2009年5月31日日曜日

ガザ遠景

ガザの東側境界に隣接するイスラエルの町ネティボット郊外から撮影。ガザ境界線までの約1キロはイスラエル軍が管理し、道路は封鎖されていた。小高い丘からは遠くにガザの街が見渡せる。ガザ攻撃の際には世界各国のメディアがここから撮影したと思われる。ガザは見る限り、破壊された跡が確認できなかった。パレスチナ首府のラマッラーやパレスチナ西岸地区の大都市ナブルスよりも大きな街だ。中層や高層の建物が多いことに驚いた。(撮影日2009年2月9日)

2009年5月30日土曜日

スリランカ・バブニア検問所

2009年3月末にスリランカ内戦の最後を見届けようとスリランカに行った。北部戦闘地域へ通ずる道路は全て軍によって封鎖されていた。ここは北部戦闘地域への検問所。証明書をもった住民は通行が許可されるが、国防省の許可を持たない私は止むえず引き返した。私服の兵士が続々と戦闘地域に入って行った。

最近の小著『入門・リアリズム平和学』


加藤 朗 (著) 『入門・リアリズム平和学』勁草書房、2009年。
内容紹介憲法九条のなにが問題?人権ってほんとに大事?どうして貧しい国を援助するの?民主主義で世界は平和になるの?地に足をつけて考えよう!平和とは何か。いままでの平和論の本は、宗教的色彩を帯びたり、政治的に偏った議論を展開したり、主観的になりがちだった。本書では暴力、人権、人道、正義といった基本的な概念を、バランスをとりながらかみくだいて説明する。21世紀のいま、やましい良心にさいなまれないで、現実をみすえて考えるために。

内容(著者より)
 教科書として執筆した平和学の入門書である。これまでの平和学が平和研究からの規範的な内容に終始していることに不満があった。一方、安全保障研究からの平和研究はほとんどないに等しい。そこで両者を融合させる形で、平和主義的現実主義の立場からこれまでの平和学を再構成したのが本書である。
 特徴は平和思想の歴史的な読み直しと、平和的手段による安全保障論の再検討である。これまでの平和研究は平和学の規範にあわない平和思想は無視してきた。たとえばトマス・モア、カント、中江兆民をはじめほとんどの平和思想家は絶対非武装主義者ではなかったこと、また非暴力主義のガンジーも決して終生を通じて非暴力主義者ではなかったことなどこれまでの平和研究は意図的にかどうかはわからないが、無視もしくは軽視してきた。本書では無視された彼らの思想も取り上げ、かれらがいかにリアリストであったかを明らかにした。
 また他方で安全保障研究では軽視されがちな平和的手段による安全保障、たとえば人間の安全保障、予防外交あるいは民主主義による平和などをとりあげ、その可能性をあくまでも現実主義の立場から再検討した。さらに安全保障研究ではやはり軽視されがちな国際社会における正義や倫理の問題も取り上げ、考察した。
 本書が平和研究と安全保障研究の無用な対立を架橋する一助となればとの思いから執筆した。

最近の小著『戦争の読みかた』春風社、2008年


内容(「MARC」データベースより)9.11は何をもたらし、何を告げたのか? ネグリとハート、カルドーらの議論を整理。変貌する紛争の系譜をたどり、衰退する国民国家体制に代わる「人間の安全保障」の可能性をさぐる
内容(著者より)
『現代戦争論』(中公新書、1993年)の終章で提起したいくつかの問題や予想した21世紀の世界について、果たして問題は解決されたのか、また予想が正しかったのかを明らかにした。いわば過去の自分への回答書である。1993年の『現代戦争論』を執筆した当時、『現代戦争論』で提示した紛争観や戦争観はあまりに先を行き過ぎて受け入れられなかった。
 当時、私と同じ問題意識を持っていたのは、私の知る限り、イスラエルの安全保障研究者のマーチン・ヴァン、クレフェルトだけであった。その後、問題意識は全く同じであったが、論考の質量では小著を圧倒したネグリとハートの『帝国』や、小著の論証とほぼ同じレベル(と私は思っているが)のメアリー・カルドー『新戦争論』が21世紀になって相次いで出版された。そして同じ頃9.11事件が起き、小著の予測の正しさが証明されたと自負している。では、これからの世界はどうなるのか。『戦争の読みかた』ではさらに考察を重ねている。
 本書は、元来、大学の教科書にするつもりで執筆した。編集者の助言に従い、いくつかの章を削除し、結果的には評論のような本になった。本書をたたき台に今後はさらに考察を深めていくつもりだ。乞う、ご期待。 

最近の小著『兵器の歴史』芙蓉書房出版、2008年

 加藤 朗 (著), 戦略研究学会 (編集), 石津 朋之 『兵器の歴史』 (ストラテジー選書)芙蓉書房出版、2008年。
内容(「BOOK」データベースより)「兵器を身体の模倣と捉え、どのように道具、機械、装置に置換させてきたかを歴史的に明らかにする」
(著者より)
 兵器がどのように歴史的に発展してきたかを、農業時代、工業時代そして情報時代という産業構造の変化を下絵に、身体の模倣、身体の拡張という視点から明らかにした。映画『2001年宇宙の度』の冒頭シーンを覚えている人も多いだろう。石器時代の類人猿が武器として持っていた骨を空に放り投げると、一気に21世紀へと時代は飛び、宇宙船へと変わった象徴的なシーンを。もはや、兵器の発展に残された唯一の未開拓な領域は「脳」しかない。兵器はまさに量から質への大転換期にある。それにともない戦略も戦術もそして戦争も変容するのだ。

北朝鮮の核兵器阻止は不可能

 5月25日北朝鮮はアメリカのメモリアル・デーに合わせるかのように二度目の核実験を強行した。今日(5月30日)、国連の制裁決議を牽制するかのように、金正日政権は再度ミサイル実験を実施する兆候を見せ始めた。まさに北朝鮮と国際社会とのチキン・ゲームが始まった。ところで北朝鮮は誰とチキン・ゲームをしているのだろうか。
 北朝鮮は核兵器を振り回しながら、一体何を求めているのだろうか。アメリカとの平和条約なのか。アメリカとの平和条約を締結し、金正日体制維持の保証をとりつけることだとよく言われる。では、それに対してアメリカはどのような政策を望んでいるのだろうか。何よりも北の核兵器の放棄であるというのが通説である。では、ここで冷静に考えてみよう。北朝鮮が核兵器を保有することでアメリカの国益にどのような影響があるのだろうか。実は、直接的な影響はほとんどない。それこそが、日米の間で北朝鮮をめぐって国益の非対称性を生み、日米同盟が揺るぎかねない状況を創り出しているのである。
 北朝鮮が核兵器を保有しても、米本土に届く長距離ミサイルがなければアメリカにとって直接的な脅威とはならない。では、なぜアメリカが北朝鮮の核兵器保有に反対するのか。それはNPT体制すなわち5大国による核独占体制が崩壊し、核拡散が始まるからというのが次の理由。しかし、NPT体制の崩壊というのならアメリカだけでなく、中国、ロシア、そして英、仏も少なくともアメリカと同じ程に反対してもよさそうだが、中国、ロシアも宥和的であり、英、仏に至っては国連安保理以外では関心すら寄せていないように思える。仮に北朝鮮の核兵器を廃棄させたとしても、NPT体制はインド、パキスタンそしてイスラエルがすでに保有している現状では、破綻したに等しい。アメリカにとって、北朝鮮の核保有は望ましくはないが、米国の国益に直接影響を与える問題でないことがわかる。だからこそ1995年の第1次朝鮮半島危機以来、米国は紆余曲折はあるものの北朝鮮の核保有には宥和的だったのだ。結局のところアメリカは北朝鮮が仮に核を保有したとしても米中によって統制できるとたかをくくっているのではないだろうか。
 他方、北朝鮮は核兵器を保有する限り、その軍事的影響力を政治的影響力に変えることができる。冷戦時代北朝鮮はその地理的位置からロシアや中国にとって米国が大陸へ進出する際の防波堤としての役割を負っていた。しかし、冷戦の終焉とともに、地政学的な価値は暴落してしまった。もはや地政学的価値を利用して政治的影響力に変換することができなくなったのである。北朝鮮はせかいでも最貧国の一つになってしまった。金正日政権が体制を記事しながら韓国に伍して発展するために残された手段はただ一つ、軍事力を政治力に変換して生き残りを図る以外にない。しかし、湾岸戦争で明らかになったように旧式の大規模軍隊では脱近代戦では全く戦えない。だからといって北朝鮮にはRMA型の近代軍を整備する経済力は全くない。残された道は経済的、合理的な方法は核兵器開発だけである。北朝鮮の国家戦略は正しかった。
 経済力も軍事力も劣る発展途上国が手っとり早く政治力を獲得する唯一の方法は核兵器である。北朝鮮にはそのモデルがあった。それは中国である。中国が核兵器開発を目指した50年代末から60年代にかけて中国は今の北朝鮮なみに貧しい発展途上国でしかなかった。毛沢東は経済的発展を後回しにしてでも核開発を優先し、そして1964年ついに核保有国となった。核兵器保有後、中国は核兵器を政治力に変えて、核大国として国際社会でその政治力を遺憾なく発揮したのである。やがて中国は国連に常任理事国として復帰し、米中は国交を回復し、それにあわせて日本も日中国交回復に踏み切った。その後中国は国内混乱で経済発展がおくれたものの、90年代から一気に経済発展を加速させ、今ではGDP世界第3位の経済大国そして核保有国として君臨している。明らかに北朝鮮は中国をモデルにしている。だから北朝鮮にとっては核兵器は絶対に手放せない。国際社会は核保有国としての北朝鮮に否応なく向き合わざるを得ない。
 こうしてみると、軍事力で北朝鮮を崩壊させる以外にもははやいかなる手段を講じても北に核兵器を放棄させることはできない。また核開発を止めることもできない。北は絶対に核兵器を手放さない。日本はこの東アジアにおける核化の現状を前提にして、これいかに対処すべきかを考えなければならない。具体的には、以前ブログにも書いたように日本は「脱兵器化核武装」戦略をとり、それを政治的梃子に少なくとも東アジアの脱核兵器化による核軍縮を実現させていかなければならない。

2009年5月29日金曜日

日本のコスタリカ化

 コスタリカは軍隊の無い国として一部の人々の間では熱狂的な支持を受けている国である。常備軍はないものの一般には準軍事組織とみなされる市民警備隊4400人が存在している。非武装を国是としているわけではなく、集団的自衛権を否定しているわけでもない。緊急時にはあらためて軍隊を創設し、米州機構や国連の集団安全保障による国家防衛を想定している。これはカントが主張した、常備軍を排し、民兵組織による防衛構想に近い安全保障体制である。その意味で集団的自衛権を否定し、非武装、非暴力を求める憲法9条とは根本の平和思想において大きな違いがある。
 また人口はわずか450万人で国土面積も九州と四国をあわせたほどの広さの小国である。さらに南北をパナマとニカラグアにはさまれ、東西は太平洋とカリブ海に囲まれ、一人当たりのGDPも5千ドル程度の発展途上国である。コスタリカが常備軍を廃止したからといって国際安全保障はもちろん地域の安全保障にもさほど影響はない。市民警備隊の4400人や国境警備隊で常備軍に十分代替できる(数字はいずれも2007年度。外務省ホームページと『ミリタリー・バランス』より)。
 さて日本はコスタリカのように国際政治においても地域政治においても影響力を失い、事実上平和憲法が目指すような状況、すなわちコスタリカ化しつつあるのではないか。コスタリカが常備軍の廃止を憲法で決定したのは1948年である。その後は国境警備隊、市民警備隊、地方警備隊からなる警察で国内の治安および国境警備にあたっていた。この過程は日本と似通っている。戦後1946年の新憲法で軍隊を廃棄する一方、国内の治安のための警察予備隊や領海警備の海上警備隊が創設されている。コスタリカと異なるのは、日本はその後朝鮮戦争の勃発、冷戦の激化など国際情勢の変化とともに警察力の一部であった部隊を自衛隊として実質的に軍事組織化していったことである。逆にいうと国際情勢の変化とともに自衛隊が再び警察力の一部に成る可能性を秘めているということである。そして実質的にはコスタリカのように国際政治にも地域政治にもあまり影響を与えることのない小国となって、平和憲法を謳歌する時代がくるかもしれない。朝鮮戦争の勃発が自衛隊誕生の契機になったとすれば、北朝鮮の核実験こそが自衛隊の無力化と平和憲法の実体化の狼煙となるのではないか。
 そもそも改憲派、護憲派いずれであれ、憲法を論議する際の暗黙の前提がある。それは日本が大国だという錯覚である。護憲派は日本が大国だから、ちょっと気を許せば戦前のように再び軍事大国化すると懸念している。一方改憲派は、大国にふさわしい軍事力をもち国際政治に影響力を発揮したいと妄想している。
 さて冷静に考えてみよう。19世紀アジア諸国が近代化を始めて以来、日本は一貫してアジアの大国であり続けてきた。戦後の混乱期でさえ中国や朝鮮も内戦で混乱し、日本が相対的に国力では優位に立ち、大国の地位を維持していた。だから、日本が再び軍事大国化すればアジア地域の平和と安定に大きな脅威となるとの懸念にはそれなりの理由があった。
 しかし、今日の情勢をみてみよう。日本の国内総生産は米国に次いで2位(ただし個人では米国15位、日本は23位)である。一方、発展途上国であった中国が今や第3位である。ちなみにコスタリカは82~3位である(ウイキの国際通貨基金、世界銀行、CIA統計による)。軍事力をみれば、中国と北朝鮮が核を保有し、自衛隊と比較すれば、圧倒的に軍事的優位を占めている。また中国は90年代から軍事の近代化を始め、今世紀になって一層近代化の速度を速めている。最新鋭の戦闘機の導入をはじめ空母の建造にまで着手している。数年もしない内に、通常戦力でも日本の自衛隊は中国軍の後塵を排することは間違いない。そして今また核兵器を保有した北朝鮮よりも軍事力においては劣勢に立たされている。明治以来日本ははじめてアジアにおける盟主の座を中国に明け渡そうとしている。つまりもはや改憲派、護憲派が前提としている日本大国論は幻影にしかすぎなくなった。
 現在まだ日本外交がかろうじて国際政治と関わることができるのは、米国との同盟関係があるからである。米軍の軍事力を梃子に外交力を維持しているにすぎない。しかし、その日米同盟関係がもはやあてにできなくなりつつある。米国は日本から中国へと政策の重点を移しつつある。また北朝鮮の核保有も事実上認めつつある。北朝鮮の核兵器が米国にとっては何ら脅威ではないこと、また中国が北朝鮮を支配している限り、中国との関係を良好に維持すれば、北朝鮮を間接的にコントロールできると考えているからであろう。クリントン国務長官がいくら日本の重要性を強調しても、冷戦時代と比べれば米国にとって明らかに日本の政治的、軍事的そして経済的重要性は低下している。
 このままでは日本は米中関係の中に埋没していき、恐らく将来は中国の支配下や核付き統一朝鮮の風下に立たされることになるだろう。それこそまさに日本のコスタリカ化である。その時、日本が平和憲法を持とうが持つまいが、コスタリカのように国境警備隊化した自衛隊のみの事実上の非武装国家となるだろう。護憲派の懸念は杞憂にしかすぎない。平和憲法の精神は日本がコスタリカのように小国化することで十分に達成できる。石橋湛山の小国主義が実現する日は近い。 

2009年5月28日木曜日

検疫制度は即刻廃止せよ

 今日午後のテレビニュースで、下記のような報道があった。以下引用はYOMIURI ONLINE「木村氏は、政府の当初対策が機内検疫による「水際対策」に偏りすぎたとし、『マスクをつけて検疫官が飛び回っている姿は国民にパフォーマンス的な共感を呼ぶ。そういうことに利用されたのではないかと疑っている』と述べた。さらに、『厚労省の医系技官の中で、十分な議論や情報収集がされないまま検疫偏重になったと思う』と強調した」。
 このニュースを知り、まず驚き、そしてあきれ、最後に納得した。国会でここまではっきりと政府の対策を現役の検疫官が否定したことに驚き、そしてそんなに効果がないと思うのなら多少は手抜きをすればよかったではないかとあきれ、そして国内感染の拡大を見てやっぱり検疫では防げないと納得した。
 今回の豚インフルエンザでの結論である。意味のない検疫制度は即刻廃止し、検疫所は閉鎖し検疫官も配置転換すべきである。
 実は、私は4月29日のNW19便で米国ミネアポリスから帰国し、機内検疫では最長の3時間も機内に閉じ込められたのである。その時は我慢していたが、いまさらあれは無駄で、単なるパフォーマンスであったなどといわれては、あの苦痛は何だったのかと怒りを通り越して笑うしかない。
 たまたま私の隣の米国人の若い女性が花粉症のアレルギーで鼻水が出ると質問書に記載したために大騒ぎになった。私も含め、彼女の周りにいた、ボーイング747の最後尾付近の乗客30~40人が赤いシールを肩に貼られ、外に出られないように、制服、私服の数人の警察官に取り囲まれた。検疫官が彼女に片言の英語で質問するのだが、なかなか通じない。彼女は繰り返しアレルギーというのだが、アレルギーが検疫官には聞き取れない。たまらず「アレルギーだそうですよ」と私が伝えた。後はなぜか私に通訳を頼むかのように彼女に日本語で話しかけた。鼻水が出るか、咳は出るか、熱はあるかと簡単な質問をした。それで終わるのかと思ったら、彼女は簡易検査に連れて行かれた。それまでに既に2時間以上時間をとられ、乗り継ぎ便は皆出発し、外国人乗客の多くが途方にくれていた。検疫官ももう少し英語ができるかと思っていたら、中学生レベルといっても良いくらいひどかった。問診できる程度の英語力があれば、無駄な簡易検査などしなくてすんだだろうに。ましてや検疫官自身が検疫が無駄だとわかっていたのなら、それこそパフォーマンスだけにして簡易検査など止めて欲しかった。
 検査の結果米国人は陰性とわかり、3時間ぶりに解放された。陽性だったらわれわれは1週間の停留のところだった。実際停留措置を受けた人は、単なるパフォーマンスのために大変な苦痛を強いられたのだ。
 そもそも検疫など必要なのだろうか。水際検疫はたとえトリインフルエンザでも役に立たないというではないか。水際検疫など止めて、国内の検疫体制を強化してはどうか。実際今回の機内検疫の体験でも検疫官の語学のおそまつさには驚いた。国会で証言した検疫官が水際検疫は役に立たないといったことは全くその通りだ。またいつも不思議におもっていたのだか、普段でも検疫というのは役にたっているのだろうか。そもそも多くの人が検疫が嫉視されていることを知っているのだろうか。入国審査の前に検疫諸があるが、係官がいた試しはない。アフリカから帰国した時だけ係官がいて問診票を回収していた。今回もそれで十分ではなかったのか。搭乗客の追跡調査など、航空会社の乗客リストで容易にわかるはずだ。国内検疫なら乗客の住所さえわかれば十分であろう。ならば空港での検疫など全く不要である。
 現職の検疫官が水際検疫を不要といっている以上、舛添厚生労働大臣は即刻検疫制度などやめて、検疫所を廃止し、検疫官を動物検疫や植物検疫に配置転換してはどうか。

北朝鮮の再核実験

 北朝鮮が再び核実験を行った。今回の爆発規模は推定5~20㌔トン(韓国国防省)から2~4㌔トン(ヘッカー米フタンフォード大学教授)まで相当な幅がある。数㌔トンだとすれば、爆発規模が小さいから爆縮技術が未完成で十分な核分裂が起きなかったとして失敗とみる(同教授)か、それとも前回の1㌔トン未満の爆発も含めて「制御技術」のさらなる向上とみるか(田岡俊次)、意見の分かれるところである。私は、最悪に備えるという危機管理の視点からみて、後者の田岡説をとる。実験直後の朝鮮中央通信は、「~爆発力と操縦技術において新たな高い段階で安全に実施し、~」(asahi.com)と「爆発力」に続けてわざわざ「操縦技術」という文言を入れている。深読みかも知れないが、「操縦技術」とは核爆発力の制御技術ではないだろうか。もし、そうだとすれば、北朝鮮は核爆発の出力の制御技術を持っており、すなわち核兵器の小型化技術をすでに獲得したことになる。
 田岡氏は、前回の核実験の際に北朝鮮が4㌔トンの核実験を行うと中国に事前通告したことを重視している。4㌔トンという出力を事前通告できるということは、すでに出力制御の技術を入手していたことになる。ただし、制御しすぎたために予想通りに出力を制御できずに1㌔トン未満の爆発に終わったというのが田岡氏の見立てである。したがって、今回は朝鮮中央通信の報道を信ずるなら、たとえ爆発出力が数㌔トンであったとしても、それは完全に出力制御に成功した上での数字ということになり、核兵器の小型化の技術が完成したとみるべきであろう。むしろ20㌔トンであったほうが、まだ安心できる。20㌔トンなら爆縮技術が完成したという基礎的レベルで、これから小型化の実験が必要ということになるからである。
 仮に北朝鮮がすでに小型化の技術を獲得していたとするなら、北朝鮮はそれ以前に必要な基礎的な爆縮の技術はどのようにして獲得したのだろうか。以前このブログでも紹介したが、恐らく、それはパキスタンから入手したのではないか。北朝鮮の核開発は、パキスタンやイランとの共同開発と考えるべきであろう。北朝鮮はノドンのミサイル技術をパキスタンに、一方パキスタンは核技術を北朝鮮にと、相互に浩瀚し、両国で核ミサイルを開発したとみるべきである。だから北朝鮮の核ミサイルはパキスタンと同程度と考えるのが妥当であろう。と、すると北朝鮮の核ミサイル技術は最悪、パキスタン程度と覚悟しておく必要がある。つまり、自衛隊は事実上対抗手段がないということである。
 憲法上の問題はさておいたとしてても、発射前の敵地攻撃は現在の日本の航空自衛隊の能力ではまず無理である。ノドンでは発射から日本に着弾するまでの時間は10数分である。ノドンの発射システムは車両による移動式であるため、発見が難しい。また液体燃料ではあるが、常温保存ができ、また注入後1週間から数ヶ月は燃料の劣化や燃料タンクの腐食は防げるようだ。さらに中距離ミサイルで燃料が比較的少ないために、短時間で注入ができる。その意味で運用性が高く、ミサイルそのものを発射前に発見、攻撃することは困難である。
 発見するには常時監視体制をとらなければならない。しかし、日本には偵察衛星、偵察機を含め24時間常時偵察、監視する能力はない。仮に米軍との協力で発見したとしても十分な対地攻撃能力はない。現在対地攻撃能力を持つ航空自衛隊の攻撃機はF2とF4である。現在のF15Jの対地攻撃能力はきわめて限定されている。たとえミイサルを発見して緊急発信しても北朝鮮まで3~40分はかかる。帰投時には空中給油を受ける必要がある。湾岸戦争の際に米、英空軍がイラクのスカッド部隊を発見攻撃するのがきわめてむずかしかったことう考えると、日本の対攻撃能力にはあまり期待できない。また巡航ミサイルや対地ミサイルの案も出ているようだが、ミサイルは固定目標には有効であっても、移動する目標の攻撃には向かない。
 要するに、日本は北朝鮮のノドンミサイルに全くといってよいくらい対抗手段はない。湾岸戦争の際に、米軍がスカッドにいかに手こずったかを考えれば。イラクのスカッドは通常弾頭だったから仮に迎撃しそこなっても被害は限定的であった。しかし、ノドンには核をはじめ化学弾頭も搭載できる。ノドンは日本にとって、すぐ底にある脅威である。

2009年5月4日月曜日

海自ソマリア派遣

 海上自衛隊がソマリア海域に派遣される。私は反対の立場をとる。その理由は二つ。
 第1は、憲法違反である。法律上の細かな解釈により憲法違反にはならないとの議論もある。しかし、何度も繰り返すが、憲法の条文は義務教育を終えた国民が理解できる内容が憲法の正しい理解である。その点から考えれば、自衛隊はそもそも憲法違反である。百歩譲って自衛のための戦力として自衛隊を認めたとしても、行動範囲は日本の領海に限定されるべきである。もし自衛隊を海外に派遣するなら、前提として憲法の改正は必須である。憲法も改正しないまま自衛隊の行動範囲を広げることは、実質的に憲法が無きに等しい状況をつくりだすことに他ならない。
 第2は、自衛隊の能力である。海上自衛隊は海賊のような武装集団を鎮圧する専門の部隊もなければ、訓練も戦術も交戦規定もない。たしかに10年前から特殊部隊を創設して海上ゲリラ戦への備えはしてきている。しかし、想定している敵は敵国の特殊部隊もしくはテロ組織である。金目当ての海賊とは異なる。現在の海上自衛隊の能力では適切な対応が難しい。過剰反応すれば、国際世論の批判を浴びる可能性がある。また過少反応すれば、自衛隊に犠牲者が出る。
 今回の派遣は、昔から議論されたシーレーン防衛の実践だ。冷戦時代はソ連から、対テロ戦争時代はテロ組織から、そして今や海賊から日本のシーレーンを防衛せよ、との主張だ。今回は国連決議もある。中国軍も韓国軍も派遣している。しかし、「遅れてならじ」とまなじり決して押っ取り刀であわてて派遣しても成果は期待できない。
 派遣を考えるなら、ここは王道を歩んで、まずは憲法改正の議論を喚起すべきであろう。その間、たとえ日本船が乗っ取られ、犠牲者が出たとしても、憲法9条を墨守する日本国民は、それを「平和の代償」として甘受すべきである。