2011年8月16日火曜日

大文字騒動

 陸前高田から送られた松の木を京都市が放射能汚染を理由に大文字焼きに使うことを拒否した。そして成田山新勝寺でも同様に陸前高田の松の木をおたきあげに使うかどうかをめぐってもめている。少しでもセシウムが検知されれば、おたきあげには使用しないという。京都市は国が薪を燃やすに安全かどうかの基準値を決めないから、結局は放射性物質が検知されればやめざるを得ないという。しかし、一部の反原発の専門家からは、自然界や医療による被曝を除いて、できる限り被曝しない方が良いという意見がある。これは専門家の意見というよりも素人の知恵だろう。であれば、安全な基準値などないわけだから、少しでも放射線が検出されれば被曝しないように放射性物質を避けるべきだということになる。
 徹底して放射性物質を排除し被曝しないようにという議論を実行しようとすれれば、恐らくそのいくつき先は、松の木だけでなく陸前高田に暮らす人々をも事実上拒否することになる。実際、原発事故当初、除染証明がなければ避難所に入居させるべきではないといった意見があったという。汚染されていない地域に暮らす人々から見れば、被曝を避けるためには当然ではないかという主張だろう。しかし、この主張の正当性は、差別を助長するどころか、その主張をしている人々もまた差別される側に回ることを覚悟しておかなければならない。
 8月上旬に訪れたリビアの田舎で、道路沿いの食堂に入った。私が日本人であることを知ると、小学生くらいの男の子が「フクシマ、フクシマ」とはやし立てた。内戦下のリビアの、しかも周りは砂漠しかない、道路沿いに立つ食堂で、まさか子どもからフクシマといわれるとは思わなかった。彼は、フクシマが何を意味しているのか、恐らくは正確にはわかっていないだろう。しかし、もはや日本や日本人は世界から差別されているのである。
神戸ビーフ、高級野菜や果物も、はては中古車に至るまで放射能汚染の風評被害で輸出が大幅に落ち込んでいる。もはや日本全体が原発事故で放射性物質に汚染されているイメージが世界中に広がりつつある。
こうした皮肉な状況にも関わらず国内ではヒロシマ、ナガサキですでにわれわれが経験している被爆者差別を助長するような傾向が広がりつつある。とりわけ宗教行事の送り火やおたきあげにおいてさえ被爆者差別につながる動きがあったことは怒りを通り越して、悲しい限りである。同じ日本人として、同胞として、原発の影響を受けた人々に少しでも共感を寄せ、たとえ被曝してでも、ともに助け合うことが必要だろう。まるで病的な潔癖症のように被曝を恐れて少しの汚染も許さないのでは、もはや東北の復興は望めない。いつから日本人はこれほどの潔癖症になったのだ。昭和生まれの世代は大国とりわけ中国の核実験でたっぷりと放射性物質を浴びている。それでも寿命は伸び続けている。
汚染をおそれてかもしれないが、これほど未曾有の大震災にも関わらず、ボランティア数は7月31日現在で62万である。阪神淡路大震災では4カ月目の時点で120万である。いろいろな条件の違いがありにわかに比較できないが、参加者数が少ない理由の一つは被曝を恐れてのことだろう。5月末にいわき市に行き、福祉協議会の人から聞いた話では、30キロ圏内はもちろんその外でも原発に近いところにはボランティアに行く人が少ないという。
内外のメディアでは、東北の人々の秩序だった振る舞いについて日本では東北人の美徳、そして世界では日本人の美徳として賛美する論調が多い。しかし、その賛美の裏側に、賛美することによって差別を償うという構図が透けて見える。大文字焼きとおたきあげの問題に日本人の本音が現れた。それは、同時に世界が日本人全体に対して向ける視線と同じだということを、「潔癖症」の人は肝に銘じておく必要がある。

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