2011年5月28日土曜日

 原発事故は「戦争」だ

昨日(2011年5月27日)、思い立っていわき市から広野町を訪問した。目的は地震、津波、原発、風評被害の四重苦にある地域の現状を見たかったからだ。いわき市中心部から原発の30㎞、20㎞区域へと近づくに連れて、雰囲気が徐々に変わってくるのがわかる。まるでパレスチナのガザ地区やスリランカの検問所に近づいて行くときのような緊張感が漂ってくる。日本は今、原発という「敵」と戦っている。われわれはまさに有事の真っ只中にいる。
上野からバスで3時間、まず市役所近くにある市の災害救援ボランティアセンターに行き、救援活動の現状について担当者に話を聞いた。いわき市は東京から近いこともあって、放射線の風評問題を抱えながらも、ボランティアは平日でも約200人、週末には約500人程度の申し込みがあり、結構多いという。ボランティアセンターでは初めてのボランティアに対するオリエンテーションからはじまって、作業に必要なスコップ、ほうき等の道具の貸与、保険の加入手続など、受け入れ態勢は非常に整っている。また送り出し態勢も、被災者からの作業依頼の受け付け、ボランティアへの作業の割り振り等の業務も効率的に行われている。
感心して聞いていると、担当者から意外な悩みが出てきた。それは作業依頼と作業の割り振りが必ずしもマッチしない場合があるということだ。
第1に、依頼件数とボランティアの人数のアンマッチ。依頼件数に比してボランティアの数が少なかったり、多かったりすること。特にボランティアの数が多い場合には、ボランティアセンターのスタッフが逆に作業を探さなければならず、スタッフの数が少ないセンターでは大きな負担となっている。はるばる全国からボランティアに駆けつけてくれた人のことを考えると、無下に作業がないからといって引き取ってもらうわけにも行かないようだ。それでも時には何も作業依頼がなく、一日ボランティアセンターに待機ということもあるということだ。
第2に、作業内容のアンマッチ。実際の作業は津波でふさがった溝の掃除や被災した瓦礫の片付けなど、直接被災者の顔が見える作業ではないことも多い。そのため、自分は震災で困った人たちを助けるという気持ちでボランティアに参加したのに、ドブ掃除とは何だといって怒って帰る人もまれではないという。
第3に、最初に依頼された作業とは別に、現地で別の作業を依頼されることも多く、これがトラブルを生むことがあるという。たとえば魚の加工工場の後片付けを依頼されて行ってみると、本来会社がやるべき作業まで頼まれることもあり、ボランティアが無給のアルバイトのような扱いになることがあるという。
総じての印象だが、適材適所がいかに難しいかということだ。ボランティアのあふれんばかりの善意が、時に目詰まりをおこして、上手く行動や結果に繋がらない。実は私もその一人だ。ボランティアセンターを訪れたのは、原発警戒区域内ではボランティアの数が足りないということを聞き、まさに「義を見てせざるは勇無きなり」の思いからだ。若者に比べて放射線をあまり気にしないですむ年寄りにも何かできることはないかという気持ちだった。
しかし、担当者に、言下に言われた。「ありません」。年寄りだからないというのではない。そもそもボランティアの作業依頼がないのだ。20㎞圏内の避難区域はもちろん30㎞圏内の避難準備区域でも住人が避難して町や村にはおらず、行政も丸ごと避難所に移転してまっているために、ボランティアを支援する組織も人もおらず、ボランティア活動の機会がないのだ。
「志願兵」への志申し込みを諦めて、国道6号線を北上し、Jヴィレッジの入り口に設けられた20㎞圏内の避難区域の検問所まで行った。いわき市内では地面が陥没したり、建物が一部壊れるなど地震の跡が残っていたが、街そのものに地震の影響はほとんど見られなかった。一時風評被害でいわき市に生活物資が入らなかったというが、いまはガソリンも食糧も豊富にあり、平常にもどったようだ。
 しかし、一旦市街に出て海岸線を走ると様相は一変する。津波の被害で倒壊した家屋がいまだに手つかずのまま残されている場所が多い。岸壁が崩落し、テトラポットが散乱している。四倉漁港では津波で打ち上げられた漁船が何隻も海岸に横たわり放置されたままだ。
四倉漁港からさらに北上を続け久之浜漁港を過ぎたところから30㎞圏内に入る。いわき市は30㎞圏内の避難準備区域に一部が入っているが、行政単位上、避難準備区域には指定されていない。そのため、北に隣接する広野町とは違って、人々の姿を見かけることができた。
広野町に入るころから、車窓の雰囲気が変わってくる。車といえばダンプカーや工事関係の車輛くらいで、一般車(多くが軽)の通行はぐっと減る。また対向車線には警戒区域から帰ってくる警察や自衛隊の車輛が目につくようになった。また道路沿いの食堂、店そしてラブホテルも全て閉まっていた。どこかで似た風景があったなと、記憶を思い起こせば、それはまさにイスラエルとスリランカの思い出だった。検問所に近づくにつれ軍用車輛の数が増していった、あの時の緊張感が甦った。
広野町には東京電力の火力発電所がある。そのおかげか道路や公園も整備され、豊かな町という印象だ。そしていよいよ20㎞圏内の入り口、Jビレッジの入り口に到着した。ここから先は関係車輛以外の立ち入りが禁止されている。自衛隊、警察、工事関係など多くの車輛が出入りしていた。警察車輛は配備されていたが、意外にも検問にあたっていたのは景観ではなく、民間警備会社のガードマンだった。これほど緩やかな検問でいいのだろうか。
帰路は国道6号線をなるべく避けて、海岸沿いの小さな道を走って帰った。驚くことに、広野町では復旧作業は遅々として進んでいない印象を受けた。津波の被害を受けた海岸沿いの家はまだ壊れたままに放置されていた。またそれほど被害を受けていない家も片づけが行われた様子がない。とにかく住民全員が避難したために、個人の家屋などてつかずのままで全く復旧されていない。橋の復旧にあたっていた工事関係者は見かけたが、それ以外に広野町では人は見かけなかった。商店街の店のシャッターはどこも閉められたままで、まさにゴーストタウンとなっている。
一方、いわき市に入ると復旧工事は広野町に比べれば多少は進んでいるようだ。四倉漁港では津波で壊滅的な被害を受けたが、町の瓦礫の撤去に何台もの重機が投入され、また電話線の修理も行われていた。
四倉漁港から小名浜漁港に至る海岸通りのレストラン、ペンションなど全壊は免れたもの一階部分に被害を受けた建物が多かった。津波の高さは三陸に比べ低かったのかもしれない。高さ1メートルほどの網状のフェンスには乾いた海草がたくさん絡みついて垂れ下がっていた。建物には津波の被害をあまり受けなかった地域でも、津波によって運ばれた土砂が側溝につまり、生活に不便をきたしているところが多い。ボランティアセンターでドブ掃除の依頼が結構あると聞いた。
実際、ボランティア10人ほどが民家横の側溝をシャベルで掻きだしていた。掻きだされた土砂が土嚢に入れられて、積み上げられていた。その量の多さを見ると、大変な作業だということがわかる。体力のない年寄りではかえって足でまといになるような重労働だ。
わずか半日ではあったが、三陸地域とはちがって原発問題に苦しむ福島の現状を少しは知ることができた。ゴーストタウン化した広野町を見ると、まさに今「戦争」が行われているのだという感想を持ってしまう。かつてスリランカでは戦闘地域から住民を追い出し、また戦闘地域から住民たちが逃れ、避難民は難民キャンプでの暮らしを強いられていた。現在、原発避難区域から逃れている原発避難民と紛争地域から逃れていたスリランカの紛争避難民そして今も世界各地で紛争のために難民キャンプで暮らす紛争避難民と、一体どこに差があるのかと思ってしまう。
原発問題は安全保障問題そのものだ。はたして管政権にその自覚があるのだろうか。帰りの列車の中で、幸せにもビールを飲みながら独り言ちていた。

2011年5月26日木曜日

年寄りの責任と義務

 最新号『朝日ジャーナル』「原発と人間」を読んだ。朝日ジャーナルらしい左テーストあふれる編集だ。懐かしい。それもそのはずだ。執筆者の年齢をみて驚いた。ほとんどが右手に『少年マガジン』、左手に『朝日ジャーナル』の団塊の世代だ。懐かしい名前もあった。最首悟。『朝日ジャーナル』の常連寄稿者だった。当時肩書は東大助手だった。何年経っても助手のままだった。反体制派で左遷されているのだろうとは思ったが、それならなぜいつまでも東大にしがみついているのか不思議で、その名前が忘れられなくなった。
ちなみに一番真っ当な議論をしているのは、石井彰「真っ当なエネルギー論議のための押さえておきたい『10の基本』」だ。金権欲望の原発推進派、お花畑願望の自然エネルギー派の両方の空理空論を事実に基づいてバッサリと論破している。『朝日ジャーナル』の他の記事のほとんどは、老人のたわごとにしかすぎない。とりわけ池沢夏樹の「落胆して泣いて・・・良き貧しき国の再生を」には「落胆して泣いた」。
 原発大国のフランスで長く暮らして、原発の恩恵をたっぷり受けながら、その反省はどこにあるのだろうか。東電の批判、政府の批判など老人の繰り言を延々と書きつらねるよりも、原発の恩恵それは経済的な豊かさや快適な暮らしであり、その恩恵があればこそ自らも筆一本で身すぎ世すぎができたことを「自己批判」すべきではないのか。
池沢は、将来の日本は現在のキューバのように「良き貧しき国」になれという。いまだに他国を理想として日本はこうあるべしという明治以来の他国礼賛、植民地根性から抜け出せないでいる。はるか昔は社会主義のソ連、次に文革の中国、そして主体思想の北朝鮮を理想の国として『朝日ジャーナル』周辺の「文化人」たちは讃えてきた。いまは、それらの国は崩壊、変質、独裁化したために震災後の国家モデルとしてあてはまらなくなった。だから別の国を探したのだろう。しかし、言うに事欠いて経済破綻国家キューバとは。
 「ソ連が崩壊した後キューバには、燃料も肥料も入ってこなくなった。そこで彼らは何をしたか。必死で都市型の有機農業を始めた。それがなかなかうまくいっているらしい。その一方で、キューバの人口当たりの医師の数は日本の3倍で、医療は無料。しかも、その医師がほかの貧しい国に派遣されてそこで医療に携わっている」(9頁)。そういう「良き貧しき国」になれと池沢はご高説を垂れている。これはまるで分析も批判もない、ただどこかの観光宣伝パンフ丸写しのような中学生や高校生レベルのレポートではないか。池沢は本気で言っているのだろうか。単なる商品としての論、売文のための論ではないのか。そうでなければ池沢には是非理想の国キューバで「良き貧しき」老後をおくってもらいたい。
 「ぼくは65歳だ。昔の貧しくて明るかった日本を知っているからそう(良き貧しき生き方ができるということ-引用者注)言える」。池沢夏樹、老いたり。昔を懐かしむようになったら、完全に老人だ。男も「老いては子に従う」ことだ。老人は昔の自分の価値観を若者世代に押しつけるな。かつて全共闘運動は旧い世代の価値観を破壊することを目的としてきたはずだ。その一端に連なっていたはずの池沢が若い世代に「昔は良かった」式のごりごりの保守的価値観を押しつけてどうするつもりだ。
 池沢と同様の主張を哲学者の木田元が保守系老人向け雑誌『新潮45』に書いている。「経済水準が下がっても、もう少し自然に謙虚な社会の設計をする必要がある」。左右のイデオロギー(木田元が右だといっているわけではない。右のメディアに寄稿しているという意味だ)を越えて、老人の主張は「昔は良かった」で、変わらないようだ。
 人間還暦を過ぎたら社会の一線を退いて、若い世代に全てを委ね、若い世代の手本となるような、若い世代のためになるような良き死にかたを模索すべきだ。老人は将来に責任を持てない。だからこそ老人の繰り言などをいわず、また「山上の垂訓」のごとき「高説」を垂れることもせず、ただひたすら若い世代の邪魔にならないように、静かに「溶融」ではなく溶暗していくべきだ。日本が「良き貧しき国として再生」するのではなく、日本の老人が「良き貧しき老人として殉死」すべきだ。
老人諸君!それが老人の責任であり義務だろう。

2011年5月23日月曜日

日本の全ての原子炉を廃炉に

 日本の電力会社は一刻も早く日本の全ての原発は停止すべきである。それは、地震や津波による被害の甚大になる危険性が高いからではない。また原発技術そのものの信頼性に問題があるからでもなければ、廃棄物の処理法が確立されていないからでもない。懸念されるのは、原発技術者がいなくなる、あるいは技術者の質が低下し、今ある原発を制御できずフクシマ以上の被害を出す危険性があることである。
 今福島原発で献身的に原発の制御にあたっている原発技術者は使命感に燃えて頑張っている。彼らがいなければ、どれほど悲惨な結果になっていたか火をみるよりも明らかである。彼らが使命感を持っている限り、福島第一原発は、現在の原発技術者で冷温停止まで何とか制御できるだろう。またそう願っている。しかし、はたしていつまで原発技術者が使命感を持ち続けることができるだろうか。東電はもちろん原発を抱える他の電力会社に原発技術者たちが残り続けるだろうか。電力会社に勤務しているというだけで、まして原発に勤務しているというだけで、今や後ろ指をさされるような状況である。今のままでは原発が廃炉になるまで本人はもちろん家族も世間の白眼視に絶えなければならなくなるだろう。それは自衛隊と同じ境遇だ。旧軍とは関係がないのに、自衛隊は戦後数十年にわたって差別されてきた。
自衛隊員は国防という使命によってなんとか職業意識を保つことができる。しかし、原発度術者はどうだろうか。国防と同じように原発を維持することに高い使命観をもつことができるだろうか。原発の電力は他のものでも代替できる。というよりも将来的には再生可能エネルギーに代替することが国策としてすでに決まっている。原発は時代後れの技術であり、再生エネルギーが本格的に登場するまでのつなぎのエネルギーでしかなくなってしまった。
こんな未来のない仕事に誰が就きたいと思うだろうか。現在東電も含めて原発技術者の全てはできれば仕事を変わりたいと本音では思っているにちがいない。とはいえ社会的責任や不況といったこともあっておいそれと転職はできないだろう。だからこそ原発技術者がいる間に原発を廃炉にする必要がある。彼らがいなくなれば、現発の制御はもちろん、廃炉にすることさえできなくなる。そうなれば、福島第一原発の事故どころではなくなる。
そもそも今回の事故を見るに、いわゆる原子力の専門家と言われる人のレベルが、神の火と呼ばれる原子力を扱うには相当程度低いのではないかという気がする。評論家や解説者のような素人が容易に意見を開陳でき、またそれに対して原発の専門家が十分な反論ができない。これまで仲間内だけの議論に終始してきたからか、専門用語が飛び交っているだけで専門家の話はさっぱり要領を得ない。専門家と政治家との間で十分な意志疎通ができなかったのは、専門家の言葉が一般社会では通用しない仲間うちの隠語同然だったからであろう。
さらに三十数年も前から原子力関連の研究を目指す学生が減り続けており、十数年前には人材不足から原発の信頼性に疑問符がつき始めていた。今回のフクシマ原発の問題も、かなりの部分人材不足に起因しているのではないかと思う。チェルノブイリは明らかに人材不足による人為的ミスが原因だ。その背景には80年代半ばの旧ソ連の経済的疲弊や社会的混乱があった。チェルノブイリと同じなのは事故の大きさというよりも、事故を起こした背景にあるのではないか。
今後大学で原子力工学を学ぼうという奇特な学生はまずいないだろう。原子力工学科を置いていた東京大学、京都大学、東京首都大学などは学科名を変更して学生を集めようとした。過去以上に将来は、全く未来のない発展性もない原発の技術を学ぼうという学生はいないだろう。優秀な学生であればあるほどそうだ。それよりは最新の再生可能エネルギー関連の技術を学びたいと思うだろう。
もう日本では原発技術の開発、維持する人材は出てこない。新たな原発開発ができないとなれば、東芝をはじめ原発関連産業は、海外に生産拠点を移さざるを得ない。そうなれば、必然的に技術者も海外へ移住するか、あるいは技術を海外に移転することになる。あるいは現在の優秀な原発技術者は原発開発に力を注いでいる原発新興国特に中国に高給で引き抜かれることもありうるだろう。仮にそうなれば、日本にはますます原発技術者がいなくなる。だからこそ原発の技術者が日本からいなくなる前に、原発を全て停止すべきだ。地震の発生確率は87パーセントかもしれないが、日本にある全ての原子炉が完全に廃炉になる前に技術者の数がゼロになるのは100パーセント確実だ。

2011年5月7日土曜日

小著書評

 ネット・サーフィンをしていたら、宮崎哲弥『新書365冊』(朝日新書)を書評した松岡正剛の「千夜千冊-遊蕩編」(1216夜)にたまたま出くわした。その最後に、宮崎哲弥が取り上げた新書の中から、特に松岡が推薦したい本10冊が挙げられていた。その中に小著『現代戦争論』および『テロ-現代暴力』の2冊が推薦されていた。ちなみに、2冊推薦されているのは私だけであった。宮崎の本にも2冊が推薦されているとは知らなかった。宮崎と松岡の二人の読み巧者に2冊とも推薦されたことに本当に感激している。
 実は、数年前に松岡氏にはある研究会の打ち上げで直接会ったことがある。そこで、『現代戦争論』と『テロ-現代暴力論』の著者だと自己紹介した。「ああ、そうですか。その本はよく知っています」と言われた。その時には単なる世辞だと思っていた。書評のプロといえどもなにしろ何千冊もの本を読破している人である。読んだ本はよほどのことが無い限りほとんど記憶の彼方に消えてしまう私からすれば、松岡氏も記憶などないだろうと思いこんでいた。しかし、何千冊もの新書の中から2冊(ちなみに私が書いた新書の全て)も推薦してくれていることを考えると、やはり世辞ではなく記憶にあったのだと思い、素直に感謝している。
 読書のプロに評価されることと、本が売れることとは全く違うようだ。二版で計約2万3000冊で『現代戦争論』は絶版となった。『テロ-現代暴力論』も初版18000冊が出たきりで、増版にはならない。売れないからあまり評価されていないのかと思っていた。しかし、思いがけずに二人のプロに評価されていたことを知り、自分の研究が正しかったことを確認でき、本当に元気をもらった。これからも時流、学界、社会などに阿ねることなく自らの信ずる道を貫いていく覚悟ができた。自画自賛で汗顔の至り、還暦に免じて何卒ご容赦。

2011年5月6日金曜日

蓄電池の開発を

福島原発の惨事以来、代替エネルギー論争が沸騰している。ただし、原子力を代替できるだけの自然エネルギー利用電力を開発するには多くの技術的困難がある。また時間もかかる。風力発電は何十年も前から研究されているにも関わらず、日本ではいまだに代替エネルギーにならない。アメリカや中国ドイツでは日本の10倍20倍もの発電量があり十分に実用化しているとの議論もある。
技術的な問題よりも、原子力を優遇する国の政策の問題だという反原発派の主張もあるが、必ずしもそればかりが風力発電が広まらない理由ではないだろう。風力発電に否定的な技術者は電力供給が安定しない、電気の質が安定しないなどという理由を上げている。また日本で風力発電がひろがらない理由の一つは、台風だといわれる。津波や地震には強くても、台風に弱いのが風車である。事実、現在風力発電が盛んな国は、高緯度帯で台風やモンスーンが無い国や地域である。
個人的な感想だが、風力発電には私は消極的だ。景観破壊、バードストライク、低周波問題など風力発電の自然破壊もまた考慮しなければならないからだ。カリフォルニアやネバダ州にある風力発電地帯を見たことがあるが、風車が山肌に何百機も並んでいる風景は圧巻、壮観ではあるが、威圧的で異様な風景だ。近くによると低周波のせいなのか、それとも異様な口径のせいなのか、気分が悪くなる。しかし、原発に比べれば、こうした風力発電の持つ問題は取るに足らぬ欠陥かもしれないが。
自然エネルギー推進派は反原発派であり、他方消極派は原子力推進派であることが多い。そのため自然エネルギー開発の議論が日本でなかなか進展しないのは、それが原発の技術ではなくイデオロギー論争や政治論議、あるいは人生観、宗教論になってしまうからである。日本のエネルギー政策の不幸は、いつまでたっても反原発、原発推進のイデオロギー論議に巻き込まれてしまうことにある。いい加減イデオロギー論争はやめにしよう。
技術的な問題だけを取り上げて議論するなら、自然エネルギー利用電力が実用化できるか否かは、蓄電池の開発にかかっている。2008年2月に米国国家情報会議は『破壊的民生技術』(Disruptive Civil Technologies)と題する報告書を公表した。その中で社会劇的に変化させる技術の一つとしてエネルギー貯蔵技術を挙げている。この技術は、車輛、船舶、航空機等の交通手段やさまざまな携帯機器で使用するエネルギーを貯蔵し、配分する従来の方法を劇的に変革する可能性を秘めた破壊的技術である。この技術には、特に燃料電池のための電池の素材技術、ウルトラキャパシタ(超大容量コンデンサー)そして水素吸蔵合金などがある。そしてこの破壊的技術が社会や経済に与える可能性として、化石燃料からのパラダイムシフトが起こり、グローバルな変革をもたらす可能性がある。
現在の電力システムの致命的欠陥は電気を貯蔵できないことにある。せいぜいが夜間に電気を使ってダムの水をくみ上げて電気エネルギーを重力エネルギーとして貯蔵し、昼間に再び電気に変えるという非効率な電気貯蔵技術しか実用化されていない。したがって電気は常に最大需要予測にしたがって生産設備を持つ必要がある。日本の場合は、夏の晴れの日の午後2時頃、気温が最高になるころである。東京では約6000万キロワットといわれている。さらに言えば、高校野球の決勝戦がこれに重なるとテレビの使用電力が増えるためにさらに電力消費が増加するといわれる。だから今年の夏は高校野球のテレビ中継はやめたほうがよい。
この致命的欠陥を解消できる蓄電池が開発されれば、原発は全て廃棄しても十分にやっていける。自然エネルギーで少量発電した電力を貯蔵し大量に集め、そしてスマート・グリッドで効率的に配電すれば、火力発電もやめることは可能だろう。いずれにせよ代替エネルギー開発の要点は蓄電池の開発にかかっている。

2011年5月2日月曜日

原発反対派は今こそ契約アンペア数の削減による電気の不買運動を

 今原発批判が堰を切ったようにあふれだした。たしかに福島原発の惨状を見れば、当然だ。しかし、はたしてどれほどの人が「それみたことか」といって、東電を批判できるだろうか。私は、今もそうだが、これまでもずっと原発賛成派、否むしろ推進派だった。原発の恩恵を受ける一方で、原発や東電を非難する資格があるとは私自身到底思えなかったし、それは今も変わらない。
 昨夕(2011年4月28日)の毎日新聞の夕刊に一貫して原発反対を主張してきたルポライターの鎌田慧がこう心の内を語っている。「ほれ見たことかと、僕が思っている?とてもそんな気持ちになれませんよ。・・・いったい何をやってきたのが。自家発電機で暮らすとか無人島に住むとか、僕自身、消極的な抵抗もしていない。すでにある存在として原発を認めていたのではなかったのか」。今はたして原発反対派、批判派の人たちは、鎌田のような謙虚な気持ちになっているのだろうか。
 スリーマイル島やチェルノブイリの事故をみて原発が絶対に安全などということはありえない。それは至極当然のこととして私は理解していた。今もそう思う。安全保障の原則、危機管理の鉄則で「Never say never」である。原発の存否の判断はあくまでも功利主義的判断に基づくべきである、と常々考えていた。功利主義の判断基準は経済的基準であったり、あるいは政治的基準であったりする。どこまで安全対策をすれば経済的に釣り合うのか、あるいは原発推進がどこまで国家のエネルギー政策に寄与するのか、あるいは地球温暖化を防げるのか、そういう功利主義的基準でしか原発は判断できない。もちろん反対派は原発は功利主義的に判断する対象ではなく、絶対に駄目だというかもしれない。しかし、その判断さえすでに功利主義的であることに気がつかなければならない。いずれにせよ、結果的に自然災害と経済との功利主義的判断の基準が甘かったために、今回の人災を招いたのである。反省すべきは、原発を建設したことではない。判断基準が甘かったことである。
原発の建設を決断したのは、いまから40年も50年も昔のことである。その当時を振り返って、原発を建設しないという選択肢がはたしてあったろうか。豊かさを求めてひたすら経済成長を追い求めていた日本にとってエネルギーの獲得は最重要問題だったのである。1965年に東海村に日本で初めての原子の灯がともった時、新しい時代が到来したような晴れがましさを覚えたことを50才代以上の人は皆覚えているだろう。また原子力エネルギーを使う鉄腕アトムは原子力の平和利用の象徴だったのだ。21世紀は原子力エネルギーの平和利用がロボットにまで広がる輝ける世紀として描かれていたのだ。
石炭から石油へとより経済的、効率的なエネルギーへの転換で高度経済成長を目指した日本が、1974年に突如オイルショックに見舞われてしまった。なんとしてでも安定的な、経済的な代替エネルギーが必要だったのである。当時さまざまな水力、風力、太陽光、地熱、波力など代替エネルギーが模索された。しかし、石油に代わる実用的なエネルギー源は原発しかなかった。
ダム建設で環境破壊を引き起すダム建設は日本各地で反対運動に遭い、また風力発電や太陽光発電の技術は未熟であった。いまでこそ屋根の上には太陽光パネルがついているが、つい最近まで屋根の上についているのは太陽光パネルではなく、太陽熱温水器だったのである。
もちろん原発建設当時から原発の危険性は周知の事実であった。だから広瀬隆の反語的反原発書の『東京に原発を』、あるいは原発の裏舞台を余すところなく描いた映画、森崎東監督の「生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言」(1985)などで原発の危険性を多くの人知っていたはずだ。たしかに反原発の言論はタブー視され、メディアでもあまり取り上げられなかった。だからといって今になって原発がこれほど危険だとは知らなかったというのは、あまりに無邪気すぎる。1979年のスリーマイル、そして1986年のチェルノブイリで原発の危険性は世界中あまねく知られていた。にもかかわらずわれわれは原発を選んだ。当時から批判はしていた、と言う人は上述の鎌田の言葉をかみしめてほしい。われわれは経済成長、便利な生活を求めて皆原発の危険性を過少評価、無視してきたのだ。
経済が成長するには電力、ガス、石油、風力、太陽光など社会全体の使用エネルギーの総量の増加が絶対に必要だ。社会全体のエネルギー総量を減らして経済の成長などありえない。節電すれば、経済が成長するなどということはない。たとえば節電すれば、電力会社の売り上げが落ちる。電力会社の売り上げが落ちれば、関連の会社の売り上げも落ちる。節電は原発エネルギーから次の代替エネルギーへの移行期間には役に立つが、その間は経済成長は低下する。
第1次、第2次オイルショックの際に節電や省エネが進んだ。しかし、家電や車の省エネは進んだが、社会全体でエネルギーの消費量は増加の一途をたどってきた。とりわけコンピュータの普及やエアコンの増加は電力消費を押し上げてきた。いくら省エネ型のコンピュータやエアコンを作っても、もともとそれらがない時代と比較すれば電力が増加していることは間違いない。ちなみにスーパー・コンピューターやコンピュータのサーバーは驚くほどの電力を消費する。グーグルが自前で原発を保有しようと計画していたのも増大するコンピュータ需要を今の電力のままではまかないきれないからだ。日本ではで電力需要の増加分を原発が補ってきたのである。そのおかげでわれわれは快適な生活を手に入れることができた。
今原発を批判する人はもちろん原発を今後どうするかはわれわれ一人一人の覚悟にかかっている。本当にいますぐにでも原発を停止したいと思うのなら、簡単な方法がある。それは各家庭の契約アンペア数を10アンペアもしくは15アンペアにすることだ。今多くの家庭が30アンペアもしくは40アンペアで契約しているはずだ。これを下げれば、原発を使用しなくても大丈夫である。もちろん家庭では、ブレーカーが落ちないようにさまざまな工夫が必要だ。エアコンとテレビは一緒に使わない。電子レンジと炊飯器は一緒に使わない。ドライヤーとアイロンは一緒に使わない。しかし、ちょっとした工夫で節電ができ、原発は不要になる。
こんな生活は40年前は当たり前だった。だから40年前の生活に戻って、当時の電力使用量にまで各家庭の電気使用量の上限を下げればよいのである。契約アンペアの引き下げによる節電は、いわば電気の不買運動である。電気は全面的な不買が難しいから、少なくとも現在の半分は不買してもよいのではないか。代替エネルギーが実用化されるまで、契約アンペア数引き下げによる電気の不買運動こそが、原発不要論の第一歩である。

原子炉制御に向け原発賛成派、反対派は一致協力せよ

千年に一度の大地震。追い打ちをかけるように大津波が押し寄せた。これだけでも未曾有の天災だ。その上さらに福島第一原発事故という人災まで降りかかってきた。福島原発が人災となった理由は、全ての核燃料冷却用電源が失われることを想定したマニュアルが東電にも政府にもなかった事だ。対処マニュアルがないために、全ての事故対策が場当たり的になっている。東電も政府も、いずれの危機管理も破綻してしまっている。アメリカ、フランス、IAEA等国際社会が不安になるのも無理はない。
まさか原子力発電所に電気が必要不可欠とは思わなかった。これが一般の人の感想だろう。一般の人だけではない。世界中のテロリストが原子力発電所のアキレス腱に気づき、北叟笑んでいるかもしれない。9.11のアルカイダのように航空機で原子力発電所に自爆攻撃を目論まなくても、核燃料冷却用電源を断ち切れば原発がメルトダウンして自爆するのだ。福島原発事故が国際安全保障に与えた影響は、環境、経済、社会にもたらした被害以上に深刻だ。
なぜ最悪のシナリオが想定されていなかったのか。それは逆説的だが、絶対にあってはならない事態だからだ。あってはならない事はない事にする、それを希望的観測という。ではなぜ、希望的観測がこれまでまかり通ってきたのか。反原発の人々は、一貫して警鐘を鳴らしてきたと主張するだろう。しかし、不幸な事に日本の原子力政策は、戦後の日本の安全保障の議論にも似て、冷戦時代に左右の政治イデオロギー闘争に巻き込まれ、冷静な論争ができなかった。日本の原発はイデオロギー対立という断層の上に立てられてきたのだ。
原発推進派は体制のイヌ、御用学者などと蔑まれ、仲間うちの小さなコミュニティに閉じこもってしまった。東電の中でも原発関係者は原子力村という小さなコミュニティを作っていたという。政治家、電力会社、官僚、東大の政産官学の原子力推進派はひたすら権力と金で反対派を懐柔し、経済効率優先で原発をつくってきた。反対派は核と聞くだけで延髄反射的に反対を唱え、夢物語りのような自然エネルギー利用のユートピアを喧伝するばかりだった。両者の間には建設的な対話はこれまでもなかったし、事故が起こった今もない。賛成派は楽観論を、反対派は悲観論を言い立てるだけだ。素人はただ、ただ恐れおののくだけだ。
原発はローテクの重厚長大産業の典型だ。原理は至って簡単。石油、石炭、天然ガスに代えて核燃料で作った水蒸気で発電タービンを回す。問題は核燃料をいかに制御するかだ。イデオロギー対立のせいで、核コミュニティの一部の技術者がハード面からのみ核燃料の制御法を考えてきた。本来は政治家や官僚も含めソフト面から原発全体の制御方法を考えておかなければならなかったのだ。
今からでも遅くはない。政府はこれまでの彌縫策を止めて、一刻も早くハード、ソフト両面から最悪に備えた短期的、長期的な危機管理マニュアルを策定すべきだ。そのためには原発賛成派、反対派はこれまでの確執を棚上げして、とにかく今は原子炉の制御に向け協力すべき時だ。