2012年9月25日火曜日

米国は旗幟鮮明に

日中間の対立がいよいよ深刻化している。デモなどは政府によって規制され、表面的には収まったかのように見える。しかし、潜在的には事態は領土問題からイデオロギー問題へと質的に変化している。  中国は当初から尖閣問題をきっかけにして日本の勢力を削ぐことを目的にしている。戦後一貫して中国は日本をファシズム、軍国主義国家として規定することで米国との関係を密にし、日米の分断を図ろうとしてきた。 しかし冷静に考えてみれば、米国が中国共産党との友好関係を図ろうとしたのはニクソン政権時代以降である。しかも、それは本当の友好というよりは当時の大統領補佐官のキッシンジャーの冷徹な権力外交の結果でしかない。敵の敵は味方という権力政治の原則に則り、米国が当時敵対していたソ連を封じ込めるために、やはりソ連と敵対関係にあった中国と友好関係を結んだにすぎない。イデオロギー的に見れば、昔も今も変わることなく、米中は水と油である。ただ両国は経済的には資本主義国家で、まさに双頭の鷲か蛇である。  第二次世界大戦中、国共合作していたとはいえ、筑波大学の古田博司教授が指摘するように(2012.9.20産経新聞「正論」)、実質的に日本軍と戦ったのは蒋介石の国民党であって、毛沢東らの中国共産党ではない。それを、あたかも中国共産党が日本と戦ったかのように歴史を改竄し、米中はともに軍国主義日本と戦わなければならないと主張するのは、まさに笑止千万である。  依然として共産党の独裁下にあり、国民の自由を奪い人権を侵害している国が一体いかなる根拠をもって、少なくとも米国と同程度には民主的で、自由で人権を尊重する日本を軍国主義と非難し、過去を反省していないと言えるのか。  歴史を改竄しなければ、政権を維持できない国ほど、浅ましくも悲しい国家はない。米国はまさか、そのような国家に味方することはないと思う。もし、そうだとすれば、中国が主張するように、日本は過去を反省しない軍国主義でファシズムの国家だと米国が認めることになる。だとすれば、戦後の米国の対日政策は全くの失敗ということになる。米国の有識者に問いたい。日本は米国が指導してきたように民主主義国家なのか、それとも中国が主張するように戦後の国際秩序を破壊するファシズム国家なのか。

2012年9月20日木曜日

尖閣問題は自由と独裁の争い

尖閣諸島をめぐる日本と中国の争いは、資源や領土、主権をめぐる争いではない。自由主義体制と独裁体制との間の自由をめぐる戦いである。ワシントンに来て、それが身に染みてわかった。  ワシントンの街を歩く時、何も気にすることはない。上空を行きかう、おなじみの海兵隊のヘリコプターを撮影しても、誰も咎めることはない。ましてやシリアのように、逮捕、監禁されることもない。人々は誰をも気にすることもなく、自由に話し、行動している。  宿泊したホテルでたまたま私の部屋を掃除していたメードと話をする機会があった。訊くと、15年前にエチオピアから来たという。アメリカの暮らしはどうかと尋ねると、自由があって良いと言う。経済的な理由を挙げると思っていたら、真っ先に出た答えが自由だった。15年前のエチオピアというと、メンギスツ独裁政権が倒れた後にメレス・ゼナウィによる連邦共和制が樹立されて間もないころだ。改革開放がすすんでいたが、それでもなお国を捨てる決意までするほどに自由へのあこがれがあったのだろうか。しかしシリアの体験から私には、彼女の気持ちが少しだけわかる気がする。  人間にとって、最も重要なもの、かけがえのない価値とは、自由だ。豊かさは、自由を獲得する手段の一つでしかない。素晴らしい社会や国家とは、豊かであることよりも、皆が平等に自由を享受できる社会である。すべての価値の根源には自由がある。人は誰からも強制されることなく自らの生き方を決定する権利がある。先人の言葉を持ち出すまでもなく、人間は生まれついて自由である。人間は自由を求めて生きていくのである。働くことも、学ぶことも、窮極的には自由をできる限り獲得することにある。もちろん、その自由は他人の自由を侵すものであってはならない。独裁体制は、他者への配慮を欠いた一部の者による、多数の人々の自由の圧殺体制である。デモをもコントロールする現在の中国共産党体制はまさにその典型である。  中国にはデモをする行動の自由もなければ、ネットは規制され言論の自由もない。さらには都市戸籍と農村戸籍があり居住の自由もない。改革が進められているとはいえ、いまだに戸籍を変えようと思えば多額の賄賂がいる。シリアのように自由もなく賄賂が横行する国家が大国といえるのだろうか。ただ人口が多く、国土が大きいというだけではないか。その人口の多さを武器に経済でも、政治でも、ごり押しを重ねている。なぜ中国国民は自分たちを政治の手段や経済の道具としてしか見ない共産党に反旗を翻さないのか。最近の反日デモを見るにつけ、さらに反日デモが拡大して、反政府運動に拡大しないかと期待を膨らますばかりだ。  日中の対立で問われているのは、中国の独裁体制の悪であり、日本やアメリカなど自由主義陣営の自由の真価である。自由は決して金で売り買いできるものではない。中東で独裁体制への異議申し立てが次々と起こっている今、心ある中国国民には自由を求めて決起を促したい。自由の国アメリカに来て腹の底からそう思う

2012年9月5日水曜日

ダマスカス拘束120時間-秘密警察での48時間の拘束-②

【拘置所の実態】  今なお、私が一体どういう組織で、どういう施設に拘留されたのか、正確なところはわからない。シリアには「ショルタ」という一般警察、治安を担当する「ムハバラート」と呼ばれるいわゆる秘密警察がある。私を拘束したのは十中八九ムハバラートだと思う。拘留施設もムハバラートの施設だと思う。  とりあえず、この秘密警察の施設を拘置所と呼んでおく。ただし、実態は暴力が支配する拷問施設である。独房に拘置された小太りの初老の男性一人と、私を含め通路部分に収容された兵士十数人には暴力が振るわれることはほとんどなかった。しかし、年齢に関わりなく雑居房の収容者への暴力、拷問は日常茶飯事であった。  毎朝、恐らく8時か9時頃(時計がないので正確にはわからない)に取り調べが始まる。尋問係官が名簿をもって、我々が座る通路を通って雑居房へ行き、尋問予定の7~8人の名前を呼ぶ。雑居房の中ではリーダーかもしくは鉄扉付近にいる収容者が、異様に元気で大きな声で名前を中に向かって復唱する。呼ばれた者もまた、恐らくは恐怖の裏返しの行為なのであろう、これから楽しいことでもあるかのような弾んだ声で返事をする。そして扉が開けられ、一人一人ずつ雑居坊の中から尋問を受ける収容者が出てくる。この時、モタモタしてなかなか房から出てこない者には係官の容赦ないビンタやケリが加えられる。 初めて見たときにはそのビンタやケリの迫力に驚いた。ビンタは腕を曲げずに腕全体を使ってまるで分厚い板で殴るかのようにして横っ面を張り倒していた。映画やテレビで聞き知ったパンとかパチンといった乾いた音ではない。皮カバンを思い切り平手でたたいたようなドスンというくぐもった音だ。場合によっては、さらに腹部にケリが入れられる。係官は間違いなく空手のような武術を習得しているのであろう、体全体を使って足を素早く回転させ腹に思い切りケリを入れる。サンドバッグに蹴りを入れたときと同じようにドスンとくぐもった音が聞こえてくる。 係官の中には皮鞭を振るうものいる。皮鞭といっても、たたいても傷にならないように、ベルトほどの幅があり、数ミリの厚さのある、まるで皮の靴ベラのような鞭である。これを使って背中をたたいたり、足の向こう脛をたたいたりして、収容者にいうことをきかせていた。ヒュッという鞭が空気を切り裂く音、そしてバシッという鞭が体をたたく炸裂音、全く非日常的な情景にまるで映画をみているかのような錯覚が起き、恐怖もなにも感じない。 ビンタやケリよりももっと驚いたことがある。それは、ビンタやケリを入れられた収容者がまるで何も効いていなかったかのように平然としていることである。ほんの2~3メートル離れたところで目撃していたのだが、決して係官が力を手加減していたわけではない。ビンタを加えられれば勢いで体は横に揺らぎ、ケリを入れられれば後ろによろける。しかし、それも瞬時のことである。すぐにもとに戻り、まるでなにもなかったかのように平然としている。恐らくは、これから始まる拷問に比べればなにほどのこともないからかもしれない。 その拷問を恐れるあまりだろうか、小柄で太った40前後と思われる男が房からなかなか出てこなかった。仲間から押し出されるように房から出てきたときには号泣していた。係官は、彼に当然のようにビンタとケリを入れ、鞭を使いながら追い立てるように恐らく拷問場所だろう、追い立てて行った。しばらくすると、われわれのいる房から10メートルほど離れたところにある拷問室の方向から、バシッという音に続いて、恐らくその男だろう、奇妙な節のついた甲高い悲鳴が繰り返し繰り返し聞こえてきた。その悲鳴が続いている間、房には重苦しい空気が淀んでいた。たまらず若い兵士が、拷問室から悲鳴が上がるたびに、笑いながらその悲鳴を真似て奇声を発していたが、恐らく恐怖から逃れようとしていたのだろう。 小一時間もすると、尋問が終わった収容者が房に戻される。その時、我々の前を通っていくのだが、何ごともなかったように戻っていく者もあれば、指や脛に包帯を巻かれた者、日焼けしすぎたかのように背中一面が真っ赤に腫れ上がった者、仲間に支えられながら足を引きずりながら歩く者もいる。収容者の中には兵士と顔見知りの者もいるらしく、尋問の行き帰りに一言二言挨拶を交わす者や、中には笑顔で会釈をする者もいる。笑顔の意味はわからない。 収容者の年齢は、下は10代から上は60代まで、さまざまである。印象としては若者よりは40代以上の壮年や初老の年代が多かったように思う。私も含めて収容者は皆着たきり雀である。逮捕されたときの服装のまま長ければ何週間、何カ月も拘束される。なぜかわからないがパジャマを着た初老の男もいた。その男のパジャマの下半身部分は排泄物なのかそれとも血なのか茶色く汚れていた。シャワーがあるわけでもなく、洗濯ができるわけでもない。当然皆異臭を発する。とりわけすし詰め状態で収容されている雑居房からせ汗と糞尿とゴミの腐臭とを合わせたようなすさまじい異臭がする。雑居坊の鉄扉を開けるたびに鼻がひん曲がるような異様な匂いが通路にまで漂ってくる。尋問係官も思わず手で鼻を覆っていた。収容者が前を通って行くとき、私も思わず手を鼻にあててしまった。彼らが出て行った後、臭気を追い去るために、いつも若い兵士の一人が脱いだシャツを扇風機替わりに振り回し、臭気を消し去ろうとしていた。拘置所は暴力が支配する、家畜小屋のような臭気が漂い、落語の「地獄八景亡者の戯れ」のような地獄が天国と思えるような場所だった。(続く)

2012年8月30日木曜日

ダマスカス拘束120時間-秘密警察での48時間の拘束-

ダマスカス拘束120時間-秘密警察での48時間の拘束- 【拘束の顛末】 私がダマスカス郊外のプルマン・バスステーションで逮捕された時、逮捕した男は「セキュリティー・ポリス」と名乗っていた。シリアには警察「ショルタ」、秘密警察「ムハバラート」そして兵役中の軍人「アスカリ」が町の治安を保っているといわれる。私を逮捕したのは、その中のムハバラートすなわち秘密警察だと思われる。 逮捕されバスセンターないにあった事務症に連行され、人体尋問を受けた。これからどうなるのか問うと、ホテルに行く、というので、無罪放免になるとタカをくくっていた。しばらくすると、私を逮捕した係官が友達を呼ぶといって、電話を掛けていた。パスポートをホテルにおいてあったので、パスポートを確認するためにホテルまで私と同行するために車で送ってくれるのだろうと甘く考えていた。30分ほどすると、出川哲朗にそっくりな小太りの戦闘服姿の「友達」とAK47をもち防弾チョッキを着た神経質そうな男が現われた。そして私を小型のセダンに押し込み、バスセンターを後にした。車には若い運転手、そして助手席には「出川」、私は後部座席左側に乗せられ、右横には銃をもった男が乗り込んだ。バスセンターから15~20分くらい走ったろうか、明らかにホテルとは違う方向に向かっていた。近道なのかと思っていたら、連行された「ホテル」は秘密警察の収容施設だった。 秘密警察の収容、尋問施設というよりは拷問施設は、ダマスカス市内の住宅街の一角にあった。制服を着た兵士や民兵なのか私服姿の男たちがカラシニコフを手に警備し、施設に通ずる道路は何重にも封鎖されていた。表取りからは想像つかないような緊迫した雰囲気が漂っていた。 【収容所の概略】 施設そのものは、地上二階、地下一階の大きな邸宅のような建物であった。地上部分が事務所、そして地下が拘置施設になっていた。外部から直接、地下に続く階段があり、10段ほど降りたところには頑丈な鉄格子がはまっていた。中には二人の看守がカラシニコフを横に立てかけ椅子に陣取っていた。収容所の建物全体の床面積はせいぜい20メートル×30メートル程度ではなかったろうか。階段を降りて中に入ると、右手に鉄扉がはまった拷問室が四つ並びんで据えつけられており、左手には警官の宿泊施設や休憩所などがあった。私が放り込まれたのは、階段を降りて左手に行き、さらに左手に曲がった突き当たりにある拘置施設である。拘置施設に入る前はちょっとした炊事場となっており冷蔵庫、ガス台、流し台があった。その炊事場の奥に拘置施設があった。 この拘置施設は三つに分かれていた。入ってすぐ左手が独房、そして右側には幅1.2メートル長さ10メートル高さ3メートルの廊下が続き、その突き当たりに階段3段あがった踊り場があり、この踊り場の右手が雑居房である。私は、実はこの廊下の部分に拘置されていたのである。本来の拘置施設は独房と雑居房だけだと思われる。廊下には中古のコンピュータが何十台も積み上げられており、明らかに本来の拘置施設ではなかった。 独房、雑居房そして廊下にはそれぞれ別の拘置者が収容されていた。独房には中年の小太りの男性が拘置されていた。また雑居房には数十人もの「クリミナルズ」(私と同房の兵士の話による)が閉じ込められていた。一般犯罪ではなく、多分反政府勢力の政治犯罪あるいは治安犯罪の嫌疑をかけられた者たちではないか。 独房、雑居房それぞれに厳重に鍵がかけられていたが、私がいた廊下には炊事場に続く鉄扉しか扉はなく、しかも、その扉は閉められてはいたものの施錠はされていなかった。台所には一応見張り(常時みはりがいたわけではない)がいたものの、許可さえ得れば比較的自由に出入りができた。もっと台所を出たところには地下室と外部との出入り口になっているところに常時二人が見張っていたので、彼らの許可を得なければ、便所には行けなかった。水を汲んだりするために台所までは比較的自由に出入りができた。もっとも私は自由に出入りしていたわけではない。 台所までは比較的自由があったのには恐らく三つ理由がある。一つは、尋問官が雑居坊へ頻繁に出入りするために炊事場に通ずる出入り口の扉をしめるのが煩わしいこと、また廊下に収容されている拘置者が全員兵士で雑居房の拘置者とは扱いが違うこと、そして何よりも、仮に逃げ出そうとしても、地上に通ずる出口は一つしかなく、そこは常時銃を持った看守によって厳重に監視されており、事実上逃亡は無理だからだ。 【収容者の実態】 集団があるところには必ずリーダーがいる。牢屋ではいわゆる牢名主だ。秘密警察の拘置所にも牢名主がいた。炊事場をとおって扉を開け中に入るとすぐに牢名主のごとく陣取っていた髭もじゃの年寄りが目についた。彼が廊下に拘束されていた兵士たちのリーダーであった。一番年をとっているからなのか、それとも長く収容されているからなのか、リーダー的存在になったのではないかとずっと思っていた。二日目の夜に親しくなった若い男が収容者のことを話してくれた。それによると廊下に収容されているのは全員兵士だということだ。英語で説明してくれた若い男は軍曹だといっていた。彼によると、年寄りが一番階級が高く、どうやら陸軍の少尉のようだ。それで牢名主のような役割を果たしているようだ。話しによると、見た目よりも随分と若く五十歳前後ではないかと思う。他にも40歳代の中年の兵士が二人いた。彼らはいつも三人で入口近くに陣取っていた。食事も、彼ら三人は他の兵士とは別に食べていた。 この牢名主の采配で中に入り、開いた場所に座る。といっても、座る場所程度のスペースしかない。10人ほどの二十代から三十台前半の兵士が、コンクリートの床に毛布を引いただけの狭い廊下に寝たり、座り込んだりしていた。兵士の中には病気なのかと思ったほど寝汗を大量にかきながら眠り込んでいるものもいた。また雑談しているものもおり、思い思いに時間をつぶしていた。 廊下にはもちろんエアコンなどはない。廊下には、もちろん屋根も壁もあった。しかし、どうやら後で増築されたのではないかと思う。というのも、窓一つない科米の反対側、すなわち係官らが宿泊している部屋側には頑丈な鉄格子のはまった窓がとりつけられており、エアコンのダクトが部屋に引き込まれていたからである。明らかに建物があって、その後廊下にあたる部分に壁と屋根がつけられたような造りだったのである。係官らの宿泊している部屋にはエアコンがあり、いつもではなかったが、エアコンが運転されているのがダクトの音でわかった。 それに引き換え、外部に通ずるのは台所への出入り口一カ所がけという廊下はいつも空気が淀み、蒸し暑かった。そのため昼間はほとんど全員が上はシャツ一枚だ。夜はさすがに少し温度が下がり、床から伝わってくる冷たさで、中には上着を羽織る者もいた。私は空港の収容施設で服を着替えるまで、全くの着たきり雀状態だった。昼間はじっとしていても、汗が体からにじみ出て来る。外気が入らないから、空気が澱み、だんだん息苦しくなる。それよりも閉じ込められていると思うだけで、精神的に圧迫され、息が詰まる。 拘置所には犯罪者、軍人そして独房の一人と、三種類の留置人がいた。軍人は最も罪が軽いようで、他の留置人に比べて扱いが寛大だった。入り口の鉄扉は、半開きにしたままで、施錠はされなかった。寛大な代わりに、他の留置人の食事の面倒などを引き受けていた。(続く)

2012年8月24日金曜日

日韓共に冷静に

日本と 韓国との間で親書の受け取りを巡って、外交問題に発展している。いや、正確には外交問題が親書の受け取り問題に反映されているにすぎない。親書の受け取り問題が最終的に戦争の引き金になったことがある。それは1991年1月にジュネーヴで開催されたベーカー米国務長官とアジズイラク外務大臣との湾岸危機の最終交渉の席でのできごとである。   アジズ外相は、クウェートからの即時撤退、イラクが国際社会から孤立している現状そして米国の軍事力の強大さを記したジョージ・H・W・ブッシュ大統領の親書を手渡されると「このような手紙を我が大統領閣下には渡せない」と付き返し交渉は決裂した。そして時を待たず湾岸戦争が始まった。   会談も親書の提出も米国の思惑通りに運んだ。イラクも米国も最後まで湾岸危機の平和的解決の努力を続けているとのジェスチャーを国際社会に示す必要があった。そして米国は親書という形でイラクに最後通牒を突き付けたのである。外交交渉ではもはや解決ができないということの象徴が親書の受け取り拒否ということである。   8月18日の読売テレビ、ウェークアップ!プラスで民主党の前原誠司幹事長が、竹島問題の解決を訊かれて、最後には「実力」でと口走りスタジオが凍りついた。東京のスタジオから猪瀬直樹東京都副知事がすかさずツッコミをいれ、「 実力」とはどいうことかと前原に詰問した。前原も、口が滑ったと思ったのか、突然しどろもろになり、返答に窮した。なおも猪瀬が質問を続けた。たまらず、司会の辛坊が助け舟を出し、「そういうことではなく」つまり軍事力ではなく、平和的な実力という意味で前原が使ったと私たちは理解していると述べた。聞いている限り、猪瀬が正しい。そしてまた前原も正しい。領土問題が全く一発の銃弾を交えず解決した例は極めて少ない。思い浮かぶのは、沖縄返還だけである。  今、日韓双方とも国民世論の扇動でチキンゲームをしている。弱気になればどちらも政権(韓国は現政権よりも次期政権)がもたない。野田政権には、どこでチキンレースから降りるか、戦略はあるのだろうか。親書の受け取り拒否は外交交渉の終わりでもある。あとは制裁をかけるしか手段はない。制裁の行き着く先は前原の言うとおり実力行使である。米国もイラクに武力行使をした。  しかし、平和憲法を持つ我が国が武力を行使できるだろうか、との疑問を大方の人は持つだろう。しかし、領土問題は自衛権の発動と解すれば、憲法の現行解釈では合憲である。だからこそ日韓両政権共に冷静になってチキンレースをやめなければ、まさに正面衝突してしまう。  

2012年8月23日木曜日

山本さんの冥福を衷心より御祈り申し上げます

 シリアのアレッポでもフリージャーナリストの山本美香さん が死亡した。心より 哀悼の意を表したい。ジャーナリストと研究者の職業の違いはあるものの、戦時下の人々の暮らしを 伝えたいという思いは同じである。  フリーのジャーナリストには政府側のビザはおりにくいのであろう。だからトルコ側の反政府勢力 の支配地域からの潜入取材に ならざるを得ないのか。であればこそ、政府側の 攻撃は覚悟の 上だったと思う。不謹慎の誹りを承知の上でいえば、本望の最後ではなかったか。  反政府勢力との内戦 でアレッポは混乱の極みのように思われている。しかし、私がダマスカスに滞在した八月上旬は、飛行機もバスも問題なく運行されていた。アレッポには是非行きたかったが、残念ながら、その前に拘束され、願いは叶わなかった。  確かに反政府勢力の攻撃は続いているが、ダマスカスの様子を見る限り、政権は安定しているように思える。  ネットは制限されていると思ったが、特に規制はかけられていない。人々の暮らしや生活にも思ったほどの 影響は表向き 見られない。流石に観光業は大打撃のようで、宿泊したホテルも閑古鳥がないていた。内戦のせいなのか、内戦による不況のせいなのかシャッターが閉じられた店を ダマスカスでは多く見た。しかし、下町の食料品を売る 市場には活気が溢れていた。多くの人にとって、戦争は社会現象ではなく、台風や地震のような自然現象なのかもしれない。  山本さんは、不謹慎だが、名誉の戦死で救われたかもしれない。彼女と一緒に取材していたトルコとパレスチナの取材人が拘束されたとの報道がある。もし、事実なら、彼らには体を横たえる空間もないような 劣悪な収容施設に放り込まれ、最悪、凄まじい拷問が加えられるだろ。女性もおそらく似たような扱いだろう。  政府側の拷問の実態は、この目で目撃した。また不法入国者の収容施設でも、スパイ容疑で秘密警察の拷問を受けた男を見た。タバコの火のあとが身体中についていた。  シリアの内戦は、アサド政権の政府軍と自由シリアの反政府軍の戦いだけではない。政府系民兵組織と反政府系の自由シリア軍、それに加担する外国民兵、テロリストなどが加わり、戦時国際法の埒外で戦われている無法の戦争である。そして両者は世界のメディアに向けた熾烈な報道合戦をも繰り広げている。この戦いで圧倒的に不利な立場におかれている政府側は反政府側から取材するジャーナリストにも容赦なく銃口を向けるだろう。まさに仁義なき戦いである。

2012年8月18日土曜日

ダマスカス戦線異常なし

今日(2012年8月17日)TBSと日テレの取材チームがシリア北部の町アザーズにトルコ国境から入国し、政府軍による攻撃のもようをリポートしていた。まるで両局の報道ぶりは、まるでシリア全体が戦場であるかのような局部拡大方式のメディア操作としか言いようがない。トルコ国境から入国できたということは、少なくともシリア側の国境管理が反政府勢力が掌握していることの証拠である。それはまたトルコがシリアの反政府勢力を支援していることの現れでもある。つまり、今回の報道は、少なくとも反政府側の便宜供与を受けた取材であることをまずは確認しておかなければならない。現在シリア政府は外国メディアの取材や立ち入りを厳しく制限している(というよりは事実上禁止している)ために、政府側の立場に立った取材はできない。だから政府が支配を確立していると思われるダマスカスの様子は外部に伝わってこない。またそこはあまりに平和であるためにニュースにもならないのだろう。  ダマスカスを見た限りでは、人々の暮らしは比較的安定している。内戦激化のために食糧不足が起こっているとの報道が一部ではあったが、全くのでたらめである。ダマスカス市内のスークに足を運んだが、生鮮食品や食料品はあふれている。なによりも秘密警察に収監されている「犯罪者」への日々の食糧も十分すぎるほどに行われていることを身をもって体験した。主食のイスラム風のパンも毎日大量に留置所に運び込まれていた。副菜も十分にあった。少なくとも食料品が足らなくて(金が足らなくてということはもちろんある)人々が困窮しているなどということはダマスカス市内ではなかった。  食糧供給が安定しているということは、治安が安定していることの証左でもある。イスラエル、アフガニスタン、スリランカ、フィリピン・ミンダナオ島などこれまで戦時下の町には何ヶ国も、何度も行ったが、印象で言えば、ダマスカスは戦時下にあるとは思えないほど安定していた。その一つに要因は、私服でダマスカスの治安を監視している公安警察の存在が大きいと思われる。反政府勢力を徹底的に監視、取り締まりを行っている。だから拷問も日常茶飯事に行われている。表通りを歩いているだけでは気がつかなかったが、護送車に乗せられて路地裏をあちこち連れ回されたときに、車窓からは民兵なのか私服の警官なのかわからないが、銃を持った大勢の男たちが路地のあちこちで周囲の監視にあたっていた。まさに私は、そうした監視の中でスパイ容疑で逮捕された。逆に言えば、徹底した監視網がダマスカスの治安を維持していといえるだろう。さらにアサドに忠誠を誓う兵士、警官、役人たちは今も数多くいる。その証拠といえるかどうか、まるで北朝鮮のように公共機関には必ずアサド親子の写真が貼られていた。アサドの権威、権力、いまだ衰えずである。 とはいえ私が滞在していた一週間で政府軍ヘリによる攻撃を一度目にし、また反政府側の爆弾攻撃にも一度遭遇した。反政府勢力の爆弾と銃撃による攻撃に対し、政府軍側は約10分で掃討を終えた。たまたま日本でいえば入管のような施設に拘束されているときだった。建物を封鎖し職員が銃をもって攻撃にそなえたが、10分ほどで猛烈な銃撃戦が終わり、係官も20分もしないうちに平常業務に戻った。政府側に負傷者は出たようだが、その後の報道では死者は出なかったようだ。火力では圧倒的に政府側が勝っているように思えた。 また強制退去を受けて空港へ護送される途中、車窓からは、2カ所で装甲車に乗った兵士が道路を監視しているのを見ただけである。シリア到着時にタクシーで市内に向かったが、その時には兵士の姿や装甲車など全く見なかった。また強制退去させられた時の空港の様子も普通の空港と全く変わらなかった。空港に銃を構えた兵士がいるわけでもない。ただ、日本の地方空港並の規模でしかなく、また乗降客の数も少ないために、わびしい雰囲気は拭えなかった。しかし、便数は少ないものの航空機は24時間態勢できちんと運行されていた。私が乗ったエティハド航空機も毎日運行されていた。 また空港の待合室にもどこにでもある日常風景があった。家族ずれが多く、小さな子供たちがロビーを走り回っていた。ひょっとするとシリアを脱出するためかと思われるかもしれない。しかし、アブダビからシリアに向かうときにも家族ずれが何組もいたことを考えれば、必ずしもシリア脱出とは言えないのではないか。 シリア情勢に対するメディアの報道は、だれが取材許可を出すかによって全く異なる。現在、欧米メディアを受け入れているのは反政府勢力側である。日本も欧米メディアの一貫として反政府勢力側からの報道姿勢をとったのであろう。そうすると、アサド政権は今にも崩壊、瓦解しそうなニュアンスで伝えられ事が多くなる。一方で、アサド政権側からの報道にある、恐らくロシアや中国しか伝えられないのであろうが、反政府勢力はアルカイダのようなテロリストや欧米など外部勢力の支援を受けているといったニュースは全く外部に伝わってこない。 戦時下の報道で気をつけなければいけないのは、メディアがいかなる便宜供与をいかなる勢力から受けているかを吟味することである。そうでなければ一方的な報道によって判断を誤る原因となる。私が紛争地に入る際に、こうしたバイアスをさけるために一貫して実行しているのが、ツーリスト・ビザで入国できるかどうかである。今回在日シリア大使館はツーリスト・ビザを発給してくれた。またスパイ容疑でつかまったものの、最終的にツーリストとして釈放してくれたシリア政権は、その一事をもってしても、まだ安定しているといえる。 別にアサド政権の肩を持つわけではない。それどころか、その人権侵害政策には満腔の怒りを覚えている。しかし、客観的な事実と主観的な思いとは明確に区別しなければならない。アサド政権が転覆するとするなら、また反政府勢力がアサド政権を打倒することができるとするなら、やはりダマスカスの攻防戦にかかっていると思われる。だが、今のところ「ダマスカス戦線、異常なし」である。