2012年5月19日土曜日

電力不足は生き方の選択だ

関西電力が資料を出さない、出してきた数字は信用できないなどとたたきにたたかれている。関西電力(および経済産業省。以下同じ)の意図は明々白々である。何としても原発を再稼働させたい、ということである。今朝(5月17日)のテレビ朝日で放映していたが、小型の火力発電装置を大量(リースできるとのこと)に使用すれば、実は関西電力の云う不足分の電力は補えるというのだ。それよりも原発が動かなくなることを見越して昨年から製造を発注していれば電力不足騒動など起きなかったはずだ、とも云う。にも関わらず、関西電力がなぜ準備しなかったかといえば、原発を再稼働させたかったからだ。 もし電力不足に備えて昨年から準備していれば、原発を再稼働させなくても電力が足りる。そうなれば、国民世論は間違いなく原発の再稼働を認めず、日本全国の原発は全て一気に廃炉ということになりかねない。このことが電力会社のみならず日本の産業や社会に与える影響はきわめて大きい。 あらかじめ、私の立場を明らかにしておくが、以前にも小ブログで記したように、私は脱原発派である。なぜなら、技術者がいなくなる前に原発を廃炉にしなければならないからである。これほどの電力会社に対するバッシングの中で、ましてや反原発世論の中で、一体誰があらためて原発技術者になりたいと思うだろうか。原発の研究者を目指して大学に入りたいなどと思う若者がいるだろうか。また電力会社が独自で養成してきた原発の技術者がこれからもずっと電力会社で働き続けていくであろうか。優秀な研究者、技術者ならさっさと見切りを付けて外国の原発会社で働くことを選択するだろう。なにも嫌われながら、蔑視を浴びながら会社や日本のために働こうなどと考える奇特な人はそんなにいないだろう。2011年度に東電を依願退職した人数は460人と平年の3.5倍に上るという。恐らく今後はその数はますます増えるだろう。給与カット、リストラ、社会からの蔑視、差別等で転職できる、つまりは優秀な社員は次々と止めていくだろう。だからこそ技術者がいなくなる前に廃炉の方法を確立しておかなければならない。さもなければ、やがてはフチンスやアメリカなど外国の会社から技術者(その中には元日本の原発技術者もふくまれるようになるかもしれない)を雇って、日本の原発の管理をしてもらわなければならなくなるだろう。 さて全ての原発を廃炉にした場合、電力会社の経済的負担がどのくらいになるのか素人には見当もつかない。これまで原発に投資した資金は全てむだになる。また建設中の原子炉、ほとんど使用しない原子炉も含めて廃炉にかかる費用がどれだけの金額になるのか。原発の代わりに新たに火力発電所(小型の発電装置かもしれない)の建設が必要になる。再生可能エネルギーは遠い将来の話しであって、現時点では原発の代わりにはならない。またどう考えても再生可能エネルギーに補助金を付けて、さらに高額で買い取る制度は、太陽光発電などに投資できない大多数の貧困層には不公平である。補助金は税金で、余剰電気の買い取りは電気料金で負担するなど、消費税増税よりもはるかに不公平で、正気の沙汰とは思えない。再生可能エネルギーの問題に加えて、代替の火力発電にもいくつかの問題がある。 第一は、石油をはじめ天然ガスやシェール・ガス等を外国から輸入しなければならないが、そのコストを一体誰が、どのようにして負担するのか。 一部の人からは、シェール・ガスや天然ガスは産出量が増えているから安く買えるという楽観論がある。この議論には盲点がある。つまり日本に大量のエネルギーを買う外貨があれば、ということである。つまり、今後廃炉や火力発電への転換で電気料金は間違いなく上がる。となれば、高い電気料金を嫌って、国外に製造業が移転する可能性が高い。となれば、日本の経済力は低下し、外貨をこれまでのように稼ぐことができなくなり、結果、いかに石油や天然ガスの価格が低下しても、十分な量のエネルギーを輸入できなくなる恐れがある。 第二は、地球温暖化問題をどうするのか。脱原発派からは山本太郎のように、フクシマの惨状を見れば、外国も日本のCO2削減も猶予してもらえるはずだ、との甘ったれた予測をする者もいる。2011年に南アフリカで開かれたCOP17で京都議定書の延長参加を拒否した日本は削減に後ろ向きだということで化石賞を受賞するほどに非難の対象となったのだ。また広瀬隆のように、そもそも温暖化などない、という脱原発派もいる。そうは言っても、いまさら温暖化はないなどと国際政治の中では通用しない。温暖化は科学の議論ではなく政治の問題だからだ。 いかに天然ガスやシェール・ガスのCO2排出量が石油より少なくても、排出することは間違いない。では2020年までに25%を削減するという日本の国際公約をどうするのか。前環境事務次官の小林光は25%を堅持し、省エネ、新技術の開発で達成すべきだという。他方、元経済産業省で、日本経団連のシンクタンク「21世紀政策研究所」研究主幹の澤昭裕氏は「25%削減を省エネだけで達成するのは無理」という。小林氏の予測があたることを祈るが、最悪の場合、25%の削減量を達成できない場合には排出取引で外国から排出権を買うことになるのだろうか。その額は一体どれほどになるのだろうか。 脱原発に舵を切っても、当面火力に頼らなければならない現状では、脱原発派が期待するほど将来は明るくない。技術力、経済力の低下は生活レベルの低下すなわち貧困をもたらす。結果的に医療、福祉の低下から寿命は確実に短くなるだろう。だからといって原発再稼働も、たとえいかに安全性を強調されても再び事故が起これば、国家としては二度と立ち上がれないほどの危険性を孕んでいる。脱原発、原発再稼働、いずれを選択してもバラ色の未来はない。昔、環境問題が話題になるたびに、訊かれた選択肢と同じである。青空の下でのにぎり飯か、スモッグの下でのステーキか。関西電力の問題の本質は、日本人の生き方の選択である。電力不足などではない。

2012年5月14日月曜日

技術「大国」日本の現実

今日(2112年5月13日)興味深い記事が『朝日新聞』に掲載された。半導体製造装置で日本勢がオランダの会社に遅れをとっているという内容だ。80年代には日本の独壇場だった半導体や半導体製造装置で今では海外勢に売り上げで大きく水をあけられているという。うかつにも、円高や人件費の高騰など経済環境の悪化が日本の半導体産業を弱体化させているとばかり思っていたが、そうではなかった。日本は技術で完敗したのだ。 半導体の露光装置ではかつてはニコンとキャノンが世界の7割に達していたが、現在はオランダのASLMが8割を占めているという。たまたま今日テレビ東京で日本のモノヅクリの特集をしていたが、その中でニコンのレンズ造りの達人を紹介していた。しかし、そのレンズが使われる露光装置ですでにニコンは経営戦略上の大きな判断ミスを犯して、せっかくの達人の技術も十分にいかせていないことがわかった。 ちなみにモノヅクリという言葉が人口に膾炙しはじめたのはここ15年のことらしい。つまり日本がデフレを脱却できず、経済でじり貧状況に陥った時に、経済力に代わる日本の新たなアイデンティティーとして技術力が叫ばれたのだろう。 たしかに日本は依然として素材技術力、部品技術力はあるのだろう。しかし、統合的な技術力は、新しいモノを生み出す創造的な技術力はあるのだろうか。以前にも記したが、その象徴はやはりソニーだ。ソニーはウォークマンで音楽文化を変えるほどの衝撃を与えた。それは技術力ではなく企画力だった。同じように技術力ではなく企画力で成長したのがアップルだ。アップルの基本技術はほとんど既存の他社の技術だ。それをうまく一つにまとめる企画力こそ、故スティーブ・ジョブズの卓越した能力だ。本当ならソニーこそがiPodやiPhoneを開発していなければならなかった。 しかし、ソニーはウォークマン以後、ジャンクな製品しか生み出していない。外国人社長を雇ったのがまちがいだったのかもしれない。一体ソニーは何の会社なのだろうか。昔、日本の三大虚業と言われたのがソニー、サントリー、西部デパートだった。バブルの頃これらの会社は夢ばかりを売っていた。その西部デパートは衰退し、ソニーもまた凋落の一途である。唯一サントリーだけが、ビールやウィスキーで一息ついている。 技術力はたしかに必要だ。その一方で新しい世界や社会を創り出す企画力が何よりも重要だ。サンリオのキティーを見習って、ソフトパワーに力を入れるべきだろう。かつて日本が米国の技術力を打ち負かし自動車産業を興隆させたように、今ではテレビ、家電製品で韓国、中国が日本を追い上げている。こうした分野での技術力競争よりもアップルのような企画力に秀でた会社をたちあげる必要があるだろう。技術大国日本というのは単なる日本人の思い上がりにすぎないかもしれない。

2012年5月6日日曜日

日本の原発が全て止まった

日本の原発が全て止まった。止まったからといって停電がすぐに起こるわけではないので、ほとんどの人がまだ電気は足りていると思っているらしい。 電力問題を考える時に混乱するのは、足りている、不足しているという日常感覚が通用しないことだ。日常生活に関わる物資のほとんど全てが、時を越えて、あるいは無視して蓄えることができるものだ。つまり時間という要素が無視できる。だから備蓄すればたいていの場合解決する。それと同じ感覚で電力不足問題を議論している場合が多い。実際には、電力が余っているといっても、それを貯蔵することは、揚水発電のように重力エネルギーとしてエネルギーを水に変換して貯蔵する以外に実用的に有効な方法はない。 電力が余っているということは、需要予測に基づいて供給能力が上回っているということであって、電気が貯蔵されて余っているわけではない。この需要予測が不確かで、不足派は需要予測を高めに見積もり、充足派は低めに予測する傾向がある。今は不足派の電力会社や政府の信用が失墜しているので、電力は余っているという充足派が優勢だ。しかし、両者とも天候等の自然要因や社会、経済活動などの人為要因など多くの不確定要素に依拠しており、どちらか一方が正しいと断定することはできない。 実際、専門家の予測ほど当てにならぬものはないというのが今回の大震災の一般人の教訓だったから、不足派、充足派のいずれの専門家も不信感でしか見られていない。これがなによりも大きな問題だろう。予想がはずれたからといって責任をとった専門家、研究者、学者など東日本大震災でも聞いたことが無い。電力不足問題は人の生死に直結する問題である。はずれた場合の責任のとり方を明確にした上で、不足派、充足派のいずれの専門家も需要予測をすべきではないか。 電力需給は逼迫しているが節電で乗り切れるという説も根強い。しかし、昨年の夏に節電をして、相当程度節電は進んでおり、素人判断でも、これからさらに節電をするのは相当厳しいのではないか。だからだろう、九州電力がピーク時の節電を促すために、一般家庭を対象に時間別料金制の実証実験に入るという。アホなコメンテーターが「よいことだ」と推奨していたが、基本的に貧乏人は暑くても冷房は使うなということだ。時間別料金制が本格導入されれば、生活保護世帯や年金暮らしの高齢者など貧乏人に熱中症で死亡する人が続出するだろう。時間別料金制は、高齢者や病人をさっさとあの世に送って年金や医療保険問題を解決しようとする政府の陰謀ではないかと思う。 また環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長は、節電の方法の一つとして契約アンペア数の引き下げを提言している。「たとえば、60アンペアなら50アンペアに、50アンペアなら40アンペアに、といった具合である。引き下げ効果の歩留まりが50%と仮定すれば、合計で約2500万kWある家庭・小口の最大電力量に対して、約250万kW引き下げることができる」。まったくその通りである。本ブログでも以前提案したことがある。 しかし、これは家庭の電力使用に20%の無駄、もくしは削りしろがあることが前提である。実際には20%カットすれば、ほとんどの家庭で日常生活に大きな不便をきたす。たとえば普通のマンションでは40アンペアが普通である。オール電化の高級マンションになれば50、60アンペアはあたりまえだろう。各家庭は、契約アンペア数を前提にして通常電化製品を購入している。というよりも、普通よほどのことが無い限り、契約アンペア数など気にせず電化製品を使用している家庭がほとんどのはずだ。結果、契約アンペア数ギリギリになっている家庭が多いのではないか。 ちなみに40アンペアだと、省エネ型であってもエアコン二台、掃除機、電子レンジを使用すると、他の照明器具、テレビを含めて、まずブレーカーが落ちる。30アンペアにするとエアコンを二台使うのはほぼ無理である。一旦契約アンペア数での生活になれてしまうと、そこから20パーセントカットするのは面倒このうえない。常に電化製品のアンペア数を計算しながら生活しなければならなくなる。 以前、林真理子がエッセーで、実家のアンペア数が低くて、二部屋それぞれについているエアコンを二台同時に使えない不便さを嘆いていた。こうした不便に一般家庭の人がどれほど耐え忍べるかが節電の鍵となる。だから50パーセントの人しかアンペア数は引き下げないと飯田氏は判断したのだろうが、50パーセントの根拠は全く無い。電力会社にわざわざきてもらって室内工事をしてまで契約アンペア数を引き下げようとする人がいるだろうか。ましてやそれを強制的に行うことは尚更むずかしいだろう。 電力不足問題が起きる三年前に、私は契約アンペア数を40から50に引き揚げた。独り暮らしでなぜ引き揚げが必要かといえば、猛暑や厳冬時にエアコンを二台使用したところ、オーブンレンジや照明を付けただけで、ブレーカーが落ちてしまい、パソコンのデータが消失するという苦い経験が続いたからである。冷蔵庫、ウォシュレット、テレビ、ビデオ等の待機電力も馬鹿にならない。だから、まさかの時に備えて、契約アンペア数は変更しないほうがいいという専門家もいる。 結局のところ、不足派も充足派も議論の中心が電力の不足、充足にある限り、電力問題は解決しない。電力問題は結局のところ、わが国の国の有り様、エネルギーをどうするかという問題だからである。飯田哲也氏が日本の電力需要はここ10年減少していると主張している。それはそうだろう。デフレで経済活動が停滞すれば電力需要も低迷する。経済活動が上昇する中で電力需要が減少するのならそれはすばらしいことである。しかし、人口も減り生産活動も海外に移れば、電力需要が減少することは素人にもわかることだ。省エネをいくらしても経済活動を拡大しGDPを引き揚げようとすれば、エネルギー消費量が増えるのは当然である。それが証拠に、1974年のオイルショック以降日本では世界で最も省エネが進んだ国だったが、電力消費は右肩あがりである。 問題は、日本は将来も経済活動を今後も活発化させていくのか、究極のところ再生可能エネルギーだけに依拠していた農業時代に戻りブータン化していくか。電力不足問題が問うているのは、わが国の将来である。

2012年5月5日土曜日

日本に憲法は無い

憲法は国民が国家に守らせるべき約束である。決してその逆ではない。なぜなら近代国家は社会契約に基づく国民と国家の契約によって成り立っており、憲法は国民に対する国家の契約、約束事だからである。したがって国民は国家がこの契約を守らない、守れないなど契約違反があった場合には、国民は国家との契約を見直す、すなわち憲法を改定する権利、時には武力をもってしても政府を交代させる権利、革命権を有する。だから各国とも憲法は時代に合わせて改訂している。 翻ってわが日本では憲法改定はきわめて困難である。なぜならわが国憲法とりわけ憲法9条は国家と国民との契約ではなく、むしろ日本国家、国民のアイデンティティーとなっているからである。日本国憲法は憲法ではない。あえてそれを憲法というのなら、「和を以て貴しと為す」という日本人のアイデンティティーである聖徳太子の一七条の憲法と同じである。日本の平和憲法は「世界遺産」だと評価する護憲派も、「押しつけ憲法」だと批判する改憲派もともに日本国憲法が成文の契約だと誤解している。日本には憲法、厳密には憲法9条は無い。あるのはアイデンティティーとしての憲法9条、「和を以て貴しと為す」との平和思想である。無いものを護ることも改めることもできない。 日本国憲法が日本人のアイデンティティーとなっていることを如実に現しているのが、沢田研二が歌う「我が窮状」であろう。どこの国に憲法を擬人化して、その「窮状」を訴える国家、国民があろうか。沢田研二だけではない。作曲家の外山雄三も憲法九条の曲をつくっている。彼以外にも憲法に関する曲は多くつくられており、なかにはベートベンの「第九交響曲」のもじりで「第九条交響曲」もある。九条だけではない。日本国憲法前文の歌まである。歌で驚いてはいけない。読経ならぬ憲法九条を念仏のごとく唱える「読九の会」、写経ならぬ写九の会まである。擬人化され、経典のごとくに扱われる憲法を憲法と呼んでいいのか。憲法は国家と国民の契約という近代国民国家の常識は、こと日本においては全く通用しない。近代国家の常識から言えば、日本は全くの無憲法状況なのである。この自覚こそが、護憲派にも改憲派にも求められる。 無憲法状況だからこそ、護憲派が懸念するように、状況に応じて日本国は自衛隊も持てば、その自衛隊も海外に派遣されるのである。憲法九条は「和を以て貴しと為す」に連なる日本人のアイデンティティーである。であればこそ、護憲派にはその実践が求められる。その実践とは国内で歌ったり、踊ったり、唱えたり、改憲反対のデモをしたりすることではない。憲法前文や憲法9条の実践である。たとえば自衛隊に代わり「憲法九条部隊」を編成して海外で紛争を非暴力で解決する実践活動である。その実践を通して憲法9条の精神すなわち日本人のアイデンティティーを広く国外で理解してもらい、日本の平和を護るのである。国内外でいくら憲法9条を主張しても、紛争解決の実践がなければ、偽善にしかすぎない。 他方改憲派も自主憲法制定や改憲など諦めたほうがよい。前述したように憲法九条は国家と国民の間に交わされた契約ではない。憲法九条をすなおに読めば(憲法は国民と国家の契約だから最大多数の国民が理解できるように、その内容は義務教育を終えた国民、最近の言葉で言えばB層の一般大衆が理解できるレベルでなければならない。憲法学者の解釈は憲法学や自らの権威のための解釈でしかない)、自衛隊は違憲であり自衛権も放棄している。 ただし、ホッブズがいうように、国民を守らないという契約は無効である。したがって、武力も自衛権も放棄するという憲法を持った国家は、社会契約説に基づく近代国民国家ではない。もっとも武力以外で国民を護るという契約はありうるという反論が聞こえそうだが、それは国家が暴力の排他的独占主体であるという国家の本質そのものに反しており、武力以外で国民を守るという契約はありえない。国家は対外的脅威だけでなく、国民間の暴力を武力で制約しなければならず、対外的には軍事力は行使しないが、対内的には警察力を行使するというのは論理矛盾である。軍事力も、警察力も国家の暴力であることにはかわりはない。だからもし改憲派が懸念するように外敵の脅威が心配なら、カントも提唱している民兵組織を創設すべきである。憲法九条は国家の武装は禁じているが、個人の武装は禁じていない。国民有志が武装して国土防衛に徹する民兵部隊をつくることの方が、事実上実現不可能な改憲運動をするよりはよほど現実的である。 毎年五月になると護憲、改憲の声が喧しい。もはや年中行事であって、内容空疎な議論が繰り返されている。護憲派が主張するように、護憲運動があったから憲法が護られてきたわけではない。憲法九条を護ったのは、皮肉にも憲法九条が否定する日米安全保障体制である。また改憲派が主張するように、米国から憲法を押しつけられたわけではない。実質的にはともかく形式的には国会で承認したのである。承認する代わりに日米安全保障体制の下で安全保障よりも経済発展を優先させたのである。いまさら憲法押しつけ論を主張するのは対米信義に悖る。いずれにせよ戦後一貫して日本には近代国民国家でいうところの憲法はなかった。あったのは日本人のアイデンティティーとしての憲法と、実質的に憲法9条を運用、解釈した米国の対日政策だけである。 さて護憲派、改憲派ともに考えなければならないのは、「国民国家というビッグ・ブラザーが壊死し、リトル・ピープルの時代」(宇野常寛『リトル・ピープルの時代』)となった現状をどのように考えるかである。憲法は国家と国民の約束である。その国家が壊死した現状では国民は国家と約束することはできない。つまり憲法は実質意味をなさず、国民は無憲法状況に置かれる。無憲法状況に置かれる国民は国民足り得ず、リトル・ピープルすなわちホッブズのマルチチュードに解体していくしかない。改憲派、護憲派の運動はそのベクトルは逆向きでも、結局は国家というビッグ・ブラザーの再生を求めた運動でしかない。 今われわれに求められているのは、国家との約束である憲法の護憲、改憲の問題ではなく、リトル・ピープル同士の契約をいかに結ぶかという問題である。「神無き地上において秩序は如何に可能か」というホッブズの問いかけをもう一度考えるところからしか、憲法問題の解決はありえない。

2012年5月4日金曜日

村上春樹とホッブズ

遅ればせながら村上春樹の『1Q84』ブック1を読んだ。本筋とは関係ないが、天吾と編集者小松のやりとりから村上春樹がどのように小説を書いているか、その一端がわかった。それにしても微に入り細を穿った過剰なまでの性描写がへきへきするくらい多い。私は小説家にはなれそうにもない。  ところで、ブック1ではリトル・ピープルの存在が暗示される。1Q84がオーウェルの『1984』のもじりであるところから、リトル・ピープルがビッグ・ブラザーの対意語であることは容易にわかる。このリトル・ピープルを手がかりに村上春樹を評論しているのが宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』である。  一年前に話題になったこの本を発売と同時に買って読んだが、その時は『1Q84』を読んでいなかったので、あまり理解できず、途中で投げ出してしまった。しかし、ブック1を読んでから再度読み直してみるとリトル・ピープルの時代という宇野の問題意識が今度ははっきりとわかった。国家というビッグ・ブラザーや共産主義、革命といった大きな物語が終焉した後の時代にわれわれは生きている、そこにいるのは個々人に解体されたリトル・ピープルであり、物語の無い、暴力の横溢する時代だ、というのが村上春樹に対する宇野の評論である。宇野によれば、村上は1970年代の小説執筆当時から、こうした問題意識を秘めながら小説を展開していったという。  ビッグ・ブラザーに対するリトル・ピープルという村上春樹の問題設定は、なんのことは無い、ホッブズが描いたリヴァイアサンに対するマルチチュードに他ならない。つまり宇野の云うリトル・ピープルの時代とは国家が解体した後の「自然状態」ということだ。そこでは暴力はビッグ・ブラザーすなわち国家同士の国家間戦争ではなく、リトル・ブラザーすなわち個人や共同体同士のテロや暴力という形で表出してくる。だから村上は連合赤軍やオウム真理教を下敷きにしながら、1Q84を執筆したのだろう。  今われわれは国家や共産主義という大きな物語を語ることができない。国家や革命に自らのアイデンティティーを仮託することはもはや不可能な時代となった。だからこそ、宇野も論評するように、80年代にオカルト・ブームが訪れたのである。しかし、ホッブズが指摘するように、マルチチュードは自然状態のつらくて苦しい生活から逃れようとみずからの権利を一人の人間に譲渡し国家をつくったのである。全く同じ理由からオウム真理教に集まったリトル・ピープルは麻原彰晃に全てを委ねて擬似国家を作ろうとしたのである。  ホッブズは「聖俗分離」の宗教改革や宗教戦争後の「神無き時代」という当時のヨーロッパにあっては絶望的な時代に、何をもって秩序の形成は可能かということを考えた。そして彼が得た結論は、マルチチュードの絶望と恐怖を国家というリヴァイアサンによって救うという方法だった。たしかにマルチチュードは国民となりリヴァイアサンの王国にいる限り外敵の脅威からも国内の国民同士の暴力からも安全であった。ところが、ホッブズが思い至らなかったのは、リヴァイアサン同士が戦うという国際社会における自然状態であった。結論を言えば、リヴァイアサンの戦いはアメリカというリヴァイアサンの勝利に終わった。その時、リヴァイアサンの戦いという大きな物語が終わった。 では、世界にはアメリカというリヴァイアサンだけが生き残っているのか。そうではない。リヴァイアサンはライバルであるリヴァイアサンがいてこそリヴァイアサン足り得るのである。ライバルを失ったリヴァイアサンは外敵から国民を守るというリヴァイアサンとしての存在意義を失ってしまった。またアメリカというリヴァイアサンがグローバルに拡大したためにリヴァイアサン内部の国民同士の暴力を管理するという役割がみずからの手に負えないほどに拡大した。アフガン、イラクにおける対テロ戦争で明らかなように、アメリカも管理不能な状況になりリヴァイアサンの力を失ってしまった。つまりわれわれはグローバルな自然状態の時代に今、生きているのである。 村上春樹の問題意識は、多くの人々が共有する。最近ではネグリとハートの『<帝国>』はまさにその代表であろう。自惚れを許してもらえるなら、私は80年代から一貫してリトル・ピープルの叛乱であるテロとその時代背景を追いつづけてきた。そして結論は、ホッブズが問いかけた問題すなわち「神無き地上における秩序は如何にして可能か」というホッブズ問題の解決にあるということである。 ホッブズは神に代わって「国家」という地上における「神」を創造し、この問題を解決しようとした。しかし、その地上の「神」も死んだ。今再びわれわれは自然状態の中に暮らしている。しかもそれはホッブズの時代と違ってヨーロッパにとどまらない。全地球に広がっている。そこにわれわれはリトル・ピープルとして今暮らしているのである。 この問題を解決するには連合赤軍のように共産主義という物語を実現することでもなければ、オウム真理教のように再び地上における「神」を創造することでもない。また反米主義や反自由主義といった存在もしない亡霊と戦うことでもない。こうした外部に敵をつくる方法で秩序を形成することはできない。自然状態では、もはや外部に敵はいない。村上春樹が描くように、自らの暴力性を自覚し、それを自制してこそ秩序が形成される。

2012年5月3日木曜日

チアダンス優勝に見る日米文化の融合

大学で顧問をしているソングリーディング部クリームが、4月28、29日の両日フロリダ州オーランドにあるディズニー・ワールドのエプコット・センターで開催されたIASF(International All Star Federation)&USASF(United States All Star Federation) 主催のチアダンス世界大会のオープン・ジャズ部門で世界チャンピオンになった。これまで2008年、2009年、2010年(2011年は大震災の影響で出場を断念)と3回続けて2位と、シルバー・コレクターだった。しかし、四度目の正直で、ついに今年、永年の宿敵カリフォルニアのダンス・カンパニー「ペース・エリート」を打ち破り念願の優勝を果たした。この大会の前にやはりディズニー・ワールドのスポーツ・センターで開催されたICU(International Cheer Union) 主催の2012年World Cheerleading Championshipsではペース・エリートに僅差で破れ、2位に甘んじた。その悔しさをバネにシルバー・コレクターの名を跳ね返すべく、21人の学生が頑張った結果、初の優勝を獲得できた。 両大会について簡単に触れておく。前者のIASF&USASF主催のチアダンス世界大会は、世界中から集まったダンス・チームが部門別にその技を競う大会である。中心はやはりチアダンスが普及している米国、メキシコ、カナダ等北米、南米のダンス・チームが中心である。他方、ICU主催の大会は各国から部門毎に選抜されたダンス・チームが参加する大会である。日本からは桜美林がOpen Jazz部門、ダンス・チームPLANETSがOpen Pomに、ダンス・チームDSF BrilliantsがOpen Coed Hip Hop等に参加した。参加国は世界数十ヶ国に及ぶ。しかし、各国のダンスのレベルにはかなりの差がある。オリンピックと同じで、参加することに意義があるとしか思えない国のチームもあった。実質的には、前者の大会が事実上の世界チャンピオンを決める大会となる。 両大会を通じて日本チームはめざましい活躍を果たした。とりわけ事実上の世界チャンピオンを決めるチアダンス世界大会の結果は、Open Jazzで 桜美林のCreamが優勝した他に、Senior PomでGolden Hawks、Open Hip Pop でGolden Hawks、Open Coed Hip Popで DSF Brilliantsとなんと8部門のうち4部門で日本が1位を獲得、Open Pomで Planets Dance Companyが2位となるなど米国に次ぐ成績を挙げた。外国勢で一位をとった国は日本以外になく、メキシコ、イギリスが一部門ずつ3位に入ったにすぎない。あとは全て多数のチームが参加した米国がメダルを獲得した。逆に、多数の米国チームを破った日本のダンスのレベルがいかに高いかの証明でもある。両大会には中国のチームも多数参加したが、素人目にもまだまだの感がある。ジャズやヒップ・ホッブのダンス文化がまだ根付いていない。ただし、その技量は年々あがっている。 ダンスにも日米の国民性の違いが出るものだ。一言で言えば日本は和、米国は個が特徴だ。全体の統一性、同調性は日本が上回っている。全員が一糸乱れず、頭から爪先まで緊張感にあふれた踊りをする。他方、個々人の技量では米国が上回っている。回転する時に軸足がほとんどぶれない。体力もあり、一人一人の踊りが非常にエネルギッシュだ。また体格的にも最近は日本も見劣りしない。昔は胴長短脚でダンスにはあまり向かないと思われていた日本人だが、最近は手足の長い外国人体系の女子も多くなってきている。むしろアメリカ人に手足は長い太り気味のダンサーが多く目につくようになり、日本人の方が見栄えがよくなっている。もっとも太ったダンサーのヒップ・ホップは、それそはそれで迫力があり面白い。 ダンスの世界での日米の実力の伯仲は、ある意味ディズニー・ランドやセブン・イレブンに似ている。両方とも米国発の文化や会社ではあるが、日本に導入されて、むしろ本家をしのぐ、あるいは本家とは違った文化や会社としてグローバルな文化や会社となっている。もともとディズニーやセブン・イレブンは日本にアメリカン・スタンダードをおしつけようとした。しかし、結局日本はアメリカン・スタンダードを換骨奪胎し、むしろより普遍的なグローバル・スタンダードを確立し、日本文化でも米国文化でもないあらたな世界文化や会社を構築していったように思える。小難しく言えば、日米文化の対立が止揚されて新たな世界文化を生み出している。今回のダンスの結果も日本、米国の文化を超えた新たなダンスの文化を生み出す契機となるだろう。アメリカン・スタンダードが世界標準ではないことを、桜美林大学のクリームだけではなく日本のダンスチームが今回のダンス世界大会で見事に示してくれた。