8月1日から11日まで中東の民主化の動向調査のためにエジプトとリビアを訪問した。
まずはガイドブック風に旅行の概要を記しておく。
8月4日早朝、いよいよベンガジに向けて出発。朝6時半にカイロ市内のトルゴマーン・バス・ステーションからバスに乗り、カイロから約600キロのマルサマトルーフについたのが昼の12時半。料金は65エジプト・ポンド(約850円)。ここで1時半に地中海に面した国境の町イルサローム行きのバスに乗り換え、約200キロを2時間半で走り、4時に到着。料金は20エジプト・ポンド(約250円)。
ここからは公共の交通機関はなく、国境までの数㎞を乗合の白タクでいくことになる。料金は2ポンド。リビアに帰る二人連れと一緒にオンボロの白タクに乗り国境まで行く。地図ではわからなかったが、エジプトとリビアの国境は台地で隔てられている。壁のようにリビア台地がイルサロームの町の前にそびえている。車は急な坂道を2~300メートル昇りつめると、そこには平原が広がっている。平原をさらに走るとエジプト・リビアの国境検問所が見えてくる。
国境検問所でエジプトの出国手続の場所や要領がわからず、同乗したリビア人の若者に手助けをしてもらった。なんとかエジプトの出国が済むと、今度は再び白タクに乗り換えて数百メートル先のリビアの検問所に行く。歩いても良いくらいの距離だが、2ポンドとられた。カダフィ政権側が支配している国境検問所なら、恐らく東京で事前にビザを入手しなければならないところだ。しかし、反政府側が管理しているためにビザは不要だった。若い、英語の流暢な係官、といっても役人のような風体ではなく、反カダフィの一般市民が役人の代行をしているような様子だった。それは警戒にあたっている民兵にも言える。戦闘服は着ているが、とても職業軍人には見えない。恐らく一般市民から志願した民兵だろう。民兵の中にはどうみても私と同じくらいの年格好の老人も混じっていた。
いろいろと思いがけないことが起こったが、なんとかリビア入国手続をすませることができた。一番の心配は、ベンガジまで行く交通手段があるかどうかということだ。事前に朝日のカイロ特派員の方からは、交通手段があるかどうかが問題といわれていた。ところが幸運にもベンガジ行きの大型バスが止まっていた。乗り込むと外国人は私と欧米系の若い青年ジャーナリストの二人だけであった。彼とは、翌日に偶然にベンガジの町で再会した。
ベンガジまで恐らく5~600㎞はあったろう。夕方の6時半に出発して、ベンガジに到着したのは、8月5日の午前3時過ぎだ。料金は20リビア・ディナール(約1200円)と記憶している。途中、夕食のために30分もの休憩をとった。通常はこれほど長く休憩はとらない。ラマダンのために昼間全く食事をしないので、日が暮れるとすぐに運転手も乗客も皆たらふく夕食をとる。そのために普段よりも休憩が長くなる。
ベンガジまでの道中、十数回にわたってしつこく、しかも本格的な検問を受けた。銃を抱え、戦闘服を着た民兵がバスに乗り込み、乗客のパスポートや身分証明書を丹念にチェックしていた。それが2~3回ならまだしも、ほぼ30分に一回は検問を受けた。これほど厳しい検問体制を布いているところをみるとよほど治安が悪いのかと緊張した。しかし、実際にはベンガジの治安は全くといってよいほど悪くはなかった。またリビアからの帰路では一回も検問を受けることもなかった。昼間だったからなのか、それとも地元のマイクロバスを使っていたからなのか、理由はよくわからないが、昼と夜の検問の厳しさの違いには驚いた。
ベンガジのバス・ステーションに午前3時15分に着いたものの、ホテルを予約していたわけではなく、いささか途方にくれた。なんとか白タクをつかまえて、ホテルに案内してもらった。高級ホテルに行ってくれと頼んだのだが、言葉がうまく通じなかったのか、私の服装をみて運転手が判断したのか、連れて行かれたのは一泊25ディナールの安宿だった。
ひと眠りしてから、朝早くに街を歩いていると、荒れ果てた元高級ホテルのような建物があった。周りは焼け焦げたモニュメントや荒れ果てた公園などがあり、いかにも戦闘があった痕跡がそこかしこに残っているような場所だ。ホテルの窓は砂で汚れ、また人影も全くなかった。どうみても営業しているようには見えなかった。しかし、良くみるとエアコンの音がし、灯がついているところもあった。念のためさらに近づくと、玄関に人がいた。営業していたのだ。後でわかったが、そこはベンガジの最高級ホテルのテイベスティ(Tibesty)・ホテルだった。さっそく安宿を引き払い、ティベスティ・ホテルに移った。予約無しで直接宿泊を申し込んだが、全く何の問題もなかった。一泊約100ドルだった。
帰国後わかったことだが、このティベスティ・ホテルは6月1日に爆発事件が起こり、7月4日には敷地内に駐車してあった車から3-40キロの爆弾が発見されたという。このホテルが標的になっているのは、反政府勢力の要人や外交官、外国メディアが頻繁に利用しているからだろう。たしかにホテルの宿泊客をみると欧米系のいかにもジャーナリストらしい連中を多く見かけた。またビジネスマンらしい人もいた。アジア系でビジネスマン風の多分中国人らしき男性を一人見かけた。噂によると、米英の諜報機関の連中が多く滞在しているのではないかということだ。とにかく宿泊客があまり多くはない、多分20~30人程度でホテルの部屋数の一割も埋まってはいなかった。私も相当目立つ存在だったと思われる。
8月5日は金曜日でイスラムの休日。朝、人通りがあまりなかった。内戦で街がすっかりさびれてしまったと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。午後から多くの人が街に繰り出し、他のイスラムの街と少しもも変わらぬ賑わいを見せていた。
ベンガジの街をタクシーや徒歩で回ってみたが、とりたてて変わったところはない。民兵を見かけたのはティベスティ・ホテルや海岸の通りの検問所くらいである。ホテルの警備はカイロでも同じで、むしろカイロのホテルの方が厳しい。ホテル以外では道路の検問所以外、民兵の姿もほとんど見かけなかった。警官と思われる風体の人物はついに見かけなかった。兵士や警官がいたるところに目につくカイロやパレスチナとの国境の町アリーシュよりも、見た目、治安はよさそうだ。
タクシーがあまりなく、白タクが一般的だ。だから手を挙げればすぐに車がとまり、行き先を告げると連れて行ってくれる。私はいつも5ディナール(300円)程度を払っていた。カイロのタクシーの水準からすると高すぎる気もしたが、日本に比べれば、とつい5ディナール紙幣を渡してしまった。
町中にゴミがあふれていた。公共サービスが上手く機能していない印象を受けた。内戦の混乱のせいかと思ったが、ゴミ収集車は市内を巡回しており、単に人手が足りないということなのかもしれない。ゴミといえば、リビアにはいってから特に目についたのが高速道路の周辺で一面に白い花が咲いているかのようなレジ袋の多さだ。エジプトでも見かけないわけではなかったが、とにかくすさまじいレジ袋の数量だ。運転手が皆ゴミを車から放り投げているためだ。
ベンガジでは物資や食糧が不足しているのではないかと言われていたが、露店や商店、市場を見た限り、そんなことは全くなかった。野菜も果物も新鮮なものが多く並べてあった。また私自身、すり切れ破れたズボンに代えて新しいズボンを買ったが、服屋には商品が豊富にあった。車も高級車は日本製という印象だ。私が帰路に雇った車は、日本からエジプトのアレキサンドリアに陸揚げされたことを示す車の配送伝票が誇らしげに窓に張り付けてあった。一般車では韓国のヒュンダイが特に目についた。
内戦下で人々が呻吟苦吟しているのではないかとの予断は見事にはずれた。内戦の爪痕を残していたのは、私が見た限り、ホテルの周辺の焼け焦げた建物と海岸近くに立てられた内戦の犠牲者を悼むテント村だけだった。海岸には十数張りのテントが立てられ、そこには恐らく内戦の犠牲者と思われる人々の遺影が飾られていた。
ベンガジが反政府勢力の勢力下にあることは、国旗でわかる。今年2月に反政府勢力の国民評議会は赤、黒、緑の三色旗に三日月と星を中央にあしらった1951年から69年まで王政時代に使用されていた旗を国旗として採用した。リビアに入国して以来、どこに行ってもこの旗があふれかえっていた。玄関の扉にわざわざペンキで国旗を描いている家も数多くあった。露店でも大小の国旗が数多く売られていた。
ラマダン中は日が暮れてからが、人々の活動の時間帯である。イフタールと呼ばれる断食開けの食事を家族で食べるために、町から人や車がほとんどいなくなる。ホテルでも夕食時にはレストランに宿泊客が一斉に押しかけ、皿一杯にご馳走を盛って、宴会のような騒ぎである。そして食後には人々は外に繰り出し、子どもたちは夜遅くまで遊び回っている。大人は喫茶店で水タバコを燻らしながら友人、家族と会話を楽しむ。ベンガジもカイロと全く変わらず人々はイフタールを楽しんでいた。
カイロに帰ってからわかったが、私がベンガジを訪れた前日に小池百合子議員が、まさに寸暇を惜しんでベンガジ入りし、国民評議会のアブドルジャリル議長と会談していた。聞くところによると当初陸路でのベンガジ入りを計画していそうだが、時間がかかるために国連機を使ってギリシアからベンガジに飛んだということだ。現在リビアには民間航空機の乗り入れは全て禁止されている。テレビ朝日が小池議員の会談の模様や犠牲者の遺影を見入る様子を放映していた。遺影が展示されている場所は、私も訪れた海岸近くの国民評議会の建物とおぼしきあたりではなかったろうか。
一般旅行者がリビアに入るには、今のところはエジプトから陸路で入国するしかない。反政府側はビザがいらないが、チュニジアから陸路でトリポリに入ろうとすれば、ビザが必要となる。多分国境をまだカダフィ側が制圧していると思われるので、個人ではなかなかビザがとれない。在京リビア大使館のホームページを見ると、個人によるビザ取得は困難を極めるようだ。ベンガジの街中で偶然再会した若いジャーナリストはチュニジアから陸路でトリポリに入ったということだ。またCNNもトリポリからチュニジアに陸路で脱ける模様を放映していた。ジャーナリストにはビザを発給しているのかもしれない。
私のパスポートにはすでにリビアの入国スタンプが押されている。これは反政府側独自の入国スタンプなのか、それとも従来からあるリビアの入国スタンプなのかがわからない。もし前者なら、トリポリ政府が支配しているチュニジアからリビア西部やトリポリに入ろうと思っても、カダフィ政権はビザを発給しないだろ。そもそも在京リビア大使館は、カダフィ、反カダフィのどちら側についているのだろうか。
ベンガジのネットは規制されている。カイロが全く規制を受けていないのも驚きだったが、反政府勢力支配下のベンガジで規制をしているのは驚きだ。カダフィ政権下での規制をまだそのままにしているのかもしれない。GMAIL への接続ができない。スカイプができるので、海外へのメール、通信が完全に規制されているわけではない。海外へのラインがあまりないのか、ネットカフェからスカイプでビデオ電話をしようとしても途切れ途切れでうまく繋がらない。ただしSMSは繋がる。だからGMAILを規制しても無意味なように思える。
ホテルでは一応WIFIが使えるらしい。らしいというのは、私のPCでは何故か接続できなかった。他に何人もが接続していたためか、接続オーバーで接続できないとのメッセージがいつも出てきた。私のPCに問題あるのかもしれない。部屋から備え付けの固定電話で国際電話をしようとしたが、繋がらなかった。また携帯は私のドコモの携帯ではリビア国内では接続できなかった。というわけで海外に向けた通信事情は必ずしも良くない。国内向けは問題ないようだ。ネットカフェでは、となりに座った男がずっとスカイプを利用していた。
私の宿泊した部屋は6階にあった。最近全く窓拭きをしておらず、窓には茶色砂がこびりついていた。その窓越しにベンガジの街を眺めると、平穏な地中海の街という印象しかない。内戦下にあると思わせるような景色は全く見ることができない。完全に反政府勢力側の支配下に入ったようである。一方CNNが伝えるトリポリの様子も平穏なようだ。ただし、NATO軍の爆撃を除けば。カダフィと反政府力の戦闘が行われているのは、ベンガジとトリポリとの間だ。しかも、ニュースで見る限り本格的な交戦というレベルではないようだ。反政府勢力の主力は戦闘には素人の民兵、カダフィ側は金で戦う傭兵で、正規軍同士の衝突とは少し様相を異にしている。片や戦闘能力不足し、片や戦闘意志が不足している。そのために相手を殲滅することができない。
反政府勢力には、いわばイラン革命の時の革命防衛隊のような印象を受けた。犠牲者の遺影を掲示し市民の士気の鼓舞を図るところなど、1985年にテヘランに行った時に見かけた光景にそっくりだ。もっともすでに革命派が政権を掌握した当時、イランが戦っていたのはイラクだが。当時イランでは入国管理から街の警備にいたるまであらゆるところで市民の志願からなる革命防衛隊が動員されていた。同じようにリビアでも民兵が検問や街の警備にあたっていた。
入国した時からどのようにして出国するかをいろいろ模索した。当然来たのとは全く逆にまた大型バスに乗って国境まで行くことを考えた。ところが、ホテルのインフメーションやタクシーの運転手にエジプト往きのバス乗り場を尋ねても、来たときに利用したバス・ステーションとは異なる、マイクロバス乗り場を教えられた。呼び込みの若者にマイクロバスの料金を尋ねると、カイロまで70ディナール、アレキサンドリアまで60ディナールと格安の運賃だ。これにはからくりがあって、マイクロバスが満席になったときの値段ということである。だから、満席にならなければ出発しない。満席でなければ、事実上、マイクロバスを借り上げることになる。
8月6日朝、マイクロバスの乗り場に行くと案の定、今日はカイロまでは行かないという。国境線までなら借り上げで110ドルで行くというので、マイクロバスを借り上げることにした。要するに安い運賃を提示して客を呼び、実際には客との交渉で運賃を決めるのだ。出発して国境線に近づくともう200ドルを払えばカイロまで行ってもよいと持ちかけてきた。その途中のアレキサンドリアまで100ドルなら払うということで交渉が成立。結局朝の8時半にベンガジを出発し、アレキサンドリアに夜の9時半に到着した。チップも含めて合計日本円で2万円足らずを支払った。走行距離は約1200キロ、燃料代は運転手持ちである。燃料代といっても軽油がリビアではリッター9円、エジプトでも15円である。ちなみにガソリンはエジプトでは15円である。トヨタハイエースの燃費をリッター10キロとして、1200キロ走っても燃料代は日本円では1200~1300円程度だろう。支払った金のほとんどは運転手の労賃ということだ。国境の手続のことを考えると、お互いにまあ納得せざるを得ない。恐らく運転手がいなければ、国境をスムースに越えることはできなかったろう。
リビアの出国審査はともかく、エジプトの入国手続が全く複雑でスローで、私一人ではその日の内に入国できたかどうか自信はない。運転手は私と自分のパスポートを持って、あちこちの係官に早くしろとせっついていた。入国審査官がコンピュータに入力するのだが、一件入力するのにずいぶんな時間がかかる上、手元には何十冊ものパスポートが山積みになっていた。このペースでは何時間もかかると覚悟を決めたが、運転手としては一刻も早く仕事を終えたい一心で、私のパスポートを振りかざしながら、係官に先に入力を終えるように必死に頼んでいた。彼の努力が効を奏したのか、30分ほどで無事エジプトに入国できた。
往路では全く気がつかなかったのだが、リビアとエジプトの入出国審査場の間に、アフリカ系と見られる難民が何十とテントを張って暮らしていた。店まで出している難民もいたから相当長期間滞在しているのだろう。UNHCR、IOM、WHOがエジプト側の検問所に事務所を構え、彼らの面倒を見ていた。どこから来た難民なのか、よく分からなかいが、服装や肌の色から判断するとアフリカ系と思われる。ベンガジでは紛争も沈静化しており、紛争を逃れてリビア人が難民になるということは今はないと思われる。
結局リビア滞在は入国から出国まで約50時間だった。いろいろな幸運に恵まれて本当に思いがけずにスムースに入国、出国ができた。予定では、後1~2日はかかるだろうと思っていた。逆にあまりにスムースに行き過ぎたために、リビアにとどまる時間が短くなってしまった。要するに、内戦下とはいえ、リビアの反政府地域では国民評議会による入出国管理や交通等の国家機能、社会機能が機能していることの証左でもある。
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