めて原発技術者の全てはできれば仕事を変わりたいと本音では思っているにちがいない。とはいえ社会的責任や不況といったこともあっておいそれと転職はできないだろう。だからこそ原発技術者がいる間に原発を廃炉にする必要がある。彼らがいなくなれば、現発の制御はもちろん、廃炉にすることさえできなくなる。そうなれば、福島第一原発の事故どころではなくなる。
そもそも今回の事故を見るに、いわゆる原子力の専門家と言われる人のレベルが、神の火と呼ばれる原子力を扱うには相当程度低いのではないかという気がする。評論家や解説者のような素人が容易に意見を開陳でき、またそれに対して原発の専門家が十分な反論ができない。これまで仲間内だけの議論に終始してきたからか、専門用語が飛び交っているだけで専門家の話はさっぱり要領を得ない。専門家と政治家との間で十分な意志疎通ができなかったのは、専門家の言葉が一般社会では通用しない仲間うちの隠語同然だったからであろう。
さらに三十数年も前から原子力関連の研究を目指す学生が減り続けており、十数年前には人材不足から原発の信頼性に疑問符がつき始めていた。今回のフクシマ原発の問題も、かなりの部分人材不足に起因しているのではないかと思う。チェルノブイリは明らかに人材不足による人為的ミスが原因だ。その背景には80年代半ばの旧ソ連の経済的疲弊や社会的混乱があった。チェルノブイリと同じなのは事故の大きさというよりも、事故を起こした背景にあるのではないか。
今後大学で原子力工学を学ぼうという奇特な学生はまずいないだろう。原子力工学科を置いていた東京大学、京都大学、東京首都大学などは学科名を変更して学生を集めようとした。過去以上に将来は、全く未来のない発展性もない原発の技術を学ぼうという学生はいないだろう。優秀な学生であればあるほどそうだ。それよりは最新の再生可能エネルギー関連の技術を学びたいと思うだろう。
もう日本では原発技術の開発、維持する人材は出てこない。新たな原発開発ができないとなれば、東芝をはじめ原発関連産業は、海外に生産拠点を移さざるを得ない。そうなれば、必然的に技術者も海外へ移住するか、あるいは技術を海外に移転することになる。あるいは現在の優秀な原発技術者は原発開発に力を注いでいる原発新興国特に中国に高給で引き抜かれることもありうるだろう。仮にそうなれば、日本にはますます原発技術者がいなくなる。だからこそ原発の技術者が日本からいなくなる前に、原発を全て停止すべきだ。地震の発生確率は87パーセントかもしれないが、日本にある全ての原子炉が完全に廃炉になる前に技術者の数がゼロになるのは100パーセント確実だ。

2011年5月7日土曜日

小著書評

 ネット・サーフィンをしていたら、宮崎哲弥『新書365冊』(朝日新書)を書評した松岡正剛の「千夜千冊-遊蕩編」(1216夜)にたまたま出くわした。その最後に、宮崎哲弥が取り上げた新書の中から、特に松岡が推薦したい本10冊が挙げられていた。その中に小著『現代戦争論』および『テロ-現代暴力』の2冊が推薦されていた。ちなみに、2冊推薦されているのは私だけであった。宮崎の本にも2冊が推薦されているとは知らなかった。宮崎と松岡の二人の読み巧者に2冊とも推薦されたことに本当に感激している。
 実は、数年前に松岡氏にはある研究会の打ち上げで直接会ったことがある。そこで、『現代戦争論』と『テロ-現代暴力論』の著者だと自己紹介した。「ああ、そうですか。その本はよく知っています」と言われた。その時には単なる世辞だと思っていた。書評のプロといえどもなにしろ何千冊もの本を読破している人である。読んだ本はよほどのことが無い限りほとんど記憶の彼方に消えてしまう私からすれば、松岡氏も記憶などないだろうと思いこんでいた。しかし、何千冊もの新書の中から2冊(ちなみに私が書いた新書の全て)も推薦してくれていることを考えると、やはり世辞ではなく記憶にあったのだと思い、素直に感謝している。
 読書のプロに評価されることと、本が売れることとは全く違うようだ。二版で計約2万3000冊で『現代戦争論』は絶版となった。『テロ-現代暴力論』も初版18000冊が出たきりで、増版にはならない。売れないからあまり評価されていないのかと思っていた。しかし、思いがけずに二人のプロに評価されていたことを知り、自分の研究が正しかったことを確認でき、本当に元気をもらった。これからも時流、学界、社会などに阿ねることなく自らの信ずる道を貫いていく覚悟ができた。自画自賛で汗顔の至り、還暦に免じて何卒ご容赦。

2011年5月6日金曜日

蓄電池の開発を

福島原発の惨事以来、代替エネルギー論争が沸騰している。ただし、原子力を代替できるだけの自然エネルギー利用電力を開発するには多くの技術的困難がある。また時間もかかる。風力発電は何十年も前から研究されているにも関わらず、日本ではいまだに代替エネルギーにならない。アメリカや中国ドイツでは日本の10倍20倍もの発電量があり十分に実用化しているとの議論もある。
技術的な問題よりも、原子力を優遇する国の政策の問題だという反原発派の主張もあるが、必ずしもそればかりが風力発電が広まらない理由ではないだろう。風力発電に否定的な技術者は電力供給が安定しない、電気の質が安定しないなどという理由を上げている。また日本で風力発電がひろがらない理由の一つは、台風だといわれる。津波や地震には強くても、台風に弱いのが風車である。事実、現在風力発電が盛んな国は、高緯度帯で台風やモンスーンが無い国や地域である。
個人的な感想だが、風力発電には私は消極的だ。景観破壊、バードストライク、低周波問題など風力発電の自然破壊もまた考慮しなければならないからだ。カリフォルニアやネバダ州にある風力発電地帯を見たことがあるが、風車が山肌に何百機も並んでいる風景は圧巻、壮観ではあるが、威圧的で異様な風景だ。近くによると低周波のせいなのか、それとも異様な口径のせいなのか、気分が悪くなる。しかし、原発に比べれば、こうした風力発電の持つ問題は取るに足らぬ欠陥かもしれないが。
自然エネルギー推進派は反原発派であり、他方消極派は原子力推進派であることが多い。そのため自然エネルギー開発の議論が日本でなかなか進展しないのは、それが原発の技術ではなくイデオロギー論争や政治論議、あるいは人生観、宗教論になってしまうからである。日本のエネルギー政策の不幸は、いつまでたっても反原発、原発推進のイデオロギー論議に巻き込まれてしまうことにある。いい加減イデオロギー論争はやめにしよう。
技術的な問題だけを取り上げて議論するなら、自然エネルギー利用電力が実用化できるか否かは、蓄電池の開発にかかっている。2008年2月に米国国家情報会議は『破壊的民生技術』(Disruptive Civil Technologies)と題する報告書を公表した。その中で社会劇的に変化させる技術の一つとしてエネルギー貯蔵技術を挙げている。この技術は、車輛、船舶、航空機等の交通手段やさまざまな携帯機器で使用するエネルギーを貯蔵し、配分する従来の方法を劇的に変革する可能性を秘めた破壊的技術である。この技術には、特に燃料電池のための電池の素材技術、ウルトラキャパシタ(超大容量コンデンサー)そして水素吸蔵合金などがある。そしてこの破壊的技術が社会や経済に与える可能性として、化石燃料からのパラダイムシフトが起こり、グローバルな変革をもたらす可能性がある。
現在の電力システムの致命的欠陥は電気を貯蔵できないことにある。せいぜいが夜間に電気を使ってダムの水をくみ上げて電気エネルギーを重力エネルギーとして貯蔵し、昼間に再び電気に変えるという非効率な電気貯蔵技術しか実用化されていない。したがって電気は常に最大需要予測にしたがって生産設備を持つ必要がある。日本の場合は、夏の晴れの日の午後2時頃、気温が最高になるころである。東京では約6000万キロワットといわれている。さらに言えば、高校野球の決勝戦がこれに重なるとテレビの使用電力が増えるためにさらに電力消費が増加するといわれる。だから今年の夏は高校野球のテレビ中継はやめたほうがよい。
この致命的欠陥を解消できる蓄電池が開発されれば、原発は全て廃棄しても十分にやっていける。自然エネルギーで少量発電した電力を貯蔵し大量に集め、そしてスマート・グリッドで効率的に配電すれば、火力発電もやめることは可能だろう。いずれにせよ代替エネルギー開発の要点は蓄電池の開発にかかっている。

2011年5月2日月曜日

原発反対派は今こそ契約アンペア数の削減による電気の不買運動を

 今原発批判が堰を切ったようにあふれだした。たしかに福島原発の惨状を見れば、当然だ。しかし、はたしてどれほどの人が「それみたことか」といって、東電を批判できるだろうか。私は、今もそうだが、これまでもずっと原発賛成派、否むしろ推進派だった。原発の恩恵を受ける一方で、原発や東電を非難する資格があるとは私自身到底思えなかったし、それは今も変わらない。
 昨夕(2011年4月28日)の毎日新聞の夕刊に一貫して原発反対を主張してきたルポライターの鎌田慧がこう心の内を語っている。「ほれ見たことかと、僕が思っている?とてもそんな気持ちになれませんよ。・・・いったい何をやってきたのが。自家発電機で暮らすとか無人島に住むとか、僕自身、消極的な抵抗もしていない。すでにある存在として原発を認めていたのではなかったのか」。今はたして原発反対派、批判派の人たちは、鎌田のような謙虚な気持ちになっているのだろうか。
 スリーマイル島やチェルノブイリの事故をみて原発が絶対に安全などということはありえない。それは至極当然のこととして私は理解していた。今もそう思う。安全保障の原則、危機管理の鉄則で「Never say never」である。原発の存否の判断はあくまでも功利主義的判断に基づくべきである、と常々考えていた。功利主義の判断基準は経済的基準であったり、あるいは政治的基準であったりする。どこまで安全対策をすれば経済的に釣り合うのか、あるいは原発推進がどこまで国家のエネルギー政策に寄与するのか、あるいは地球温暖化を防げるのか、そういう功利主義的基準でしか原発は判断できない。もちろん反対派は原発は功利主義的に判断する対象ではなく、絶対に駄目だというかもしれない。しかし、その判断さえすでに功利主義的であることに気がつかなければならない。いずれにせよ、結果的に自然災害と経済との功利主義的判断の基準が甘かったために、今回の人災を招いたのである。反省すべきは、原発を建設したことではない。判断基準が甘かったことである。
原発の建設を決断したのは、いまから40年も50年も昔のことである。その当時を振り返って、原発を建設しないという選択肢がはたしてあったろうか。豊かさを求めてひたすら経済成長を追い求めていた日本にとってエネルギーの獲得は最重要問題だったのである。1965年に東海村に日本で初めての原子の灯がともった時、新しい時代が到来したような晴れがましさを覚えたことを50才代以上の人は皆覚えているだろう。また原子力エネルギーを使う鉄腕アトムは原子力の平和利用の象徴だったのだ。21世紀は原子力エネルギーの平和利用がロボットにまで広がる輝ける世紀として描かれていたのだ。
石炭から石油へとより経済的、効率的なエネルギーへの転換で高度経済成長を目指した日本が、1974年に突如オイルショックに見舞われてしまった。なんとしてでも安定的な、経済的な代替エネルギーが必要だったのである。当時さまざまな水力、風力、太陽光、地熱、波力など代替エネルギーが模索された。しかし、石油に代わる実用的なエネルギー源は原発しかなかった。
ダム建設で環境破壊を引き起すダム建設は日本各地で反対運動に遭い、また風力発電や太陽光発電の技術は未熟であった。いまでこそ屋根の上には太陽光パネルがついているが、つい最近まで屋根の上についているのは太陽光パネルではなく、太陽熱温水器だったのである。
もちろん原発建設当時から原発の危険性は周知の事実であった。だから広瀬隆の反語的反原発書の『東京に原発を』、あるいは原発の裏舞台を余すところなく描いた映画、森崎東監督の「生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言」(1985)などで原発の危険性を多くの人知っていたはずだ。たしかに反原発の言論はタブー視され、メディアでもあまり取り上げられなかった。だからといって今になって原発がこれほど危険だとは知らなかったというのは、あまりに無邪気すぎる。1979年のスリーマイル、そして1986年のチェルノブイリで原発の危険性は世界中あまねく知られていた。にもかかわらずわれわれは原発を選んだ。当時から批判はしていた、と言う人は上述の鎌田の言葉をかみしめてほしい。われわれは経済成長、便利な生活を求めて皆原発の危険性を過少評価、無視してきたのだ。
経済が成長するには電力、ガス、石油、風力、太陽光など社会全体の使用エネルギーの総量の増加が絶対に必要だ。社会全体のエネルギー総量を減らして経済の成長などありえない。節電すれば、経済が成長するなどということはない。たとえば節電すれば、電力会社の売り上げが落ちる。電力会社の売り上げが落ちれば、関連の会社の売り上げも落ちる。節電は原発エネルギーから次の代替エネルギーへの移行期間には役に立つが、その間は経済成長は低下する。
第1次、第2次オイルショックの際に節電や省エネが進んだ。しかし、家電や車の省エネは進んだが、社会全体でエネルギーの消費量は増加の一途をたどってきた。とりわけコンピュータの普及やエアコンの増加は電力消費を押し上げてきた。いくら省エネ型のコンピュータやエアコンを作っても、もともとそれらがない時代と比較すれば電力が増加していることは間違いない。ちなみにスーパー・コンピューターやコンピュータのサーバーは驚くほどの電力を消費する。グーグルが自前で原発を保有しようと計画していたのも増大するコンピュータ需要を今の電力のままではまかないきれないからだ。日本ではで電力需要の増加分を原発が補ってきたのである。そのおかげでわれわれは快適な生活を手に入れることができた。
今原発を批判する人はもちろん原発を今後どうするかはわれわれ一人一人の覚悟にかかっている。本当にいますぐにでも原発を停止したいと思うのなら、簡単な方法がある。それは各家庭の契約アンペア数を10アンペアもしくは15アンペアにすることだ。今多くの家庭が30アンペアもしくは40アンペアで契約しているはずだ。これを下げれば、原発を使用しなくても大丈夫である。もちろん家庭では、ブレーカーが落ちないようにさまざまな工夫が必要だ。エアコンとテレビは一緒に使わない。電子レンジと炊飯器は一緒に使わない。ドライヤーとアイロンは一緒に使わない。しかし、ちょっとした工夫で節電ができ、原発は不要になる。
こんな生活は40年前は当たり前だった。だから40年前の生活に戻って、当時の電力使用量にまで各家庭の電気使用量の上限を下げればよいのである。契約アンペアの引き下げによる節電は、いわば電気の不買運動である。電気は全面的な不買が難しいから、少なくとも現在の半分は不買してもよいのではないか。代替エネルギーが実用化されるまで、契約アンペア数引き下げによる電気の不買運動こそが、原発不要論の第一歩である。

原子炉制御に向け原発賛成派、反対派は一致協力せよ

千年に一度の大地震。追い打ちをかけるように大津波が押し寄せた。これだけでも未曾有の天災だ。その上さらに福島第一原発事故という人災まで降りかかってきた。福島原発が人災となった理由は、全ての核燃料冷却用電源が失われることを想定したマニュアルが東電にも政府にもなかった事だ。対処マニュアルがないために、全ての事故対策が場当たり的になっている。東電も政府も、いずれの危機管理も破綻してしまっている。アメリカ、フランス、IAEA等国際社会が不安になるのも無理はない。
まさか原子力発電所に電気が必要不可欠とは思わなかった。これが一般の人の感想だろう。一般の人だけではない。世界中のテロリストが原子力発電所のアキレス腱に気づき、北叟笑んでいるかもしれない。9.11のアルカイダのように航空機で原子力発電所に自爆攻撃を目論まなくても、核燃料冷却用電源を断ち切れば原発がメルトダウンして自爆するのだ。福島原発事故が国際安全保障に与えた影響は、環境、経済、社会にもたらした被害以上に深刻だ。
なぜ最悪のシナリオが想定されていなかったのか。それは逆説的だが、絶対にあってはならない事態だからだ。あってはならない事はない事にする、それを希望的観測という。ではなぜ、希望的観測がこれまでまかり通ってきたのか。反原発の人々は、一貫して警鐘を鳴らしてきたと主張するだろう。しかし、不幸な事に日本の原子力政策は、戦後の日本の安全保障の議論にも似て、冷戦時代に左右の政治イデオロギー闘争に巻き込まれ、冷静な論争ができなかった。日本の原発はイデオロギー対立という断層の上に立てられてきたのだ。
原発推進派は体制のイヌ、御用学者などと蔑まれ、仲間うちの小さなコミュニティに閉じこもってしまった。東電の中でも原発関係者は原子力村という小さなコミュニティを作っていたという。政治家、電力会社、官僚、東大の政産官学の原子力推進派はひたすら権力と金で反対派を懐柔し、経済効率優先で原発をつくってきた。反対派は核と聞くだけで延髄反射的に反対を唱え、夢物語りのような自然エネルギー利用のユートピアを喧伝するばかりだった。両者の間には建設的な対話はこれまでもなかったし、事故が起こった今もない。賛成派は楽観論を、反対派は悲観論を言い立てるだけだ。素人はただ、ただ恐れおののくだけだ。
原発はローテクの重厚長大産業の典型だ。原理は至って簡単。石油、石炭、天然ガスに代えて核燃料で作った水蒸気で発電タービンを回す。問題は核燃料をいかに制御するかだ。イデオロギー対立のせいで、核コミュニティの一部の技術者がハード面からのみ核燃料の制御法を考えてきた。本来は政治家や官僚も含めソフト面から原発全体の制御方法を考えておかなければならなかったのだ。
今からでも遅くはない。政府はこれまでの彌縫策を止めて、一刻も早くハード、ソフト両面から最悪に備えた短期的、長期的な危機管理マニュアルを策定すべきだ。そのためには原発賛成派、反対派はこれまでの確執を棚上げして、とにかく今は原子炉の制御に向け協力すべき時だ。

2011年4月29日金曜日

全共闘政権は即刻退陣せよ

管政権はほとんど脳死状態に入った。管直人(1946年生まれ)のリーダーシップ能力の無さが原因だ。リーダーシップ能力というよりもむしろ政策を構想し、具体的に構築していく能力が無い。構想力、構築力の無さは全共闘世代のDNAだろう。破壊無くして建設なし、体制を破壊することに青春を捧げてきた者に政治を運営する能力などなかったのだ。鳩山由紀夫(1947年生まれ)、仙石由人(1946年生まれ)しかり、である。破壊オンリーの全共闘世代の政治家は即刻退陣せよ。
全共闘世代の特徴は、反体制、反自衛隊、反米、反ナショナリズムである。この反(アンチ)の全共闘DNAに縛られて、妥協と建設の現実政治が全くできない。反体制のDNAは民主党の政治主導という指針に如実に現れている。政治主導とは体制そのものである高級官僚に対する反感、怨嗟、嫉妬に他ならない。反自衛隊のDNAは管が自らが自衛隊の最高指揮官であることを知らないほど無知であったり、仙石が自衛隊を暴力装置と言い放つ傲岸不遜な態度に顕著だ。反米のDNAは鳩山由紀夫(1947年生まれ)の沖縄の普天間基地問題などで見せた反米姿勢に如実だ。そして反ナショナリズムのDNAは国家観の欠如となって市民派を自称する管の震災復興政策を呪縛し身動きをとれなくしている。
世界市民派の旗頭朝日新聞でさえ「ニッポン前へ」(日本をカタカナにしたのは、恐らく復興ナショナリズムとはスタンスが違うのだということを表したかったのだろうが)と「日本」国家を掲げざるを得なかった。管も首相となったと時にはこれほどまでのナショナリズムの津波が来るとは思いもよらなかったろう。市民派管としては就任直後は反体制のDNAにしたがって国家、国民の代表ではなく市民の代表としてリーダーシップを発揮しようと考えたのだろう。民主党のバラマキ4K政策(子ども手当、高校無償化、戸別所得補償制度、高速道路無料化)は市民に対する政策と考えれば、腑に落ちる。
また反ナショナリズムのDNAをもっともよく現しているのが、定住外国人への参政権付与の提言である。民主党の党員は定住外国人は日本国民ではないが世界市民だと認めていたのだろう。だから管も前原も定住外国人から寄付金をもらってもなんとも思わなかった。管は、定住外国人からもらった寄付金で首相の座を失う寸前に東北大震災によって救われた。まさに国会で寄付金の追及を受けている最中に大震災が起こったのだ。
しかし、大震災が起きた時点で、管は否応なくナショナリズムに直面せざるを得なかった。反自衛隊のDNAに逆らって「暴力装置」である自衛隊の最高指揮官として10万以上の自衛隊の投入を決断し、反米のDNAを封印し米軍の支援を受け入れざるを得なくなったからである。管は世界市民の日本人リーダーではなく、日本国家の首相となって日本国民を率いるリーダーシップを発揮し、そして否応なしに日の丸を背負ってナショナリズムを鼓舞しながら日本国民を一致団結させなければならなくなったのだ。
反ナショナリズムの市民派管に日の丸を振る勇気や気概は全く見られない。いまだに市民派を気取ってキュウリやイチゴを食べている。全共闘政権はもちろん、この際、片足を棺桶に突っ込んでいる将来に責任の持てない年金受給資格世代の政治家は与野党問わず政界から即刻引退せよ。今こそ明治維新、敗戦後のように、未来に責任がもてる若い世代に政治を任せるべきだ。

2011年3月7日月曜日

中国でジャスミン革命は起きない

中国の上海を経由して雲南省泰族自治区シーサンパンナ州景江市の村で硝石の調査を行った。硝石の製造法は予想通り種子島と同様の牧畜法で、やはり稲作地帯では家禽や牛馬の糞尿を利用した方法、つまり堆肥と同じ製法であることが確認できた。実際、硝石を取る土は、優れた肥料として、特に野菜の栽培には適しているという。
 ところで、日本では中国のジャスミン革命の可能性が報道されているが、体感的には民主化よりも金儲け、豊かさの追求が優先されているようだ。中国では、ジャスミン革命は当分起きない。日本の報道は中国で何かが起きてほしいといった、感情に左右された報道姿勢ではないか。国民もそれを期待している風だ。
上海は東京、ニューヨーク以上のにぎわいだと思う。地下鉄、バスなど公共交通機関も充実している。10年以上も前に来た時とは雲泥の差だ。何よりも驚いたのは、メーター制のタクシーがきちんと運行されていることだ。初乗り12元(昆明では8.5元)で、虹橋空港からバンドまで約10キロが60元だ。領収書もキチンと出す。どう考えても安すぎる。地元の人に訊くと、政府の補助が出ているとのことだ。とにかく、町が奇麗になったことには驚いた。道路もキチンと清掃されている。ただし自動車が多すぎるせいか、スモッグで待ち全体が薄曇りだ。
上海政府は自動車を規制するために様々な手を打っている。上海のナンバー・プレートの登録に40万元必要だという。また上海以外の車には、上海での通行に規制がかけられているということだ。昆明でも景江でも自動車の数は多い。昔のように自転車やオートバイが走りまわっているという風景は景江でも見られない。中国のモータリゼーションは今後もますます進むだろう。はたして中国のモータリゼーションを支えるだけの資源、鉄や石油があるのか、大いに疑問に思わせるほどのモータリゼーションの勢いだ。
中国経済の実感は、1元が20円という感じだ。おそらくGDPは日本の1.3~1.5倍くらいではないか。個人のGDPも、言われているよりももっと高いと思われる。景洪市には中国人観光客が押し寄せている。昆明から景洪までの飛行機も1時間おきに早朝から深夜まで運行されている。増加する乗客に対応するために、景洪も昆明も新たに飛行場を作る予定だという。特に昆明の飛行場は数年前に作ったばかりなのに、別のところに改めて作り直すという。
また中国経済が成長している証拠がある。それは、私が調査に行ったタイ族のおじいさんの孫娘夫婦が自宅を改造して観光客のためのレストランを作っている最中だったことだ。人口が数百人(おそらく)にも満たない村にはすでに何軒かの旅行者向けレストランがある。それでもまだ需要があるほど観光客が増えている。ホテルの朝もとにかく中国人観光客が多かった。
中国の技術力も急速に進歩している。昔なら一目で粗悪品と思われる電気製品や日常品が氾濫していたが、今ではあまりみかけない。自動車、電気製品を含めて日本製品はほとんど見かけなかった。中国語で表記してあるからかもしれないが。驚いたのはトイレット・ペーパーが格段に良くなったことだ。また空港の便所もきれいだった。道路も街路も非常にきれいだった。上海万博のおかげなのか。まさに高度経済成長気の日本にそっくりだ。
というわけで、中国でジャスミン革命は起きない。