鳩山総理に、首相としての能力、力量があるのだろうか。本当に心配になってきた。日米首脳会談で合意したはずの普天間移設問題に関して、「これまでの日米合意を前提としない」との発言には正直驚きを通り越して、首相の精神に一抹の不安を感じた。首相の問題というより、約束したことをすぐに反故にするなど一個の人格として問題があるのではないか。これまでの日米合意を踏まえた上で、検証作業を行うということを首脳会談で約束したのではないのか。「これまでの日米合意を前提としない」という言い方では、全く白紙に戻して再考するとしか受け取りようがない。事実、ニュースを見聞きすると、政府高官筋(官房長官だが)本当に困ったといって頭を抱えているという。
また「友愛ボート」という提案にも正直驚かされた。一体だれの発案なのか。ピースボートの主催者だった社民党の辻本清美なのか。一般民間人も乗艦させて自衛艦を文化交流や医療支援にあたらせるという。軍艦をピースボートに仕立ててどうするつもりなのか。それよりも自衛艦に乗船し、自衛隊員と一緒に活動しようというNGOが日本にあるのだろうか。しも、これが「単純延長はしない」というインド洋の自衛隊艦の給油の代替措置だとしたら、まさに噴飯物としか言いようがない。給由に代えて文化交流に使うほど自衛艦に余裕があるとは思えない。またそのような任務を与えられる自衛隊員も気の毒としか言いようがない。
さらにアフガニスタンに4500億円もの援助を5年間に渡って実施するというが、だれがどのようにして具体的に援助を実施するのだろうか。湾岸戦争の時のように日本は再び小切手外交にもどるのだろうか。4500億円もの巨額の無償資金をアフガニスタン一国に割り当てて、今までアフリカやアジアなどの発展途上国に行ってきた経済援助は「事業仕分け」で廃止、削減されるのだろうか。
鳥越俊太郎は、米国追随ではなく日本独自の援助をすべきだという、あいかわらず「丸い三角」論つまり言葉ではいくらでも言えるが実行は不可能という主張だ。自衛隊抜きの日本独自の非武装援助部隊が現実に不可能だから問題なのだ。二言目にはジャイカの日本人はがんばっているというが、ジャイカの職員は防弾車や外国の警備会社の武装警備員や他国の兵士に守られながら活動をしている。しかも、ほとんどの場合事務所と宿舎の往復だ。また危険があれば、ただちにアフガン国外へ一時退避している。
恐らくずっとアフガニスタンにとどまり何の警備もつけずに非武装で活動しているペシャワル会の中村哲さん一人だけだろう。彼がタリバーンに襲われないのは、彼がタリバーンだからだと現地で噂されているほど、農民の中に溶け込んでいるからだ。逆に、彼の立場はアフガン政権や欧米や日本政府の立場とは微妙にズレが生じている。
もし、鳥越氏の言うように日本独自の非武装の支援活動をするというのなら、私が提案する憲法9条部隊のような組織しかないだろう。それはペシャワル会も同じだが、まさかの時には他国の兵士と同様に一命を投げ出す、真の意味での非暴力ボランティア(志願兵)でなければならない。残念ながら、鳥越氏にも自ら一命を投げ出してまでボランティアに志願しようという気はないだろう。だから彼の主張は評論家の「丸い三角」論でしかないのだ。
日本人には一命を賭してでもアフガンにボランティア活動に行こうという奇特な人間はいないだろう。つまり4500億円は間違いなく他国のNGOに分配されるか、仮にジャイカが予算を執行するにしても、ジャイカは外国の企業と契約し、外国人を雇って援助をするだろう。一体どこに日本人の顔の見える援助となるのだろう。
鳩山首相は本当に外交には全くの素人としか思えない。その上軍事や安全保障については全く無知蒙昧である。同盟関係とは本来はお互いに相手のために血を流すことを約束した血盟関係である。日米同盟も本質は血盟である。にもかかわらず鳩山首相は環境問題や温暖化など日米間で幅広く重層的な関係を深化させるという。同盟は文化交流ではない。
本当に鳩山首相で大丈夫か、本当に鳩山首相は大丈夫か。
2009年11月14日土曜日
事業仕分けの女子と小人は養いがたし
まさに「女子と小人は養い難し」というべきか。また「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」とでもいうべきか。事業仕分けでスーパーコンピューターの予算が風前のともし火だ。その理由が「世界一でなくていい」、「巨艦主義のスパコンの必要性を見直せ」、「将来生まれる成果を明確にすべきだ」との理由から、最終的に内容を再検討すべきだとの結論になったという。
技術立国を目指す日本が、その根幹をなすスーパーコンピューターで「世界一でなくていい」「なぜ第二位ではいけないのですか」という女子(蓮舫)の全く的外れの理由から、事業の廃止に追い込まれそうだ。環境問題を最優先課題に掲げる民主党政権が、環境問題の解決に不可欠な技術開発をないがしろにしてどうするのだろうか。そもそもこの女子はスーパーコンピーターの意義を理解しているとはとても思えない。スーパーコンピューター開発がどれほどの波及効果をもたらすか少しでも考えてみたことがあるのだろうか。この女子の経歴を見る限り、到底科学的な知識があるとは思えない。ノーベル化学賞受賞者の野依良治理化学研究所理事長が、まさかこんな小娘に虚仮にされるとは思いもよらなかったろう。所詮、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」しかない。
また、だれの発言かはわからないが「巨艦主義のスパコンの必要性を見直せ」というのなら、並列式のコンピューターの開発をせよとでもいうのだろうか。また「将来生まれる成果を明確にすべきだ」などと研究開発のなんたるかを知らないバカの発言を聞くと、本当に日本の将来に暗澹たる思いを抱いてしまう。将来日本からは誰一人としてノーベル物理学賞、化学賞、医学賞の授賞者は生まれないだろう。
恐らく同じ文脈からであろう費用対効果の点で効果が薄いと判定されて、若手研究者養成のための科学技術振興調整費(同125億円)と科学研究費補助金(同330億円)も削減の結論が出た。たしかに若手研究者養成には研究者の失業対策の側面があることは否めない。また科研費にもたしかに無駄がある。しかし、多くの無駄の積み重ねでしか研究の成果はあがらない。そもそも将来生まれる成果がわかっていたら、それは新しい研究とは言えない。
どのような成果があがるかわからないが、なにかの役に立つかもしれないという研究こそが真の研究だ。マリー・キューリーが放射線を発見したとき、これは将来計り知れない成果を生むだろうなどと考えたのだろうか。ニュートリノを発見しノーベル物理学賞を授賞した小柴昌俊東大名誉教授の研究など、はたしてどれほどの成果が将来あげられるのだろう。
事業仕分けを見ていると本当に日本は大丈夫なのかという思いにかられる。国民目線で事業仕分けを行うということだが、国民目線というのは義務教育を終えた人の能力である。というのもだれでもが理解できる範囲が国民の能力であり、国民の判断基準なのである。それは義務教育レベルである。どうも民主党政権は日本に衆愚政治をもたらしつつあるようだ。
官僚支配はエリート主義の弊害をもたらしたが、民主党政権は官僚支配を蛇蝎のごとく嫌うあまり日本に衆愚政治をもたらそうとしている。若い事業仕分人が年配の官僚を切って捨てるかのごとき様子を見ると、毛沢東時代の紅衛兵を思い出す。
思うに最初に事業仕分けが必要なのは、国会議員ではないだろうか。まず真っ先に政党助成金を廃止し、全国会議員は給料を全額国庫に返納したらどうだろうか。その上で国会議員を半分にへらしてはどうか。すくなくとも民主党の新人議員程度の数はへらせるだろう。新人議員はまったく国会議員の働きをしていないのだから。まずは「隗より始めよ」だ。
技術立国を目指す日本が、その根幹をなすスーパーコンピューターで「世界一でなくていい」「なぜ第二位ではいけないのですか」という女子(蓮舫)の全く的外れの理由から、事業の廃止に追い込まれそうだ。環境問題を最優先課題に掲げる民主党政権が、環境問題の解決に不可欠な技術開発をないがしろにしてどうするのだろうか。そもそもこの女子はスーパーコンピーターの意義を理解しているとはとても思えない。スーパーコンピューター開発がどれほどの波及効果をもたらすか少しでも考えてみたことがあるのだろうか。この女子の経歴を見る限り、到底科学的な知識があるとは思えない。ノーベル化学賞受賞者の野依良治理化学研究所理事長が、まさかこんな小娘に虚仮にされるとは思いもよらなかったろう。所詮、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」しかない。
また、だれの発言かはわからないが「巨艦主義のスパコンの必要性を見直せ」というのなら、並列式のコンピューターの開発をせよとでもいうのだろうか。また「将来生まれる成果を明確にすべきだ」などと研究開発のなんたるかを知らないバカの発言を聞くと、本当に日本の将来に暗澹たる思いを抱いてしまう。将来日本からは誰一人としてノーベル物理学賞、化学賞、医学賞の授賞者は生まれないだろう。
恐らく同じ文脈からであろう費用対効果の点で効果が薄いと判定されて、若手研究者養成のための科学技術振興調整費(同125億円)と科学研究費補助金(同330億円)も削減の結論が出た。たしかに若手研究者養成には研究者の失業対策の側面があることは否めない。また科研費にもたしかに無駄がある。しかし、多くの無駄の積み重ねでしか研究の成果はあがらない。そもそも将来生まれる成果がわかっていたら、それは新しい研究とは言えない。
どのような成果があがるかわからないが、なにかの役に立つかもしれないという研究こそが真の研究だ。マリー・キューリーが放射線を発見したとき、これは将来計り知れない成果を生むだろうなどと考えたのだろうか。ニュートリノを発見しノーベル物理学賞を授賞した小柴昌俊東大名誉教授の研究など、はたしてどれほどの成果が将来あげられるのだろう。
事業仕分けを見ていると本当に日本は大丈夫なのかという思いにかられる。国民目線で事業仕分けを行うということだが、国民目線というのは義務教育を終えた人の能力である。というのもだれでもが理解できる範囲が国民の能力であり、国民の判断基準なのである。それは義務教育レベルである。どうも民主党政権は日本に衆愚政治をもたらしつつあるようだ。
官僚支配はエリート主義の弊害をもたらしたが、民主党政権は官僚支配を蛇蝎のごとく嫌うあまり日本に衆愚政治をもたらそうとしている。若い事業仕分人が年配の官僚を切って捨てるかのごとき様子を見ると、毛沢東時代の紅衛兵を思い出す。
思うに最初に事業仕分けが必要なのは、国会議員ではないだろうか。まず真っ先に政党助成金を廃止し、全国会議員は給料を全額国庫に返納したらどうだろうか。その上で国会議員を半分にへらしてはどうか。すくなくとも民主党の新人議員程度の数はへらせるだろう。新人議員はまったく国会議員の働きをしていないのだから。まずは「隗より始めよ」だ。
2009年11月8日日曜日
鳩山政権の政策のブレ
鳩山政権の外交政策がブレにブレている。
岡田外務大臣は普天間基地の海兵隊基地を米空軍が管理する嘉手納に統合しようとしている。この統合案を外相に入れ知恵したのは、外務政務次官の長島昭久であろう。彼は、依然に嘉手納統合案を主調していたことがある。また長島に入れ知恵したのは、彼が元いたワシントンの民主統計シンクタンク・ブルッキングス研究所か、民主党系に近い、たとえばマイケル・オハンロンのような研究者ではないか。長島も岡田も、民主党系の人脈を通じて嘉手納統合案が多少なりとも実現性が高いと踏んだのではないか。
また岡田もかつては民主党色の強いハーバード大学国際問題研究所の日米関係プログラムに在籍したことがあり、民主党系におそらく強い人脈を持っているのだろう。しかし、当時同研究所の所長であり、かつては国務次官補として1996年の日米安保の再定義を主導したジョセフ・ナイ教授は辺野古への移設を支持している。米国内でも意見は割れているようだ。
他方、北沢防衛大臣のブレも酷いものである。県外移設を主張していたかと思えば、次には県内移設を、そして今では辺野古以外には選択肢はないとまでほのめかすようになった。さらにアフガニスタンのISAFへの自衛隊員派遣まで言及し、鳩山首相が直ちにそれを否定する始末だ。神輿と大臣は軽い方がよい、とは私が防衛研究所時代に官僚からよく聞いた話だ。北沢大臣は完全に官僚に籠絡されたようだ。
さて当の首相も過去の集団的自衛権を容認する発言を曖昧であったとの理由であっさりと撤回するなど、過去の自身の主張からのブレが目立ち始めた。恐らくは社民党との連立や民主党内部の旧社会党系議員を慮ってのことだろうが、いずれは安全保障問題で党内が分裂する事態となりかねない危険を孕んでいる。
そもそも対米従属路線からの脱却という鳩山首相の主張はアドバルーンとして高く上がりすぎたようだ。しかし、左右両派からの賛成がえられる主張だけに問題を孕んでいる。自民党のタカ派からは対米独立自主武装路線、社民党や公明党のようなハト派やダチョウ派からは対米独立親中非武装路線への画期として賛同が得られる主張だ。また、左右両極からのみならず前原国交大臣のように集団的自衛権を容認し米国と対等な関係を築きたいと考える民主党内の現実主義のフクロウ派からも賛同が得やすい。つまり対米従属からの脱却といえばだれからも反対されることはない。単なる理念だからこそ誰もが賛成する。しかし、一度対等な関係を安全保障で求めようとすると、結局は自主防衛か、少なくとも集団的自衛権の解釈変更による軍事力の強化か、あるいは全く逆に憲法9条を堅持し日米関係を精算して米中との多国間関係をとるかのいずれかである。いずれの政策であれ明確に政策として実行しようとすれば、連立の崩壊、民主党の分裂は避けられない。
また辺野古問題も連立破綻の契機となる要素を孕んでいる。だからこそ鳩山首相もにわかには政治決断ができずに、ブレにブレているのだろう。県外移設を主張していた以上、嘉手納であれ辺野古であれ、県内移設となれば食言を批判されることは間違いない。たしかにマニフェストには「米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」とあり、「県外移設」とは一言も書かれていない。しかし、これまで鳩山首相は県外移設が最も望ましいとの主張を再三再四くり返してきたように、やはり県内移設しかも辺野古沖で自民党政権時代の政策を踏襲することになれば、一体何のためのマニフェストだということになりかねない。
さらに東アジア共同体論は、アジアを「亜細亜」と漢字で書けば、尾崎秀実の「東亜共同体論」と全く変わらない。ましてや、この手のアジア主義は明治からある。樽井藤吉の『大東合邦論』。日本がこうしたアジア共同体論を提起すれば、太平洋戦争の反省が足らないと思われたり、その弱点をつかれて米国や中国あるいは近隣諸国から反発を受けたり、また利用されないとも限らない。
かつてアメリカのダレス国務長官がアジアにもNATOのような反共軍事同盟を作りたいとアジア諸国に呼びかけたことがある。しかし、かつての敵国と同盟関係を結ぶことにオーストラリア、フィリピンが頑強に抵抗した。結局アジア太平洋には多国間同盟ではなく米国をハブとした日米、日韓、米比、アンザスの二ないし三国間同盟が創設された経緯がある。
そもそも現在の東アジア共同体論は韓国が提案し、それを中国が利用し、あわてて日本が追随したという経緯がある。東アジア共同体論は長年同案を主張してきた多摩大学学長の寺島実郎が鳩山に吹き込んだのだろう。鳩山首相の東アジア共同体論を聴くと、中江兆民の『三酔人経綸問答』の洋学紳士君を思い出す。南海先生は洋学紳士君の理想について「紳士君の説は、ヨーロッパの学者がその頭の中で発酵さ、言葉や文字では発表したが、まだ世の中に実現されていないところの、眼もまばゆい思想上の瑞雲のようなもの」と述べている。
鳩山首相の政策がブレているのは、内容空疎な言葉を多用し、中身がないからであろう。インド洋での給油問題について、「単純」延長はしないとおもわせぶりな発言をくり返してきた首相だが、結局、延長はしないということになってしまった。「単純」と言ったのは一体どういう意味合いを含めていたのだろうか。「巧言令色少なし仁」である。
岡田外務大臣は普天間基地の海兵隊基地を米空軍が管理する嘉手納に統合しようとしている。この統合案を外相に入れ知恵したのは、外務政務次官の長島昭久であろう。彼は、依然に嘉手納統合案を主調していたことがある。また長島に入れ知恵したのは、彼が元いたワシントンの民主統計シンクタンク・ブルッキングス研究所か、民主党系に近い、たとえばマイケル・オハンロンのような研究者ではないか。長島も岡田も、民主党系の人脈を通じて嘉手納統合案が多少なりとも実現性が高いと踏んだのではないか。
また岡田もかつては民主党色の強いハーバード大学国際問題研究所の日米関係プログラムに在籍したことがあり、民主党系におそらく強い人脈を持っているのだろう。しかし、当時同研究所の所長であり、かつては国務次官補として1996年の日米安保の再定義を主導したジョセフ・ナイ教授は辺野古への移設を支持している。米国内でも意見は割れているようだ。
他方、北沢防衛大臣のブレも酷いものである。県外移設を主張していたかと思えば、次には県内移設を、そして今では辺野古以外には選択肢はないとまでほのめかすようになった。さらにアフガニスタンのISAFへの自衛隊員派遣まで言及し、鳩山首相が直ちにそれを否定する始末だ。神輿と大臣は軽い方がよい、とは私が防衛研究所時代に官僚からよく聞いた話だ。北沢大臣は完全に官僚に籠絡されたようだ。
さて当の首相も過去の集団的自衛権を容認する発言を曖昧であったとの理由であっさりと撤回するなど、過去の自身の主張からのブレが目立ち始めた。恐らくは社民党との連立や民主党内部の旧社会党系議員を慮ってのことだろうが、いずれは安全保障問題で党内が分裂する事態となりかねない危険を孕んでいる。
そもそも対米従属路線からの脱却という鳩山首相の主張はアドバルーンとして高く上がりすぎたようだ。しかし、左右両派からの賛成がえられる主張だけに問題を孕んでいる。自民党のタカ派からは対米独立自主武装路線、社民党や公明党のようなハト派やダチョウ派からは対米独立親中非武装路線への画期として賛同が得られる主張だ。また、左右両極からのみならず前原国交大臣のように集団的自衛権を容認し米国と対等な関係を築きたいと考える民主党内の現実主義のフクロウ派からも賛同が得やすい。つまり対米従属からの脱却といえばだれからも反対されることはない。単なる理念だからこそ誰もが賛成する。しかし、一度対等な関係を安全保障で求めようとすると、結局は自主防衛か、少なくとも集団的自衛権の解釈変更による軍事力の強化か、あるいは全く逆に憲法9条を堅持し日米関係を精算して米中との多国間関係をとるかのいずれかである。いずれの政策であれ明確に政策として実行しようとすれば、連立の崩壊、民主党の分裂は避けられない。
また辺野古問題も連立破綻の契機となる要素を孕んでいる。だからこそ鳩山首相もにわかには政治決断ができずに、ブレにブレているのだろう。県外移設を主張していた以上、嘉手納であれ辺野古であれ、県内移設となれば食言を批判されることは間違いない。たしかにマニフェストには「米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」とあり、「県外移設」とは一言も書かれていない。しかし、これまで鳩山首相は県外移設が最も望ましいとの主張を再三再四くり返してきたように、やはり県内移設しかも辺野古沖で自民党政権時代の政策を踏襲することになれば、一体何のためのマニフェストだということになりかねない。
さらに東アジア共同体論は、アジアを「亜細亜」と漢字で書けば、尾崎秀実の「東亜共同体論」と全く変わらない。ましてや、この手のアジア主義は明治からある。樽井藤吉の『大東合邦論』。日本がこうしたアジア共同体論を提起すれば、太平洋戦争の反省が足らないと思われたり、その弱点をつかれて米国や中国あるいは近隣諸国から反発を受けたり、また利用されないとも限らない。
かつてアメリカのダレス国務長官がアジアにもNATOのような反共軍事同盟を作りたいとアジア諸国に呼びかけたことがある。しかし、かつての敵国と同盟関係を結ぶことにオーストラリア、フィリピンが頑強に抵抗した。結局アジア太平洋には多国間同盟ではなく米国をハブとした日米、日韓、米比、アンザスの二ないし三国間同盟が創設された経緯がある。
そもそも現在の東アジア共同体論は韓国が提案し、それを中国が利用し、あわてて日本が追随したという経緯がある。東アジア共同体論は長年同案を主張してきた多摩大学学長の寺島実郎が鳩山に吹き込んだのだろう。鳩山首相の東アジア共同体論を聴くと、中江兆民の『三酔人経綸問答』の洋学紳士君を思い出す。南海先生は洋学紳士君の理想について「紳士君の説は、ヨーロッパの学者がその頭の中で発酵さ、言葉や文字では発表したが、まだ世の中に実現されていないところの、眼もまばゆい思想上の瑞雲のようなもの」と述べている。
鳩山首相の政策がブレているのは、内容空疎な言葉を多用し、中身がないからであろう。インド洋での給油問題について、「単純」延長はしないとおもわせぶりな発言をくり返してきた首相だが、結局、延長はしないということになってしまった。「単純」と言ったのは一体どういう意味合いを含めていたのだろうか。「巧言令色少なし仁」である。
2009年10月25日日曜日
鳩山外交の「ぶらかし」
普天間の米海兵隊移設問題が風雲急を告げる様相となり始めた。ゲーツ国防長官はオバマ大統領訪日までに回答せよと岡田外務、北沢防衛の両大臣に強く迫ったようだ。すでに防衛官僚に籠絡され早々と辺野古沖への移設を容認した北沢防衛大臣はともかくも、これまで県外移設に固執してきた岡田外務大臣までもが、ゲーツ国防長官との会談後に、渋面をつくりながら県内移設しか選択肢はないと、軌道修正を図りつつある。よほど、ゲーツ国防長官に恫喝されたようだ。一方鳩山首相は今(10月25日)に至るも、「いろいろな選択がある。最終判断を下すのは私だ」と、岡田外相の発言を否定し、なおも県外移設にこだわっている。
これまでの自民党、民主党の普天間移設問題をみると、まるでペリーに開港を迫られた幕末の江戸幕府のようだ。江戸幕府はペリーに開国か開戦かを迫られ、「内厳外寛」の方針の下、国内の軍備の充実ができるまで開国の要求を「ぶらかし」(回答延期)続けた。対露外交で「ぶらかし」が成功したために、アメリカにも同じ手が使えると考えたのだ。しかし、ロシアのブチャーチンが強硬策を取らず、幕府の「ぶらかし」が成功したのは、ロシアがクリミア戦争で手一杯だったからで、決して日本の「ぶらかし」が成功したわけではない。案の定、1854年にペリーが再来航した際、結局「ぶらかし」外交は破綻し、1854年3月31日に日米和親条約を締結して開国した。
アメリカは、鳩山政権が江戸幕府のように「ぶらかし」政策をとっていると判断しているようだ。だとすると、アメリカの外交方針はペリーと同じ。強硬策に出て、鳩山政権をガツンと一発恫喝するしかない。つまりオバマ来日までに移設問題に決着を着けなければ、海兵隊のグアム移転も全て白紙に戻すということだ。そうなれば、そもそも日本側が問題視してきた普天間の海兵隊基地問題は元の木阿弥となる。1996年の状態に振り出しにもどる。
米軍にとって、グアム移転は必ずしも喫緊の課題ではない。たしかに世界的な基地の再編問題は米軍の課題ではあるものの、戦略的に今すぐに移転が必要な状況にはない。当面日本の出方を見守る余裕はある。しかし、日本はそうはいかない。普天間基地周辺の住民の安全を考えれば、これ以上移設問題を先送りすることは難しい。
にもかかわらず、鳩山首相が「ぶらかし」を続けるのはなぜか。恐らく鳩山首相自身に明確なビジョンがあるわけではないだろう。鳩山首相の言動の裏を推し量ることのできる発言が、10月23日金曜日のニュース・ステーションに出演した寺島実郎氏のコメントにあった。要約すると、寺島氏は、政権が交代したのだから、普天間の基地移設問題を含めてこれまでの日米同盟を全面的に見直し、より自主独立の道を模索すべきだ、そのためには結論を急ぐべきではない。右派民族派の発言のように聞こえる寺島の発言に、あわてた古館一郎が、もちろんそれは日本の平和主義に基づいてですねと、寺島の発言を丸めた。
寺島の発言は額面通りに生受け取れば、自主武装か非武装かは別にして、明らかに対米自主独立路線である。寺島は鳩山の外交ブレーンであり、東アジア共同体構想は寺島の長年の持論である。また鳩山の対米自主独立路線も、かつては早稲田の民族派にも近かったといわれる寺島の信念であろう。寺島としては、右派のように集団的自衛権の見直しや自主核武装論を考えているわけではないだろうが、その対米自主独立の信念は右派から大いに称賛されるだろう。
右派だけではない。反米左派、反米リベラル派からも寺島外交ともいうべき鳩山外交への支持があるようだ。10月24日の朝日新聞朝刊に編集委員の星浩がやはり、今こそ冷戦時代のまま続いてきた日米関係を見直す絶好の機会ととらえ、鳩山政権の「脱冷戦外交」を応援している。
私は、鳩山外交を断固支持する。それは鳩山の友愛外交や寺島「外交」を支持するということではない。「ぶらかし」外交を続けてきた江戸幕府は最後にはペリーの圧力に負けて開国をした。今度こそ鳩山外交は最後までつっぱって、是非対米「開戦」路線をとってほしい。そうすれば、アジアの「冷戦構造」が一気に瓦解し、国内情勢はもとより国際情勢も流動化するだろう。その過程でこそ国内社会では明治以来の官僚支配構造も、また国際社会ではアメリカの支配構造も崩壊するだろう。
鳩山政権には是非、政党を壊すことしかできなかった「壊し屋」小沢一郎以上に、官僚支配、米国支配の「壊し屋」になってほしい。鳩山政権に歴史的意義があるとするなら、対米「開戦」の捨て石になることである。
これまでの自民党、民主党の普天間移設問題をみると、まるでペリーに開港を迫られた幕末の江戸幕府のようだ。江戸幕府はペリーに開国か開戦かを迫られ、「内厳外寛」の方針の下、国内の軍備の充実ができるまで開国の要求を「ぶらかし」(回答延期)続けた。対露外交で「ぶらかし」が成功したために、アメリカにも同じ手が使えると考えたのだ。しかし、ロシアのブチャーチンが強硬策を取らず、幕府の「ぶらかし」が成功したのは、ロシアがクリミア戦争で手一杯だったからで、決して日本の「ぶらかし」が成功したわけではない。案の定、1854年にペリーが再来航した際、結局「ぶらかし」外交は破綻し、1854年3月31日に日米和親条約を締結して開国した。
アメリカは、鳩山政権が江戸幕府のように「ぶらかし」政策をとっていると判断しているようだ。だとすると、アメリカの外交方針はペリーと同じ。強硬策に出て、鳩山政権をガツンと一発恫喝するしかない。つまりオバマ来日までに移設問題に決着を着けなければ、海兵隊のグアム移転も全て白紙に戻すということだ。そうなれば、そもそも日本側が問題視してきた普天間の海兵隊基地問題は元の木阿弥となる。1996年の状態に振り出しにもどる。
米軍にとって、グアム移転は必ずしも喫緊の課題ではない。たしかに世界的な基地の再編問題は米軍の課題ではあるものの、戦略的に今すぐに移転が必要な状況にはない。当面日本の出方を見守る余裕はある。しかし、日本はそうはいかない。普天間基地周辺の住民の安全を考えれば、これ以上移設問題を先送りすることは難しい。
にもかかわらず、鳩山首相が「ぶらかし」を続けるのはなぜか。恐らく鳩山首相自身に明確なビジョンがあるわけではないだろう。鳩山首相の言動の裏を推し量ることのできる発言が、10月23日金曜日のニュース・ステーションに出演した寺島実郎氏のコメントにあった。要約すると、寺島氏は、政権が交代したのだから、普天間の基地移設問題を含めてこれまでの日米同盟を全面的に見直し、より自主独立の道を模索すべきだ、そのためには結論を急ぐべきではない。右派民族派の発言のように聞こえる寺島の発言に、あわてた古館一郎が、もちろんそれは日本の平和主義に基づいてですねと、寺島の発言を丸めた。
寺島の発言は額面通りに生受け取れば、自主武装か非武装かは別にして、明らかに対米自主独立路線である。寺島は鳩山の外交ブレーンであり、東アジア共同体構想は寺島の長年の持論である。また鳩山の対米自主独立路線も、かつては早稲田の民族派にも近かったといわれる寺島の信念であろう。寺島としては、右派のように集団的自衛権の見直しや自主核武装論を考えているわけではないだろうが、その対米自主独立の信念は右派から大いに称賛されるだろう。
右派だけではない。反米左派、反米リベラル派からも寺島外交ともいうべき鳩山外交への支持があるようだ。10月24日の朝日新聞朝刊に編集委員の星浩がやはり、今こそ冷戦時代のまま続いてきた日米関係を見直す絶好の機会ととらえ、鳩山政権の「脱冷戦外交」を応援している。
私は、鳩山外交を断固支持する。それは鳩山の友愛外交や寺島「外交」を支持するということではない。「ぶらかし」外交を続けてきた江戸幕府は最後にはペリーの圧力に負けて開国をした。今度こそ鳩山外交は最後までつっぱって、是非対米「開戦」路線をとってほしい。そうすれば、アジアの「冷戦構造」が一気に瓦解し、国内情勢はもとより国際情勢も流動化するだろう。その過程でこそ国内社会では明治以来の官僚支配構造も、また国際社会ではアメリカの支配構造も崩壊するだろう。
鳩山政権には是非、政党を壊すことしかできなかった「壊し屋」小沢一郎以上に、官僚支配、米国支配の「壊し屋」になってほしい。鳩山政権に歴史的意義があるとするなら、対米「開戦」の捨て石になることである。
2009年10月15日木曜日
「闘う護憲派」宣言
最初に述べておく。私はいわゆる護憲派ではない。しかし、国内外の状況から、もはや改憲はここ当分どころかひょっとすると未来永劫、不可能といわざるをえない。
その理由は二つ。自主憲法制定を党是とする自民党が当分は政権復帰が難しいこと。かりに復帰できたとしても、民主党との政権交代の可能性を常に孕んだ状況では、政権交代につながりかねない憲法改正のような法案はおいそれと政治日程にあげることはできない。
いま一つの理由は、国際社会が事実上、日本の憲法9条、というよりもむしろ非武装の外交について次第に理解を深めるようになり、国際世論の圧力から改憲することが困難でもあり、また国益上も不利になりつつあることだ。マレーシアのサンダカンという田舎町で、50歳代前半の両替商のオヤジが、「日本は外国に軍隊を出さないそうだが、いいことだ」といわれたときには少し驚いた。憲法9条のややこしい議論は抜きにして、どうやらアメリカとの対照で、日本は海外派兵しない国というイメージはひろがりつつあるようだ。
したがって、現行の憲法9条を前提に日本の安全保障を組み立て直すしか現実的な方法はない。
国際社会の平和と安定という国際治安活動に自衛隊が参加できない以上、自衛隊に代わる部隊を作らざるをえない。自衛隊とは別組織をつくるべきだという議論は湾岸戦争の時にはじめて話題に上った。しかし、結局その時は自衛隊が最も効果的、効率的だという結論に落ち着いた。とは言うものの、現実には憲法9条が足かせとなって自衛隊は派遣できず、別組織もできず、結局何もできなかった。
その後日本政府は解釈改憲に次ぐ解釈改憲を行い、事実上丸腰の自衛隊員を民間人よりも安全な場所にいかせるという、世にも不思議なPKO部隊を編成した。
私自身も湾岸戦争当時は憲法改正して自衛隊をだすのが最適と考えた。しかし、もはや憲法改正が不可能な以上、明らかに憲法違反の特別措置法で自衛隊を派遣する代わりに、自衛隊とは別組織を日本の平和活動の柱とすべきであるとの結論に至った。
そこで以前から主張しているのは、これまで一貫して護憲を主張してきた労働組合の連合を中心に民間がPKO部隊(PKF)を編成して、非武装で民生協力をすることである。
この部隊はソマリアやアフガニスタンなどのようないかに治安が悪い地域でも、非武装で民生協力を行うのである。犠牲者は出るだろう。しかし、他国の兵士がこれまでも数多く犠牲になっていることを考えれば、多少の犠牲はやむをえない。なぜなら、日本の非武装平和維持部隊はまさに「平和のボランティア」すなわち「平和の志願兵」だからである。かつてスペイン内戦に多くの日本人志願兵が参加したように、また日本赤軍がパレスチナ紛争に義勇兵として参加したように、かならずや「平和の志願兵」にも日本赤軍支持者や憲法9条の会をはじめ数多くの護憲派が参加するだろう。
これこそが「闘う護憲派」である。これこそが「真の護憲」である。
護憲運動は冷戦時代には、実践を問われることはなかった。護憲は単なる反政府運動のスローガンでしかなかったからである。護憲派の誰もが「世界人民」のために護憲運動をしていたわけではなかった。今も、その気分が抜けず、護憲とは国会議事堂前をデモをすることだと勘違いしている連中が多い。
しかし、いまや「地球市民」や「世界の人民」のための平和への実践こそが問われている。憲法9条を書写することが護憲の実践ではない。国会デモをすることが護憲の実践ではない。護憲の実践は、「地球市民」のため、「世界の人民」のためにある。
今こそ非武装でアフガニスタンやソマリアに民生協力をしよう。それが憲法9条を持つ日本が国際社会に示すことのできる真の国際協力である。いまこそ民主党そして連合そして護憲派の諸君、一身を賭して「地球市民や「世界の人民」のために「闘う護憲派」宣言を。
その理由は二つ。自主憲法制定を党是とする自民党が当分は政権復帰が難しいこと。かりに復帰できたとしても、民主党との政権交代の可能性を常に孕んだ状況では、政権交代につながりかねない憲法改正のような法案はおいそれと政治日程にあげることはできない。
いま一つの理由は、国際社会が事実上、日本の憲法9条、というよりもむしろ非武装の外交について次第に理解を深めるようになり、国際世論の圧力から改憲することが困難でもあり、また国益上も不利になりつつあることだ。マレーシアのサンダカンという田舎町で、50歳代前半の両替商のオヤジが、「日本は外国に軍隊を出さないそうだが、いいことだ」といわれたときには少し驚いた。憲法9条のややこしい議論は抜きにして、どうやらアメリカとの対照で、日本は海外派兵しない国というイメージはひろがりつつあるようだ。
したがって、現行の憲法9条を前提に日本の安全保障を組み立て直すしか現実的な方法はない。
国際社会の平和と安定という国際治安活動に自衛隊が参加できない以上、自衛隊に代わる部隊を作らざるをえない。自衛隊とは別組織をつくるべきだという議論は湾岸戦争の時にはじめて話題に上った。しかし、結局その時は自衛隊が最も効果的、効率的だという結論に落ち着いた。とは言うものの、現実には憲法9条が足かせとなって自衛隊は派遣できず、別組織もできず、結局何もできなかった。
その後日本政府は解釈改憲に次ぐ解釈改憲を行い、事実上丸腰の自衛隊員を民間人よりも安全な場所にいかせるという、世にも不思議なPKO部隊を編成した。
私自身も湾岸戦争当時は憲法改正して自衛隊をだすのが最適と考えた。しかし、もはや憲法改正が不可能な以上、明らかに憲法違反の特別措置法で自衛隊を派遣する代わりに、自衛隊とは別組織を日本の平和活動の柱とすべきであるとの結論に至った。
そこで以前から主張しているのは、これまで一貫して護憲を主張してきた労働組合の連合を中心に民間がPKO部隊(PKF)を編成して、非武装で民生協力をすることである。
この部隊はソマリアやアフガニスタンなどのようないかに治安が悪い地域でも、非武装で民生協力を行うのである。犠牲者は出るだろう。しかし、他国の兵士がこれまでも数多く犠牲になっていることを考えれば、多少の犠牲はやむをえない。なぜなら、日本の非武装平和維持部隊はまさに「平和のボランティア」すなわち「平和の志願兵」だからである。かつてスペイン内戦に多くの日本人志願兵が参加したように、また日本赤軍がパレスチナ紛争に義勇兵として参加したように、かならずや「平和の志願兵」にも日本赤軍支持者や憲法9条の会をはじめ数多くの護憲派が参加するだろう。
これこそが「闘う護憲派」である。これこそが「真の護憲」である。
護憲運動は冷戦時代には、実践を問われることはなかった。護憲は単なる反政府運動のスローガンでしかなかったからである。護憲派の誰もが「世界人民」のために護憲運動をしていたわけではなかった。今も、その気分が抜けず、護憲とは国会議事堂前をデモをすることだと勘違いしている連中が多い。
しかし、いまや「地球市民」や「世界の人民」のための平和への実践こそが問われている。憲法9条を書写することが護憲の実践ではない。国会デモをすることが護憲の実践ではない。護憲の実践は、「地球市民」のため、「世界の人民」のためにある。
今こそ非武装でアフガニスタンやソマリアに民生協力をしよう。それが憲法9条を持つ日本が国際社会に示すことのできる真の国際協力である。いまこそ民主党そして連合そして護憲派の諸君、一身を賭して「地球市民や「世界の人民」のために「闘う護憲派」宣言を。
2009年10月11日日曜日
オバマのノーベル平和賞授賞
オバマがノーベル平和賞を授賞した。これで、アメリカの拡大抑止政策は事実上破綻した。ノーベル平和賞を授賞したオバマがはたして核ミサイルのスィッチを押すことができるだろうか。自国ならともかく、拡大抑止で他国のためにノーベル平和賞の名誉を捨ててまで核兵器を使用する決断を下すだろうか。
これまでもアメリカの核の傘が日本にはさしかけられることはないと何度か書いてきた。
1996年に国際司法裁判所は核兵器裁判で、たとえ自国の存亡が危殆に瀕しているような最高緊急事態でも核兵器の使用は合法とも違法とも言えない、という勧告的意見を出している。日本が仮に北朝鮮や中国の核兵器で攻撃されるようなことがあったとしてもオバマが自国の自衛とはいえない日本の防衛のために核兵器を使用することなどありえない。ましてや、彼はいまやノーベル平和賞を授賞した平和の使途である。
世界は、オバマの言うように「核無き世界」に向かうのだろうか。そして核無き世界ははたして平和の世界となるのだろうか。
オバマのノーベル平和賞で思い出すのは、ウッドロー・ウィルソンだ。かれは国連を創設し、第1次世界大戦後の国際社会の平和に多大な貢献をしたことで、やはり大統領在職中にノーベル平和賞を授賞した。しかし、世界は平和になるどころか、再び第2次世界大戦を招いてしまった。理由の一つは、「戦争屋」ヒトラーの登場をふせぐことができなかったことにある。
「平和の使途」の最大の問題は、「戦争屋」の登場を防ぐために武力を使うことをためらうことだ。武力を使えば、「平和の使途」ではくな、自らも「戦争屋」と非難される。非難を覚悟で武力を使うことは難しい。それが核兵器ならなおさらだ。ノーベル平和賞の授賞でオバマはウィルソンよりも、「平和の使途」として安全保障上の政策選択の幅をせばめられてしまった。
おそらくオバマのノーベル平和賞授賞を最も喜んでいるのは北朝鮮の金正日とイランのアフマディネジャド大統領だろう。
これまでもアメリカの核の傘が日本にはさしかけられることはないと何度か書いてきた。
1996年に国際司法裁判所は核兵器裁判で、たとえ自国の存亡が危殆に瀕しているような最高緊急事態でも核兵器の使用は合法とも違法とも言えない、という勧告的意見を出している。日本が仮に北朝鮮や中国の核兵器で攻撃されるようなことがあったとしてもオバマが自国の自衛とはいえない日本の防衛のために核兵器を使用することなどありえない。ましてや、彼はいまやノーベル平和賞を授賞した平和の使途である。
世界は、オバマの言うように「核無き世界」に向かうのだろうか。そして核無き世界ははたして平和の世界となるのだろうか。
オバマのノーベル平和賞で思い出すのは、ウッドロー・ウィルソンだ。かれは国連を創設し、第1次世界大戦後の国際社会の平和に多大な貢献をしたことで、やはり大統領在職中にノーベル平和賞を授賞した。しかし、世界は平和になるどころか、再び第2次世界大戦を招いてしまった。理由の一つは、「戦争屋」ヒトラーの登場をふせぐことができなかったことにある。
「平和の使途」の最大の問題は、「戦争屋」の登場を防ぐために武力を使うことをためらうことだ。武力を使えば、「平和の使途」ではくな、自らも「戦争屋」と非難される。非難を覚悟で武力を使うことは難しい。それが核兵器ならなおさらだ。ノーベル平和賞の授賞でオバマはウィルソンよりも、「平和の使途」として安全保障上の政策選択の幅をせばめられてしまった。
おそらくオバマのノーベル平和賞授賞を最も喜んでいるのは北朝鮮の金正日とイランのアフマディネジャド大統領だろう。
2009年10月7日水曜日
民主党の二酸化炭素削減政策賛成
民主党の二酸化炭素削減政策に風当たりが強い。たしかに今の技術では25パーセント削減はきわめて困難であろう。しかし、なんらかの技術突破があれば、25パーセントは夢ではないかもしれない。
実は、自民党政権下で同様の技術突破を前提にした政策目標が掲げられていることを多くの人は見落としている。とりわけ民主党のCO2削減に反対している人々は、無視している。それはMDだ。MDもまた、環境技術同様に、今の技術系では達成不可能なミサイル弾頭の迎撃という目標を掲げている。 たしかに条件を事前に設定した実験では成功している。しかし、実戦では今のMD技術水準では全く役に立たない。相手側がMDより安価で容易な欺瞞技術を開発すれば、簡単にMD網を突破することができる。
二酸化炭素削減懐疑派の多くは保守派、自民党支持派で、したがってMD容認派も多い。しかし、どちらの技術も、何らかの技術突破がなければ、実現は不可能である。環境政策に反対しながら防衛政策には賛成するというのは単に地球環境よりも一国防衛が重要であるとの価値判断に過ぎない。技術的な視点からいえば、くりかえしになるが、どちらも同じ未完成技術を元にした議論だ。私自身は、いずれの政策にも賛成である。それはいずれの技術も完成(完成はないが)に向けた技術開発がなんらかの技術突破や技術革新をもたらすと信ずるからである。
二酸化炭素削減は環境安全保障、ミサイル防衛は国際安全保障と,両者とも同じ安全保障問題である。同時に国際政治の喫緊の政治課題である。軍事安全保障のミサイル防衛で日本がイニシアチブをとることは不可能である。だからこそ非軍事安全保障の環境分野で日本がイニシアチブをとることには大いに意義がある。
1971年に日本のホンダは、当時は技術的に不可能とまでいわれるほど厳格な米国の排ガス規制マスキー法をいちはやくクリアし、米国進出の足掛かりをつくったことがある。ホンダに続いて日本車が次々とマスキー法をクリアして米国に進出し、環境技術で出遅れたアメリカの自動車会社を打倒していった。二酸化炭素削減も、新たな技術革新が生まれれば、日本の未来は明るい。
実は、自民党政権下で同様の技術突破を前提にした政策目標が掲げられていることを多くの人は見落としている。とりわけ民主党のCO2削減に反対している人々は、無視している。それはMDだ。MDもまた、環境技術同様に、今の技術系では達成不可能なミサイル弾頭の迎撃という目標を掲げている。 たしかに条件を事前に設定した実験では成功している。しかし、実戦では今のMD技術水準では全く役に立たない。相手側がMDより安価で容易な欺瞞技術を開発すれば、簡単にMD網を突破することができる。
二酸化炭素削減懐疑派の多くは保守派、自民党支持派で、したがってMD容認派も多い。しかし、どちらの技術も、何らかの技術突破がなければ、実現は不可能である。環境政策に反対しながら防衛政策には賛成するというのは単に地球環境よりも一国防衛が重要であるとの価値判断に過ぎない。技術的な視点からいえば、くりかえしになるが、どちらも同じ未完成技術を元にした議論だ。私自身は、いずれの政策にも賛成である。それはいずれの技術も完成(完成はないが)に向けた技術開発がなんらかの技術突破や技術革新をもたらすと信ずるからである。
二酸化炭素削減は環境安全保障、ミサイル防衛は国際安全保障と,両者とも同じ安全保障問題である。同時に国際政治の喫緊の政治課題である。軍事安全保障のミサイル防衛で日本がイニシアチブをとることは不可能である。だからこそ非軍事安全保障の環境分野で日本がイニシアチブをとることには大いに意義がある。
1971年に日本のホンダは、当時は技術的に不可能とまでいわれるほど厳格な米国の排ガス規制マスキー法をいちはやくクリアし、米国進出の足掛かりをつくったことがある。ホンダに続いて日本車が次々とマスキー法をクリアして米国に進出し、環境技術で出遅れたアメリカの自動車会社を打倒していった。二酸化炭素削減も、新たな技術革新が生まれれば、日本の未来は明るい。
登録:
投稿 (Atom)