2009年7月25日土曜日

新聞を止めるの記

 今月から朝日新聞の宅配を止めた。記事に不満があったからではない。無くても不便を感じないからだ。ここ半年、海外に出ることが続き、その度に新聞の留め置きをした。帰宅後、まとめて配達してもらい、読むことにしていた。しかし、実際には全く読まなかった。海外でもネットで主なニュースを読むことができたし、また大きなホテルでは日本のテレビを見ることもできた。あらためて読む必要もなければ、読む時間もなかった。その上新聞そのものが最近は読む記事が少なくなった。一面広告ばかりが目について、読みたい記事がほとんど無い日が多い。ざっと目を通すだけで終わりである。夕刊はもっと酷い。広告の間に記事が挟まっているとしか思えない。夕刊を開くことも無く捨てる日々が続いた。これでは地球環境に悪い。エコ・キャンペーンに賛同して新聞を止めた。 
 朝日新聞をはじめ全国紙は記事のデパートのようになっている。国内、国際、政治、経済、学芸、家庭、科学、芸能、スポーツ、番組案内と盛りだくさんだ。しかし、これらの分野の記事全てを必要としている人などまずいないだろう。私の場合には国内、国際の政治、経済ニュースがあれば十分だ。しかし、こうした分野の記事が最近少なくなっている。とりわけ国際面の記事の減り方は異常だ。今でも覚えているが、朝日新聞の国際面がまだ1頁しかなかったおよそ40年前に、朝日は当時のベトナム戦争の報道を充実させるために国際面を2倍にすると社告を出し、それ以来朝日の国際面は他の新聞を圧していた。しかし、最近、どうかすると国際面が1頁しかない日があった。そんな日は新聞をは読むのではなく、単に頁をめくって終わりである。ふと気付くと一番熱心に読んでいたのはテレビ番組欄で、しかもNHK衛星放送のドキュメンタリー番組欄だ。教材用に海外のドキュメンタリー番組を録画するために見逃さずに見ていた。こうして新聞は私にはあまり必要のないものとなってしまった。
 なぜこのようなことになったのだろうか。記事内容について文句があるから抗議のために講読を止めたのではない。自宅で朝、宅配された新聞を読んで情報を入れるという必要性が薄れたからである。しかし、入手する情報の量そのものは時々刻々といってよいくらいに増えている。テレビやネットで新聞のヘッドラインを確認し、必要があれば、売店で新聞を買う。最近買う新聞は決まっている。朝刊は産経新聞、夕刊は毎日新聞である。両紙とも経営悪化で取材力が弱いのか、日々のニュースはつまらない。面白いのは、コラム、解説、評論記事である。産経にいたっては記事がないのか、30年前の社説や社外の有識者のコラム、伝記、評伝の類まで掲載している。ニュースではなくオールズのオンパレードである。ストレート・ニュースはテレビ、ネットに譲ってしまったのか、月刊『正論』の日刊版の趣がある。朝日新聞も『論座』になれば面白いと思うのだが。
 さて長々と私の朝日新聞止めるの弁を書いたのは、佐々木俊尚『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書、2009年)に触発されたからだ。私が新聞を止めてもよいと思ったのは、決して私の個人的理由からだけではなく、マスメディアに今起きている激変のせいだということがわかった。一言で言うなら、新聞が情報時代に追いついて行けず、もはや情報を伝達するという使命が終わろうとしているということだ。
 情報の伝達は三層構造になっているという。コンテンツ、コンテナ、コンベヤである。新聞では、コンテンツは新聞記事、コンテナは新聞紙面、コンベヤは販売店である。現在、新聞社はこれら三つを全て牛耳っている。記者が新聞記事を書き、新聞社で印刷し、系列の新聞販売店が配達する。しかし、ネットの登場でこの流れが大きく変わった。コンテナがグーグル・ニュース、ヤフー・ニュースあるいはブログなどに変わり、コンベヤがインターネット回線になっている。変わらない部分は記事の作成である。現在、ネットで配信されている記事は依然として新聞記者が作成している。
 しかし、この部分もブログの書き手によって取って代わられる可能性がある。私がスリランカに入ったとき、日本の特派員は一人もいなかった。記者はインドでインドの新聞やテレビを見ながらスリランカの記事を書いていたのである。これならブログに書いた私の記事の内容の方が現地の状況を的確につたえているのではないかと思った。決して記者は現場を踏んで記事を書いているわけではない。ならば、記者よりは専門知識を持った私が書いた方がまだましな記事が書けるし、また私自身が現場に行けば記者よりもずっとよい記事が書ける。
 これまでは新聞紙面というコンテナを新聞社に独占されていたために一般人が記事を書いて配信することなど不可能であった。しかし、ネットのおかげで、われわれ一般人も記事の内容で記者と互角に対抗できる局面が生れたのである。ただし、簡単に対抗できるわけではない。そこには乗り越えなければならない山がいくつもある。典型的な例がネットのアマチュ新聞「オーマイニュース」である。同サイトは記事の内容と利益を挙げるためのビジネス・モデルの構築に失敗して今年4月に廃刊となりネットから消えた。 
 新聞社の存亡はもはやいかに内容のあるコンテンツすなわち記事を作成するかにかかっている。取材力は通信社に劣る。だからストレート・ニュースは通信社にませるしかない。残るは評論、解説、分析である。何のことはない、結果的に「産経新聞」化、「毎日新聞」化することが新聞社が生き残る道ということになる。両社は経営悪化のためにやむなく現在のような日刊評論紙になったが、いずれ朝日、読売もそうならざるを得ないだろう。逆に日刊評論紙になれば、それはわれわれも「オーマイニュース」が失敗したようなストレート・ニュースではなく、ブログ評論で対抗できるということである。必要なのは高い専門性を備えた知識である。
 蛇足ながら、ではこうしたメディアの変革は教育にどのような影響を及ぼすのか。教育も幅広い意味でメディアそのものである。コンテンツは講義内容、コンテナは学部やカリキュラム、コンベアは教室、大学施設である。コンベアをインターネットにする試みは行われているが、サイバー大学の例をみてもわかるが、なかなかうまくいかない。教育は基本的には対面販売が基本となるサービスである。一人一人の学生と直接に会って講義を伝達しなければ商品が無形のものだけに、なかなか消費者(学生)の満足は得られない。
 コンテナの改革はほとんどの大学が手を変え、品を変えて実施している。ここは大学運営の基本部分である。講義という商品を仕入れ、その品質を維持し、品揃えをよくし、大学のブランドをつけていかに消費者(学生)に売るか、大学経営者の腕の見せ所である。これに失敗するとブランド力の無い大学はあっと言う間につぶれる。
 教育の最大の問題は、コンテンツの部分である。たとえば従来の大学は徒弟制度の中で教員を養成し、講義(商品)を提供してきた。しかし、最近は大学での教員養成では間に合わないほどにコンテナが多様化したために外部の専門家を導入することが大幅に増えた。なにを隠そう、私もその一人である。情報時代が来なければ、私が大学教員になることなど全くなかったろう。コンテンツそのものは教員個人が作成しなければならない。それが質的に高いものでなければ、次々と教員の淘汰が起こり、外部の専門家と交代させられるだろう。学の独立、真理の探求などと高邁な戯言、寝言をいっている場合ではない。
 メディアという観点から見れば、ユーチューブに追い上げられているテレビも新聞もそして大学も置かれている状況はさほど変わらない。状況は質が問われる時代だということだ。考えてみれば、それはまさにメディアそして教育の原点でもある。

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