2014年10月13日月曜日

憲法九条のノーベル平和賞をめぐる悲喜交々

 2014年10月10日にノーベル平和賞の発表があった。事前予測では憲法九条は受賞候補第一位であった。もっとも直前の予想では圏外だったらしい。落胆する人もいれば安堵した人もいたろう。  たまたま私も、憲法九条にノーベル平和賞をという運動に賛同を求められていた。もちろん納得すれば喜んで賛同者に名を連ねます、と返答した。会合に出席して、憲法九条の何がノーベル平和賞に値するか、質問したところ、だれも明確に回答できなかった。  これまで日本は憲法九条のおかげで戦後70年近く一度も戦争をしなかったことが平和賞に値するというのが一般的な答えであろう。しかし、戦争をしなかったというなら、1648年から360年以上戦争をしなかったスイスこそ平和賞に値するのではないか。  ではいったい何が平和賞に値するのだろうか。自衛隊という、軍事費だけで言えば、世界第5位の立派な軍隊を持っている。憲法で戦争をしないとの条文を掲げているのは日本だけではない。イタリアもアフガニスタンも非戦の平和憲法を持っている。  どうしても納得できなかったので、結局賛同者には名を連ねなかった。会合に同席していた憲法九条を称賛する外国人に尋ねてみたところ、核廃絶を訴えたオバマの平和賞と同じで、これから日本が軍隊をなくすことを応援する意味だ、との回答があった。それこそ憲法九条が平和賞候補に挙がったことを安倍さんが「政治的だね」といったことを裏付ける。反安倍運動と見れば、今回の平和賞候補は納得できる。  一方で、万一受賞していたら、憲法九条を支援する人は大いに困ることになる。なぜなら、ノーベル平和賞が現状を肯定することになりかねないからだ。戦後憲法九条の下で、二十数万の軍隊を抱え、日米安保で米国と軍事同盟を締結し、今や個別的自衛権はもちろん集団的自衛権の行使を容認しているのである。平和賞は憲法九条という条文に与えられるわけではなかろう。憲法九条を護持してきた国民に与えられるとするなら、ノーベル平和賞は日本の現在の防衛政策を全面肯定することになる。なぜなら国民の代表たる国会議員によって憲法九条の下、国会で防衛政策が決められてきたからだ。それは、自衛隊、日米安保等現在の防衛政策に反対する社民党、共産党そして憲法九条にノーベル賞を、という運動を進める九条の会など護憲派の人々の思惑とは異なるだろう。  マスメディアが好意的に憲法九条にノーベル平和賞を、という運動を取り上げたのは、相模原の一人の主婦がアイデアを思いついたからだ。数十年前に杉並の主婦が反核平和運動を先導したり、また20年前にニュージーランドの主婦が核兵器裁判を起こしたことがある。今回は三匹目のドジョウをマスコミは狙ったのだろうか。  それにしても、万一憲法九条が授章した時、ノーベル賞委員会はどのような理由を挙げたか、まことに興味深い。また授賞式には国民を代表して安倍首相が出席するのだろうか。そのことを想像するだけで、憲法九条にノーベル平和賞を、という運動がブラック・ユーモアに思えてくる。

2014年10月4日土曜日

憲法九条の想定外の「国際紛争」

 安倍政権の集団的自衛権行使容認の閣議決定をめぐって賛否両論が激しく闘わされている。憲法九条第一項は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めている。これまで「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」については夥しいほどの数の著作が出版され議論が繰り返されてきた。にも関わらず元法制局長官阪田雅裕氏によれば(半田滋『日本は戦争をするのか』(岩波新書)62頁)「国際紛争」についてこれまで政府で議論になったことはないという。この国際紛争の解釈に一石を投じたのが、安保法制懇の北岡伸一座長代理である。彼は、「国際紛争」には第三国における紛争」たとえばアフガニスタン、イラクのような第三国での紛争は含まれないとの見解を明らかにしている(同上書、61頁)。たしかに「国際紛争」の由来を調べると北岡氏の主張は正しい。 そもそもマッカーサー・ノートでも、GHQ原案でも「他国との紛争」を解決する手段として「武力による威嚇又は武力の行使」を放棄したのである。つまり憲法九条はアフガニスタンでのタリバン、イラクやイエメンなどでのアルカイダそしてシリアやイラクでのイスラム国など他国内での非国家主体との紛争など想定していなかった。現在「国際紛争」として問題となっているのは、「他国との紛争」ではなく「他国内における非国家主体との紛争」である。 「他国との紛争」に代わって「国際紛争」という文言が使用されたのは、帝国憲法改正案委員会小委員会第4回(1946年7月29日)以降である(『帝国憲法改正案委員会小委員会速記録』(現代史出版、2005年))。冒頭芦田委員長が次のように発言した。「又、第2項の『他国との間の紛争の解決の手段……』という表現はあまりにもだらだらしていますので、この文章も『国際紛争を解決する手段』と修正するという提案もありました」との記述がある(福永文夫独協大学教授のご教示に感謝します)。つまり憲法九条が想定している「国際紛争」とは日本と「他国との紛争」であって、「他国内における非国家主体との紛争」ではない。 そもそも憲法制定時に「他国内における非国家主体との紛争」など全く想定していなかったはずだ。憲法九条の目的はあくまでも日本を非武装化し、二度と「他国と紛争」ができないようにすることだったからである。しかるに現在の「国際紛争」は「他国との紛争」よりもむしろ憲法九条の想定外の「他国内における非国家主体との紛争」が主流になりつつある。つまり第三国における武力行使は憲法上禁止されていないという北岡氏の主張は論理的には正しいことになる。だとすれば憲法九条が想定していない国際紛争に武力の行使は許されるのだろうか。  現在アメリカはイスラム国に対する攻撃を自衛権で正当化している。はたして自衛権で正当化できるかどうかは微妙だが、日本がアメリカに協力を要請されれば明らかに集団的自衛権の発動となる。ただし憲法九条の想定外の「国際紛争」であるために、集団的自衛権の発動がはたして憲法違反となるかどうかは微妙である。あるいは集団的自衛権の発動ではなく日本が推進している人間の安全保障の「保護する責任」、あるいは戦時における婦女子の人権擁護の人道目的でイスラム国への武力行使をアメリカあるいは国連から要請されれば、それを憲法違反として日本政府は拒否できるだろうか。悩ましい問題ではあるが、今後こうした憲法九条の想定外の国際紛争が頻発するだろう。

映画ジャージーボーイズを観た

クリント・イーストウッド監督の『ジャージーボーイズ』を観た。ニューヨークの摩天楼を遠景に、後のジャージーボーイズのリーダーとなるトミー・デビートが落語の地語りのように観客に物語の発端を説明する。そして軽やかな足取りで歩いていく先は散髪屋だ。中に入るとゴッドファーザーのオマージュなのか、16歳のころの主人公フランキー・ヴァリが親方に代わって地元のマフィアの顔役ジブ・デカルロの髭を剃るシーンだ。驚くことにデカルロを演じているのはクリストファー・ウォーケンだ。このシーンを見ただけでアメリカのベビーブーマー世代はフランキー・ヴァリの大ヒット曲「君の瞳に恋している」のメロディーが頭の中に鳴り響いたことだろう。イーストウッドの配役の妙だ。そうクリストファー・ウォーケンはアカデミー助演男優賞を受賞した1978年の「ディアハンター」の中で「君の瞳に恋している」を熱唱していたのだ。 ロバート・デ・ニーロ主演の「ディアハンター」はベトナム戦争の過酷な体験で心身ともに傷ついた三人の帰還兵の友情を描いた青春映画(決して戦争映画ではない)で、バックグラウンドミュージックで流れるギターの名曲「カバティーナ」とともに「君に瞳に恋している」は時代を象徴する音楽である。クリストファー・ウォーケンの結婚式のダンス音楽として、また酒場でデ・ニーロやジョン・カザールらが酒をあおりながら熱唱するシーンで使われていた。団塊の世代はクリストファー・ウォーケンが登場するだけで一気に1960年代の青春時代に引き戻される。 映画はほぼミュージカルの脚本通りに進行する。違うのは冒頭でトミーやフランキーが窃盗などの悪さをしていた若い時代を付け加えたことだろうか。軍隊に入るか、犯罪に手を染めるか、有名になるか、貧乏から抜け出すには、それ以外にないというトミートの言葉が彼らがとにかく売れることに必死だった動機を説明している。また演出もミュージカル通りだ。酒場のネオンサインが壊れてOUR SONSとなっていたのが、故障が直るとFOUR SEASONSになり、それがフォーシーズンズの名前の由来となったというシーン。またエドサリバンショーに出演するシーンで、ミュージカルや映画のポスターになっている客席を背景にフォーシーズンズがきめのポーズを彼らの背後から写し取ったシーンなど、ほぼミュージカルの演出通りだ。とはいえ監督がイーストウッドならではのシーンがあった。ホテルの部屋にあったテレビにイーストウッドが出演したテレビ番組ローハイドが映し出され、若き頃のイーストウッドが映っていた。そしてラストシーンは出演者全員が登場し踊る。ミュージカルのラストと同じで、映画「蒲田行進曲」のラストを思い出した。  栄光と挫折そして復活という青春映画の王道を行くような物語である。ストーリーが単純なだけに音楽の役割は大きい。「シェリー」、「恋はヤセがまん」、「恋のハリキリ・ボーイ」そして「君の瞳に恋している」などアフレコではなく同録の歌唱シーンは緊張感あふれ圧巻である。団塊の世代なら音楽だけで、青春時代を思い出して涙がこぼれる。 私が初めてニューヨークでミュージカル「ジャージーボーイズ」を観たのは数年前のことである。以来、ニューヨークで4回、ロンドンで1回観た。ニューヨークの観客の多くはベビーブーマー世代の観光客だ。知っている曲がかかるとみんなが口ずさむ。初めて部隊を観たときは隣に座っていた60半ばの婆さんは感極まって涙を流しながら「君の瞳に恋している」を歌っていた。公民権運動、ベトナム戦争など激動の60年代を経験したアメリカ人にとってビートルズよりフォーシーズンズの方が身近なのかもしれない。それは昭和歌謡にノスタルジーを感じる日本人と相通ずるものがある。 それにしても監督イーストウッドの制作意欲には驚くばかりだ。音楽の効果的な使い方にも感嘆させられる。そして個人的には、彼が他の作品でも多用しているシーン、街道沿いや場末のアメリカン・レストランのシーンが好きだ。そこには必ずと言っていいほど、円筒形のガラスのケースに陳列されたまずそうなアメリカのパイやケーキが映し出されている。まさにアメリカを象徴する画だ。

2014年9月26日金曜日

慰安婦問題は慰安所問題である

あえて火中のクリを拾うつもりはないが、昨今の日本の言論空間で飛び交っている慰安婦問題の議論があまりにアメリカでの議論と食い違っているので、一筆記しておきたい。  慰安婦問題の本質は慰安所問題である。強制連行や広義の強制性の問題などではない。つまり軍(すなわち国家)が民間業者を通じて間接的に慰安所を管理、運営したことにある。仮に慰安婦たちが自発的に慰安所で自由を謳歌しながら働き高給を得ていたとしても、軍が慰安所に関与していたことを正当化する理由にはならない。良い関与も悪い関与もない。関与はすべて悪い。今の常識に照らせば(認める、認めないは別にして、慰安婦問題はすべて現在の人権概念に基づいておこなわれている)、間接的にであれ軍が売春宿に関与すること自体、軍の威光を汚すものである。 ただし、こうした判断は国により、時代によっても異なる。日本人、特に勝新太郎主演『兵隊やくざ』を見た世代以上なら慰安所(芸者屋、P屋)があったことは誰もが知っている。また慰安所が戦争には必要悪だと大方のものが納得していた。しかし、日本と同様に軍の慰安所を持っていたドイツを除き、欧米諸国では軍が売春宿に間接的にであれ関与することはなかった。売買春は個人や民間の問題であって、国家は取締りこそすれ売春を利用することはありえなかった。背景には売春を禁止した1921年の「婦人及児童ノ売春禁止ニ関スル国際条約」があったこと、またキリスト教倫理に基づく売春への社会的な忌避感があったからである。日本も1925年に条約を批准している。ただし、朝鮮半島、台湾、関東租借地を除くとの留保条件を付けている。 日本ではいわゆる売春に対する倫理的忌避感が希薄である。おそらくは江戸時代の遊郭文化からの伝統であろう。とはいえ何度も公娼制度の廃止が試みられた。最終的に売春が禁止されたのは1958年に売春防止法が成立した時である。しかし、今なお脱法的に「自由恋愛」の名の下でソープランドとして売春制度が残っている。 だからといって、他の国、特にアメリカが日本と同じ程度に売春に寛大だと思うと大間違いである。売春について話をするだけでも、インテリではないといって、嫌われる。ましてや慰安所は戦時において必要悪だったなどと言おうものなら非難の集中砲火を浴びることになる。奴隷制度は必要だった、人種差別は必要だったというようなものである。 慰安婦の強制連行あろうがなかろうが、広義の強制性があろうがなかろうが、慰安所があったこと自体が問題なのである。某氏が言っていたが、慰安所は大学の食堂と同じで、民間業者が直接管理運営しているからと言って、食中毒を起こせば大学も責任の一端は免れない。同様に苦痛を受けたと訴える「慰安婦」がいる限り、国に責任はないと言い切ることはできない。 慰安婦問題の解決には、慰安婦像の記述や国連報告書の虚偽の訂正を求めていく一方、日本政府は慰安所を認可した責任を認め、かつて日本国民であった「慰安婦」には日本国家として賠償や謝罪を行うべきである。そうすることで日本は女性の人権を重視する国家として、これまで浴びせられた汚名を雪ぎ、名誉を回復できるであろう。慰安婦問題は日韓の外交問題ではない。あくまでもかつての「日本国民」と現在の日本政府の問題である。

2014年9月13日土曜日

新聞のブログ化と記者のブロガー化(朝日の誤報問題)

昨今の朝日の誤報問題の背景には新聞のブログ化と記者のブロガー化がある。昨年(2013年)の8月22日に、本ブログで、「ブログ化する新聞」という一文をアップした。ワシントンで毎日iPADに配信される朝日と産経を読んでいると、「両紙とも個人が書くブログのように主張が主観的で、客観報道の建前はとっくにかなぐり捨てている」という内容だった。 産経は以前からブログ化しており、韓国の黒田勝弘、ワシントンの古森義久そして阿比留瑠比など「パワーブロガー」を擁している。産経は「事実の客観的報道を使命とする」新聞というより「個人の主張を使命とする」ブロガーのブログの寄せ集めのようなブログ新聞という印象さえ受ける。いわゆる有識者が寄稿する「主張」欄こそ「ブログ紙」産経の真骨頂だろう。それだけに上記三人を含め他多数の記者ブロガーの主張が全面に出て、産経は読んでいて面白い。 他方、朝日は特定のパワーブロガーはいないが、会社自体がパワーブロガー化してしまっている。パワーブロガーとして朝日は第二次安倍政権登場以来、全社あげて反安倍キャンペーンを展開してきた。アベノミクス批判に始まり、昨年末の秘密保護法から次第に批判がエスカレートしてきた。そして集団的自衛権行使容認に反対するキャンペーンでは記事だけではなく、社説、天声人語、投稿欄の「声」、短歌などあらゆるセクションを利用して反安倍キャンペーンを張ってきた。こうして朝日が反安倍批判をエスカレートさせる過程で「吉田調書」誤報問題が起きた。 朝日は安倍政権登場以来、一貫して安倍政権の原発再稼働には反対してきた。当然再稼働を求める東京電力にも批判的な立場をとっている。「所長の命令に反して作業員原発から撤退」との誤報記事を掲載したのは、東京電力の原発再稼働ひいては安倍政権の原発容認政策に反対するために「吉田調書」を都合よくつまみ食いしたのではないかと勘繰られても仕方のないような反原発の主張を繰り返してきた。 しかし、誤報記事がブログ記事だとすれば、事実と異なるからと言ってとりたてて目くじらを立てるほどのことではない。自らの主張に沿って事実を再構成、再解釈するのは政治、歴史等社会科学系の論文では当然のことだからである。ましてやブログでは、その主張こそが重要なのであって、事実が重要なのではない。新聞は事実を報道することこそ使命であると、朝日も批判する側も思い込んでいるから今回の事件が起きたのである。ブログ記事だと考えれば、誤報ではなく「吉田調書」を読んだ記者の読解力や解釈力あるいは反東電の主張の是非でしかない。 朝日がブログ紙だと考えれば、強制連行を捏造した「吉田証言」を30年以上にわたって訂正しなかったことも納得できる。ブログは基本的に一次取材はしない。世の中に出回っている言説や一次資料を自らの主張に沿って再構成するだけである。一次資料が間違っていたからと言ってブロガーに一次資料に対する責任はない。あるのは引用した責任である。ましてや間違った一次資料を使ったからと言って、それが直ちに自らの主張が間違っていたことにはならない。 朝日も同様に、捏造の吉田証言があっても慰安婦問題の強制性の主張とは何ら関係ない。慰安婦に対する強制性の主張は事実の問題ではなく、女性の人権を守るという価値観の問題だからである。朝日が慰安婦問題で謝罪できないのは、朝日がブログ化した証拠である。事実を報道することが使命の新聞なら吉田証言が捏造とわかれば、池上彰氏が言うように裏取取材の不足を謝罪するのは当然である。にも関わらず、朝日が謝罪しないのは、やはり事実よりも主張ありきだったからではないか。まさにブログそのものである。 ブログは増加の一途である。ブログが増えると記者よりも専門知識を持ったブロガーも増えてくる。その結果新聞社どうしが競争しているというよりも記者どうしあるいは記者とブロガー、ブロガーどうしが論争する時代になっている。朝日の誤報問題背景には新聞のブログ化と記者のブロガー化という抗いがたい時代の流れがある。

2014年8月7日木曜日

韓米への手本となるよう日本は慰安婦に謝罪を

 朝日新聞が慰安婦問題について、「強制連行」に関する吉田清治氏の証言がすべて虚偽であると判断して、「少なくとも16本」(『産経新聞』2014年8月7日)の記事を取り消した。具体的にどの記事が取り消されたのかはわからない。1本や2本ではない。「少なくとも16本」をまとめて取り消したのである。まさに前代未聞の事件であり、報道機関としては致命傷だ。また朝日新聞だけではない。朝日新聞の記事を真実として引用したコメント、論文、書籍、国連の勧告書を含めすべてが信用性を失ってしまう。朝日新聞の責任は極めて重大と言わざるを得ない。  現在国際社会では慰安婦問題についてはは強制連行があったかどうかが問題になっているわけでない。本ブログ2013年7月8日「慰安婦問題は歴史問題ではない」で詳細に論じたように、慰安婦に「居住の自由、外出の自由、廃業の自由、接客拒否の自由」が無かったから「性奴隷」の状態にあったということ、さらに公娼制度も含め慰安婦制度は事実上の人身売買に基づく制度だということである。奴隷労働と人身売買の二点で人権問題とりわけ女性の人権問題として従軍慰安婦は問題視されているのである。  朝日新聞も「慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質」と記している。全くその通りである。また「90年代、ボスニア紛争での民兵による強姦事件に国際社会の注目が集まりました。戦時下での女性に対する性暴力をどう考えるかということは、今では女性の人権問題という文脈でとらえられています」。何ら反論はない。ならば慰安婦問題は日本軍による「強制連行」という、日本固有の問題ではなく、女性の人権という普遍的な問題であり、さらには女性に限らず広く人権の問題として初めから議論すればよかったではないのか。今更ながらの論点のすり替えである。  「戦時下での女性に対する性暴力をどう考えるかということは、今では女性の人権問題という文脈でとらえられています」というのであれば、ボスニア紛争を持ち出すまでもない。朝鮮戦争やベトナム戦争における韓国や米国も同じ問題を抱えている。 2014年6月、朝鮮戦争当時駐留米軍を相手に売春街「基地村」で働かされた元米軍慰安婦が韓国政府を相手取って、管理売春制度をつくり過酷な労働に従事させたとして賠償訴訟を起こした。まさに日本に対して従軍慰安婦が賠償請求しているのとまったく同じ理由すなわち「性奴隷」であり「人身売買」であり、「戦時下での女性に対する性暴力」であり「女性の人権問題」である。強制連行の有無の問題などではない。米軍慰安婦問題については朴槿恵(パク・クネ)政権だけではない。米国政府もその責任から免れることはできない。またベトナム戦争でも「女性に対する性暴力」をふるい「女性の人権」を犯した韓国軍や米軍は日本以上に責任と謝罪を行わなければならない。 朝日新聞が強制連行を誤報と認めた以上、遅きに失したが日本軍や日本に対するいわれなき中傷や非難は雪がれたと信じ、日本政府は「女性の人権」という視点から慰安婦に謝罪して、韓国政府やオバマ政権に米軍慰安婦に謝罪させる手本となるべきである。米国内で従軍慰安婦問題で日本政府を非難している韓国系アメリカ人も含め女性の人権擁護活動に努めているアメリカ人そして何よりも国連の人権理事会はぜひ米国政府に米軍慰安婦に謝罪するよう働き掛けるべきである。そして朝日新聞もせめて誤報の責任をとって、「女性の人権」という視点から韓国政府に対する人権擁護キャンペーンを張ってほしい。 今回の世紀の誤報事件は朝日新聞にとって地獄への一里塚になるだろう。朝日新聞の将来がどうなるかを見届けるために、これからも購読を続けるつもりだ。

2014年6月11日水曜日

集団的自衛権行使容認反対派の敗北

安倍内閣は、集団的自衛権を認める閣議決定に向け、いよいよラストスパートに入ったようだ。反対派はメディアやシンポ、集会などいろいろな手段を使って何とか閣議決定を阻止すべく全力を挙げている。しかし、もはや敗北感漂う状況に追い込まれている。今は、ただ反対の声を挙げるだけで、閣議決定を阻止することはあきらめたようだ。なぜ反対派は負けたのか。  集団的自衛権反対派の反対論は以下の四点にまとめることができるだろう。 ①解釈改憲に反対  したがって、憲法改定を国民に問うべきだ。慶応大学の小林節教授はじめいわゆる改憲派も含めた大方の主張である。  解釈改憲反対論は解釈改憲という手続きに対する反対論であり、集団的自衛権そのものの是非を問うているわけではない。むしろ集団的自衛権を容認している者も多い。仮に容認していない人であっても、憲法改定で国民が賛成すれば集団的自衛権を容認せざるを得ない。その意味で、解釈改憲反対論は手続き論への反論であって集団的自衛権そのものへの反論にはなっていない。それだけに中国の脅威や朝鮮半島有事の個別的事例を出されると、何ら反論できない。 ②個別的自衛権で対処可能  公明党の主張である。確かに、内閣や安保法制懇が挙げた集団的自衛権が必要となる個々の具体的な事例は、前提が荒唐無稽で非現実的であったり、そうでなければ個別的自衛権で十分に説明できる事例ばかりである。 とはいえ、今回内閣が挙げた事例に反論できたとしても、今後もすべて個別的自衛権で解釈可能ということにはならない。その時は集団的自衛権を認めるのか、あるいは個別的自衛権の範囲でしか自衛隊は行動しないのか。もし前者であれば、ならば将来に備えて今集団的自衛権を認めるべきだという安倍内閣の主張と変わりはない。また後者であれば、個別的自衛権で対処可能という議論ではなく、自衛隊は個別的自衛権の範囲でしか行動すべきではないことを主張すべきであろう。  この反対論は、公明党としては、与党にとどまる一方創価学会の主張にも配慮したぎりぎりの妥協案である。しかし、それは単に問題の解決を先送りした、時間稼ぎの政策論でしかない。 ③集団的自衛権そのものに反対。 本来の反対論は集団的自衛権そのものに反対すべきであろう。ただし、真っ向から集団的自衛権行使容認に反対する議論はあまりない。 安倍政権は集団的自衛権の容認することで抑止力が高まり、またこれまで以上に国際協力が可能になるとの積極的平和主義を強調する。集団的自衛権の行使が容認されれば、日米同盟が強化され、中国への抑止力になると目論んでいる。しかし、その一方で中国との間で軍拡競争が始まり、安全保障のジレンマから、かえって安全が損なわれるかもしれない。 とはいえ中国への抑止力になるという主張に反論を加えるのは難しい。抑止力の有効性については実証することも反証することも不可能だが、一般的には誰もが有効だと信じがちだからである。 また集団的自衛権を認めればアメリカの戦争に巻き込まれるという議論も説得力を欠く。集団的自衛権を発動するか否かは政策判断であり、米国の言いなりになるわけではない、という内閣の主張に反論することも難しい。実際、親米安倍政権が未来永劫続くわけではない。政権が変われば、解釈も変わる可能性がある。 過去NATO諸国がアメリカとの集団的自衛権を発動したのはアフガニスタンの対テロ戦争だけである。逆に発動しない例の方が多い。スエズ戦争ではアメリカは英・仏と敵対し、ベトナム戦争ではイギリスはアメリカに積極的な協力はせず、逆にイギリスがフォークランドを攻撃した時にはアメリカはイギリスに情報提供をした程度である。 集団的自衛権を認めれば、日本は戦争をする国になるとの主張は、あまりに情緒的で反論にはなっていない。 ④安倍政権の安全保障政策そのものに反対  本来ならこの視点から反対論を展開しなければいけない。しかし、柳澤協二氏が『亡国の安保政策』で指摘しているように安倍首相の目指す安全保障政策とは一体何なのかがわからない。そのために、反論が難しい。  たしかに積極的平和主義を掲げてはいる。国家安全保障戦略を策定し、国家安全保障会議を設置し、秘密保護法を制定し、武器輸出三原則を緩和し、そして今集団的自衛権行使を容認しようとしている。しかし、国家安全保障戦略は祖父岸信介元首相が策定した「国防の基本方針」とそれほど内容に差はない。国家安全保障会議の設置、秘密保護法の制定はいずれも民主党政権も構想した内容であり、武器輸出三原則の緩和はすでに野田政権時代に事実上行われている。 つまり、集団的自衛権行使容認を除けば、これが安倍政権の安全保障政策だという特色あるものはない。その集団的自衛権行使容認も当初は憲法改定によって実現させようと目論んでいたものだ。それが実現不可能とわかって解釈改憲に舵を切った。 安倍首相も政治家として祖父岸信介元首相の遺志を継いで改憲を目指していたのだから、改憲こそ王道であろう。にもかかわらず、あまりに短兵急に解釈改憲で集団的自衛権行使を容認しようとするのは何か隠された意図があるのか。それとも、河野洋平氏の批判に「信念を少し丸めて、その場を取り繕っても、後々大きな禍根を残すこともある。それは政治家として不誠実ではないか」と強く反論したが、何か確固たる「信念」があるのか。その「信念」がわからない。 安倍首相の積極的平和主義の理念とは一体何なのか、「信念」とは何か、それが明確に分からないだけに反論のしようもない。せいぜい個別の問題で個々に反論を加えるだけである。その結果、反対派は各個撃破され、気がつけば安倍首相の圧勝という状況になってしまった。 反対派の有効な反論は、積極的平和主義への具体的な対案を出すことである。それは自衛隊による専守防衛戦略と憲法九条部隊による人間の安全保障戦略である。これについては別稿で論ずる