2010年7月23日金曜日

浅井先生への質問

浅井基文氏(もと外交官)のブログに「日朝関係の現状と課題:天動説的国際観と他者感覚の欠如」http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2010/index.htmlと題する論文が掲載されていた。その中の以下の一文が気になって、浅井先生あてに次のようなコメントを書いた。
「私たちが考えなければならないのは、朝鮮(中国)という他者自身の立場に自らをおいて、朝鮮(中国)から見た世界はどう映っているかについてできる限り想 像力を働かせることである。アメリカ及びアメリカに全土を基地として提供して全面協力する日本、そして朝鮮の場合にはさらに韓国も加わって襲いかかろうとしている。それが実態なのだ」。
 この主張を100%受け入れたとして、だからといって北朝鮮の核武装化や中国の軍拡を正当化することにはならないのではないでしょうか。浅井先生の論理によれば、米国や日本や韓国が天動説的国際観に基づいて北朝鮮や中国を軍事恫喝しているから、北朝鮮の核開発も中国の軍拡もしかたのないことなのでしょうか。
 もし浅井先生が親北、親中派でないのなら、もし浅井先生が本当の平和主義の愛国者なら、米国や日本政府に軍備縮小を呼びかける一方、北の核開発にも中国の軍拡にも同等に反対を呼びかけるべきでしょう。すでに呼びかけているのであれれば、ご容赦ください。ただし、よびかけをされたということあれば、それにもかかわらず北は核兵器を開発し、中国は軍拡を続けている状況についてどのようにお考えでしょうか。
 北の核開発を阻止できなかったことは、反米平和主義者にとっても日米同盟支持派にとっても敗北です。とりわけ日米同盟支持派にとって衝撃だったのは、韓国の哨戒艦が北朝鮮によって撃沈されたにも関わらず、また米国がテロ行為ではなく、北による戦闘行為だと認めたにも関わらず米韓安全保障条約が発動しなかったことです。北や中国が日本を攻撃したとしても日米安全保障条約が発動しない危険性があることを今回の哨戒艦撃沈事件は証明しました。北や中国は今回の事件を教訓に、さほどのリスクをとらずに日本に対する軍事的圧力をかけることができると考えているかもしれません。
 この意味であれば、日本が対米盲従をやめるべきだという先生の主張には共感いたします。ではどのように対米盲従をやめるのでしょうか。対米戦(心理戦、経済戦等です)を覚悟して日本はどのように米国からの独立を果たすことができるでしょうか。浅学非才なる小生にはなかなか思いつきません。これまでも右、左を問わず多くの識者、論者が日米同盟破棄、対米独立などを主張してきました。しかし、どの主張をとっても、具体的な政策として語られたものはありません。先生には是非、具体的な対米独立の方法、手順についてご教示願えればと思います。スローガンを掲げる時はすでにすぎていると思います。残されているのは、行動のみです。とりわけ北朝鮮、 中国に対する反核、軍縮の呼びかけです。
 妄言多謝 加藤

(追伸)
日本における平和主義者のほとんどが反米主義者であって、仮に反核を主張していたとしても反米という立場から北朝鮮やイランの核開発には賛成、あるいは容認する人が多いようです。かつて日本共産党が米国の核兵器には反対しソ連の核兵器開発には賛成していたことを思い起こさせます。要するに反米派は親米派と合わせ鏡であって、左右が逆転しているだけで思想、論理は同じ現実主義、戦略論に依拠しているようです。決して非暴力主義、非武装主義、反核主義ではないのではないでしょうか。浅井先生の立ち位置は単なる反米主義者なのか、それとも非暴力平和主義、反核主義者なのか、いずれでしょうか。

2010年7月13日火曜日

つかこうへい

つかこうへいが死んだ。つかこうへいを知ったのは、1974年のことだ。私が所属していた早稲田の学生劇団「騎馬民族コア」の隣のアトリエで、やはり早稲田の学生劇団「暫」の演出をしていたのがつかこうへいだった。
毎日のように、早稲田の6号館屋上で隣り合わせで稽古をしていたにも関わらず、つかこうへい自身に会ったことはない。つかの芝居にたくさんの客がきていることを知って、彼への嫉妬があったのだと思う。私は当時4年生で、密かに演劇プロデューサーを目指して、芝居の製作を担当していた。その時すでにつかの「暫」は大変な人気だった。
「暫」の役者(といってもみんな学生だったが)には、三浦洋一(早稲田政経の二年生)、平田満(当時早稲田第1文学部の三年生)や根岸李依らがいた。三浦にはアトリエ横の控室のようなところで会った覚えがある。パリッとした三つ揃えのスーツを着ていたのをいまでも鮮明に覚えている。三浦がなぜその時スーツを着ていたのかはわからない。友人から、BP(ブリティッシュ・ペトローリアム)のエンジン・オイルのネズミ講で金回りの良い役者がいると聞いて、興味で彼に会ったような気がする。多分芝居の制作費の工面で汲々としていたから、ネズミ講で金儲けをする方法を訊こうと思って会ったのだろう。
私が製作した芝居は多額の借金だけを残して失敗した。借金返済のためにも卒業して就職せざるをえなくなり、以後演劇とは全く無関係な世界に生きることになった。しかし、その後も演劇や映画のプロデューサーは見果てぬ夢となり、ずんとつかこうへいのことは気にかけていた。
つかも三浦、平田、根岸らもその後の活躍はご存じのとおりである。彼らが活躍するのをテレビや映画で見るたびに、昔の夢が思い出され胸が騒いだ。だから、つかの芝居を見ようとは思わなかった。また見る勇気もなかった。おのれの無能さを知ることを恐れたからだ。
でも1982年の映画『蒲田行進曲』は見た。弱者が弱者であることを逆手にとって強者に対抗するという自虐的な構図がひどく印象的だった。つかが在日韓国人であることを知ったのはその後のことだ。在日韓国人であろうがなかろうが、私も含めて弱者の立場に立つ者には圧倒的な共感を呼ぶ映画だった。『蒲田行進曲』以後、すなおにつかこうへいを評価できるようになった。そして自分の才能の無さを思い知らされた。
つかは小説『蒲田行進曲』で直木賞をとってから演劇からは暫く遠ざかっていた。再び芝居に戻ってからは、新作よりも旧作の再演が多くなったようだ。朝日新聞の演劇記者扇田昭彦(大学生時代からその名前を知っている。第一線の演劇記者として40年以上活躍している)も今日(7月13日)の朝日新聞でつかは自らの作品を古典として再演してきたと論評し、新作を見たかったと記していた。大衆演劇のように口立ての芝居だからこそ役者に合わせて内容を変えることができ、再演がしやすかったのかもしれない。
唐十郎の赤テント、佐藤信の黒テント(ちなみに私は大学一年の時、黒テントの鼠小僧次郎吉を見て演劇を志した)、麿赤児の大駱駝館などアングラ演劇が全盛で、また連合赤軍事件に象徴される騒然とした1970年代当時、つかの現代的大衆演劇的なわかりやすい芝居は非常に斬新であり、革命的だった。つかはたしかに一時期、時代に添い寝をしていた。しかし、80年代以降、時代はつかを置き去りにしていったようだ。だから自作の再演で時代に追いつこうしていたのかもしれない。
在日韓国人二世のつかこうへいは満州引き揚げ者の五木寛之のデラシネの系譜に連なる作家かもしれない。だからこそ、日本人以上に日本人らしい、韓国人以上に韓国人らしい感性をもった創造者になったのだと思う。我が心のライバルが永眠したことを本当に無念に思う。合掌

2010年7月8日木曜日

窒素からみた戦争の本質

 戦争の本質とは、農業時代にはNと工業時代にはUの戦いである。つまり火薬の主原料である窒素と核兵器の主原料であるウランをいかに獲得するか、つきつめればこれが農業時代と工業時代の戦争の勝敗を決したのである。その窒素をいかに獲得するか、窒素の獲得をめぐる物語がトーマス・ヘイガー著、渡会圭子訳『大気を変える錬金術』(みすず書房、2010年)である。
 今から100年以上前、19世紀末から20世紀初頭にかけて二人の科学者によって、空中の窒素を固定しアンモニアが大量に生産できるようになった。その二人とは窒素の固定の方法を編み出したフリッツ・ハーバーそして工業化によるアンモニアの大量生産システムを完成させたカール・ボッシュである。二人の業績をとって、空中窒素の固定はハーバー・ボッシュ法と呼ばれている。筆者は「空気をパンに変える方法」と称賛している。というのも植物の三大栄養素である窒素肥料を人工的に大量に製造できるようなったからである。この結果、小麦をはじめ多くの作物を大量に生産できるようになった。その一方でハーバー・ボッシュ法は「空気を火薬に変える方法」でもあった。ほとんどの火薬はアンモニアから合成される硝酸化合物を原料としているからである。
 ハーバー・ボッシュ法が発明されるまで、人類はさまざまな方法で肥料と火薬の原料となる窒素化合物を手に入れようとしてきた。最も簡単な方法は、天然の硝石を入手することだった。しかし、天然に存在する硝酸化合物の多くは硝酸ナトリウムや硝酸カルシウムなど水溶性のため、砂漠のような乾燥地帯にしか存在しなかった。そのため古来インド、中国そして南米のチリなど限られた乾燥地域からしか産出しなかった。そのため天然硝石のない日本をはじめヨーロッパ諸国では人造で硝石を生産する方法を編み出したのである(ちなみにこの人造硝石の製造方法やその起源等について体系的な研究はいまだにない。現在、私が科研の挑戦的萌芽研究で3年間の調査を今年から開始した。3年後を乞うご期待)。
 人造硝石の製造法には越中五箇山、飛騨白川の培養法、ヨーロッパの牧畜法(硝石プランテーション)そして世界中広く行われている古土法の三種がある。いずれの方法であれ黒色火薬の7割を占める硝石の生産量は微々たるものである。日本の場合でも越中五箇山で一年間の硝石生産量は100トンにも満たない。つまり19世紀末までは戦場で使用される弾薬の量は日本やヨーロッパでもわれわれが想像するほどには多くはなかった。
 状況が一転したのは、ハーバー・ボッシュ法によって窒素を空中から無尽蔵に入手できるようになって以降のことである。プロシア皇帝ウイルヘルムⅡ世が、ハーバー・ボッシュ法を知って、これで心置きなく戦争ができると語ったのは有名な話だ。第1次世界大戦が大量破壊の凄惨な戦争になったのは、ハーバー・ボッシュ法によって大量の火薬を生産できるようになったからである。ちなみに第1次世界大戦で使用された塩素ガスをはじめ毒ガスもハーバー・ボッシュ法によって大量生産が可能になった。
 大量に生産された弾薬は戦場に大量輸送しなければならない。そのために自動車、鉄道が発達した。また戦場で弾薬を大量に消費するために機関銃が発明され、また大砲の大型化が進んだ。巨砲を搭載するために陸上では戦車や自走砲が登場し、海上ではイギリスのドレッド・ノートのように大砲による海上決戦が本格化した。このように窒素の獲得は戦争の形態をも一変させたのである。
 現在、窒素に代わってウランの獲得が安全保障上の問題となっている。状況は19世紀末の窒素の獲得に各国が鎬を削っていたときにそっくりである。窒素がパンや火薬をわれわれに与えたように、ウランはエネルギーと核兵器をわれわれにもたらした。そしてなによりも問題なのは、窒素もウランも大きな環境問題をわれわれにもたらしたことである。ウランが環境に破滅的な影響を与える可能性があることはよく知られている。その一方で空中から固定された窒素の多くが植物に栄養として消費されないままに大量に川や湖、海を汚染していることは案外知られていない。ヘイガーは、本書の最後で窒素による環境問題について指摘している。まさに卓見である。
さて、こうしてみると戦争も国際政治も窒素とウランという二つの元素の争奪の歴史に還元できるのではないか。さらに情報時代の戦争はDすなわちデジタル化された情報の争奪ということになるのではないか。

2010年6月17日木曜日

憲法9条部隊に対する立ち位置

 憲法9条部隊について『朝日新聞』に掲載されたおかげで、何件か問い合わせがあった。中には、いささか早とちりされた方もいるようなので、以前に書いたブログの一部を抜粋することで、あらためて私の立ち位置を確認しておきたい。
「私はいわゆる護憲派ではない。地域紛争や「新しい戦争」など冷戦後の安全保障環境には必ずしもそぐわない憲法9条を改正し、自衛隊を軍隊と認め集団的自 衛権の政府解釈も変更し、自衛隊を国連PKOや国際警察活動や国際治安維持活動に積極的に参加させるべきだと考える改憲派である。
 にもかかわらず、現時点では改憲ではなく、次善の策として護憲による国際協力を主張せざるを得ない。後に詳述するが、その理由は二つある。
 第1に、政権交代 という国内政治情勢の変化、平和憲法に対する国内外の肯定的世論などを考慮すると、憲法9条改正はもちろん集団的自衛権に関する政府解釈の変更もここ当分 難しいと考えられるからだ。
 これよりももっと重要な第2の理由がある。それは日本の平和憲法が日本にとって最も強力なソフトパワーの一つになったことである。自衛隊というハードパワーが国際社会で使えない以上、代わりのパワーを考えざるを得ない。これまでは軍事力に代えて経済力をハードパワーと して用いてきた。しかし、その経済力にも翳りが出てきた。そこで経済力の補完、代替として平和憲法がソフトパワーとして重要性が増してきたのである。
  しかし、平和憲法を軍事力や経済力のハードパワーを補うに足るソフトパワーとするには平和の実践が必要となる。それは護憲派がこれまで行ってきたよう憲法 9条を護れと政府に向けて叫ぶことではない。『9条を輸出せよ』(吉岡達也、大月書店、2008年)と護憲派が主張するように世界に日本の平和憲法を輸出しなければならない。平和憲法の輸出とは単に憲法の前文や9条を世界に「布教」、「伝道」することではない。具体的には非暴力による、自衛隊に頼らない、 軍事力に依拠しない国際協力の実践である。それが実現できてはじめて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とある憲法前文の「名誉ある地位」を日本が占めることができる」。
私の立ち位置は、上述のように非暴力・無抵抗主義のダチョウ派でもなければ、非武装・抵抗主義のハト派でもない。時には暴力も戦争もやむを得ないとの正戦を信奉するフクロウ派である。フクロウ派とはいえ、否、功利主義的に熟慮するフクロウ派だからこそ現在日本を取り巻く内外の安全保障環境を功利主義的に判断すれば、自衛隊による国際貢献活動よりも民間の「憲法9条部隊」による国際貢献活動の方がより効率的、有効であり、また日本外交にとっても利するところ大と信ずる。
現在日本のPKO活動では自衛隊は戦闘地域には参加しないことが原則である。非戦闘地域(戦闘はないが治安が著しく悪い紛争地域という意味。平和地域ということではない)なら自衛隊が行く必要はない。NGOで十分だ。問題は、だからといって、ほとんどの日本のNGOは紛争地域で活動しないということにある。イラク・サマーワへの自衛隊派遣に反対するNGO関係者は多かった。しかし、サマーワで協力活動を展開したNGOはなかった。今もイラクの治安悪化地域で活動しているNGOはほとんどない。またアフガニスタンやミンダナオ島のようないわゆる紛争地で活動している日本のNGOもまれだ。自衛隊のPKO活動には反対、しかし、自分たちも紛争地には危険で行かないというのでは、国際協力を必要としている側からみれば、日本のNGOは支援活動の阻害要因でしかない。日本のNGOもせめて他国同様にたとえ紛争地であろうとも支援活動を実施すべきではないか。
 今年(2010年)2月にカブールで自爆テロに遭遇したが、犠牲者にはインド人医師が数人混じっていた。否、むしろ彼らを標的に自爆テロが実行されたと言われている。彼らは、インド政府の支援でカブールに建設された病院の医師だった。私が宿泊していたホテルにはNGO関係者なのか、企業人なのかわからないが、インド人らしき人も多かった。アメリカ、イギリスなど他の国のNGO関係者もアフガニスタンでは珍しくない。
またつい最近イスラエルにより封鎖されているガザに支援物資を届けるためにNGOが仕立てた支援船がイスラエル海軍によりだ捕され、死傷者がでる事件が起こった。その中に日本人はいなかった。こうした活動こそ非武装、非暴力を理念とする日本のNGOが率先してすべき運動ではないのか。
 「憲法9条の会」をはじめ護憲派の人々は、自衛隊を派遣せず、また軍隊を派遣しないこと平和に繋がると考えているようだ。一方、改憲派の多数は、国際貢献には自衛隊の派遣が必要であり、また治安回復には軍隊が必要だと信じている。両者とも日本が最後に戦った第2次世界大戦の「古い戦争」を前提にしているために、どちらも半分の真実しか言い当てていない。現在の「新しい戦争」においては、非武装、非暴力では解決できない場合もあれば、武力だけでは解決できない場合もある。要は、どのような場合に平和的手段が必要で、どのような場合に暴力的手段が必要かということを功利主義的に判断することである。
旧い世代の護憲派、改憲派は今もなお国内だけで通用する内向きの不毛の論争を延々と続けている。新聞には70歳代、80歳台の老人達が一方で戦争の悲惨さを語り、一方で軍人の英雄譚を語っている。どちらも懐旧譚に耽っているだけだ。思想のガラパゴス化どころか認知症化だ。こうした閉塞状況を打ち破るために憲法9条部隊による平和憲法の実践が必要なのだ。
アメリカでは志願公務員からなる民間遠征労働部隊(CEW:Civilian Expeditionary Workforce)という部隊が編成され、アフガニスタンに派遣されている。彼らは米軍の保護を受けながらアフガニスタンでの民生支援にあたっている。他方、「憲法9条部隊」は一切の軍隊の保護を受けずに紛争地で民生支援を実施するのである。隊員は自衛隊員以上に身命を賭して任務に遂行しなければならない。だからこそ隊員はハト派からは憲法9条の使徒として称揚され、他方タカ派からは一生報国の英雄として称賛されるだろう。
きたれ、中高年同志諸君!介護や年金に頭を悩ましている場合ではない。

我が青春・ 高橋真梨子

今日(2010年6月16日)NHKのソングス「高橋真梨子」を、ゼミ学生から誕生日プレゼントされたサントリーの「山崎」をロックで飲みながら聴いた。
 高橋真梨子を知ったのは、今から37年前の1972年のことだ(った思う)。ペドロ・アンド・カプリシアスのボーカル前野曜子に代わって二代目ボーカルになったのが高橋真梨子だった。当時私は、今は無きホテル・ニュージャパンの地下にあったニュー・ラテン・クウォーター(プロレスラー力道山が刺殺されたラテン・クウォーターがホテル・ニュー・ジャンパンに場所を移して開業していた。そのニュー・ジャンパンも1982年に火災を起こし、今は取り壊されてプルーデンシャル・ビルになっている)でショーの裏方をしていた。五人組(だと思う)のバンド、ロス・フランミンゴスと交代でペドロ・アンド・カプリシアスが出演していた。生で彼女の歌声を何度かステージの裏から聴いた覚えがある。
高橋真梨子の歌が好きというより、彼女の歌声は私の青春そのものだ。彼女の歌を聴くたびに、彼女の「フレンズ」の出だし「煌めいてた そして 戸惑う青春だった」を思い出す。大学よりもバイト先の夜の赤坂に入り浸っていた。そして仕事帰りのホステスで混み合う最終の丸の内線で新中野の四畳半の下宿に帰る毎日だった。一体、将来どうなるのだろうか、不安と希望の入り交じった青春は、前野曜子から高橋真梨子に歌い次がれた「別れの朝」、「ジョニーへの伝言」、「五番街のマリー」とともに過ぎていった。
そして還暦を目前にした今、桂枝雀の落語とともに高橋真梨子の歌は旅先での愛聴歌となった。ルワンダの首都キガリで聴いた「あなたの空を翔びたい」。イスラエルのガザ近くのアシュケロンのホテルのベッドで聴いた「ハート&ハード〜時には強く時には優しく〜」。スリランカ内戦で解放されたばかりの街トリンコマリーのホテルで聴いた「桃色吐息」。マレーシアのサンダカンからフィリピンのサンボアンガ行きのフェリーの、ゴキブリの這いずり回る、冷房の壊れた、うだるような個室で聴いた「別れの朝」。アブガニスタンのカブールで自爆テロで閉じ込められたホテルで聴いた「五番街のマリー」。今、高橋真梨子の歌は青春の思い出よりも、訪れた紛争地の思い出とともにある。
願わくば、人生最後の瞬間に聴く歌は「別れの朝」でありたい。

2010年5月5日水曜日

古田博司『日本文明圏の覚醒』を読む

古田博司『日本文明圏の覚醒』を読む
 日本文明は中華文明とは歴史的に異なるがゆえに、「東アジア共同体」などのアジア文明論は虚構であり、したがって中国や韓国とのつきあいはほどほどにというのが本書の概要である。
 日本文明がいかに中華文明と異なるかを、該博な知識を網羅して、縷々説いている。残念ながら、古典の知識がなければ、読み進むのに骨が折れる。ここは、ひとまず、日本文明は独立した文明であるとういことを理解すればよい。
 かつてサミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』で日本を一つの独立した文明に数えていた。彼は当時の日本異質論を根拠に単純に日本を独立文明としたのだろう。そのとき、私は単純に中国と同じように日本は儒教文化圏ではないだろうか、あるいは儒教、仏教の影響を受けた中国、韓国などと同様にアジア文化圏といってよいのではないかと思っていた。
 しかし、古田はそういう私の蒙を啓いてくれた。そういえば、かつて畏友内藤酬君が日本文明とは一体何かを熱く語っていたことを思い出した。儒教が伝来する前、仏教が伝来する前にあった日本の思想、文化、文明とは一体何かを、彼は縷々語っていた。古田博司が内藤君と全く同じ問題意識をもって日本文明の独自性を中国、韓国、日本の古典から現代に至る数多くの書物を分析しながら、明らかにしている。
 ところで、私にとって書を置く間もないほどに一気呵成に読み進んだのは、日本文明論ではない。現在日本がポストモダンに入っているという世界認識に引かれたからだ。彼はロバート・クーパーの『国家の崩壊』からプレモダン(農業時代)、モダン(工業時代)、ポストモダン(情報時代)の三つの時代概念を借りて、現在の日本がポストモダンの時代に入っていることを、モダンに入った中国と対比しながら論じている。
 三つの時代に分けるというというのは、田中明彦『新しい中世』の「第一圏域(新中世圏)、「近代」的国際関係が優越している第二圏域(近代圏)、グローバリゼーションに参加する基盤さえ崩壊しつつある第三圏域(混沌圏) という3つの圏域から世界が成り立っているという世界観でもおなじみだ。こうした三つに分けるという発想は、誰かの独創というわけではない。過去、現在、未来という時間に対応した言い方でしかない。だから私も1999年に出版した『二十一世紀の安全保障』で、クーパー以前に前近代、近代、脱近代という分類をしていた。だからといって、自慢しているわけではない。誰もが考えつくことでしかないということを言いたかっただけである。
 それはともかく、ポストモダンの世界がニヒリズムの世界であるということに強く共感した。私は『テロ-現代紛争論-』で、9.11を手段が目的化した、つまり目的なきニヒリズム・テロであるということを主張していた。また20年近く前から私は、『現代戦争論』でも明らかにしたように、テロはポストモダンの紛争であり、国家間戦争はモダンの戦争であると主張していた。誰からもかえりみられることはなかったが、古田の書を読み、大いに勇気づけられた。私の説は決して奇矯な説ではなかったのだ。アルカイダは決してイスラム防衛のためにテロを行ったのではない。また単に反米だからテロをおこなったのではないだろう。単なる時代の気分が彼らにテロをおこさせたのかもしれない。そこにセンター・ビルがそびえ立っていたから、飛行機でつっこんだのかもしれない。1960年代にはやったイヨネスコやベケットの不条理劇やアルベール・カミュの『異邦人』を思い出す。
 『テロ』でも強調しておいたのだが、アルカイダのテロを原因をさがして、それへの対策を考えるという近代合理主義的思考そのものがもはや無効になったのではないか。古田も全くおなじことを主張している。因果律で成り立つ近代の合理主義的な思想は破綻し、近代合理主義に基づく学問とりわけ社会学や人文学は崩壊してしまった、と。私は満腔から彼の説に同意する。私の専門とする国際政治学はもちろん近代に発展してきた現在の学問ががもはや学として成立しない。したがって古田も主張するように知の集合である学会や「学者」の世界である学界が成り立たない。私は昨年国際政治学会を退会したが、今や学会若手のジョブ・ハンティングの場でしかない。年寄りがじゃまをしてはいけない。
 古田の近代合理主義の因果律への懐疑は、その文体にも及んでいる。論文は、まさに因果律にしたがって執筆しなければならないとわれわれは教えられてきた。しかし、因果律が破綻したとするなら文章も因果律を無視して気分や思考のおもむくままに書くしかないではないか。結局古田はエッセーというスタイルをとって執筆している。われわれ凡人がエッセーを書くと、単なる身辺雑記になりかねない。しかし、古田の古典に対する該博な知識と豊富な古語の語彙はエッセーを超えて、新たな論文のスタイルをつくりだしている。彼はもともと擬古文が得意だったのだが、今回は擬古文体をとらずに語るように執筆し、そこに漢語が散りばめられている。
 ちなみに漢語の使い手では古田が一番だが、大和言葉の使い手の一番は故坂部恵先生だろう。両者の著作には、頁を開いたとたんに打ちのめされた。私には全くかけない文章だった。
 さてポストモダンに入った日本は、モダンの上り坂にある中国とどのようにつきあっていけばよいのか。古田はさらっとつきあえばよいという。日本は前近代の徳川時代に「鎖国」で日本を守ってきた。古田は前近代から、近代という長いトンネルを抜け出ると、そこには脱近代という世界が広がっていたという。古田によれば、その脱近代は前近代にどうやら様相が似ているらしい。であれば、日本は前近代の鎖国のように脱近代の現在再び鎖国政策とった方がよいのかもしれない。鳩山政権の体たらくを見るにつけ、鎖国が一番かもしれないと思う「今日この頃」である。

2010年4月7日水曜日

紛争の十字路-アフガニスタン-

 ジャーナリストの常岡浩介氏が行方不明になって一週間がたつ。一説にはタリバンが仲間の釈放を求めて誘拐したとの情報がある。しかし、ムスリムで親タリバンの彼が身内同然のタリバンに誘拐されたとはにわかに信じがたい。
 常岡氏のブログ、「さるさる日記」は1年前から時折のぞいてきた。そこから読み取れるのは、明らかに反米、反露の親イスラムのジャーナリストの姿だ。チェチェン紛争やアフガニスタン紛争の取材を通じて、イスラムの人々に対するシンパシーが湧いてきたのだろう。彼の思いは、当然のことながら、制約の多い日本のジャーナリズムの世界には通用しない。長崎放送を退職してフリー・ジャーナリストととして取材を続けていた。
 彼が行方不明になったのは、タリバンの支配地域である北部クンドゥズ州とバグラン州の州境付近だ。一般の外国人がカブールから出るのは至難の技だ。私も2月の訪問時にカブールからほんの目と鼻の先にあるバグラム空軍基地を再訪したいと思った。しかし、かなわなかった。ガイド曰く、取材許可証や特別の理由がなければ途中の検問所を通過できないとのことだった。常岡氏はガイドとともに北部州までいったところをみると、取材許可証で検問所を通過したのだろう。
 常岡氏が何の目的で北部州までいったのかは、よく分からない。単に現在のアフガン情勢を取材しにいったのか、あるいは特定のタリバン幹部とのインタビューが目的だったのか。あるいはそれ以外の何らかの目的があったのか。目的がなんであるにせよ、誘拐されたことで、彼自身がニュースになってしまったのは、ジャーナリストとして大失態だろう。
 冒頭でも記したように常岡氏は反米・反露で親イスラム系のジャーナリストだ。私から見ればジャーナリストの一線を踏み越えるような活動もしている。インテリジェンスの世界でもそれなりの有名人で、ロシアでは彼はペルソナ・ノン・グラータだ。それだけに今回の行方不明事件は、単純にタリバンの仕業とは断定しがたい。深読みすれば、彼の行動を快く思わない勢力、たとえばパキスタン情報部かCIAの仕業かもしれない。あるいは単純に外国人誘拐団の身代金目当ての犯行かもしれない。
 アフガニスタンの情勢は、カルザイ政権+米・英+国連(ISAF)対タリバン+ヘクマティアル派+アルカイダの政府対反政府の二項対立的な紛争ではない。近隣の中央アジア諸国、イラン、パキスタン、中国さらにはインド、米、英、国連などの諸国家の利益やイスラム勢力の思惑が複雑に絡み合った紛争である。アフガニスタンはかつての東西文明の十字路だったが今や紛争の十字路になっている。常岡氏は紛争の十字路に迷い込んだようだ。