2012年8月30日木曜日
ダマスカス拘束120時間-秘密警察での48時間の拘束-
ダマスカス拘束120時間-秘密警察での48時間の拘束-
【拘束の顛末】
私がダマスカス郊外のプルマン・バスステーションで逮捕された時、逮捕した男は「セキュリティー・ポリス」と名乗っていた。シリアには警察「ショルタ」、秘密警察「ムハバラート」そして兵役中の軍人「アスカリ」が町の治安を保っているといわれる。私を逮捕したのは、その中のムハバラートすなわち秘密警察だと思われる。
逮捕されバスセンターないにあった事務症に連行され、人体尋問を受けた。これからどうなるのか問うと、ホテルに行く、というので、無罪放免になるとタカをくくっていた。しばらくすると、私を逮捕した係官が友達を呼ぶといって、電話を掛けていた。パスポートをホテルにおいてあったので、パスポートを確認するためにホテルまで私と同行するために車で送ってくれるのだろうと甘く考えていた。30分ほどすると、出川哲朗にそっくりな小太りの戦闘服姿の「友達」とAK47をもち防弾チョッキを着た神経質そうな男が現われた。そして私を小型のセダンに押し込み、バスセンターを後にした。車には若い運転手、そして助手席には「出川」、私は後部座席左側に乗せられ、右横には銃をもった男が乗り込んだ。バスセンターから15~20分くらい走ったろうか、明らかにホテルとは違う方向に向かっていた。近道なのかと思っていたら、連行された「ホテル」は秘密警察の収容施設だった。
秘密警察の収容、尋問施設というよりは拷問施設は、ダマスカス市内の住宅街の一角にあった。制服を着た兵士や民兵なのか私服姿の男たちがカラシニコフを手に警備し、施設に通ずる道路は何重にも封鎖されていた。表取りからは想像つかないような緊迫した雰囲気が漂っていた。
【収容所の概略】
施設そのものは、地上二階、地下一階の大きな邸宅のような建物であった。地上部分が事務所、そして地下が拘置施設になっていた。外部から直接、地下に続く階段があり、10段ほど降りたところには頑丈な鉄格子がはまっていた。中には二人の看守がカラシニコフを横に立てかけ椅子に陣取っていた。収容所の建物全体の床面積はせいぜい20メートル×30メートル程度ではなかったろうか。階段を降りて中に入ると、右手に鉄扉がはまった拷問室が四つ並びんで据えつけられており、左手には警官の宿泊施設や休憩所などがあった。私が放り込まれたのは、階段を降りて左手に行き、さらに左手に曲がった突き当たりにある拘置施設である。拘置施設に入る前はちょっとした炊事場となっており冷蔵庫、ガス台、流し台があった。その炊事場の奥に拘置施設があった。
この拘置施設は三つに分かれていた。入ってすぐ左手が独房、そして右側には幅1.2メートル長さ10メートル高さ3メートルの廊下が続き、その突き当たりに階段3段あがった踊り場があり、この踊り場の右手が雑居房である。私は、実はこの廊下の部分に拘置されていたのである。本来の拘置施設は独房と雑居房だけだと思われる。廊下には中古のコンピュータが何十台も積み上げられており、明らかに本来の拘置施設ではなかった。
独房、雑居房そして廊下にはそれぞれ別の拘置者が収容されていた。独房には中年の小太りの男性が拘置されていた。また雑居房には数十人もの「クリミナルズ」(私と同房の兵士の話による)が閉じ込められていた。一般犯罪ではなく、多分反政府勢力の政治犯罪あるいは治安犯罪の嫌疑をかけられた者たちではないか。
独房、雑居房それぞれに厳重に鍵がかけられていたが、私がいた廊下には炊事場に続く鉄扉しか扉はなく、しかも、その扉は閉められてはいたものの施錠はされていなかった。台所には一応見張り(常時みはりがいたわけではない)がいたものの、許可さえ得れば比較的自由に出入りができた。もっと台所を出たところには地下室と外部との出入り口になっているところに常時二人が見張っていたので、彼らの許可を得なければ、便所には行けなかった。水を汲んだりするために台所までは比較的自由に出入りができた。もっとも私は自由に出入りしていたわけではない。
台所までは比較的自由があったのには恐らく三つ理由がある。一つは、尋問官が雑居坊へ頻繁に出入りするために炊事場に通ずる出入り口の扉をしめるのが煩わしいこと、また廊下に収容されている拘置者が全員兵士で雑居房の拘置者とは扱いが違うこと、そして何よりも、仮に逃げ出そうとしても、地上に通ずる出口は一つしかなく、そこは常時銃を持った看守によって厳重に監視されており、事実上逃亡は無理だからだ。
【収容者の実態】
集団があるところには必ずリーダーがいる。牢屋ではいわゆる牢名主だ。秘密警察の拘置所にも牢名主がいた。炊事場をとおって扉を開け中に入るとすぐに牢名主のごとく陣取っていた髭もじゃの年寄りが目についた。彼が廊下に拘束されていた兵士たちのリーダーであった。一番年をとっているからなのか、それとも長く収容されているからなのか、リーダー的存在になったのではないかとずっと思っていた。二日目の夜に親しくなった若い男が収容者のことを話してくれた。それによると廊下に収容されているのは全員兵士だということだ。英語で説明してくれた若い男は軍曹だといっていた。彼によると、年寄りが一番階級が高く、どうやら陸軍の少尉のようだ。それで牢名主のような役割を果たしているようだ。話しによると、見た目よりも随分と若く五十歳前後ではないかと思う。他にも40歳代の中年の兵士が二人いた。彼らはいつも三人で入口近くに陣取っていた。食事も、彼ら三人は他の兵士とは別に食べていた。
この牢名主の采配で中に入り、開いた場所に座る。といっても、座る場所程度のスペースしかない。10人ほどの二十代から三十台前半の兵士が、コンクリートの床に毛布を引いただけの狭い廊下に寝たり、座り込んだりしていた。兵士の中には病気なのかと思ったほど寝汗を大量にかきながら眠り込んでいるものもいた。また雑談しているものもおり、思い思いに時間をつぶしていた。
廊下にはもちろんエアコンなどはない。廊下には、もちろん屋根も壁もあった。しかし、どうやら後で増築されたのではないかと思う。というのも、窓一つない科米の反対側、すなわち係官らが宿泊している部屋側には頑丈な鉄格子のはまった窓がとりつけられており、エアコンのダクトが部屋に引き込まれていたからである。明らかに建物があって、その後廊下にあたる部分に壁と屋根がつけられたような造りだったのである。係官らの宿泊している部屋にはエアコンがあり、いつもではなかったが、エアコンが運転されているのがダクトの音でわかった。
それに引き換え、外部に通ずるのは台所への出入り口一カ所がけという廊下はいつも空気が淀み、蒸し暑かった。そのため昼間はほとんど全員が上はシャツ一枚だ。夜はさすがに少し温度が下がり、床から伝わってくる冷たさで、中には上着を羽織る者もいた。私は空港の収容施設で服を着替えるまで、全くの着たきり雀状態だった。昼間はじっとしていても、汗が体からにじみ出て来る。外気が入らないから、空気が澱み、だんだん息苦しくなる。それよりも閉じ込められていると思うだけで、精神的に圧迫され、息が詰まる。
拘置所には犯罪者、軍人そして独房の一人と、三種類の留置人がいた。軍人は最も罪が軽いようで、他の留置人に比べて扱いが寛大だった。入り口の鉄扉は、半開きにしたままで、施錠はされなかった。寛大な代わりに、他の留置人の食事の面倒などを引き受けていた。(続く)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿