2012年5月4日金曜日

村上春樹とホッブズ

遅ればせながら村上春樹の『1Q84』ブック1を読んだ。本筋とは関係ないが、天吾と編集者小松のやりとりから村上春樹がどのように小説を書いているか、その一端がわかった。それにしても微に入り細を穿った過剰なまでの性描写がへきへきするくらい多い。私は小説家にはなれそうにもない。  ところで、ブック1ではリトル・ピープルの存在が暗示される。1Q84がオーウェルの『1984』のもじりであるところから、リトル・ピープルがビッグ・ブラザーの対意語であることは容易にわかる。このリトル・ピープルを手がかりに村上春樹を評論しているのが宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』である。  一年前に話題になったこの本を発売と同時に買って読んだが、その時は『1Q84』を読んでいなかったので、あまり理解できず、途中で投げ出してしまった。しかし、ブック1を読んでから再度読み直してみるとリトル・ピープルの時代という宇野の問題意識が今度ははっきりとわかった。国家というビッグ・ブラザーや共産主義、革命といった大きな物語が終焉した後の時代にわれわれは生きている、そこにいるのは個々人に解体されたリトル・ピープルであり、物語の無い、暴力の横溢する時代だ、というのが村上春樹に対する宇野の評論である。宇野によれば、村上は1970年代の小説執筆当時から、こうした問題意識を秘めながら小説を展開していったという。  ビッグ・ブラザーに対するリトル・ピープルという村上春樹の問題設定は、なんのことは無い、ホッブズが描いたリヴァイアサンに対するマルチチュードに他ならない。つまり宇野の云うリトル・ピープルの時代とは国家が解体した後の「自然状態」ということだ。そこでは暴力はビッグ・ブラザーすなわち国家同士の国家間戦争ではなく、リトル・ブラザーすなわち個人や共同体同士のテロや暴力という形で表出してくる。だから村上は連合赤軍やオウム真理教を下敷きにしながら、1Q84を執筆したのだろう。  今われわれは国家や共産主義という大きな物語を語ることができない。国家や革命に自らのアイデンティティーを仮託することはもはや不可能な時代となった。だからこそ、宇野も論評するように、80年代にオカルト・ブームが訪れたのである。しかし、ホッブズが指摘するように、マルチチュードは自然状態のつらくて苦しい生活から逃れようとみずからの権利を一人の人間に譲渡し国家をつくったのである。全く同じ理由からオウム真理教に集まったリトル・ピープルは麻原彰晃に全てを委ねて擬似国家を作ろうとしたのである。  ホッブズは「聖俗分離」の宗教改革や宗教戦争後の「神無き時代」という当時のヨーロッパにあっては絶望的な時代に、何をもって秩序の形成は可能かということを考えた。そして彼が得た結論は、マルチチュードの絶望と恐怖を国家というリヴァイアサンによって救うという方法だった。たしかにマルチチュードは国民となりリヴァイアサンの王国にいる限り外敵の脅威からも国内の国民同士の暴力からも安全であった。ところが、ホッブズが思い至らなかったのは、リヴァイアサン同士が戦うという国際社会における自然状態であった。結論を言えば、リヴァイアサンの戦いはアメリカというリヴァイアサンの勝利に終わった。その時、リヴァイアサンの戦いという大きな物語が終わった。 では、世界にはアメリカというリヴァイアサンだけが生き残っているのか。そうではない。リヴァイアサンはライバルであるリヴァイアサンがいてこそリヴァイアサン足り得るのである。ライバルを失ったリヴァイアサンは外敵から国民を守るというリヴァイアサンとしての存在意義を失ってしまった。またアメリカというリヴァイアサンがグローバルに拡大したためにリヴァイアサン内部の国民同士の暴力を管理するという役割がみずからの手に負えないほどに拡大した。アフガン、イラクにおける対テロ戦争で明らかなように、アメリカも管理不能な状況になりリヴァイアサンの力を失ってしまった。つまりわれわれはグローバルな自然状態の時代に今、生きているのである。 村上春樹の問題意識は、多くの人々が共有する。最近ではネグリとハートの『<帝国>』はまさにその代表であろう。自惚れを許してもらえるなら、私は80年代から一貫してリトル・ピープルの叛乱であるテロとその時代背景を追いつづけてきた。そして結論は、ホッブズが問いかけた問題すなわち「神無き地上における秩序は如何にして可能か」というホッブズ問題の解決にあるということである。 ホッブズは神に代わって「国家」という地上における「神」を創造し、この問題を解決しようとした。しかし、その地上の「神」も死んだ。今再びわれわれは自然状態の中に暮らしている。しかもそれはホッブズの時代と違ってヨーロッパにとどまらない。全地球に広がっている。そこにわれわれはリトル・ピープルとして今暮らしているのである。 この問題を解決するには連合赤軍のように共産主義という物語を実現することでもなければ、オウム真理教のように再び地上における「神」を創造することでもない。また反米主義や反自由主義といった存在もしない亡霊と戦うことでもない。こうした外部に敵をつくる方法で秩序を形成することはできない。自然状態では、もはや外部に敵はいない。村上春樹が描くように、自らの暴力性を自覚し、それを自制してこそ秩序が形成される。

0 件のコメント:

コメントを投稿