2009年8月2日日曜日

『憲法9条を輸出せよ! 』のツッコミどころ

 随分前から気になる本があった。2008年にピース・ボート共同代表の吉岡達也氏が出版した『9条を輸出せよ!』である。帯に「『”丸腰”こそ安全』という『紛争地の常識』」、「『武装することの危険』を知らない日本人」など、刺激的な惹句が並んでいる。本棚にずっと並べておいたのだが、手にとる機会がないままに一年がすぎた。憲法9条問題を考えるにあったて今あらためて読んでみると、これは一種のトンデモ本だということがわかった。憲法関連の書籍には、ただひたすら平和を念じ、念ずるあまりついに本を出版したという市井の善意の平和運動家が多い。吉岡氏のピース・ボート共同代表という肩書、また出版社も大月出版という共産党系の比較的しっかりした出版社であることから、弱小出版社から出版された素人著者の著作とは違うと期待していたのだが、内容はさほど変わらなかった。
 本は一種のエッセーや体験談の寄せ集めだ。その中で、私がひっかかったのは、いわゆる平和主義者の偽善をもっともよくあらわしている「『”丸腰”こそ安全』という『紛争地の常識』」という旧ユーゴでの吉岡氏の体験談である。
 1992年に吉岡氏はクロアチア共和国内の最前線の街パクラッツに入り、そこで引率していたPKO部隊のミスで、セルビア人武装勢力に取り囲まれ、PKO部隊の建物から出られなくなった。武装勢力側が彼の身柄を引き渡すよう強硬に要求したが、国連本部による交渉の結果、ミスを犯した現地のPKO部隊の将校が辞任することで武装勢力と話しがつき、、吉岡氏は解放されたという。紛争地では、ありがちなトラブルである。しかし、ありがちでなかったのは、なぜ解放されたか、吉岡氏の説明である。彼はこう記している。
「このパクラッツ事件で、私はナイフやピストルを持ったセルビア系住民たちに囲まれ、危機一髪と言っていい状況を経験した。『日本の常識』からいうと『だから紛争地に行くときは、せめてピストルか小銃でも持っていかないと危ないんだ』ということになるかもしれない。しかし、実際には、この経験を経て、より丸腰の安全性について確信を深めることになった。なぜなら、私たちが丸腰であったことが、最終的に何の危害も加えられずに解放された最大の理由だった」(吉岡、52頁)。
この説明を読み、思わず椅子からずり落ちそうになった。そもそも「『日本の常識』からいうと『だから紛争地に行くときは、せめてピストルか小銃でも持っていかないと危ないんだ』」というのは、日本の常識なのか。こんなことを本当に普通の日本人が常識として持っているのだろうか。よしんば、これが常識であったとしても、それはPKO部隊に参加する自衛隊の場合だろう。
吉岡氏はこう続ける。
「もし、セルビア系住民に取り囲まれた時、私たちが武器を持っていたらどうなっていただろうか。おそらく彼らの目に私たちは明確な敵対者として映り、物理的攻撃を受けていた可能性は大いにある。また、私たちを引率していたカナダ軍の兵士が必至に「彼らは武器を持っていない!」と何度も叫んでいたのも目の当たりにしている。まさに『丸腰』であることが、彼等の暴力をおもいとどまらせる説得力を持っているからこそ、そのカナダ軍兵士は私たちの『丸腰』を訴えていたのではないだろうか」(吉岡、52頁)
吉岡氏はPKO部隊の武装したカナダ軍兵士に護衛されていたではないのか。本人たちが丸腰であろうがなかろうが、武装兵士が護衛すれば、それは「丸腰」とはいわないだろう。さらに吉岡氏は、続けてこう記す。
「そして人道支援で現地に行く時にもっとも大事なことは丸腰で行くことであり、『丸腰こそが安全である』という『紛争地の常識』を発見したのだ」(吉岡、53頁)。我田引水極まれり、である。この吉岡氏の発言を護衛したカナダ軍兵士や解放交渉にあたった国連関係者が知ったら一体どう思うだろうか。吉岡氏自身にも、尋ねたいのだが、ではなぜピース・ボートはソマリア沖で自衛隊の護衛を頼んだのか。
いや、そうではなくて、吉岡氏の論理で言えば、たとえ武装した兵士や軍艦に護衛されても自分たちが丸腰であることが丸腰の意味なのだろう。それは、「日本の常識」からは全く外れた「吉岡氏の常識」ではないのか。吉岡氏が事件にあった92年以降世界に紛争が広がり、丸腰であろうがなかろうが、一般市民を対象にした殺戮は後を絶たない。人道支援だからといって殺傷されない保証はない。実際、92年7月にはカンボジアで中田厚仁氏、2008年8 月にはアフガニスタンでペシャワル会の伊藤和也氏が殺害されなど、日本人に限らず、丸腰の人道支援のボランティアが次々と犠牲になっている。この現状を吉岡氏はどう考えるのだろうか。また人道援助でなくても、治安が悪ければ丸腰であろうがなかろうが殺人事件は起こる。「誰しも『丸腰』の人間に危害を加えることには躊躇する」(吉岡、52)というが、その動機の如何に関わらず一般に殺人のほとんどは、丸腰の人間を対象にしている。
さらに吉岡氏は、無事に解放された理由として自分が日本人であることを挙げている。
「私たちの解放のためにセルビア側との粘り強い交渉を続けてくれた国連高官が、解放後、笑いながら私にこんなことを言った。
『君が日本人じゃなくて、もし銃を持っていたら、(解放は)無理だったな』。
彼もまた『丸腰』が私たちの安全を保障したことを認めたわけだが、さらに、それに加え、私が『日本人』であったことも解放の要因として挙げたのである。その理由は、当時、欧米が強くセルビア側を非難していたために、欧米人でなくてよかったということがひとつ。
そして、もう一つはセルビア人を含め旧ユーゴの多くの人が抱いている『ヒロシマ・ナガサキを経験した平和国家』という日本のイメージが果たした役割なのだ」
それでは同行したクロアチア人ジャーナリストやドライバーは解放されなかったのだろうか。いくら『9条を輸出せよ!』という本の題名にあわせるためとはいえ、これではあまりに我田引水のしすぎだろう。
いっそのこと日の丸をもって、憲法9条を読経しながら紛争地に行けば、たとえ武装した護衛がいなくても、弾にもあたらず襲われることないだろう、とツッコミを入れたいところだ。それについて吉岡氏は治安のよくないところに行く時の心構えについてこう答えている。
「現地の人々に守ってもらう」のが、「一番現実的で、安全で、理にかなっている。もちろん私たちは一切武装すべきではない。では、今度は、私たちを守る現地の人々は武装してもいいのかという疑問がでるかもしれない。たしかにこれは難しい問題だ。この答えに関しては賛否両論あるかもしれないが、私の意見は、もしその『武装』が攻撃目的のものではなく、護身用の範囲を越えないものならば、現地の人々の考えに任すべきだというものだ。その土地の現状を熟知しているのは、そこに暮らしている人々だからである」(吉岡、54頁)
ではなぜ、吉岡氏はカナダ軍兵士の護衛を受けたのだろうか。また自分は『丸腰』で護衛という危険な任務は現地の人に任せるというのは、道徳や倫理に悖る行為ではないのか。ジョージ・オーウェルは『ナショナリズムについて』にこう記している。「平和主義者が『暴力』を放棄できるのは、他の人間が彼らに代わって暴力を行使してくれるからだ」。吉岡氏もまた、他人のことに思いを致さない典型的な平和主義者なのだろう。
平和主義者と国粋主義者はまるで合わせ鏡のように同じような思考パターンを持っている。それは憲法9条ナショナリズムか天皇ナショナリズムかナショナリズムの対象が違うだけで、日本ナショナリズムの体現者である。そしてかれらはいずれもがみずからのナショナリズムを絶対視し、「日本の常識」とはかけ離れた世界に住み、みずからの主張を声高に叫んでいる。そして自分達の都合にあわせて世界を解釈し、行動している。それだけに吉岡氏の本はツッコミどころ満載できりがない。これからも吉岡氏には大いにボケてもらいたい。

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