2014年9月13日土曜日
新聞のブログ化と記者のブロガー化(朝日の誤報問題)
昨今の朝日の誤報問題の背景には新聞のブログ化と記者のブロガー化がある。昨年(2013年)の8月22日に、本ブログで、「ブログ化する新聞」という一文をアップした。ワシントンで毎日iPADに配信される朝日と産経を読んでいると、「両紙とも個人が書くブログのように主張が主観的で、客観報道の建前はとっくにかなぐり捨てている」という内容だった。
産経は以前からブログ化しており、韓国の黒田勝弘、ワシントンの古森義久そして阿比留瑠比など「パワーブロガー」を擁している。産経は「事実の客観的報道を使命とする」新聞というより「個人の主張を使命とする」ブロガーのブログの寄せ集めのようなブログ新聞という印象さえ受ける。いわゆる有識者が寄稿する「主張」欄こそ「ブログ紙」産経の真骨頂だろう。それだけに上記三人を含め他多数の記者ブロガーの主張が全面に出て、産経は読んでいて面白い。
他方、朝日は特定のパワーブロガーはいないが、会社自体がパワーブロガー化してしまっている。パワーブロガーとして朝日は第二次安倍政権登場以来、全社あげて反安倍キャンペーンを展開してきた。アベノミクス批判に始まり、昨年末の秘密保護法から次第に批判がエスカレートしてきた。そして集団的自衛権行使容認に反対するキャンペーンでは記事だけではなく、社説、天声人語、投稿欄の「声」、短歌などあらゆるセクションを利用して反安倍キャンペーンを張ってきた。こうして朝日が反安倍批判をエスカレートさせる過程で「吉田調書」誤報問題が起きた。
朝日は安倍政権登場以来、一貫して安倍政権の原発再稼働には反対してきた。当然再稼働を求める東京電力にも批判的な立場をとっている。「所長の命令に反して作業員原発から撤退」との誤報記事を掲載したのは、東京電力の原発再稼働ひいては安倍政権の原発容認政策に反対するために「吉田調書」を都合よくつまみ食いしたのではないかと勘繰られても仕方のないような反原発の主張を繰り返してきた。
しかし、誤報記事がブログ記事だとすれば、事実と異なるからと言ってとりたてて目くじらを立てるほどのことではない。自らの主張に沿って事実を再構成、再解釈するのは政治、歴史等社会科学系の論文では当然のことだからである。ましてやブログでは、その主張こそが重要なのであって、事実が重要なのではない。新聞は事実を報道することこそ使命であると、朝日も批判する側も思い込んでいるから今回の事件が起きたのである。ブログ記事だと考えれば、誤報ではなく「吉田調書」を読んだ記者の読解力や解釈力あるいは反東電の主張の是非でしかない。
朝日がブログ紙だと考えれば、強制連行を捏造した「吉田証言」を30年以上にわたって訂正しなかったことも納得できる。ブログは基本的に一次取材はしない。世の中に出回っている言説や一次資料を自らの主張に沿って再構成するだけである。一次資料が間違っていたからと言ってブロガーに一次資料に対する責任はない。あるのは引用した責任である。ましてや間違った一次資料を使ったからと言って、それが直ちに自らの主張が間違っていたことにはならない。
朝日も同様に、捏造の吉田証言があっても慰安婦問題の強制性の主張とは何ら関係ない。慰安婦に対する強制性の主張は事実の問題ではなく、女性の人権を守るという価値観の問題だからである。朝日が慰安婦問題で謝罪できないのは、朝日がブログ化した証拠である。事実を報道することが使命の新聞なら吉田証言が捏造とわかれば、池上彰氏が言うように裏取取材の不足を謝罪するのは当然である。にも関わらず、朝日が謝罪しないのは、やはり事実よりも主張ありきだったからではないか。まさにブログそのものである。
ブログは増加の一途である。ブログが増えると記者よりも専門知識を持ったブロガーも増えてくる。その結果新聞社どうしが競争しているというよりも記者どうしあるいは記者とブロガー、ブロガーどうしが論争する時代になっている。朝日の誤報問題背景には新聞のブログ化と記者のブロガー化という抗いがたい時代の流れがある。
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