2012年5月5日土曜日
日本に憲法は無い
憲法は国民が国家に守らせるべき約束である。決してその逆ではない。なぜなら近代国家は社会契約に基づく国民と国家の契約によって成り立っており、憲法は国民に対する国家の契約、約束事だからである。したがって国民は国家がこの契約を守らない、守れないなど契約違反があった場合には、国民は国家との契約を見直す、すなわち憲法を改定する権利、時には武力をもってしても政府を交代させる権利、革命権を有する。だから各国とも憲法は時代に合わせて改訂している。
翻ってわが日本では憲法改定はきわめて困難である。なぜならわが国憲法とりわけ憲法9条は国家と国民との契約ではなく、むしろ日本国家、国民のアイデンティティーとなっているからである。日本国憲法は憲法ではない。あえてそれを憲法というのなら、「和を以て貴しと為す」という日本人のアイデンティティーである聖徳太子の一七条の憲法と同じである。日本の平和憲法は「世界遺産」だと評価する護憲派も、「押しつけ憲法」だと批判する改憲派もともに日本国憲法が成文の契約だと誤解している。日本には憲法、厳密には憲法9条は無い。あるのはアイデンティティーとしての憲法9条、「和を以て貴しと為す」との平和思想である。無いものを護ることも改めることもできない。
日本国憲法が日本人のアイデンティティーとなっていることを如実に現しているのが、沢田研二が歌う「我が窮状」であろう。どこの国に憲法を擬人化して、その「窮状」を訴える国家、国民があろうか。沢田研二だけではない。作曲家の外山雄三も憲法九条の曲をつくっている。彼以外にも憲法に関する曲は多くつくられており、なかにはベートベンの「第九交響曲」のもじりで「第九条交響曲」もある。九条だけではない。日本国憲法前文の歌まである。歌で驚いてはいけない。読経ならぬ憲法九条を念仏のごとく唱える「読九の会」、写経ならぬ写九の会まである。擬人化され、経典のごとくに扱われる憲法を憲法と呼んでいいのか。憲法は国家と国民の契約という近代国民国家の常識は、こと日本においては全く通用しない。近代国家の常識から言えば、日本は全くの無憲法状況なのである。この自覚こそが、護憲派にも改憲派にも求められる。
無憲法状況だからこそ、護憲派が懸念するように、状況に応じて日本国は自衛隊も持てば、その自衛隊も海外に派遣されるのである。憲法九条は「和を以て貴しと為す」に連なる日本人のアイデンティティーである。であればこそ、護憲派にはその実践が求められる。その実践とは国内で歌ったり、踊ったり、唱えたり、改憲反対のデモをしたりすることではない。憲法前文や憲法9条の実践である。たとえば自衛隊に代わり「憲法九条部隊」を編成して海外で紛争を非暴力で解決する実践活動である。その実践を通して憲法9条の精神すなわち日本人のアイデンティティーを広く国外で理解してもらい、日本の平和を護るのである。国内外でいくら憲法9条を主張しても、紛争解決の実践がなければ、偽善にしかすぎない。
他方改憲派も自主憲法制定や改憲など諦めたほうがよい。前述したように憲法九条は国家と国民の間に交わされた契約ではない。憲法九条をすなおに読めば(憲法は国民と国家の契約だから最大多数の国民が理解できるように、その内容は義務教育を終えた国民、最近の言葉で言えばB層の一般大衆が理解できるレベルでなければならない。憲法学者の解釈は憲法学や自らの権威のための解釈でしかない)、自衛隊は違憲であり自衛権も放棄している。
ただし、ホッブズがいうように、国民を守らないという契約は無効である。したがって、武力も自衛権も放棄するという憲法を持った国家は、社会契約説に基づく近代国民国家ではない。もっとも武力以外で国民を護るという契約はありうるという反論が聞こえそうだが、それは国家が暴力の排他的独占主体であるという国家の本質そのものに反しており、武力以外で国民を守るという契約はありえない。国家は対外的脅威だけでなく、国民間の暴力を武力で制約しなければならず、対外的には軍事力は行使しないが、対内的には警察力を行使するというのは論理矛盾である。軍事力も、警察力も国家の暴力であることにはかわりはない。だからもし改憲派が懸念するように外敵の脅威が心配なら、カントも提唱している民兵組織を創設すべきである。憲法九条は国家の武装は禁じているが、個人の武装は禁じていない。国民有志が武装して国土防衛に徹する民兵部隊をつくることの方が、事実上実現不可能な改憲運動をするよりはよほど現実的である。
毎年五月になると護憲、改憲の声が喧しい。もはや年中行事であって、内容空疎な議論が繰り返されている。護憲派が主張するように、護憲運動があったから憲法が護られてきたわけではない。憲法九条を護ったのは、皮肉にも憲法九条が否定する日米安全保障体制である。また改憲派が主張するように、米国から憲法を押しつけられたわけではない。実質的にはともかく形式的には国会で承認したのである。承認する代わりに日米安全保障体制の下で安全保障よりも経済発展を優先させたのである。いまさら憲法押しつけ論を主張するのは対米信義に悖る。いずれにせよ戦後一貫して日本には近代国民国家でいうところの憲法はなかった。あったのは日本人のアイデンティティーとしての憲法と、実質的に憲法9条を運用、解釈した米国の対日政策だけである。
さて護憲派、改憲派ともに考えなければならないのは、「国民国家というビッグ・ブラザーが壊死し、リトル・ピープルの時代」(宇野常寛『リトル・ピープルの時代』)となった現状をどのように考えるかである。憲法は国家と国民の約束である。その国家が壊死した現状では国民は国家と約束することはできない。つまり憲法は実質意味をなさず、国民は無憲法状況に置かれる。無憲法状況に置かれる国民は国民足り得ず、リトル・ピープルすなわちホッブズのマルチチュードに解体していくしかない。改憲派、護憲派の運動はそのベクトルは逆向きでも、結局は国家というビッグ・ブラザーの再生を求めた運動でしかない。
今われわれに求められているのは、国家との約束である憲法の護憲、改憲の問題ではなく、リトル・ピープル同士の契約をいかに結ぶかという問題である。「神無き地上において秩序は如何に可能か」というホッブズの問いかけをもう一度考えるところからしか、憲法問題の解決はありえない。
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