2013年8月29日木曜日

キング牧師の「夢」演説から50年

今日(2013年8月28日)マーチン・ルーサー・キング牧師の「私には夢がある(I have a dream)」演説から50周年記念の式典が、50年前と同じ場所、リンカーン記念堂前で行われた。50年前には立錐の余地ないほどの20万人から30万人が集まったといわれる。今回は多く見積もってもその半分か三分の一くらいだろうか。時折雨のちらつく蒸し暑い気候に加え、とにかく警備が厳しく、結局会場に入れなかった人も多くいたのではないだろうか。一般入場者のゲートには10台の金属探知機しかなく、荷物検査も空港の検査場並みの厳しさだった。式典開始の30分前には会場前に着いたが、50メーター先のゲートをくぐるまで2時間かかった。 ゲートからさらに10分ほど歩いてリンカーン記念堂の近くまで行くと、すでに式典の半分は終わり、オプラ・ウィンフリーの演説から聞き始めることになった。三人の女の子の国家斉唱の後、オバマ、クリントン、カーターやキング牧師の子供などが演壇に立ち、熱のこもった演説をした。終わったのが三時半過ぎ。帰りも大混雑で、会場を出るのに小一時間かかった。 ニュースを見ると、聞き逃した前半もキャロライン・ケネディをはじめ何人もの有名人が演説をしたようだ。演説の合間、合間には有名歌手が歌を歌っていたが、要するに弁論大会だった。アメリカ人にとって演説がいかに身近で、重要か肌身で感じた。演説中にも拍手や口笛が絶えることはなかった。毎週日曜日の朝、アメリカのテレビではメガ・チャーチと呼ばれる屋内球場ほどの教会から牧師の説教が放映される。キング牧師が演説がうまいのは説教で慣れていたからだろう。オプラ・ウィンフリーはテレビの司会者だったが、政治家のように演説がうまい。カーターもクリントンも聴衆を引き付ける演説をしていた。要するに皆演説がうまい。 オバマは最後に登壇したが、30分以上の長広舌だった。カーター、クリントンが数分程度だったのに比べ、いささか長かった。夜のCBS のニュースで、「演説はキング牧師ほどではないよ」と前日のインタビューで予防線を張っていたが、やはりキング牧師を意識していたのだろう。彼のいう通り、内容はそれほどでもなかったが、驚いたのは彼が原稿を読んでいなかったことだ。最初から最後まで目線を一度も下に落とすことはなかった。どこかにプロンプターがあったのだろうか。しかし、ほかの演者は明らかに原稿を読んでいた。原稿を見ずに30分以上、言いよどむことなく演説を続けたのは見事としか言いようがない。英語は音声言語であり、日本語は文字言語だということを痛切に感じた。日本人が演説べたなのは、日本が耳から理解する音声言語ではなく目から理解する文字言語に原因があるのではないか。 多くの演者に共通する言葉はやはり夢と自由だ。改めて思うが、アメリカは夢の国だ。夢のような国というのではない。夢がナショナル・アイデンティティになっているということだ。American Dreamからキング牧師のI have a dream そしてディズニーのDreams come trueまで、未来に目を向け、明日を信ずる国民性こそアメリカの原動力になっているのではないか。明日が信じられるからこそ、たとえば子供もたくさん産める。貧富の格差の広がったアメリカの状況では日本人ならとても二人も三人も子供を持とうという気にはならないだろう。ワシントンだけでなくほかの多くの都市でたくさんの子供を連れた家族に出会う。もちろん夢破れた子連れのホームレスも多くいるのだが、彼らもまた夢を信じ、再度チャレンジするのだろう。 対照的なのは日本人だ。八月の敗戦記念日ということもあるが、隣国から口出しされなくても、とにかく過去しか見ていない。懐旧譚にふけるか、ああでもないこうでもないと過去を反省するか。民族性なのだろうか。それとも時代の問題なのだろうか。後ろ向きの徒競走をしているようで、ゴール(夢)が全く見えていない。 イラク戦争の反省もせずシリア攻撃で夢(理想)ばかりを語るアメリカもどうかと思うが、侵略と植民地支配の反省ばかりで夢を語ることを忘れてしまった日本もどうかと思う。

2013年8月28日水曜日

シリア攻撃で窮地に立つオバマ大統領

 アメリカによるシリア爆撃の可能性が高まっている。状況は1999年のユーゴスラビア空爆の時にそっくりだ。NHK の夜九時のニュースが解説したイラク戦争ではない。ユーゴ空爆では、ユーゴの「民族浄化」をやめさせるために、人道の名のもとに米、英を中心に約二か月半空爆が続けられた。  今回も化学兵器の使用をやめさせるために人道の名のもとに攻撃が行われるようだ。国際法上、攻撃をどのように正当化するかが問題だ。ロシアが強硬に反対している以上、安保理が承認するはずはない。  ユーゴの時もそうだ。住民虐殺、民族浄化が起きているといわれていたが、実際には、伝えられたほどの規模ではなかった。また反セルビア国家が宣伝工作に関与したことも後で明らかになった。さらに人道目的といわれていたが、セルビアがとても受諾できないようなコソボ紛争調停案を米英が提案し、それをミロシェビッチが拒否したことが空爆の大きな理由であったことも判明した。  人道を目的にするなら、反駁の余地のない証拠が必要だ。しかし、化学兵器が使用されたことは確かだが、だれが使用したか、国連の調査団は明らかにしていない。しかも、どのような種類の化学兵器で、どのようして使用されたかいまだに明らかになっていない。砲弾なのか爆弾なのか、いずれであれ砲弾や爆弾の破片から、だれが使用したかはある程度推測できるはずだ。英米ともに政府軍が使用したといっているが、その根拠はいまだに示されていない。 また今に至るも毒ガスの種類が明確になっていないのはなぜなのだろうか。神経ガスのサリンが疑われているが、ビデオで見る限り、治療や看護にあたっている人が比較的軽装でサリンに対処できるような恰好をしていない。みんな死体に平気で触れている。除染、中和したのだろうか。 映像で見ると、死体や負傷者に子供が多いのも気にかかる。かつてイラク軍がハラブジャでサリンを使った時には、瞬時に何百人もの人が死に、最終的には千人とも五千人とも言われる多数の死者が出ている。また毒ガスでは犬や猫も死ぬ。ハラブジャの写真には道路に人間だけでなく犬や猫の死骸も映っていた。今のところ、そうした映像は出ていない。 ユーゴ空爆のことを考えると、反政府側の宣伝工作の可能性は捨てきれない。ワシントンでは亡命シリア人が精力的にアメリカに支援を要請する活動を続けており、アメリカのシンクタンク、NGOも彼らの活動を支援している。アメリカの情報機関も彼らからの情報に基づいていると思われる。 化学兵器が使用されたのはダマスカス近郊だという。昨年私が行ったときには、中心部から2-3キロには反体制派が支配している地区があった。そこに連日のようにヘリから銃撃やミサイル攻撃をしていた。私はそれを撮影しようとして逮捕されたのだが、戦術的に見て、毒ガスを使うような場所とは思われない。またアサド政権が毒ガスを使用するほどに追い詰められている状況とも思えない。今毒ガスを使用して利があるのは、こう着した局面を打開したい反政府側だろう。シリア政府が強硬に否定し、国連の調査団を受け入れたのは自信があるからかもしれない。 一方で追い詰められているのはオバマ政権だ。オバマ政権は「核兵器なき世界」と大言壮語し、「チェンジ」と理想を語るばかりで、シリア問題でなんら指導力を発揮してこなかった。その間に数万人とも言われる犠牲者が出た。シリア問題だけではない、エジプトの反革命運動も拱手傍観するだけだ。リビア、パレスチナなども含め中東政策で具体的な成果はない。中東に関心の深いケリーが国務長官になって、彼のイニシアチブでパレスチナ問題が少し動き始めただけである。ただしすぐに行き詰ったが。さらに言えばオバマ政権は外交が苦手なのか、関心がないのか、演説でノーベル平和賞をとったこと以外に全く成果を出していない。ここで何らかの実績を挙げないと、無能の大統領という名を歴史に残すことになりかねない。 とはいえ、軍事力を行使しようにも、金がない。10月には最悪の場合、政府は財政破たんする恐れがある。イラク戦争のように地上軍を投入するような大規模な攻撃はとてもできない。ユーゴ空爆のように空からの攻撃だけで、しかも1998年のアルカイダによるナイロビ、ダルエスサラム米大使館自爆テロ攻撃の報復として、クリントン大統領がアフガニスタン、スーダンのアルカイダ施設を巡航ミサイルで攻撃(ちなみに国際法上この攻撃をどのようにアメリカ政府は正当化したのだろうか)したように、トマホーク巡航ミサイルの攻撃が精いっぱいだ。しかし、何を標的にするのだろうか。アルカイダ攻撃の時は、彼らの拠点(といってもテントだが)を目標にしたが、シリアでは何を目標にするのか。二次被害を考えれば、化学兵器の貯蔵施設を攻撃するわけにはいかない。だからと言って運用部隊を攻撃しようにも兵士は攻撃に備えて隠れるだろう。空になった兵舎を破壊しても意味はない。 ではユーゴ空爆のように電気、通信、交通などの重要インフラを目標にするのだろうか。ユーゴ空爆では、最後には目標がなくなるほど徹底的に重要インフラを破壊した挙句、空爆で決定的な成果を得られないNATOと戦禍で疲弊したセルビアの両者痛み分けのような恰好で二か月半後に停戦した。今回は、財政難のため、巡航ミサイルによる2-3日の爆撃にとどまるようだ。大使館を攻撃された腹いせに巡航ミサイルを何十発かアルカイダのテントに撃ち込んだクリントン大統領と同じように、オバマ大統領も何十発かミサイルを空の兵舎に撃ち込んで終わりということになるのではないか。 何もしなければ無能の烙印を押され、攻撃しようにも金がない。窮地に陥っているのはアサド大統領ではなくオバマ大統領だ。

2013年8月27日火曜日

朝日・産経の仁義なき戦い

 2013年8月26日夜のNHKニュースで潘基文国連事務総長が日本の憲法改正や歴史認識を批判したニュースが伝えられた。27日の朝刊で朝日と産経(iPAD版)がどのようにこのニュースを伝えているかを見て驚いた。産経は一面で報じていたが、朝日は全く載っていない。朝日はデジタル版では伝えていたが、紙の朝刊では伝えたのだろうか。  嫌韓新聞産経が一面に持ってきた理由はわかる。一方朝日が記事にしなかったのは、なぜかがわからない。単に親韓だからか、それとも日韓関係に配慮したからなのか、あるいは潘基文氏が当然のことを言っているに過ぎないと判断したからなのか、それとも彼が韓国寄りの発言をするのはいつものことだからか。実際、ここ数か月、というよりも以前から韓国寄りの発言が繰り返されており、別に今回に限ったことではないから、記事に値しないのか。あるいは英米が批判するようにあまりに無能で記事で批判するのは気の毒と思ったからなのか。事実「潘基文 無能」で検索すると数年前から、関連記事が大量に出てくる。  いずれの理由か定かではないが、朝日が潘基文氏にやさしい新聞であることは2013年7月15日春日芳晃特派員の「特派員メモ」から推察できる。 「ニューヨークで親しくなった韓国紙の特派員チャンさん(36)が1年の任期を終えて帰国することになった。送別会で心残りを尋ねたら、意外な答えが返ってきた。「国連の潘基文(パンギムン)事務総長の批判記事が思うように書けなかった」   ボツになった原稿の一つが「シリア内戦で指導力発揮せず」。死者10万人近い内戦は現代の人道危機だ。ただ、これは潘さんというより、安全保障理事会の責任が重い。アサド政権への制裁を求める米英仏と、反対する中ロが対立して何もできないからだ。  もう一つは「中国の人権問題を批判しない」。私も同感だが、大国との「間合い」には歴代事務総長が苦労した」。  韓国の記者以上に潘基文氏に同情した内容の記事だ。安全保障理事会に根回しする指導力を発揮してこそ事務総長ではないのか。これでは冷戦時代に米ソが対立して安全保障理事会がマヒし、国連が村議会と揶揄された時と同じではないか。それでもハマーショルドのように紛争解決に奔走し、殉死した国連事務総長もいるのだから、指導力を発揮しなくても当然といわんばかりの記事は、実際に内戦で犠牲になっている人に思いを致せば、どうかと思う。権力と立ち向かうのがジャーナリストなら、もう少し誇りと勇気を持って権力と闘ってほしい。闘う相手は安倍政権だけではないだろう。  今日の紙面で、両紙を読み比べて、いささか両紙とも常軌を逸しているのではないかと思う記事があった。それは「はだしのゲン」をめぐる松江市の閲覧制限騒動である。朝日は「はだしのゲン」は名作だから閲覧制限などもってのほかと徹底的に松江市教育委員会を批判した。産経は、表現の自由を守る立場から、閲覧制限を積極的に支持するわけにもいかず、「はだしのゲン」を凡作と批判し、暴力的な描写には閲覧にも配慮が必要との歯切れの悪い論調だった。 私自身は、1972年に少年ジャンプに連載されていたころに読んだ覚えがあるが、あまりにメッセージ性の強い漫画で、とても週刊マンガ誌で読む内容ではなかったことを覚えている。途中で読む気をなくして読まなくなったが、読者投票でも不人気で約二年で打ち切られ、結局共産党や日教組の媒体で続編が書かれていた。ジャンプ以後の連載内容については、まったく知らない。ところがいつの間にか学校での推薦図書となったり、教師が読むことを奨励するなどしたためか、下の世代に広く読まれるようになったという。 どう見ても朝日、産経の評価が反戦、平和という単純な政治的基準にあるように思えて仕方ない。なぜなら、今回の騒動とは立場が全く逆の事件があり、その時の両紙の記事の扱いはまさに真逆だったからである。それは2001年8月に起きた船橋市西図書館蔵書破棄事件である。「船橋市西図書館の女性司書が、西部邁や新しい歴史教科書をつくる会会員らの著書計107冊を、自らの政治思想に基づき、廃棄基準に該当しないにもかかわらず除籍・廃棄した」(ウイキペディア)のである。この事件を最初に2002年4月に報じたのが産経新聞だった。産経は張り切り、朝日は淡々と事実を伝えるだけだった。 はだしのゲンの評価については、呉智英のコメントが最も納得できる。 「『はだしのゲン』は少年ジャンプの連載時から読んでいました。当時から「平和や反核へのメッセージ」というような政治的文脈で読まれることが多く、違和感を覚えていました。確かに原爆の悲惨さを告発していることは間違いない。とはいえ、そんな反戦、反核のアジビラみたいな単純な作品じゃない、と。   たとえばこんなシーン。画家を志していた青年、政二が被爆してヤケドを負い、優しかった家族からは「ピカの毒がうつる」と疎まれ、近所からも「おばけ」と 不気味がられます。ゲンは1日3円の報酬で政二の身の回りの世話を引き受ける。ゲンがリヤカーに乗せて連れ出すと、政二は突然、自分の包帯を取り、「この みにくい姿をみんなの目の奥にたたきこんで一生きえないようにしてやる それがわしのしかえしじゃ」と、その姿を町民の前にさらすのです。政二にとって憎 むべきは、原爆を落としたアメリカでも、泥沼の戦争を長引かせた日本政府でもなかった。程度の差こそあれ同じ被爆者である近所の人たちだったのです。 (中略) このように、「ゲン」には人間の汚さや醜さ、不条理な衝動や現象、心の影といったことに至るまで、被爆という悲しい現実が描かれています。大江健三郎氏は「被爆者による原爆体験の民話である」と評しました。表面的な報道、政治家や識者が語るきれいごとの平和論では触れられることのない民衆の現実。それが、作品の魅力となって読む人の心を引き付けるのです」(『週刊朝日』2013年8月9日号)(下線引用者) 朝日も産経も我田引水的に「政治的文脈」で評価するのはやめたほうがよい。 ネットが普及してから、メディアはたちまちのうちに批判にさらされ、消費されるようになった。主張の強い記事を書けば、たちまちのうちに賛否両論の意見がネットにあふれ、かつてのように新聞の権威など全く失われた。ブログの一つとして扱われているに過ぎない。ネット上では個人のメルマガも大新聞のサイトも内容において変わらない。はだしのゲンの騒ぎも、表現は丁寧でも本質はネトウヨ、ネトサヨ(?)の対立と同じである。要するに、好き嫌いの感情論でしかない。 それと同じ現象が、紙媒体でも起こり、朝日、産経がまるでブログのように悪口罵詈雑言をオブラートに包みながら話題を炎上させている。思想も哲学もなく、単なる好き嫌いの感情論だけだ。うんざりしてストレート・ニュースを読もうとしても、産経は記者が少ないせいかストレート・ニュースそのものが少ない。他方朝日は特派員の書く記事は多いものの、地元の人たちのブログやyoutubeのほうが新鮮で的確なことが多い。テレビ・メディアも含めて、最近の特ダネの多くはネットからのものだ。特に事故現場や、災害現場そして戦地からのニュースがそうだ。 いずれ新聞もテレビも個人の媒体となり、取材、編集、発表まで一人でできるような時代になるのではないか。情報を独占することで金を儲けたり、権威を得たりする時代は終わりになりつつある。それはメディアだけではない、知を占有してきた大学もいずれは権威を失って解体していくだろう。朝日、産経のブログ化はメディアの解体過程を見ているようだ。

潘基文国連事務総長の日本非難

2013年8月26日潘基文国連事務総長が、日本の歴史認識について、記者会見で日本を非難する発言をした。「正しい歴史認識を持ってこそ、ほかの国々からも尊敬と信頼を受けるのではないか」、「日本政府の政治指導者は、とても深い省察と国際的な未来を見通すビジョンが必要だ」と、名指しこそしなかったが明らかに日本政府を非難した発言だ。この発言の前に「国連事務総長として個別の問題に深く介入するのは望ましくないが」と述べていることから、要するに、「個別の問題に深く介入した」ということだ。彼の発言は、日本に対して改めて満州侵略や韓国併合の責任をとれと、国連事務総長の立場から非難している。  1992年のクマラスワミ報告、1998年のマクドゥーガル報告書で一貫して日本は中韓だけでなく国連からも侵略責任や植民地支配責任について追及されている。もはやサンフランシスコ講和条約は全く空文に堕し、国連復帰は間違っていたといわんばかりだ。安倍首相が戦後レジームからの脱却を叫んでいたが、日本が戦後レジームから脱却する前に韓国、中国が戦後レジームから脱却してしまった。それどころか国連までがサンフランシスコ講和条約を破棄して、再度日本と中国、韓国との間で平和条約を締結しなおせと言っているに等しい。  日本が国際連盟を脱退した時の様子は、今のような状況だったのだろうか。リットン調査団の報告を不満とし、最終的には国連から脱退してしまった。いくら満州事変が自存自衛の戦争といっても、1929年のパリ不戦条約以後戦争が非合法化された当時の国際状況からそのような言い分が通るはずもなく、実際他国の領土で戦争しており、侵略したことには間違いがない。同じようにいくら現在の人権基準から歴史を裁いているとか、慰安婦に対する解釈が違うと反論しても全く通用しない。現在慰安婦問題は人権問題であって歴史認識問題ではない。日本が批判されているのは、公娼制度の一部としての慰安婦問題であり、公娼制度における人身売買や奴隷労働が批判されているのである。もはや慰安婦問題で日本に勝ち目はない。ケヴィン・メイヤーのようなアメリカの知日派からも日本政府は歴史認識問題で口をつぐむべきだ、との批判が出るほどだ。 ちなみに日本人の妻を持ち、日本に長く暮らしているメイヤーでさえも年季奉公を奴隷労働とみなしている。何度も書いているが、貧しさと口減らしのために奉公に出された「おしん」は奴隷として人身売買されたのであり、国際法に照らせば債務奴隷として人身売買された以外の何ものでもない。ましてや遊郭の遊女たちは債務奴隷どころかまさに性奴隷のために人身売買されたとしか言いようがない。加えて慰安婦は朝鮮人女性を性奴隷として人身売買したのであり、民族差別までもが加わっている言語道断の犯罪である。おそらく外国の交際法に明るい知識人の多くがこのような理解だろう。 私たち戦中戦後の世代の慰安婦に対する理解は、美輪(丸山)明宏の「祖国と女」に尽くされているだろう。また若い女性の目から見れば怒り心頭だろうが、慰安所を戯画化した勝新太郎の『兵隊やくざ』の慰安所や、高級将校相手の芸者(要するに慰安婦)音丸の描写から、慰安所や慰安婦の様子を垣間見た。確かではないが朝鮮半島出身という慰安婦の登場人物がいたように思う。おしん同様に貧しさのあまり口減らしのため国外で娼婦になった日本人女性を描いた山崎朋子のノンフィクション『サンダカン八番娼館』(1972)もまた団塊世代には強烈な印象を残しているだろう。1974年には栗原小巻と田中絹代で映画化され大きな話題になった。1920年代に貧困のゆえにマレーシア、サンダカンの娼館で娼妓として働いたいわゆる「からゆきさん」の半生記である。私は、2008年にサンダカンを訪れたことがある。フィリピンとの海上交易の拠点となるボルネオ島の小さな港街である。今も何十人かの「からゆきさん」の墓がある。どれほど望郷の念で胸をかきむしったことか。貧困の故の悲劇である。 私たちは公娼制度や年季奉公の背景には貧困があり、社会のゆがみ、人間の喜怒哀楽があったことを知っている。だからこそ古くは浄瑠璃、歌舞伎、文楽、落語などの芸能、浮世絵や浮世草子などの美術や古典文学など、また最近は落語、小説、映画などの題材となってきたのである。誰も公娼制度や奴隷制度を肯定はしていない。恥ずかしいことであるからこそ、日本人慰安婦はごく1~2人の例外を除いて誰も名乗りを上げなかったのだろう。丸山明宏の「祖国と女たち」は慰安婦の屈辱をこう唄っている。 「戦に負けて帰れば 国の人たちに 勲章のかわりに 唾をかけられ 後ろ指さされて 陰口きかれて 祖国の為だと死んだ仲間の 幻だいて 今日も街に立つ 万歳 万歳 ニッポン 万歳 大日本帝国 万歳 万歳 万歳」  また元従軍看護婦で戦後米兵相手の娼婦「パンパン」になった女性の手記をもとに作詞された「星の流れに」や、米兵に強姦や売春あるいは恋愛したものの結局親に捨てられた混血児の孤児たちを収容したエリザベス・サンダースホームの話を私たちは知っている。米兵を相手にしたパンパンは人身売買されていないから、自由恋愛だから罪にはならないのだろう。それとも戦勝国の米兵だから罪にはならないのだろうか。日本人の貧乏に付け込んで関係を持ち、挙句の果てに親子とも捨てて帰った米兵はごまんといる。別に日本だけではない。ベトナムでもそうだ。そんなアメリカ人が慰安婦問題で下院決議までして日本に謝罪を要求することにいらだちを覚える人は多いだろう。ましてや従軍慰安婦問題は「奴隷制と奴隷売買」、「戦争犯罪としてのレイプ」「人道に対する罪」と非難する国連のマクドゥーガル報告書を否定したい気持ちはよくわかる。  今我々日本が置かれている立場は、明らかにサンフランシスコ講和条約以前に逆戻りしている。つまり、今我々は戦争の責任を改めて問われているのである。韓国の目的は、明らかに日韓基本条約を全面破棄して再度個人補償を含めた基本条約を締結しなおすことであろう。また中国も日中平和条約を破棄し、中国の要求に沿って国境線を線引きした条約を新たに締結しない限り歴史認識問題は解決しないだろう。さらに、潘基文国連事務総長の発言は、事実上国連からの日本追放勧告に等しい。将来、だれか第二の松岡洋右になるのだろうか。我々は今こそ、敗戦をかみしめなければならない。

慰安婦問題は普遍的な人権問題

「慰安婦問題は国際的な倫理基準に照らし、普遍的な人権問題として、広く国際社会が日本の責任を問うているものなのだ」(坂本義和「中日新聞 2012年9月8日(土曜日) 朝刊2面、下線引用者」と坂本元東大教授が指摘するように、慰安婦問題は普遍的な人権問題として国際社会(国連、米国)では理解されており、もはや歴史問題ではない。1998年の国連のマクドゥーガル報告書は慰安婦制度を「レイプ・センターでの性奴隷制」として、下記のように「奴隷制と奴隷売買」、「戦争犯罪としてのレイプ」「人道に対する罪」の三つをあげ、日本を非難している。 「第二次大戦後のニュルンベルグ裁判は「それまでは…国際法の言外に含まれていたこと、すなわち…一般住民に対する皆殺し、奴隷化、追放は国際犯罪であることを明確にし、あいまいさをなくした」にすぎない。事実、とくに奴隷制禁止は明らかに強行法規(juscogens)としての地位を獲得している。 従って、第二次大戦中に日本軍がアジア全域で女性を奴隷化したことは、当時ですら、奴隷制を禁じた慣習的国際法に明らかに違反していたのである」。 「戦争法は奴隷制と共にレイプと強制売春も禁止していた」「奴隷化に加えて、広範囲ないし計画的なレイプ行為もまた、ニュルンべルグ条例や極東国際軍事裁判条例に含まれた人道に対する罪の従来の枠組みにおける「非人道的行為」の範疇に入る」(「アジア女性基金」資料)  人道に対する罪が遡及的に適用できるかどうかはニュルンベルグ裁判でも問題になったが、報告書は、この主張を退けている。奴隷制と奴隷売買に対する報告書の内容は日本の社会の歴史を知る者にはとても合点がいかない。現在日本の反論は、日本の社会的背景に基づく奴隷制や人身売買論への反論である。「普遍的な人権問題」となった以上、特殊日本社会論からの反論は何の有効性も持たない。 議論はとっくの昔に、すでに歴史家から国際法の専門家の手に移ってしまったのである。慰安婦問題が人権問題に移ってしまったことは、ある意味日本が反論できる機会が広がったことを意味する。日本は慰安婦問題を人道に対する罪で非難されているからだ。慰安婦問題で謝罪,補償が認められるならば日本はアメリカに対して原爆投下や無差別都市爆撃を人道に対する罪で非難、謝罪を求めることができるはずだ。戦勝国であろうがなかろうが、「普遍的な人権問題」の観点からすれば、アメリカの原爆投下は明らかに「非人道的行為」の範疇に入るだろう。  実際、慰安婦問題で日本が国連の報告書やアメリカ下院議会の議決に従うなら、日本は原爆投下や無差別爆撃の非人道性でアメリカ政府に謝罪を求め、慰安婦同様に被爆者は個人補償を求めることができるはずだ。 実際には日米関係を考えれば、そのようなことはできない。国際法の問題でなく国際政治の問題になるからだ。歴史を見てもわかるが、国際法は倫理だけではなく力があってはじめて有効となる。逆に考えれば、韓国が日本に謝罪と補償を求めるのは、日韓関係よりも慰安婦問題が重要な理由があるからだ。つまり、慰安婦問題の本質は慰安婦問題にあるのではなく、すぐれて現在の日韓の政治関係あるいは韓国の政治にある。別の小論でも指摘したが、それは日韓の国力の差が縮小し、民族感情が噴出したこと。韓国が国民の流失で国家衰退の危機にあり、反日による民族団結が必要だからではないか。5000万人国民の14パーセントの700万人が在外居留者というのは、やはり異常としか言いようがない。おそらく韓国の最終的な政治目標は現在の日韓基本条約を破棄し、新条約を締結するか改定することにあるのだろう。いくら謝罪しても韓国が満足できないのは、国家は感情、倫理を持った人間ではなく、もともと謝罪も反省もできないからである。できるのは過去への補償と未来への約束だけである。 いずれにせよ、日本政府は慰安婦問題についてこれ以上表立って反駁しないほうがよい。アメリカにこれから慰安婦像が立ち続けるかもしれない。しかし、中国よりもましだ。ワシントンには天安門事件で中国を非難する写真や解説文つきの自由の女神像が立っている。中国に「度量の大きさ」を見習うべきかもしれない。

2013年8月24日土曜日

汚染水漏れ事故はサボタージュ

福島第一原発の汚染水漏れが深刻だ。深刻度はレベル3にまで引き上げられたにもかかわらず、日本のメディアにもそれほどの緊張感はない。あるメディア(Bloomberg)はこれで安倍政権の原発輸出が難しくなったとの記事を書いている。なぜ難しくなったのか、理由は明記されていない。日本の原子力技術があてにならないということなのだろうか。  しかし、今回の事故は原子力技術とは全く関係のない、もっと基本的な問題だからこそ深刻なのだ。要するにタンクから汚染水が漏れただけなのである。言い換えるなら、技術的には水漏れしないタンクを作れなかっただけであり、水漏れを早期に発見できなかった管理体制の不備の問題である。即製のタンクは継ぎ目をゴムのパッキンをかませただけで、放射線で脆くなったのかもしれない、という。ならば、それを見越して管理体制を強化するのが常識であろう。それを東電は怠っていた。調査をした関係者は、タンクの管理の記録も残されていなかったという。技術の問題よりも深刻なのは、管理の問題である。  しかし、管理が杜撰になるのも無理もない。原発事故以降、東電が非難されることはあっても、評価されることは全くない。給料も下げられ、事実上国営化されて、将来性もない。これで社員の士気が下がらないわけがない。自業自得だと、外部から非難をし続けるわけにもいかない。彼らがいないと原発を管理することも、廃炉にすることもできない。 事実上国営化されたといっても、東電は民間企業だ。自衛隊員のように「敵前逃亡」が罪に問われるわけではない。将来に失望し、また現場に嫌気がさして多くの社員が原発から「敵前逃亡」退社すれば原発はどうなるのだろうか。そもそも今現在福島原発に従事している社員の士気は何によって保たれているのだろうか。社会的使命感か金銭か。社員は、かつての自衛隊員のように、制服を着て外を歩くことすらできない状況だ。事故以前の高額の給料はもはや夢のまた夢だ。  今回の汚染水漏れは、意図的ではないにしろ士気の下がった東電の、事実上のサボタージュではないか。本当のサボタージュが起こらないように政府も、社会も、東電の問題としてではなく国家の問題として原発の管理体制を考える必要がある。

徴用工判決の背景

2013年7月10日ソウル高裁は、戦時中、日本の軍需工場に動員された韓国人の元徴用工4人の損害賠償請求を認め、新日鉄住金に1人あたり1億ウォン(約890万円)を支払うよう同社に命じた。  原告の一部は日本でも訴訟を起こしているが、日本の最高裁では1965年の日韓請求権協定で個人の請求権は消滅し、行使できなくなったとの判断が確定している。一方韓国では2012年5月に、大法院(最高裁)が「個人請求権は消えていない」との判断を示している。  この問題の核心は、日韓基本条約や付属の日韓請求権協定にあるのではない。いくら日本が条約や協定を盾にとって、個人請求権は消滅しているといっても、全く無意味である。 そもそも韓国大法院が「個人請求権は消えていない」と判断した理由は、 ① 日本の植民地支配が非合法であり、強制動員は違法。 ② 日韓請求権協定は、日韓の債権債務に対するものであり、植民地支配による違法な強制労働対する個人の賠償請求権は消えていない。 (菊池 勇次「【韓国】 戦時徴用工個人の賠償請求権に関する韓国大法院判決」『外国の立法』国立国会図書館調査及び立法考査局(2012.7))。 つまり、昨年5月の韓国大法院の判決は、日韓請求権協定とは全く無関係に、日本の植民地支配に対する個人賠償請求権を認めたことになる。今回のソウル高裁の判決は、大法院の判決に沿って下されたものである。日本の支援組織である「日鉄元徴用工裁判を支援する会」事務局長の山本直好氏が、「ソウル高等法院判決の意義の第1は、強制連行強制労働を「反人道的不法行為」と認定し、1965年の日韓請求権協定では不法行為による個人の損害賠償請求権は消滅していないと判断したことだ」(メルマガ『Weekly MDS』 2013年08月02日発行 1291号)と、判決を高く評価していることからも明らかなように徴用工問題を慰安婦問題と同じように人道問題として取り上げているのである。慰安婦問題も徴用工問題もいつの間にか論点が強制性から人道問題にすり替えられている。いくら日本政府が強制性はない、条約で解決済みといっても、サッカーをやっていたらいつの間にかラグビーに代わっていたようなもので、もはやラグビーでは日本の完敗である。  いったいなぜゲームのルールが変わったのか。いくつか理由が考えられるが、些末な話からすれば、冷戦の崩壊で日本の左翼が目標を失い、人道問題として日本の植民地問題を韓国や国連で扇動した。あるいは東日本大震災による日本の国力の相対的低下、韓国の相対的上昇を背景に、今こそ植民地支配の恨み晴らさでおくものかとばかりに攻勢に出ているのかもしれない。しかし、これらの理由以上に深刻な社会的背景があるように思われる。それは在外韓国人問題である。 2月のパククネ大統領の就任演説を聞いて驚いたことがある。それは冒頭で「700万人の海外同胞の皆さん」といったことである。まさかと思って調べてみると、2009年時点で在外韓国人は683万人(米国243万人、日本90万人など)だ。間違いではなかった。2012年の韓国の人口は約5000万人。全人口の約14%が海外で暮らしている。この数字は、出稼ぎ労働が社会問題になっているフィリピンとほぼ同じである。ただフィリピン人の多くが出稼ぎでいずれ帰国するのとは異なり、在外韓国人の多くは在日、在米のように永住者が多く、事態はフィリピンより深刻である。ちなみに日本は、2,009年の統計によると人口約1億2800万人で在外邦人は113万人、全人口の1パーセントにも満たない。 他国のことながら、これでは国家は発展するどころか崩壊するのではないかと心配になる。反日であれ何であれ民族感情を扇動しなければ、次々と国民が流失して韓国は国家を維持できなくなるのではないか。追い打ちをかけるように日本以上に少子化が進んでいる。国民流出は80年代から進み、今ではロサンゼルスのウエスト・アベニューの通りの両側はソウルと見まごうばかりにハングルであふれている。在米韓国人には祖国を捨てたことへの負い目でもあるのか、とにかく反日運動や慰安婦問題を盛り上げて祖国と連帯し、贖罪しようとしているかのようである。 こうした韓国の社会情勢を考えれば、徴用工の問題が条約や協定の問題でないことがわかるはずだ。日本政府が協定で請求権は完全解決済みと突き放しても、ましてやいまさら請求権協定の第三条第1項の紛争調停のための仲裁委員会を設置して済む問題ではない。韓国が今日本にせまっているのは、歴史認識問題ではなく、植民地支配問題である。謝罪でも償い金でもなく、日本が一度は韓国の植民地にならない限り、彼らの怨念は晴れないだろう。