2009年8月8日土曜日

8月ジャーナリスムと憲法9条

また8月ジャーナリズムの季節がやってきた。
 8月6日のNHK番組「核は大地に刻まれていた~“死の灰” 消えぬ脅威」では、カザフスタンで行われた第1回目の核実験の死の灰の影響を土壌分析から検証しようとする日本人科学者の活動を追っていた。カザフスタンではいまだに深刻な影響が出ているとのことだ。同様に日本でも、死の灰をかぶった地域では、被爆被害を続いているという。素人考えながら、もしいまなお深刻な被害が出ているとするなら、爆心地にある広島や長崎で暮らすことは危険なのではないか。実際、爆心地に都市を再建した国は日本以外にない。何十発も核実験をした実験地と違い、一発の核兵器の影響はそれほど深刻な影響を及ぼさないということなのか。それとも、危険を伏せたまま、都市を再建したということなのだろうか。NHKのドキュメンタリーを見る限り、広島、長崎に暮らすことは、今なお危険という印象を受けたのだが。是非、専門家にきいてみたい。
 8月ジャーナリズムというのは、8月に限って、戦争特集を組んで、前の戦争のことについて反省するジャーナリズムのことである。日頃戦争のことなどあまり取り上げなくなったメディアが反省を込めて少なくとも8月だけでも戦争について反省しようということなのだろう。
 取り上げられる戦争は、きまって第2次世界大戦と核問題である。戦争反対、核兵器廃絶という視点はどこのメディアも変わらない。戦争反対といいながら、NHKは日露戦争を美化する『坂の上の雲』を製作中だし、またここ何十年にわたって毎週日曜日には時代劇で合戦の物語を放映している。源平の合戦や長篠の戦い、薩英戦争、鳥羽伏見の戦いなどは戦争ではないのか。日露戦争は時代劇になりつつあるのか。そうすると、いずれ太平洋戦争も時代劇になるのだろうか。取り上げ方、切り口があまりに紋切り方になっているからこそ、8月ジャーナリズムと揶揄されるのだろう。反戦の視点さえ取り入れれば、最低限良心的な番組といわれ、視聴者の反発も来ず、そしてジャーナリストとしての良心を癒すことができる番組となるのだろう。
 少なくとも9.11以来、戦争は第2次世界大戦のような総力戦や国家間戦争とは異なり、全く新しい時代の社会武力紛争の時代に入ったというのに、8月ジャーナリズムにはその視点が全く欠けている。今日8月8日のフジテレビでノーベル賞物理学者の益川敏英氏が戦争と憲法9条について語っていた。その中であと200年後には戦争はなくなると語っていた。益川氏の言う「戦争」とはどういう戦争をいうのだろうか。
 もし第2次世界大戦のような国家総力戦をいうのなら、もはや「総力戦」は起こらない。国家総力戦では、国家が総力を挙げて、向上で兵器を生産しつつ戦場で兵器を消耗する大量生産大量破壊の戦争である。しかし、情報革命、軍事革命が進み時代は少量生産少量破壊の情報時代へと転換した現在、総力戦など起きようはずもない。益川氏のいうように200年も待たなくても、国家間戦争は、ごく一部の例外を除いて、もはや過去のものである。
 もし戦争が民族集団、宗教組織間などの間でおこる社会「武力紛争」という意味であれば、200年後も続いているだろう。なにせ、人類は有史以来、武力闘争を止めたことは無い。ただし、文明は、武力紛争を法という制度や国家という組織によって抑制する努力は続けてきた。その結果、主権国家間の武力紛争はようやく抑制できるようになった。しかし、社会武力紛争は未来永劫をつづくだろう。人類はこの社会武力紛争を抑制するために、従来の主権国家に代わって世界共和国のような新たな「国家」をつくりだすかもしれない。
 いずれにせよ、戦争とは何かをきちんと定義しないかぎり、200年後に戦争がなくなりますといわれても、一体どのような戦争がなくなるのか不明である。益川氏自身も語っていたように、こと戦争に関する彼の思想や発言はナイーブとしかいいようがない。
 ところで益川氏は科学者でつくる憲法9条の会のメンバーだという。ならばこそ、私は益川氏に是非お願いしたい。憲法9条の精神をもって世界の紛争を解決してほしい。特にパレスチナ問題である。ノーベル賞受賞の権威をもって、ガザに乗り込み、イスラエルとパレスチナの問題を憲法9条の精神で、非暴力で両者に和解を迫ってほしい。なぜなら憲法前文で示された平和主義は寺島俊穂『市民的不服従』(風行者、2004年)のいうように、「より平和な世界を構築していくために非暴力によって世界の現実に積極的にかかわっていくことを宣言した原理」(265頁)だからである。もはや護憲を叫び、政府の安全保障政策に反対するだけでは不十分である。より積極的に世界の平和に向けて行動することが必要であろう。さもなければ、平和研究者のダグラス・スミスが批判するように、日本人は憲法前文の精神を実践したこともなく、安穏として米国の核の傘の下に暮らしていたにすぎない(寺島、262頁)、との批判を受けることになる。
 冷戦が終焉した現在、米国の核の傘はなくなり、われわれは安穏とした生活をつづけることはできなくなった。実際、核廃絶を訴えるオバマが日本のために核兵器を使用することなど有り得ないし、また核戦争に反対する日本国民がアメリカの核の傘に守られるという偽善を許すはずもない。たとえ北朝鮮が万が一日本に核攻撃を行ったとしても、日本国民はオバマに核兵器による報復はもちろん通常兵器による報復を要請することなどないだろう。朝日新聞がはたして米国は日米同盟の義務を履行して北朝鮮に核報復せよなどという社説を書くなどとはとても考えられない。憲法前文の精神を深く理解する日本国民は甘んじて第2のヒロシマ、ナガサキを受け入れるだろう。
 だからこそ、そうならないように、アメリカの核の傘に代えて、憲法前文の非暴力の原理で世界の紛争の解決に益川氏をはじめ憲法9条の会は立ちあがってほしい。益川氏には北朝鮮に乗り込んで拉致被害者を非暴力で取り返してほしい。またガザに入り、イスラエルとパレスチナの間に割り込んでほしい。それだけで世界中の耳目を集めるだろう。なにしろノーベル文学賞の候補者というだけで村上春樹があれほどの注目を浴びたのだ。実際にノーベル賞を受賞した益川氏が紛争地に赴けば事態は大きく変化するだろう。さらにガンジーのように殉死を覚悟すれば、一気に問題は解決の方向に動くかもしれない。それこそが寺島のいうように「より平和な世界を構築していくために非暴力によって世界の現実に積極的にかかわっていくこと」になるのだ。憲法9条の会は、今こそ憲法の精神を実践すべき時だ。

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