2011年5月28日土曜日

 原発事故は「戦争」だ

昨日(2011年5月27日)、思い立っていわき市から広野町を訪問した。目的は地震、津波、原発、風評被害の四重苦にある地域の現状を見たかったからだ。いわき市中心部から原発の30㎞、20㎞区域へと近づくに連れて、雰囲気が徐々に変わってくるのがわかる。まるでパレスチナのガザ地区やスリランカの検問所に近づいて行くときのような緊張感が漂ってくる。日本は今、原発という「敵」と戦っている。われわれはまさに有事の真っ只中にいる。
上野からバスで3時間、まず市役所近くにある市の災害救援ボランティアセンターに行き、救援活動の現状について担当者に話を聞いた。いわき市は東京から近いこともあって、放射線の風評問題を抱えながらも、ボランティアは平日でも約200人、週末には約500人程度の申し込みがあり、結構多いという。ボランティアセンターでは初めてのボランティアに対するオリエンテーションからはじまって、作業に必要なスコップ、ほうき等の道具の貸与、保険の加入手続など、受け入れ態勢は非常に整っている。また送り出し態勢も、被災者からの作業依頼の受け付け、ボランティアへの作業の割り振り等の業務も効率的に行われている。
感心して聞いていると、担当者から意外な悩みが出てきた。それは作業依頼と作業の割り振りが必ずしもマッチしない場合があるということだ。
第1に、依頼件数とボランティアの人数のアンマッチ。依頼件数に比してボランティアの数が少なかったり、多かったりすること。特にボランティアの数が多い場合には、ボランティアセンターのスタッフが逆に作業を探さなければならず、スタッフの数が少ないセンターでは大きな負担となっている。はるばる全国からボランティアに駆けつけてくれた人のことを考えると、無下に作業がないからといって引き取ってもらうわけにも行かないようだ。それでも時には何も作業依頼がなく、一日ボランティアセンターに待機ということもあるということだ。
第2に、作業内容のアンマッチ。実際の作業は津波でふさがった溝の掃除や被災した瓦礫の片付けなど、直接被災者の顔が見える作業ではないことも多い。そのため、自分は震災で困った人たちを助けるという気持ちでボランティアに参加したのに、ドブ掃除とは何だといって怒って帰る人もまれではないという。
第3に、最初に依頼された作業とは別に、現地で別の作業を依頼されることも多く、これがトラブルを生むことがあるという。たとえば魚の加工工場の後片付けを依頼されて行ってみると、本来会社がやるべき作業まで頼まれることもあり、ボランティアが無給のアルバイトのような扱いになることがあるという。
総じての印象だが、適材適所がいかに難しいかということだ。ボランティアのあふれんばかりの善意が、時に目詰まりをおこして、上手く行動や結果に繋がらない。実は私もその一人だ。ボランティアセンターを訪れたのは、原発警戒区域内ではボランティアの数が足りないということを聞き、まさに「義を見てせざるは勇無きなり」の思いからだ。若者に比べて放射線をあまり気にしないですむ年寄りにも何かできることはないかという気持ちだった。
しかし、担当者に、言下に言われた。「ありません」。年寄りだからないというのではない。そもそもボランティアの作業依頼がないのだ。20㎞圏内の避難区域はもちろん30㎞圏内の避難準備区域でも住人が避難して町や村にはおらず、行政も丸ごと避難所に移転してまっているために、ボランティアを支援する組織も人もおらず、ボランティア活動の機会がないのだ。
「志願兵」への志申し込みを諦めて、国道6号線を北上し、Jヴィレッジの入り口に設けられた20㎞圏内の避難区域の検問所まで行った。いわき市内では地面が陥没したり、建物が一部壊れるなど地震の跡が残っていたが、街そのものに地震の影響はほとんど見られなかった。一時風評被害でいわき市に生活物資が入らなかったというが、いまはガソリンも食糧も豊富にあり、平常にもどったようだ。
 しかし、一旦市街に出て海岸線を走ると様相は一変する。津波の被害で倒壊した家屋がいまだに手つかずのまま残されている場所が多い。岸壁が崩落し、テトラポットが散乱している。四倉漁港では津波で打ち上げられた漁船が何隻も海岸に横たわり放置されたままだ。
四倉漁港からさらに北上を続け久之浜漁港を過ぎたところから30㎞圏内に入る。いわき市は30㎞圏内の避難準備区域に一部が入っているが、行政単位上、避難準備区域には指定されていない。そのため、北に隣接する広野町とは違って、人々の姿を見かけることができた。
広野町に入るころから、車窓の雰囲気が変わってくる。車といえばダンプカーや工事関係の車輛くらいで、一般車(多くが軽)の通行はぐっと減る。また対向車線には警戒区域から帰ってくる警察や自衛隊の車輛が目につくようになった。また道路沿いの食堂、店そしてラブホテルも全て閉まっていた。どこかで似た風景があったなと、記憶を思い起こせば、それはまさにイスラエルとスリランカの思い出だった。検問所に近づくにつれ軍用車輛の数が増していった、あの時の緊張感が甦った。
広野町には東京電力の火力発電所がある。そのおかげか道路や公園も整備され、豊かな町という印象だ。そしていよいよ20㎞圏内の入り口、Jビレッジの入り口に到着した。ここから先は関係車輛以外の立ち入りが禁止されている。自衛隊、警察、工事関係など多くの車輛が出入りしていた。警察車輛は配備されていたが、意外にも検問にあたっていたのは景観ではなく、民間警備会社のガードマンだった。これほど緩やかな検問でいいのだろうか。
帰路は国道6号線をなるべく避けて、海岸沿いの小さな道を走って帰った。驚くことに、広野町では復旧作業は遅々として進んでいない印象を受けた。津波の被害を受けた海岸沿いの家はまだ壊れたままに放置されていた。またそれほど被害を受けていない家も片づけが行われた様子がない。とにかく住民全員が避難したために、個人の家屋などてつかずのままで全く復旧されていない。橋の復旧にあたっていた工事関係者は見かけたが、それ以外に広野町では人は見かけなかった。商店街の店のシャッターはどこも閉められたままで、まさにゴーストタウンとなっている。
一方、いわき市に入ると復旧工事は広野町に比べれば多少は進んでいるようだ。四倉漁港では津波で壊滅的な被害を受けたが、町の瓦礫の撤去に何台もの重機が投入され、また電話線の修理も行われていた。
四倉漁港から小名浜漁港に至る海岸通りのレストラン、ペンションなど全壊は免れたもの一階部分に被害を受けた建物が多かった。津波の高さは三陸に比べ低かったのかもしれない。高さ1メートルほどの網状のフェンスには乾いた海草がたくさん絡みついて垂れ下がっていた。建物には津波の被害をあまり受けなかった地域でも、津波によって運ばれた土砂が側溝につまり、生活に不便をきたしているところが多い。ボランティアセンターでドブ掃除の依頼が結構あると聞いた。
実際、ボランティア10人ほどが民家横の側溝をシャベルで掻きだしていた。掻きだされた土砂が土嚢に入れられて、積み上げられていた。その量の多さを見ると、大変な作業だということがわかる。体力のない年寄りではかえって足でまといになるような重労働だ。
わずか半日ではあったが、三陸地域とはちがって原発問題に苦しむ福島の現状を少しは知ることができた。ゴーストタウン化した広野町を見ると、まさに今「戦争」が行われているのだという感想を持ってしまう。かつてスリランカでは戦闘地域から住民を追い出し、また戦闘地域から住民たちが逃れ、避難民は難民キャンプでの暮らしを強いられていた。現在、原発避難区域から逃れている原発避難民と紛争地域から逃れていたスリランカの紛争避難民そして今も世界各地で紛争のために難民キャンプで暮らす紛争避難民と、一体どこに差があるのかと思ってしまう。
原発問題は安全保障問題そのものだ。はたして管政権にその自覚があるのだろうか。帰りの列車の中で、幸せにもビールを飲みながら独り言ちていた。

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