陸前高田から送られた松の木を京都市が放射能汚染を理由に大文字焼きに使うことを拒否した。そして成田山新勝寺でも同様に陸前高田の松の木をおたきあげに使うかどうかをめぐってもめている。少しでもセシウムが検知されれば、おたきあげには使用しないという。京都市は国が薪を燃やすに安全かどうかの基準値を決めないから、結局は放射性物質が検知されればやめざるを得ないという。しかし、一部の反原発の専門家からは、自然界や医療による被曝を除いて、できる限り被曝しない方が良いという意見がある。これは専門家の意見というよりも素人の知恵だろう。であれば、安全な基準値などないわけだから、少しでも放射線が検出されれば被曝しないように放射性物質を避けるべきだということになる。
徹底して放射性物質を排除し被曝しないようにという議論を実行しようとすれれば、恐らくそのいくつき先は、松の木だけでなく陸前高田に暮らす人々をも事実上拒否することになる。実際、原発事故当初、除染証明がなければ避難所に入居させるべきではないといった意見があったという。汚染されていない地域に暮らす人々から見れば、被曝を避けるためには当然ではないかという主張だろう。しかし、この主張の正当性は、差別を助長するどころか、その主張をしている人々もまた差別される側に回ることを覚悟しておかなければならない。
8月上旬に訪れたリビアの田舎で、道路沿いの食堂に入った。私が日本人であることを知ると、小学生くらいの男の子が「フクシマ、フクシマ」とはやし立てた。内戦下のリビアの、しかも周りは砂漠しかない、道路沿いに立つ食堂で、まさか子どもからフクシマといわれるとは思わなかった。彼は、フクシマが何を意味しているのか、恐らくは正確にはわかっていないだろう。しかし、もはや日本や日本人は世界から差別されているのである。
神戸ビーフ、高級野菜や果物も、はては中古車に至るまで放射能汚染の風評被害で輸出が大幅に落ち込んでいる。もはや日本全体が原発事故で放射性物質に汚染されているイメージが世界中に広がりつつある。
こうした皮肉な状況にも関わらず国内ではヒロシマ、ナガサキですでにわれわれが経験している被爆者差別を助長するような傾向が広がりつつある。とりわけ宗教行事の送り火やおたきあげにおいてさえ被爆者差別につながる動きがあったことは怒りを通り越して、悲しい限りである。同じ日本人として、同胞として、原発の影響を受けた人々に少しでも共感を寄せ、たとえ被曝してでも、ともに助け合うことが必要だろう。まるで病的な潔癖症のように被曝を恐れて少しの汚染も許さないのでは、もはや東北の復興は望めない。いつから日本人はこれほどの潔癖症になったのだ。昭和生まれの世代は大国とりわけ中国の核実験でたっぷりと放射性物質を浴びている。それでも寿命は伸び続けている。
汚染をおそれてかもしれないが、これほど未曾有の大震災にも関わらず、ボランティア数は7月31日現在で62万である。阪神淡路大震災では4カ月目の時点で120万である。いろいろな条件の違いがありにわかに比較できないが、参加者数が少ない理由の一つは被曝を恐れてのことだろう。5月末にいわき市に行き、福祉協議会の人から聞いた話では、30キロ圏内はもちろんその外でも原発に近いところにはボランティアに行く人が少ないという。
内外のメディアでは、東北の人々の秩序だった振る舞いについて日本では東北人の美徳、そして世界では日本人の美徳として賛美する論調が多い。しかし、その賛美の裏側に、賛美することによって差別を償うという構図が透けて見える。大文字焼きとおたきあげの問題に日本人の本音が現れた。それは、同時に世界が日本人全体に対して向ける視線と同じだということを、「潔癖症」の人は肝に銘じておく必要がある。
2011年8月14日日曜日
ラファ訪問記
8月1日から11日まで中東の民主化の動向調査のためにエジプトとリビアを訪問した。
まずはガイドブック風に旅行の概要を記しておく。
8月8日(月)7時半にトルゴマーン・バス・ステーションからバスでシナイ半島の最東端の街アリーシュを目指し出発。2009年2月にも一度、ガザへの入境を目指したが、その時はまさに門前払いであった。そこで再び挑戦した。今回は、エジプト新政権がラファの検問所を開放したとのことで、その実態を調査するためにラファを再訪することが目的であった。そして運が良ければガザに入境することを目指していた。
昼過ぎにアリーシュの街に入ると、エジプト軍の装甲車が目につき始めた。2年前にはなかった光景だ。聞けば、一週間前にイスラム反政府勢力との間で銃撃戦が起こったとのことだ。民主化闘争以降、イスラム勢力の台頭と共にシナイ半島の治安が悪化しているとのことだったが、装甲車の姿を見ると、それが現実ものとして受け止められた。
バス・ステーションの周辺は河川工事のために、様相が一変していた。工事のためかつてはたくさん並んでいた露店が姿を消していた。また人の往来が激しくなったせいか、バスの乗客目当てにタクシーの客引きが多くいた。2年前には一台もタクシーはなかった。その時は仕方なくバス・ステーションの係員に白タクを調達してもらいラファまで行ったほどだ。今回は全くそのような手間をかけ無くてすんだ。70ポンドという高額の料金を支払って、ラファまで行った。途中、数カ所の検問所があったが、誰何されることもなくラファの検問所まで20分程度でついた。2年前よりも兵士や装甲車の数が増えている。
ラファの検問所の様相も一変していた。前回は検問所の手前で軍の情報機関の係官と思しき男に即座に追い返された。しかし、今回は検問所のゲートは開いており、ゲートの中に入ってエジプトの出国審査の国境係官にガザまで行きたい旨を告げることができた。彼は、同僚となにごとか話して、アメリカ、イギリス、日本はノー、パレスチナはオッケーと言った。予想通りパレスチナ人以外は入出国できない。
JMAS(日本地雷処理を支援する会)の研究員の証明書を出して、NGOのメンバーの肩書で入境を試みようと思ったが、残された時間がわずかしかなく、思いとどまった。入境するよりも検問所の周りの様相が一変していることを粒さに観察した方がよいと判断した。
検問所の周りには数十台の白タクが客待ちをしていた。また両替商も何人かいて、ポンドとイスラエルのシュケルの両替をしていた。2年前には検問所周辺にはエジプト軍の兵士以外だれもいなかった。それが、今ではタクシー運転手、両替商、そしてパレスチナから出る人、入る人でごった返していた。
タクシー運転手の間では客の取り合いで殺気立っていた。たまたま私を呼び止めた運転手が50ポンドでアリーシュまで行くというので、一旦オーケーした。すると、どうもその運転手が客引きをしては行けないところで私と交渉したと言うので、運転手同士で口論が始まった。一人の運転手が5ポンドでいいと言うので、そちらに乗り換えた。すでにパレスチナから出てきた家族連れが5人乗り込んでいた。私が乗り換えたことで再び運転手の間で口論が激しくなった。客の数、すなわち出国するパレスチナ人の数がそれほど多くないのが原因かもしれない。実際、一日に出入国できるパレスチナ人の数は制限されているとのことだ。
とはいえ、事実上ガザの封鎖には風穴が開いた。一本しかないガザに続く道路には、ガザ行きには物資を満載したトラックや、逆にガザから帰る空のトラックがひっきりなしに往来していた。2年前にはアリーシュからラファの検問所まではほとんど車の往来はなかった。
イスラエルはこうした状況に神経をとがらせている。イランからスーダン経由でシナイ半島、ラファそしてガザへと武器が流入することを恐れている。実際、これだけトラックの量が多くなり、またシナイ半島の治安が悪化した現状を考えれば、イスラエルの懸念もあながち杞憂と言えない。これまでは地下トンネルを監視していれば良かっただけだったが、エジプトにトラックによる物資輸送の管理を委ねざるをえなくなった。
ラファの検問所が完全に開放されたら、150万人の人口を抱えるガザ地区はもちろん近隣のアリーシュをはじめシナイ半島は多いに発展するだろう。その時パレスチナがエジプトに吸収されるか、それともシナイ半島がパレスチナ化するか、いずれにせよラファの開放は地域全体を大きく揺るがす出来事になりつつある。
そんな妄想に耽りつつ、再び6時間バスに揺られてカイロに帰った。
まずはガイドブック風に旅行の概要を記しておく。
8月8日(月)7時半にトルゴマーン・バス・ステーションからバスでシナイ半島の最東端の街アリーシュを目指し出発。2009年2月にも一度、ガザへの入境を目指したが、その時はまさに門前払いであった。そこで再び挑戦した。今回は、エジプト新政権がラファの検問所を開放したとのことで、その実態を調査するためにラファを再訪することが目的であった。そして運が良ければガザに入境することを目指していた。
昼過ぎにアリーシュの街に入ると、エジプト軍の装甲車が目につき始めた。2年前にはなかった光景だ。聞けば、一週間前にイスラム反政府勢力との間で銃撃戦が起こったとのことだ。民主化闘争以降、イスラム勢力の台頭と共にシナイ半島の治安が悪化しているとのことだったが、装甲車の姿を見ると、それが現実ものとして受け止められた。
バス・ステーションの周辺は河川工事のために、様相が一変していた。工事のためかつてはたくさん並んでいた露店が姿を消していた。また人の往来が激しくなったせいか、バスの乗客目当てにタクシーの客引きが多くいた。2年前には一台もタクシーはなかった。その時は仕方なくバス・ステーションの係員に白タクを調達してもらいラファまで行ったほどだ。今回は全くそのような手間をかけ無くてすんだ。70ポンドという高額の料金を支払って、ラファまで行った。途中、数カ所の検問所があったが、誰何されることもなくラファの検問所まで20分程度でついた。2年前よりも兵士や装甲車の数が増えている。
ラファの検問所の様相も一変していた。前回は検問所の手前で軍の情報機関の係官と思しき男に即座に追い返された。しかし、今回は検問所のゲートは開いており、ゲートの中に入ってエジプトの出国審査の国境係官にガザまで行きたい旨を告げることができた。彼は、同僚となにごとか話して、アメリカ、イギリス、日本はノー、パレスチナはオッケーと言った。予想通りパレスチナ人以外は入出国できない。
JMAS(日本地雷処理を支援する会)の研究員の証明書を出して、NGOのメンバーの肩書で入境を試みようと思ったが、残された時間がわずかしかなく、思いとどまった。入境するよりも検問所の周りの様相が一変していることを粒さに観察した方がよいと判断した。
検問所の周りには数十台の白タクが客待ちをしていた。また両替商も何人かいて、ポンドとイスラエルのシュケルの両替をしていた。2年前には検問所周辺にはエジプト軍の兵士以外だれもいなかった。それが、今ではタクシー運転手、両替商、そしてパレスチナから出る人、入る人でごった返していた。
タクシー運転手の間では客の取り合いで殺気立っていた。たまたま私を呼び止めた運転手が50ポンドでアリーシュまで行くというので、一旦オーケーした。すると、どうもその運転手が客引きをしては行けないところで私と交渉したと言うので、運転手同士で口論が始まった。一人の運転手が5ポンドでいいと言うので、そちらに乗り換えた。すでにパレスチナから出てきた家族連れが5人乗り込んでいた。私が乗り換えたことで再び運転手の間で口論が激しくなった。客の数、すなわち出国するパレスチナ人の数がそれほど多くないのが原因かもしれない。実際、一日に出入国できるパレスチナ人の数は制限されているとのことだ。
とはいえ、事実上ガザの封鎖には風穴が開いた。一本しかないガザに続く道路には、ガザ行きには物資を満載したトラックや、逆にガザから帰る空のトラックがひっきりなしに往来していた。2年前にはアリーシュからラファの検問所まではほとんど車の往来はなかった。
イスラエルはこうした状況に神経をとがらせている。イランからスーダン経由でシナイ半島、ラファそしてガザへと武器が流入することを恐れている。実際、これだけトラックの量が多くなり、またシナイ半島の治安が悪化した現状を考えれば、イスラエルの懸念もあながち杞憂と言えない。これまでは地下トンネルを監視していれば良かっただけだったが、エジプトにトラックによる物資輸送の管理を委ねざるをえなくなった。
ラファの検問所が完全に開放されたら、150万人の人口を抱えるガザ地区はもちろん近隣のアリーシュをはじめシナイ半島は多いに発展するだろう。その時パレスチナがエジプトに吸収されるか、それともシナイ半島がパレスチナ化するか、いずれにせよラファの開放は地域全体を大きく揺るがす出来事になりつつある。
そんな妄想に耽りつつ、再び6時間バスに揺られてカイロに帰った。
リビア訪問記
8月1日から11日まで中東の民主化の動向調査のためにエジプトとリビアを訪問した。
まずはガイドブック風に旅行の概要を記しておく。
8月4日早朝、いよいよベンガジに向けて出発。朝6時半にカイロ市内のトルゴマーン・バス・ステーションからバスに乗り、カイロから約600キロのマルサマトルーフについたのが昼の12時半。料金は65エジプト・ポンド(約850円)。ここで1時半に地中海に面した国境の町イルサローム行きのバスに乗り換え、約200キロを2時間半で走り、4時に到着。料金は20エジプト・ポンド(約250円)。
ここからは公共の交通機関はなく、国境までの数㎞を乗合の白タクでいくことになる。料金は2ポンド。リビアに帰る二人連れと一緒にオンボロの白タクに乗り国境まで行く。地図ではわからなかったが、エジプトとリビアの国境は台地で隔てられている。壁のようにリビア台地がイルサロームの町の前にそびえている。車は急な坂道を2~300メートル昇りつめると、そこには平原が広がっている。平原をさらに走るとエジプト・リビアの国境検問所が見えてくる。
国境検問所でエジプトの出国手続の場所や要領がわからず、同乗したリビア人の若者に手助けをしてもらった。なんとかエジプトの出国が済むと、今度は再び白タクに乗り換えて数百メートル先のリビアの検問所に行く。歩いても良いくらいの距離だが、2ポンドとられた。カダフィ政権側が支配している国境検問所なら、恐らく東京で事前にビザを入手しなければならないところだ。しかし、反政府側が管理しているためにビザは不要だった。若い、英語の流暢な係官、といっても役人のような風体ではなく、反カダフィの一般市民が役人の代行をしているような様子だった。それは警戒にあたっている民兵にも言える。戦闘服は着ているが、とても職業軍人には見えない。恐らく一般市民から志願した民兵だろう。民兵の中にはどうみても私と同じくらいの年格好の老人も混じっていた。
いろいろと思いがけないことが起こったが、なんとかリビア入国手続をすませることができた。一番の心配は、ベンガジまで行く交通手段があるかどうかということだ。事前に朝日のカイロ特派員の方からは、交通手段があるかどうかが問題といわれていた。ところが幸運にもベンガジ行きの大型バスが止まっていた。乗り込むと外国人は私と欧米系の若い青年ジャーナリストの二人だけであった。彼とは、翌日に偶然にベンガジの町で再会した。
ベンガジまで恐らく5~600㎞はあったろう。夕方の6時半に出発して、ベンガジに到着したのは、8月5日の午前3時過ぎだ。料金は20リビア・ディナール(約1200円)と記憶している。途中、夕食のために30分もの休憩をとった。通常はこれほど長く休憩はとらない。ラマダンのために昼間全く食事をしないので、日が暮れるとすぐに運転手も乗客も皆たらふく夕食をとる。そのために普段よりも休憩が長くなる。
ベンガジまでの道中、十数回にわたってしつこく、しかも本格的な検問を受けた。銃を抱え、戦闘服を着た民兵がバスに乗り込み、乗客のパスポートや身分証明書を丹念にチェックしていた。それが2~3回ならまだしも、ほぼ30分に一回は検問を受けた。これほど厳しい検問体制を布いているところをみるとよほど治安が悪いのかと緊張した。しかし、実際にはベンガジの治安は全くといってよいほど悪くはなかった。またリビアからの帰路では一回も検問を受けることもなかった。昼間だったからなのか、それとも地元のマイクロバスを使っていたからなのか、理由はよくわからないが、昼と夜の検問の厳しさの違いには驚いた。
ベンガジのバス・ステーションに午前3時15分に着いたものの、ホテルを予約していたわけではなく、いささか途方にくれた。なんとか白タクをつかまえて、ホテルに案内してもらった。高級ホテルに行ってくれと頼んだのだが、言葉がうまく通じなかったのか、私の服装をみて運転手が判断したのか、連れて行かれたのは一泊25ディナールの安宿だった。
ひと眠りしてから、朝早くに街を歩いていると、荒れ果てた元高級ホテルのような建物があった。周りは焼け焦げたモニュメントや荒れ果てた公園などがあり、いかにも戦闘があった痕跡がそこかしこに残っているような場所だ。ホテルの窓は砂で汚れ、また人影も全くなかった。どうみても営業しているようには見えなかった。しかし、良くみるとエアコンの音がし、灯がついているところもあった。念のためさらに近づくと、玄関に人がいた。営業していたのだ。後でわかったが、そこはベンガジの最高級ホテルのテイベスティ(Tibesty)・ホテルだった。さっそく安宿を引き払い、ティベスティ・ホテルに移った。予約無しで直接宿泊を申し込んだが、全く何の問題もなかった。一泊約100ドルだった。
帰国後わかったことだが、このティベスティ・ホテルは6月1日に爆発事件が起こり、7月4日には敷地内に駐車してあった車から3-40キロの爆弾が発見されたという。このホテルが標的になっているのは、反政府勢力の要人や外交官、外国メディアが頻繁に利用しているからだろう。たしかにホテルの宿泊客をみると欧米系のいかにもジャーナリストらしい連中を多く見かけた。またビジネスマンらしい人もいた。アジア系でビジネスマン風の多分中国人らしき男性を一人見かけた。噂によると、米英の諜報機関の連中が多く滞在しているのではないかということだ。とにかく宿泊客があまり多くはない、多分20~30人程度でホテルの部屋数の一割も埋まってはいなかった。私も相当目立つ存在だったと思われる。
8月5日は金曜日でイスラムの休日。朝、人通りがあまりなかった。内戦で街がすっかりさびれてしまったと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。午後から多くの人が街に繰り出し、他のイスラムの街と少しもも変わらぬ賑わいを見せていた。
ベンガジの街をタクシーや徒歩で回ってみたが、とりたてて変わったところはない。民兵を見かけたのはティベスティ・ホテルや海岸の通りの検問所くらいである。ホテルの警備はカイロでも同じで、むしろカイロのホテルの方が厳しい。ホテル以外では道路の検問所以外、民兵の姿もほとんど見かけなかった。警官と思われる風体の人物はついに見かけなかった。兵士や警官がいたるところに目につくカイロやパレスチナとの国境の町アリーシュよりも、見た目、治安はよさそうだ。
タクシーがあまりなく、白タクが一般的だ。だから手を挙げればすぐに車がとまり、行き先を告げると連れて行ってくれる。私はいつも5ディナール(300円)程度を払っていた。カイロのタクシーの水準からすると高すぎる気もしたが、日本に比べれば、とつい5ディナール紙幣を渡してしまった。
町中にゴミがあふれていた。公共サービスが上手く機能していない印象を受けた。内戦の混乱のせいかと思ったが、ゴミ収集車は市内を巡回しており、単に人手が足りないということなのかもしれない。ゴミといえば、リビアにはいってから特に目についたのが高速道路の周辺で一面に白い花が咲いているかのようなレジ袋の多さだ。エジプトでも見かけないわけではなかったが、とにかくすさまじいレジ袋の数量だ。運転手が皆ゴミを車から放り投げているためだ。
ベンガジでは物資や食糧が不足しているのではないかと言われていたが、露店や商店、市場を見た限り、そんなことは全くなかった。野菜も果物も新鮮なものが多く並べてあった。また私自身、すり切れ破れたズボンに代えて新しいズボンを買ったが、服屋には商品が豊富にあった。車も高級車は日本製という印象だ。私が帰路に雇った車は、日本からエジプトのアレキサンドリアに陸揚げされたことを示す車の配送伝票が誇らしげに窓に張り付けてあった。一般車では韓国のヒュンダイが特に目についた。
内戦下で人々が呻吟苦吟しているのではないかとの予断は見事にはずれた。内戦の爪痕を残していたのは、私が見た限り、ホテルの周辺の焼け焦げた建物と海岸近くに立てられた内戦の犠牲者を悼むテント村だけだった。海岸には十数張りのテントが立てられ、そこには恐らく内戦の犠牲者と思われる人々の遺影が飾られていた。
ベンガジが反政府勢力の勢力下にあることは、国旗でわかる。今年2月に反政府勢力の国民評議会は赤、黒、緑の三色旗に三日月と星を中央にあしらった1951年から69年まで王政時代に使用されていた旗を国旗として採用した。リビアに入国して以来、どこに行ってもこの旗があふれかえっていた。玄関の扉にわざわざペンキで国旗を描いている家も数多くあった。露店でも大小の国旗が数多く売られていた。
ラマダン中は日が暮れてからが、人々の活動の時間帯である。イフタールと呼ばれる断食開けの食事を家族で食べるために、町から人や車がほとんどいなくなる。ホテルでも夕食時にはレストランに宿泊客が一斉に押しかけ、皿一杯にご馳走を盛って、宴会のような騒ぎである。そして食後には人々は外に繰り出し、子どもたちは夜遅くまで遊び回っている。大人は喫茶店で水タバコを燻らしながら友人、家族と会話を楽しむ。ベンガジもカイロと全く変わらず人々はイフタールを楽しんでいた。
カイロに帰ってからわかったが、私がベンガジを訪れた前日に小池百合子議員が、まさに寸暇を惜しんでベンガジ入りし、国民評議会のアブドルジャリル議長と会談していた。聞くところによると当初陸路でのベンガジ入りを計画していそうだが、時間がかかるために国連機を使ってギリシアからベンガジに飛んだということだ。現在リビアには民間航空機の乗り入れは全て禁止されている。テレビ朝日が小池議員の会談の模様や犠牲者の遺影を見入る様子を放映していた。遺影が展示されている場所は、私も訪れた海岸近くの国民評議会の建物とおぼしきあたりではなかったろうか。
一般旅行者がリビアに入るには、今のところはエジプトから陸路で入国するしかない。反政府側はビザがいらないが、チュニジアから陸路でトリポリに入ろうとすれば、ビザが必要となる。多分国境をまだカダフィ側が制圧していると思われるので、個人ではなかなかビザがとれない。在京リビア大使館のホームページを見ると、個人によるビザ取得は困難を極めるようだ。ベンガジの街中で偶然再会した若いジャーナリストはチュニジアから陸路でトリポリに入ったということだ。またCNNもトリポリからチュニジアに陸路で脱ける模様を放映していた。ジャーナリストにはビザを発給しているのかもしれない。
私のパスポートにはすでにリビアの入国スタンプが押されている。これは反政府側独自の入国スタンプなのか、それとも従来からあるリビアの入国スタンプなのかがわからない。もし前者なら、トリポリ政府が支配しているチュニジアからリビア西部やトリポリに入ろうと思っても、カダフィ政権はビザを発給しないだろ。そもそも在京リビア大使館は、カダフィ、反カダフィのどちら側についているのだろうか。
ベンガジのネットは規制されている。カイロが全く規制を受けていないのも驚きだったが、反政府勢力支配下のベンガジで規制をしているのは驚きだ。カダフィ政権下での規制をまだそのままにしているのかもしれない。GMAIL への接続ができない。スカイプができるので、海外へのメール、通信が完全に規制されているわけではない。海外へのラインがあまりないのか、ネットカフェからスカイプでビデオ電話をしようとしても途切れ途切れでうまく繋がらない。ただしSMSは繋がる。だからGMAILを規制しても無意味なように思える。
ホテルでは一応WIFIが使えるらしい。らしいというのは、私のPCでは何故か接続できなかった。他に何人もが接続していたためか、接続オーバーで接続できないとのメッセージがいつも出てきた。私のPCに問題あるのかもしれない。部屋から備え付けの固定電話で国際電話をしようとしたが、繋がらなかった。また携帯は私のドコモの携帯ではリビア国内では接続できなかった。というわけで海外に向けた通信事情は必ずしも良くない。国内向けは問題ないようだ。ネットカフェでは、となりに座った男がずっとスカイプを利用していた。
私の宿泊した部屋は6階にあった。最近全く窓拭きをしておらず、窓には茶色砂がこびりついていた。その窓越しにベンガジの街を眺めると、平穏な地中海の街という印象しかない。内戦下にあると思わせるような景色は全く見ることができない。完全に反政府勢力側の支配下に入ったようである。一方CNNが伝えるトリポリの様子も平穏なようだ。ただし、NATO軍の爆撃を除けば。カダフィと反政府力の戦闘が行われているのは、ベンガジとトリポリとの間だ。しかも、ニュースで見る限り本格的な交戦というレベルではないようだ。反政府勢力の主力は戦闘には素人の民兵、カダフィ側は金で戦う傭兵で、正規軍同士の衝突とは少し様相を異にしている。片や戦闘能力不足し、片や戦闘意志が不足している。そのために相手を殲滅することができない。
反政府勢力には、いわばイラン革命の時の革命防衛隊のような印象を受けた。犠牲者の遺影を掲示し市民の士気の鼓舞を図るところなど、1985年にテヘランに行った時に見かけた光景にそっくりだ。もっともすでに革命派が政権を掌握した当時、イランが戦っていたのはイラクだが。当時イランでは入国管理から街の警備にいたるまであらゆるところで市民の志願からなる革命防衛隊が動員されていた。同じようにリビアでも民兵が検問や街の警備にあたっていた。
入国した時からどのようにして出国するかをいろいろ模索した。当然来たのとは全く逆にまた大型バスに乗って国境まで行くことを考えた。ところが、ホテルのインフメーションやタクシーの運転手にエジプト往きのバス乗り場を尋ねても、来たときに利用したバス・ステーションとは異なる、マイクロバス乗り場を教えられた。呼び込みの若者にマイクロバスの料金を尋ねると、カイロまで70ディナール、アレキサンドリアまで60ディナールと格安の運賃だ。これにはからくりがあって、マイクロバスが満席になったときの値段ということである。だから、満席にならなければ出発しない。満席でなければ、事実上、マイクロバスを借り上げることになる。
8月6日朝、マイクロバスの乗り場に行くと案の定、今日はカイロまでは行かないという。国境線までなら借り上げで110ドルで行くというので、マイクロバスを借り上げることにした。要するに安い運賃を提示して客を呼び、実際には客との交渉で運賃を決めるのだ。出発して国境線に近づくともう200ドルを払えばカイロまで行ってもよいと持ちかけてきた。その途中のアレキサンドリアまで100ドルなら払うということで交渉が成立。結局朝の8時半にベンガジを出発し、アレキサンドリアに夜の9時半に到着した。チップも含めて合計日本円で2万円足らずを支払った。走行距離は約1200キロ、燃料代は運転手持ちである。燃料代といっても軽油がリビアではリッター9円、エジプトでも15円である。ちなみにガソリンはエジプトでは15円である。トヨタハイエースの燃費をリッター10キロとして、1200キロ走っても燃料代は日本円では1200~1300円程度だろう。支払った金のほとんどは運転手の労賃ということだ。国境の手続のことを考えると、お互いにまあ納得せざるを得ない。恐らく運転手がいなければ、国境をスムースに越えることはできなかったろう。
リビアの出国審査はともかく、エジプトの入国手続が全く複雑でスローで、私一人ではその日の内に入国できたかどうか自信はない。運転手は私と自分のパスポートを持って、あちこちの係官に早くしろとせっついていた。入国審査官がコンピュータに入力するのだが、一件入力するのにずいぶんな時間がかかる上、手元には何十冊ものパスポートが山積みになっていた。このペースでは何時間もかかると覚悟を決めたが、運転手としては一刻も早く仕事を終えたい一心で、私のパスポートを振りかざしながら、係官に先に入力を終えるように必死に頼んでいた。彼の努力が効を奏したのか、30分ほどで無事エジプトに入国できた。
往路では全く気がつかなかったのだが、リビアとエジプトの入出国審査場の間に、アフリカ系と見られる難民が何十とテントを張って暮らしていた。店まで出している難民もいたから相当長期間滞在しているのだろう。UNHCR、IOM、WHOがエジプト側の検問所に事務所を構え、彼らの面倒を見ていた。どこから来た難民なのか、よく分からなかいが、服装や肌の色から判断するとアフリカ系と思われる。ベンガジでは紛争も沈静化しており、紛争を逃れてリビア人が難民になるということは今はないと思われる。
結局リビア滞在は入国から出国まで約50時間だった。いろいろな幸運に恵まれて本当に思いがけずにスムースに入国、出国ができた。予定では、後1~2日はかかるだろうと思っていた。逆にあまりにスムースに行き過ぎたために、リビアにとどまる時間が短くなってしまった。要するに、内戦下とはいえ、リビアの反政府地域では国民評議会による入出国管理や交通等の国家機能、社会機能が機能していることの証左でもある。
まずはガイドブック風に旅行の概要を記しておく。
8月4日早朝、いよいよベンガジに向けて出発。朝6時半にカイロ市内のトルゴマーン・バス・ステーションからバスに乗り、カイロから約600キロのマルサマトルーフについたのが昼の12時半。料金は65エジプト・ポンド(約850円)。ここで1時半に地中海に面した国境の町イルサローム行きのバスに乗り換え、約200キロを2時間半で走り、4時に到着。料金は20エジプト・ポンド(約250円)。
ここからは公共の交通機関はなく、国境までの数㎞を乗合の白タクでいくことになる。料金は2ポンド。リビアに帰る二人連れと一緒にオンボロの白タクに乗り国境まで行く。地図ではわからなかったが、エジプトとリビアの国境は台地で隔てられている。壁のようにリビア台地がイルサロームの町の前にそびえている。車は急な坂道を2~300メートル昇りつめると、そこには平原が広がっている。平原をさらに走るとエジプト・リビアの国境検問所が見えてくる。
国境検問所でエジプトの出国手続の場所や要領がわからず、同乗したリビア人の若者に手助けをしてもらった。なんとかエジプトの出国が済むと、今度は再び白タクに乗り換えて数百メートル先のリビアの検問所に行く。歩いても良いくらいの距離だが、2ポンドとられた。カダフィ政権側が支配している国境検問所なら、恐らく東京で事前にビザを入手しなければならないところだ。しかし、反政府側が管理しているためにビザは不要だった。若い、英語の流暢な係官、といっても役人のような風体ではなく、反カダフィの一般市民が役人の代行をしているような様子だった。それは警戒にあたっている民兵にも言える。戦闘服は着ているが、とても職業軍人には見えない。恐らく一般市民から志願した民兵だろう。民兵の中にはどうみても私と同じくらいの年格好の老人も混じっていた。
いろいろと思いがけないことが起こったが、なんとかリビア入国手続をすませることができた。一番の心配は、ベンガジまで行く交通手段があるかどうかということだ。事前に朝日のカイロ特派員の方からは、交通手段があるかどうかが問題といわれていた。ところが幸運にもベンガジ行きの大型バスが止まっていた。乗り込むと外国人は私と欧米系の若い青年ジャーナリストの二人だけであった。彼とは、翌日に偶然にベンガジの町で再会した。
ベンガジまで恐らく5~600㎞はあったろう。夕方の6時半に出発して、ベンガジに到着したのは、8月5日の午前3時過ぎだ。料金は20リビア・ディナール(約1200円)と記憶している。途中、夕食のために30分もの休憩をとった。通常はこれほど長く休憩はとらない。ラマダンのために昼間全く食事をしないので、日が暮れるとすぐに運転手も乗客も皆たらふく夕食をとる。そのために普段よりも休憩が長くなる。
ベンガジまでの道中、十数回にわたってしつこく、しかも本格的な検問を受けた。銃を抱え、戦闘服を着た民兵がバスに乗り込み、乗客のパスポートや身分証明書を丹念にチェックしていた。それが2~3回ならまだしも、ほぼ30分に一回は検問を受けた。これほど厳しい検問体制を布いているところをみるとよほど治安が悪いのかと緊張した。しかし、実際にはベンガジの治安は全くといってよいほど悪くはなかった。またリビアからの帰路では一回も検問を受けることもなかった。昼間だったからなのか、それとも地元のマイクロバスを使っていたからなのか、理由はよくわからないが、昼と夜の検問の厳しさの違いには驚いた。
ベンガジのバス・ステーションに午前3時15分に着いたものの、ホテルを予約していたわけではなく、いささか途方にくれた。なんとか白タクをつかまえて、ホテルに案内してもらった。高級ホテルに行ってくれと頼んだのだが、言葉がうまく通じなかったのか、私の服装をみて運転手が判断したのか、連れて行かれたのは一泊25ディナールの安宿だった。
ひと眠りしてから、朝早くに街を歩いていると、荒れ果てた元高級ホテルのような建物があった。周りは焼け焦げたモニュメントや荒れ果てた公園などがあり、いかにも戦闘があった痕跡がそこかしこに残っているような場所だ。ホテルの窓は砂で汚れ、また人影も全くなかった。どうみても営業しているようには見えなかった。しかし、良くみるとエアコンの音がし、灯がついているところもあった。念のためさらに近づくと、玄関に人がいた。営業していたのだ。後でわかったが、そこはベンガジの最高級ホテルのテイベスティ(Tibesty)・ホテルだった。さっそく安宿を引き払い、ティベスティ・ホテルに移った。予約無しで直接宿泊を申し込んだが、全く何の問題もなかった。一泊約100ドルだった。
帰国後わかったことだが、このティベスティ・ホテルは6月1日に爆発事件が起こり、7月4日には敷地内に駐車してあった車から3-40キロの爆弾が発見されたという。このホテルが標的になっているのは、反政府勢力の要人や外交官、外国メディアが頻繁に利用しているからだろう。たしかにホテルの宿泊客をみると欧米系のいかにもジャーナリストらしい連中を多く見かけた。またビジネスマンらしい人もいた。アジア系でビジネスマン風の多分中国人らしき男性を一人見かけた。噂によると、米英の諜報機関の連中が多く滞在しているのではないかということだ。とにかく宿泊客があまり多くはない、多分20~30人程度でホテルの部屋数の一割も埋まってはいなかった。私も相当目立つ存在だったと思われる。
8月5日は金曜日でイスラムの休日。朝、人通りがあまりなかった。内戦で街がすっかりさびれてしまったと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。午後から多くの人が街に繰り出し、他のイスラムの街と少しもも変わらぬ賑わいを見せていた。
ベンガジの街をタクシーや徒歩で回ってみたが、とりたてて変わったところはない。民兵を見かけたのはティベスティ・ホテルや海岸の通りの検問所くらいである。ホテルの警備はカイロでも同じで、むしろカイロのホテルの方が厳しい。ホテル以外では道路の検問所以外、民兵の姿もほとんど見かけなかった。警官と思われる風体の人物はついに見かけなかった。兵士や警官がいたるところに目につくカイロやパレスチナとの国境の町アリーシュよりも、見た目、治安はよさそうだ。
タクシーがあまりなく、白タクが一般的だ。だから手を挙げればすぐに車がとまり、行き先を告げると連れて行ってくれる。私はいつも5ディナール(300円)程度を払っていた。カイロのタクシーの水準からすると高すぎる気もしたが、日本に比べれば、とつい5ディナール紙幣を渡してしまった。
町中にゴミがあふれていた。公共サービスが上手く機能していない印象を受けた。内戦の混乱のせいかと思ったが、ゴミ収集車は市内を巡回しており、単に人手が足りないということなのかもしれない。ゴミといえば、リビアにはいってから特に目についたのが高速道路の周辺で一面に白い花が咲いているかのようなレジ袋の多さだ。エジプトでも見かけないわけではなかったが、とにかくすさまじいレジ袋の数量だ。運転手が皆ゴミを車から放り投げているためだ。
ベンガジでは物資や食糧が不足しているのではないかと言われていたが、露店や商店、市場を見た限り、そんなことは全くなかった。野菜も果物も新鮮なものが多く並べてあった。また私自身、すり切れ破れたズボンに代えて新しいズボンを買ったが、服屋には商品が豊富にあった。車も高級車は日本製という印象だ。私が帰路に雇った車は、日本からエジプトのアレキサンドリアに陸揚げされたことを示す車の配送伝票が誇らしげに窓に張り付けてあった。一般車では韓国のヒュンダイが特に目についた。
内戦下で人々が呻吟苦吟しているのではないかとの予断は見事にはずれた。内戦の爪痕を残していたのは、私が見た限り、ホテルの周辺の焼け焦げた建物と海岸近くに立てられた内戦の犠牲者を悼むテント村だけだった。海岸には十数張りのテントが立てられ、そこには恐らく内戦の犠牲者と思われる人々の遺影が飾られていた。
ベンガジが反政府勢力の勢力下にあることは、国旗でわかる。今年2月に反政府勢力の国民評議会は赤、黒、緑の三色旗に三日月と星を中央にあしらった1951年から69年まで王政時代に使用されていた旗を国旗として採用した。リビアに入国して以来、どこに行ってもこの旗があふれかえっていた。玄関の扉にわざわざペンキで国旗を描いている家も数多くあった。露店でも大小の国旗が数多く売られていた。
ラマダン中は日が暮れてからが、人々の活動の時間帯である。イフタールと呼ばれる断食開けの食事を家族で食べるために、町から人や車がほとんどいなくなる。ホテルでも夕食時にはレストランに宿泊客が一斉に押しかけ、皿一杯にご馳走を盛って、宴会のような騒ぎである。そして食後には人々は外に繰り出し、子どもたちは夜遅くまで遊び回っている。大人は喫茶店で水タバコを燻らしながら友人、家族と会話を楽しむ。ベンガジもカイロと全く変わらず人々はイフタールを楽しんでいた。
カイロに帰ってからわかったが、私がベンガジを訪れた前日に小池百合子議員が、まさに寸暇を惜しんでベンガジ入りし、国民評議会のアブドルジャリル議長と会談していた。聞くところによると当初陸路でのベンガジ入りを計画していそうだが、時間がかかるために国連機を使ってギリシアからベンガジに飛んだということだ。現在リビアには民間航空機の乗り入れは全て禁止されている。テレビ朝日が小池議員の会談の模様や犠牲者の遺影を見入る様子を放映していた。遺影が展示されている場所は、私も訪れた海岸近くの国民評議会の建物とおぼしきあたりではなかったろうか。
一般旅行者がリビアに入るには、今のところはエジプトから陸路で入国するしかない。反政府側はビザがいらないが、チュニジアから陸路でトリポリに入ろうとすれば、ビザが必要となる。多分国境をまだカダフィ側が制圧していると思われるので、個人ではなかなかビザがとれない。在京リビア大使館のホームページを見ると、個人によるビザ取得は困難を極めるようだ。ベンガジの街中で偶然再会した若いジャーナリストはチュニジアから陸路でトリポリに入ったということだ。またCNNもトリポリからチュニジアに陸路で脱ける模様を放映していた。ジャーナリストにはビザを発給しているのかもしれない。
私のパスポートにはすでにリビアの入国スタンプが押されている。これは反政府側独自の入国スタンプなのか、それとも従来からあるリビアの入国スタンプなのかがわからない。もし前者なら、トリポリ政府が支配しているチュニジアからリビア西部やトリポリに入ろうと思っても、カダフィ政権はビザを発給しないだろ。そもそも在京リビア大使館は、カダフィ、反カダフィのどちら側についているのだろうか。
ベンガジのネットは規制されている。カイロが全く規制を受けていないのも驚きだったが、反政府勢力支配下のベンガジで規制をしているのは驚きだ。カダフィ政権下での規制をまだそのままにしているのかもしれない。GMAIL への接続ができない。スカイプができるので、海外へのメール、通信が完全に規制されているわけではない。海外へのラインがあまりないのか、ネットカフェからスカイプでビデオ電話をしようとしても途切れ途切れでうまく繋がらない。ただしSMSは繋がる。だからGMAILを規制しても無意味なように思える。
ホテルでは一応WIFIが使えるらしい。らしいというのは、私のPCでは何故か接続できなかった。他に何人もが接続していたためか、接続オーバーで接続できないとのメッセージがいつも出てきた。私のPCに問題あるのかもしれない。部屋から備え付けの固定電話で国際電話をしようとしたが、繋がらなかった。また携帯は私のドコモの携帯ではリビア国内では接続できなかった。というわけで海外に向けた通信事情は必ずしも良くない。国内向けは問題ないようだ。ネットカフェでは、となりに座った男がずっとスカイプを利用していた。
私の宿泊した部屋は6階にあった。最近全く窓拭きをしておらず、窓には茶色砂がこびりついていた。その窓越しにベンガジの街を眺めると、平穏な地中海の街という印象しかない。内戦下にあると思わせるような景色は全く見ることができない。完全に反政府勢力側の支配下に入ったようである。一方CNNが伝えるトリポリの様子も平穏なようだ。ただし、NATO軍の爆撃を除けば。カダフィと反政府力の戦闘が行われているのは、ベンガジとトリポリとの間だ。しかも、ニュースで見る限り本格的な交戦というレベルではないようだ。反政府勢力の主力は戦闘には素人の民兵、カダフィ側は金で戦う傭兵で、正規軍同士の衝突とは少し様相を異にしている。片や戦闘能力不足し、片や戦闘意志が不足している。そのために相手を殲滅することができない。
反政府勢力には、いわばイラン革命の時の革命防衛隊のような印象を受けた。犠牲者の遺影を掲示し市民の士気の鼓舞を図るところなど、1985年にテヘランに行った時に見かけた光景にそっくりだ。もっともすでに革命派が政権を掌握した当時、イランが戦っていたのはイラクだが。当時イランでは入国管理から街の警備にいたるまであらゆるところで市民の志願からなる革命防衛隊が動員されていた。同じようにリビアでも民兵が検問や街の警備にあたっていた。
入国した時からどのようにして出国するかをいろいろ模索した。当然来たのとは全く逆にまた大型バスに乗って国境まで行くことを考えた。ところが、ホテルのインフメーションやタクシーの運転手にエジプト往きのバス乗り場を尋ねても、来たときに利用したバス・ステーションとは異なる、マイクロバス乗り場を教えられた。呼び込みの若者にマイクロバスの料金を尋ねると、カイロまで70ディナール、アレキサンドリアまで60ディナールと格安の運賃だ。これにはからくりがあって、マイクロバスが満席になったときの値段ということである。だから、満席にならなければ出発しない。満席でなければ、事実上、マイクロバスを借り上げることになる。
8月6日朝、マイクロバスの乗り場に行くと案の定、今日はカイロまでは行かないという。国境線までなら借り上げで110ドルで行くというので、マイクロバスを借り上げることにした。要するに安い運賃を提示して客を呼び、実際には客との交渉で運賃を決めるのだ。出発して国境線に近づくともう200ドルを払えばカイロまで行ってもよいと持ちかけてきた。その途中のアレキサンドリアまで100ドルなら払うということで交渉が成立。結局朝の8時半にベンガジを出発し、アレキサンドリアに夜の9時半に到着した。チップも含めて合計日本円で2万円足らずを支払った。走行距離は約1200キロ、燃料代は運転手持ちである。燃料代といっても軽油がリビアではリッター9円、エジプトでも15円である。ちなみにガソリンはエジプトでは15円である。トヨタハイエースの燃費をリッター10キロとして、1200キロ走っても燃料代は日本円では1200~1300円程度だろう。支払った金のほとんどは運転手の労賃ということだ。国境の手続のことを考えると、お互いにまあ納得せざるを得ない。恐らく運転手がいなければ、国境をスムースに越えることはできなかったろう。
リビアの出国審査はともかく、エジプトの入国手続が全く複雑でスローで、私一人ではその日の内に入国できたかどうか自信はない。運転手は私と自分のパスポートを持って、あちこちの係官に早くしろとせっついていた。入国審査官がコンピュータに入力するのだが、一件入力するのにずいぶんな時間がかかる上、手元には何十冊ものパスポートが山積みになっていた。このペースでは何時間もかかると覚悟を決めたが、運転手としては一刻も早く仕事を終えたい一心で、私のパスポートを振りかざしながら、係官に先に入力を終えるように必死に頼んでいた。彼の努力が効を奏したのか、30分ほどで無事エジプトに入国できた。
往路では全く気がつかなかったのだが、リビアとエジプトの入出国審査場の間に、アフリカ系と見られる難民が何十とテントを張って暮らしていた。店まで出している難民もいたから相当長期間滞在しているのだろう。UNHCR、IOM、WHOがエジプト側の検問所に事務所を構え、彼らの面倒を見ていた。どこから来た難民なのか、よく分からなかいが、服装や肌の色から判断するとアフリカ系と思われる。ベンガジでは紛争も沈静化しており、紛争を逃れてリビア人が難民になるということは今はないと思われる。
結局リビア滞在は入国から出国まで約50時間だった。いろいろな幸運に恵まれて本当に思いがけずにスムースに入国、出国ができた。予定では、後1~2日はかかるだろうと思っていた。逆にあまりにスムースに行き過ぎたために、リビアにとどまる時間が短くなってしまった。要するに、内戦下とはいえ、リビアの反政府地域では国民評議会による入出国管理や交通等の国家機能、社会機能が機能していることの証左でもある。
エジプト訪問記
8月1日から11日まで中東の民主化の動向調査のためにエジプトとリビアを訪問した。
まずはガイドブック風に旅行の概要を記しておく。
アラブ首長国連邦国営のエティハド航空で8月1日の夜に成田を出発、アブダビで6時間の乗り換え待ちで、翌2日の正午にカイロに入った。エジプトの民主化闘争が激化するまでエジプト航空が東京・カイロ間の直行便を運行していたが、政情不安で観光客が激減したために、現在は直行便の運行を取りやめている。
今回利用したエティハド航空はこれまで名古屋を拠点にしていたが、昨年やっと成田への乗り入れが認められた新参の航空会社だ。現在プロモーションのために安売りチケットを販売しているため、行きも帰りも満席だった。ただ、乗客の大半の最終目的地はエジプトや中東ではなく、ヨーロッパだ。往きの飛行機にも日本人の二グループあわせて数十人が搭乗していたが、全員ヨーロッパ便に乗り換えた。
2009年の2月に訪れて以来カイロは2年ぶりだった。様変わりしたのは観光客の激減だった。宿泊したラムセス・ヒルトン・ホテルは、いつもなら観光客であふれかえっているはずだが、今回は宿泊客が少なくまさにガランとした印象だった。日本人はほとんど見かけなかった。ひょっとすると8月1日から始まったラマダンのために観光客がエジプトを敬遠したのかもしれない。それにしても帰国前日に訪れたギザのピラミッドでも観光客は皆無といってもよい。広い砂漠に観光客が十数人程度と数えるほどしかいなかったのには驚いた。もっとも、ヒルトン・ホテルの近くにあるエジプト考古学博物館には欧米系の観光客が多く入館していた。とはいえ観光客を多く見かけたのは、ここだけだった。
8月3日はたまたまムバラク前大統領の裁判の日だった。エジプト国民がどのような反応を見せるか、興味津々であった。結論から言えば、裁判が行われた軍の施設の前でムバラク支持派と反対派の小競り合いがあった程度で、カイロ市内では大きな混乱はなかった。
軍は混乱を防ぐために事前に、市の中心部にある民主化闘争の聖地になっているタハリール広場の反対派のテントや横断幕などを7月30日に全部撤去していた。また当日は、反対派がタハリール広場に集結しないように、広場の周辺に多数の兵士や警察官を動員していた。その広場の模様をビデオで撮影していたら、突然兵士に呼び止められ、若い上官の元に連行された。ビデオを取り上げられるかと覚悟したが、何とか切り抜けた。観光客らしき人物は私だけで、あまりに目立ちすぎた。
その後市民の反応を見るために街を歩いたが、街は全く平穏だった。人だかりがあったのは喫茶店だけだ。水タバコを燻らしながら、十数人の客がムバラクの登場をいまかいまかと待ち構え、テレビを凝視していた。午前10時過ぎにベッドに横たわったムバラクが他の容疑者とともに檻の中に登場した。喫茶店の客の中から大きなどよめきでもおこるのかと思ったが、予想外に何の反応も無く、皆冷静にテレビを見続けていた。
エジプトの民主化闘争が今後どうなるかは別にして、観光客の激減による経済の落ち込みが、今後の民主化闘争に少なからず影響をあたえるのではないか。
まずはガイドブック風に旅行の概要を記しておく。
アラブ首長国連邦国営のエティハド航空で8月1日の夜に成田を出発、アブダビで6時間の乗り換え待ちで、翌2日の正午にカイロに入った。エジプトの民主化闘争が激化するまでエジプト航空が東京・カイロ間の直行便を運行していたが、政情不安で観光客が激減したために、現在は直行便の運行を取りやめている。
今回利用したエティハド航空はこれまで名古屋を拠点にしていたが、昨年やっと成田への乗り入れが認められた新参の航空会社だ。現在プロモーションのために安売りチケットを販売しているため、行きも帰りも満席だった。ただ、乗客の大半の最終目的地はエジプトや中東ではなく、ヨーロッパだ。往きの飛行機にも日本人の二グループあわせて数十人が搭乗していたが、全員ヨーロッパ便に乗り換えた。
2009年の2月に訪れて以来カイロは2年ぶりだった。様変わりしたのは観光客の激減だった。宿泊したラムセス・ヒルトン・ホテルは、いつもなら観光客であふれかえっているはずだが、今回は宿泊客が少なくまさにガランとした印象だった。日本人はほとんど見かけなかった。ひょっとすると8月1日から始まったラマダンのために観光客がエジプトを敬遠したのかもしれない。それにしても帰国前日に訪れたギザのピラミッドでも観光客は皆無といってもよい。広い砂漠に観光客が十数人程度と数えるほどしかいなかったのには驚いた。もっとも、ヒルトン・ホテルの近くにあるエジプト考古学博物館には欧米系の観光客が多く入館していた。とはいえ観光客を多く見かけたのは、ここだけだった。
8月3日はたまたまムバラク前大統領の裁判の日だった。エジプト国民がどのような反応を見せるか、興味津々であった。結論から言えば、裁判が行われた軍の施設の前でムバラク支持派と反対派の小競り合いがあった程度で、カイロ市内では大きな混乱はなかった。
軍は混乱を防ぐために事前に、市の中心部にある民主化闘争の聖地になっているタハリール広場の反対派のテントや横断幕などを7月30日に全部撤去していた。また当日は、反対派がタハリール広場に集結しないように、広場の周辺に多数の兵士や警察官を動員していた。その広場の模様をビデオで撮影していたら、突然兵士に呼び止められ、若い上官の元に連行された。ビデオを取り上げられるかと覚悟したが、何とか切り抜けた。観光客らしき人物は私だけで、あまりに目立ちすぎた。
その後市民の反応を見るために街を歩いたが、街は全く平穏だった。人だかりがあったのは喫茶店だけだ。水タバコを燻らしながら、十数人の客がムバラクの登場をいまかいまかと待ち構え、テレビを凝視していた。午前10時過ぎにベッドに横たわったムバラクが他の容疑者とともに檻の中に登場した。喫茶店の客の中から大きなどよめきでもおこるのかと思ったが、予想外に何の反応も無く、皆冷静にテレビを見続けていた。
エジプトの民主化闘争が今後どうなるかは別にして、観光客の激減による経済の落ち込みが、今後の民主化闘争に少なからず影響をあたえるのではないか。
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