2012年9月20日木曜日

尖閣問題は自由と独裁の争い

尖閣諸島をめぐる日本と中国の争いは、資源や領土、主権をめぐる争いではない。自由主義体制と独裁体制との間の自由をめぐる戦いである。ワシントンに来て、それが身に染みてわかった。  ワシントンの街を歩く時、何も気にすることはない。上空を行きかう、おなじみの海兵隊のヘリコプターを撮影しても、誰も咎めることはない。ましてやシリアのように、逮捕、監禁されることもない。人々は誰をも気にすることもなく、自由に話し、行動している。  宿泊したホテルでたまたま私の部屋を掃除していたメードと話をする機会があった。訊くと、15年前にエチオピアから来たという。アメリカの暮らしはどうかと尋ねると、自由があって良いと言う。経済的な理由を挙げると思っていたら、真っ先に出た答えが自由だった。15年前のエチオピアというと、メンギスツ独裁政権が倒れた後にメレス・ゼナウィによる連邦共和制が樹立されて間もないころだ。改革開放がすすんでいたが、それでもなお国を捨てる決意までするほどに自由へのあこがれがあったのだろうか。しかしシリアの体験から私には、彼女の気持ちが少しだけわかる気がする。  人間にとって、最も重要なもの、かけがえのない価値とは、自由だ。豊かさは、自由を獲得する手段の一つでしかない。素晴らしい社会や国家とは、豊かであることよりも、皆が平等に自由を享受できる社会である。すべての価値の根源には自由がある。人は誰からも強制されることなく自らの生き方を決定する権利がある。先人の言葉を持ち出すまでもなく、人間は生まれついて自由である。人間は自由を求めて生きていくのである。働くことも、学ぶことも、窮極的には自由をできる限り獲得することにある。もちろん、その自由は他人の自由を侵すものであってはならない。独裁体制は、他者への配慮を欠いた一部の者による、多数の人々の自由の圧殺体制である。デモをもコントロールする現在の中国共産党体制はまさにその典型である。  中国にはデモをする行動の自由もなければ、ネットは規制され言論の自由もない。さらには都市戸籍と農村戸籍があり居住の自由もない。改革が進められているとはいえ、いまだに戸籍を変えようと思えば多額の賄賂がいる。シリアのように自由もなく賄賂が横行する国家が大国といえるのだろうか。ただ人口が多く、国土が大きいというだけではないか。その人口の多さを武器に経済でも、政治でも、ごり押しを重ねている。なぜ中国国民は自分たちを政治の手段や経済の道具としてしか見ない共産党に反旗を翻さないのか。最近の反日デモを見るにつけ、さらに反日デモが拡大して、反政府運動に拡大しないかと期待を膨らますばかりだ。  日中の対立で問われているのは、中国の独裁体制の悪であり、日本やアメリカなど自由主義陣営の自由の真価である。自由は決して金で売り買いできるものではない。中東で独裁体制への異議申し立てが次々と起こっている今、心ある中国国民には自由を求めて決起を促したい。自由の国アメリカに来て腹の底からそう思う

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