2009年8月28日金曜日

サンダカンから船に乗ってサンボアンガに着いた














































 事前にネットで調べたところ、サンボアンガからサンダカンへのフェリーについては情報があった。しかし、逆にサンダカンからサンボアンガへの情報がなかった。サンボアンガからサンダカンへの船があるのだから間違いなく逆の航路もあるはずという思い込みでサンダカンを目指した。今から数百年前にイラスム教がボルネオから島伝いにフィリピンのミンダナオ島そして最後はルソン島まで伝わっていった。そのイスラム・ルートをどうしてもたどってみたかった。現在もイスラム教の流れがあるのかを実際に体感したかった。
 同じルートでマレーシアからフィリピンをめざす人もあると思うので、参考までに船旅の方法について記しておく。
 サンダカンからサンボアンガへの船は2009年8月時点ではフィリピンの船会社Aleson Shipping Linesが運航している。サンダカンからは火曜日と金曜日の出港。私が乗船したのは火曜日5時出港予定(実際は5時半出港)の船だった。
チケットはサンダカンのBandar Hsiong Gardenの一角にあるMaritime(089-212063)というチケット販売所で事前に購入する。外からは乗船券を販売しているとはとても思えない、うっかりすると見落としてしまいそうな間口一間ほどの小さな事務所だ。私は最も高いキャビンのチケットを290リンギで購入した。キャビン(下から4枚目の写真)だから個室かと思ったら、6畳程度の広さしかなく、そこに上下二段ベッドが二つおいてある4人相部屋だった。幸い私一人だったからよかった。しかし、実際には出港してすぐにエアコンが故障して蒸し風呂のような暑さになった。それでもスチュワーデスがシーツを敷き、枕カバーをかけてくれたベッドでなんとか横になった。ベッドをよくみると小さなゴキブリがあちこちで動き回っている。南京虫よりはましだと覚悟を決めて寝た。しかし、蒸し暑さに夜中に何度も目が覚めた。キャビンといってもフィリピンの安宿ロッジ程度である。
教訓。一番良い部屋は、エアコンの効いた大部屋だ。やはり二段ベッドだが値段のせいかそんなに乗客も多くはなく、快適そうに見えた。値段は270リンギだと思う。一番やすいのはデッキだ。甲板に二段ベッドをぎっしりと並べ、夜風、海風に当たりながら床につくのだ。日常風景、庶民の生活を知りたければ、甲板を薦める。値段はそれほど安くはない。250リンギだ。フェリーはフィリピンやアフリカでしばしば沈没事故をおこすような古びた船である。
甲板は小さな子どもを連れた家族や、大きな荷物を抱えた商売人らしき人たちでほぼ満員だった。
船は三層に分かれ、キャビンとエアコンのある大部屋そして甲板ベッドが最上層、中層には甲板ベッドのみ、そして最下層はコンテナや車を積み込む貨物室である。私の乗った船はサンダカンで荷物をあまり積み込まなかったようでほぼ空だった。トップ・ヘビーで転覆するのではないかと恐れたが、ほぼ丸一昼夜の航海の間、海は内海のように穏やかで、船は全く揺れなかった。
 サンダカンの港は市街から少し離れたKaramunting港だ(一番下の写真)。市内からタクシーで30リンギ、約20分くらいのところにある。4時に行くように言われていたが、用心のため3時に港についた。港といってもコンテナ・ヤードの横に出入国管理事務所の建物があるだけで、人々は炎天下、外で出国手続きが始まるのを待っていた。何軒か露店が出ており、弁当や飲み物を売っている(下から2番目の写真)。また両替商が何人もいてペソ、リンギ、ドルの両替をしていた。船の売店ではペソしか扱わないので事前に両替が必要。
出国手続きが始まったのは5時近くになってから。出国事務所の入り口に突然人々が群がり始めたので、あわてて私も並んだ。今考えれば、全く無意味な行列だった。甲板ベッドを取る人は、早く乗船して最上のベッドを取る必要があるのかもしれない。ただし甲板ベッドにそれほど良い、悪いがあるとは思えなかった。
やがて事務所のドアが開き、係官三人が出国手続きを始めた。私は随分前に並んでいたが、出国までに半時間はかかったろうか、とにかく時間がかかる。やっと出国手続きがすむと、出口には船までの送りのバスが待っていた。無料だと思ったら、2リンギとられた。ほんの数百メートル走って船にたどりついた。ちなみに2リンギといえば、サンダカンの空港から市内までのバス料金と同じである。全くのぼったくりだ。
いよいよ乗船である。まずは乗船名簿の確認、そしてインフルエンザ検査である。簡易体温計で熱を計られ、異常なしということでやっと乗船を許された。乗り込んで半時間ほどして、船は港を離れた。
船内でのすごし方について少し触れておく。出港してしばらくすると陽が沈む。日本の船のように娯楽設備があるわけではない。トイレはトイレット・ペーパーを使わないイスラム式の水洗便所。キャビンにはシャワー室があったが、とても使える代物ではない。船員たちは船で生活しているのか、キャビンの一室はスチュワーデス四人の寝室になっていた。彼らは入出港の際に検疫の手伝いや入国審査の手伝いなどをしていた。
船内にはキャンティーンがある。しかし、売っているものは限られている。ご飯とオカズのゆで卵。ゆで卵をオカズにご飯に醤油らしきものをかけて夕食にしている乗客が多かった。食事は他にビーフンとカップ麺のみ。ビール、インスタント・コーヒー、ビスケットといった本当に簡単なものしか売っていない。事前に食料は買い込んでおいたほうがよい。
ビールは60円くらいで安い。ひたすら酒を飲んで寝るしかない。
5時頃には空が明るくなり、6時過ぎには夜が明けた。あとはひたすら海をみつめ、遠くの島影をながめるだけである。日なたに出れば、あっと言う間に日焼けだ。退屈した乗客の中には歌を歌い、踊りだすものもいる。子どもたちは甲板を駆け回り、女たちはおしゃべりに夢中になる。やがてどこからともなく大きな歓声が響きわたってきた。行ってみると、日本で言えばさしずめチンチロリンというところか、二枚のコインを使ってバクチが始まった。1ペソ、2ペソのコインから始まってやがて札が舞いだす。といっても、100ペソもいかない。少額だと思っていたが、貧しい人にとっては、一日の稼ぎにも匹敵する金額だ。結構な大金をはっていたのだ。
2時過ぎにサンボアンガの街並みが遠くに見え始めた。船内のキャンティーンでは入国にあたってパスポートのチェックが行われた。これで入国手続は終わりかと思っていたら、実際には船が接岸すると同時に数人の小銃を持った兵士を引き連れて三人の入国係官が乗船してきた。出口を兵士が封鎖する中、係官が入国手続を行った。接岸から実際に下船するまで小一時間かかった。
船が港に近づいたころ、2~3人の子どもが乗った船外機つきの小舟やおもちゃのような小舟が数隻船に近づいてきた。盛んに乗客に物乞いをしていた。そのうち乗客の一人がコインを海に放り投げると、子どもがすぐに海に潜ってコインを取るのである。あまりコインをなげる客はいなかった。中には食べかけのパンをほうりなげる客もいた。船から完全に乗客がいなくなるまで、ずっと小舟から乗客を見上げてコインをせがんでいた。サンボアンガの港(一番上の写真)だけでなく、バシラン島イサベラの港でも同じ光景を見た。水上生活をする子どもたちなのだろうか。3~4才と思しき女児までが本当に器用に小舟を操っていた。
最後に下船する乗客を待ち構えるように、トライシクルやジープニーの運転手が誘いをかけてくる。港から市内までトライシクルなら20ペソで十分だ。それを200ペソ吹っ掛ける運転手もいるので要注意。
イスラム・ルートを求めて船の旅をしたが、結論としてはあまりイスラムのニオイはしない。船内でお祈りでもあるのではないかと思ったが、メッカに向かって祈りを捧げる人をみかけることはなかった。女性で髪をベールで覆っている人を何人かみかけたものの、髭面の男はみなかった。乗客の中で一番髭面だったのは私だった。



2009年8月20日木曜日

非暴力平和隊は今こそフィリピンで非暴力の割り込みを

 非暴力平和隊そして憲法9条の会のメンバーは今こそ日頃の主張や理念を実践するために、ただちにフィリピンのミンダナオ島イスラム地域、特にバシラン島に入って、政府軍とモロ民族解放戦線およびアブサヤフの暴力を非暴力で停止せよ。両者の間の停戦はこれまで何度も破られてきた。そして今回私がバシラン島へ入った8月17日にもバシラン島ティポティポで両者の戦闘が発生、政府軍兵士が一人犠牲になった。イスラム勢力側、市民側の犠牲は不明。また同日、バシラン島の戦闘状況を偵察していた政府軍ヘリコプターも何者かに銃撃され、従軍取材していたフィリピンのテレビクルーが負傷した。戦闘は明らかに激化している。
 フィリピンアロヨ政府は8月に入ってイスラム勢力の掃討作戦を開始した。両者の暴力のエスカレートを防ぎ、市民の巻き添えを防ぐために、いまこそ非暴力平和隊が両者の間に割り込み、その力量を発揮する時である。戦闘が激化した時に撤退し、市民を危険に曝したスリランカ内戦の徹を二度と踏んではならない。
 また憲法9条の会は、自衛隊の派兵反対を叫ぶばかりでなく、自ら護憲を実践する時が来たことを深く自覚すべきである。是非、井上ひさし氏そしてノーベル賞受賞者益川敏英氏らが先頭にたって、バシラン島に入り両者の間にはいって非暴力で紛争解決を訴え、憲法9条を実践してほしい。
 伊勢崎賢治氏が言うように、アジアの人々には日本に対する「美しい誤解」がある。すなわち日本は平和で戦争をしない国だということである。それは今のところ彼らにとって単なる伝聞にしかすぎない。いまこそ、フィリピンで憲法9条の精神を実践し、具体的な護憲運動を展開してほしい。
 非武装平和隊・日本は国際組織から独立して、憲法9条隊を結成し、独自の活動を展開すべき時が来た。国際組織に入っている限り、たとえNGOといえども各国の国益に左右されがちである。財政面での心配はない。日頃から護憲を主張している労働組合の連合が資金援助や人員協力を拒否するはずがない。また民社党も今こそその護憲を実践するために連合に積極的に働きかけるだろう。連合に加入していた元労働者の退職者で憲法9条隊を編成し、紛争地で非暴力による紛争解決を実践するのである。連合の組合員も憲法9条をまもるために年間1万円を拠出するのだ。それだけで600万人もの組合員を抱える連合からは600億もの資金が集まる。護憲のために年間一万円は高くないだろう。
 非暴力も護憲も口先だけではなく実践してはじめてその意義がある。暴力のないところでいくら非暴力といっても全く無意味だ。非暴力平和隊には暴力の蔓延する地域でガンジーの精神にのっとって非暴力で紛争を解決してほしい。それこそが憲法9条の具現化であり、また真の意味での護憲である。冷房の効いている部屋でいくら論議してもバシラン州の人々の苦難は救えない。

2009年8月18日火曜日

フィリピンの現状




いくつかの失敗をのりこえて(バスの接続を間違えてイスラム自治地域のコタバトを通過できなかったことなど)、昨日ようやくマニラに到着。最高級ホテルの一つ、ペニンシュラに投宿した。ホテルのあるマカティ地区そしてこのホテルは全く東京と変わらない。物乞の姿などどこにもない。フィリピン名物のトライシクルの影もない。これでロッヂのようなもっとも安い宿泊場所から最高級ホテルまで一応あらゆるクラスの施設に宿泊した。感じたことは、あまりの格差の激しさであった。こうした社会的格差はアメリカや日本のような先進国にもある。しかし、フィリッピンの格差の規模は半端ではない。
 昨夜、当地の日本語新聞『マニラ新聞』に興味深い数字を見つけた。現在の人口はおよそ9千万人。その内半数の4500万人が貧困ライン以下、1000万以上が失業もしくは満足な仕事が得られない、そして900万人が海外就労者という。これでは国家の体をなしていない。ついでながらアロヨ大統領の月給は税引き後の手取り額が5万7750ペソ(約13万円)とあった。公務員の給料は推して知るべしだ。ただし彼女は金持ち階級で、その蓄財が大統領に就任してから倍増しているとして問題視されている。とにかく餓死寸前の人からペニンシュラで豪勢なパーティを開く(昨夜マニラのロータリ・クラブが開いていた)突出した金持ちまであまりの格差だ。特に南部ミンダナオと北部との格差またキリスト教徒地域とイスラム地域との地域間、宗教間格差が大きい印象だ。
 そのイスラム地域にたいしてアロヨ政権はついに過激派掃討作戦を開始した。私が訪問したバシラン州でも作戦が始まったようだ。しかし、社会的格差が縮まらない限りイスラムの反乱、左派の反乱は治まらないだろう。
 写真はバシラン島のイザベラ市の対岸にある水上住宅の村を訪ねたとき、子供たちに囲まれて撮った写真。日本人が珍しかったのか、子供から写真を撮ってくれとせがまれた。

2009年8月15日土曜日

カガヤンにて

昨日やっとネットにつながるホテルに宿泊しました。詳細は帰国後にします。24時間かけてサンボアンガに入り、2泊しました。一日は対岸のバシラン島に行きました。ここはイスラム教徒と政府との対立がはげしく、非暴力平和隊の要員が誘拐されたこともあります。
 昨日は朝7時にバスに乗って、ダバオを目指したのですが、バスの路線の関係上、カガヤンデオロに来ることになりました。14時間のバス旅行で今朝もいささか疲れ気味です。
予定を変更して今日はスリガオに向かいます。
 しかし、キリスト教徒の北部とイスラ教徒の多い南部では開発が雲泥の差です。サンボアンガからくるとここカガヤンは先進国のようです。

2009年8月11日火曜日

サンダカンはアンリイスラムのにおいがしません。髭面の男が少ないせいかもしれません。

サンダカン中心部の様子をアップします。

2009年8月10日月曜日

サンダカンにて

 サンダカンは小さな町だ。市の中心部を歩いても30分であらかたの場所を見て回ることができる。下水道が整備されていないのか、いたるところで下水の匂いがする。とにかく湿気が高く、暑い。欧米系の観光客が多い。泊まっているリゾート・ホテルもひと組の日本人家族を除けば全員が欧米系だ。海やジャングル観光なのだろう。
 イスラム教のはずなのに、市の中心をおろかどこにもモスクを見かけなかった。天主教と書かれたキリスト教の教会が目につくぐらいだ。スカーフをしている女性よりも、していない人のほうが多い印象だ。イスラムつながりでフィリッピンのミンダナオとの関係が深いと思っていたら、全く予想外だ。フィリッピン行きの船は週2便とすくなく、飛行機の直行便は出ていない。釜山と下関、福岡のような頻繁な行き来があると思っていたが、予想外に往来が少ない。アジアのイスラム勢力が跳梁跋扈するようなイメージだが、あまりイスラムのにおいがしない。
 さっきやっとサンボアンガ行きの船のチケットがとれた。チケット売り場に日本人のバックパッカーの若い男がいた。小さな町にしてはホテルが多いが、バックパッカーの拠点のようだ。
 1974年に山崎朋子がサンダカンを訪れているが、その時彼女が宿泊したホテルが、いま私が泊まっているサバ・ホテルのようだ。町は当時とは様変わりし、そしてホテルも一変したようだ。一世紀近く前にここに多くの日本人が暮らしていたとは思えないほど今は中国系の人々が暮らしている。
 さて明日は夕方にサンダカンをたって明後日んの昼頃にサンボアンガに到着の予定だ。このルートがイスラム街道かどうか調べたい。

2009年8月8日土曜日

8月ジャーナリスムと憲法9条

また8月ジャーナリズムの季節がやってきた。
 8月6日のNHK番組「核は大地に刻まれていた~“死の灰” 消えぬ脅威」では、カザフスタンで行われた第1回目の核実験の死の灰の影響を土壌分析から検証しようとする日本人科学者の活動を追っていた。カザフスタンではいまだに深刻な影響が出ているとのことだ。同様に日本でも、死の灰をかぶった地域では、被爆被害を続いているという。素人考えながら、もしいまなお深刻な被害が出ているとするなら、爆心地にある広島や長崎で暮らすことは危険なのではないか。実際、爆心地に都市を再建した国は日本以外にない。何十発も核実験をした実験地と違い、一発の核兵器の影響はそれほど深刻な影響を及ぼさないということなのか。それとも、危険を伏せたまま、都市を再建したということなのだろうか。NHKのドキュメンタリーを見る限り、広島、長崎に暮らすことは、今なお危険という印象を受けたのだが。是非、専門家にきいてみたい。
 8月ジャーナリズムというのは、8月に限って、戦争特集を組んで、前の戦争のことについて反省するジャーナリズムのことである。日頃戦争のことなどあまり取り上げなくなったメディアが反省を込めて少なくとも8月だけでも戦争について反省しようということなのだろう。
 取り上げられる戦争は、きまって第2次世界大戦と核問題である。戦争反対、核兵器廃絶という視点はどこのメディアも変わらない。戦争反対といいながら、NHKは日露戦争を美化する『坂の上の雲』を製作中だし、またここ何十年にわたって毎週日曜日には時代劇で合戦の物語を放映している。源平の合戦や長篠の戦い、薩英戦争、鳥羽伏見の戦いなどは戦争ではないのか。日露戦争は時代劇になりつつあるのか。そうすると、いずれ太平洋戦争も時代劇になるのだろうか。取り上げ方、切り口があまりに紋切り方になっているからこそ、8月ジャーナリズムと揶揄されるのだろう。反戦の視点さえ取り入れれば、最低限良心的な番組といわれ、視聴者の反発も来ず、そしてジャーナリストとしての良心を癒すことができる番組となるのだろう。
 少なくとも9.11以来、戦争は第2次世界大戦のような総力戦や国家間戦争とは異なり、全く新しい時代の社会武力紛争の時代に入ったというのに、8月ジャーナリズムにはその視点が全く欠けている。今日8月8日のフジテレビでノーベル賞物理学者の益川敏英氏が戦争と憲法9条について語っていた。その中であと200年後には戦争はなくなると語っていた。益川氏の言う「戦争」とはどういう戦争をいうのだろうか。
 もし第2次世界大戦のような国家総力戦をいうのなら、もはや「総力戦」は起こらない。国家総力戦では、国家が総力を挙げて、向上で兵器を生産しつつ戦場で兵器を消耗する大量生産大量破壊の戦争である。しかし、情報革命、軍事革命が進み時代は少量生産少量破壊の情報時代へと転換した現在、総力戦など起きようはずもない。益川氏のいうように200年も待たなくても、国家間戦争は、ごく一部の例外を除いて、もはや過去のものである。
 もし戦争が民族集団、宗教組織間などの間でおこる社会「武力紛争」という意味であれば、200年後も続いているだろう。なにせ、人類は有史以来、武力闘争を止めたことは無い。ただし、文明は、武力紛争を法という制度や国家という組織によって抑制する努力は続けてきた。その結果、主権国家間の武力紛争はようやく抑制できるようになった。しかし、社会武力紛争は未来永劫をつづくだろう。人類はこの社会武力紛争を抑制するために、従来の主権国家に代わって世界共和国のような新たな「国家」をつくりだすかもしれない。
 いずれにせよ、戦争とは何かをきちんと定義しないかぎり、200年後に戦争がなくなりますといわれても、一体どのような戦争がなくなるのか不明である。益川氏自身も語っていたように、こと戦争に関する彼の思想や発言はナイーブとしかいいようがない。
 ところで益川氏は科学者でつくる憲法9条の会のメンバーだという。ならばこそ、私は益川氏に是非お願いしたい。憲法9条の精神をもって世界の紛争を解決してほしい。特にパレスチナ問題である。ノーベル賞受賞の権威をもって、ガザに乗り込み、イスラエルとパレスチナの問題を憲法9条の精神で、非暴力で両者に和解を迫ってほしい。なぜなら憲法前文で示された平和主義は寺島俊穂『市民的不服従』(風行者、2004年)のいうように、「より平和な世界を構築していくために非暴力によって世界の現実に積極的にかかわっていくことを宣言した原理」(265頁)だからである。もはや護憲を叫び、政府の安全保障政策に反対するだけでは不十分である。より積極的に世界の平和に向けて行動することが必要であろう。さもなければ、平和研究者のダグラス・スミスが批判するように、日本人は憲法前文の精神を実践したこともなく、安穏として米国の核の傘の下に暮らしていたにすぎない(寺島、262頁)、との批判を受けることになる。
 冷戦が終焉した現在、米国の核の傘はなくなり、われわれは安穏とした生活をつづけることはできなくなった。実際、核廃絶を訴えるオバマが日本のために核兵器を使用することなど有り得ないし、また核戦争に反対する日本国民がアメリカの核の傘に守られるという偽善を許すはずもない。たとえ北朝鮮が万が一日本に核攻撃を行ったとしても、日本国民はオバマに核兵器による報復はもちろん通常兵器による報復を要請することなどないだろう。朝日新聞がはたして米国は日米同盟の義務を履行して北朝鮮に核報復せよなどという社説を書くなどとはとても考えられない。憲法前文の精神を深く理解する日本国民は甘んじて第2のヒロシマ、ナガサキを受け入れるだろう。
 だからこそ、そうならないように、アメリカの核の傘に代えて、憲法前文の非暴力の原理で世界の紛争の解決に益川氏をはじめ憲法9条の会は立ちあがってほしい。益川氏には北朝鮮に乗り込んで拉致被害者を非暴力で取り返してほしい。またガザに入り、イスラエルとパレスチナの間に割り込んでほしい。それだけで世界中の耳目を集めるだろう。なにしろノーベル文学賞の候補者というだけで村上春樹があれほどの注目を浴びたのだ。実際にノーベル賞を受賞した益川氏が紛争地に赴けば事態は大きく変化するだろう。さらにガンジーのように殉死を覚悟すれば、一気に問題は解決の方向に動くかもしれない。それこそが寺島のいうように「より平和な世界を構築していくために非暴力によって世界の現実に積極的にかかわっていくこと」になるのだ。憲法9条の会は、今こそ憲法の精神を実践すべき時だ。