2009年7月21日火曜日

『名著で学ぶ戦争論』を読む


 若い気鋭の研究者の仕事ぶりを見て、嫉妬ではなく感心するようになったら年をとった証拠だ。そんな感想を抱かせる文庫本が出版された『名著で学ぶ戦争論』である。石津朋之、永末聡、塚本勝也、中島浩貴ら、まさに日本の安全保障研究をリードするいわゆる防研(防衛研究所)学派の少壮の研究者が書いた戦略研究の入門書である。軍事戦略の解説書といいながら、同書が取り上げている著作は、クラウゼヴィッツ『戦争論』のような純粋な軍事戦略の研究書だけではない。ヘロドトス『歴史』、トウ-キュディデス『戦史』、マキャベリ『君主論』、さらにはトルストイの小説『戦争と平和』に至るまで、歴史書、政治学書そして小説に至るまで幅広く渉猟している。
 個人的な感想を言えば、キッシンジャー『回復された世界平和』は小生が修士論文で取り挙げた著作で、興味深く解説を読んだ。「正当性秩序」と「革命秩序」という二つの中心的概念を用いてナポレオン戦争後の欧州の秩序回復の外交過程を描いた同書が、その後のキッシンジャー外交のイデオロギーとなった。そしてキッシンジャーは米国外交が忌避してきた「勢力均衡概念」に基づいて、ベトナム戦争、中東戦争、中国そしてソ連との冷戦を事例に現実主義外交を展開したのである。見方を変えれば、キッシンジャーは自らの世界観、理論に基づいて世界を作り替えようとしたのである。それは現実主義外交というより、現実主義という名の理想を掲げたきわめて理想主義的外交ではなかったろうか。つまり戦略論とは現実との応答の術というよりは、現実という名の夢を記した著作ではないだろうか。今から30年前に『回復された世界平和』と格闘した日々を思い出しながら解説を読んだ。
 もう一つ忘れられない本がある。クレフェルト『戦争の変遷』である。同書は主権国家戦争とは異なる戦争である「低強度戦争」について記した研究書である。小生の著作『現代戦争論』とアイデアは全く同じである。クレフェルトの『戦争の変遷』が1991年の出版、小著が1993年で、2年小著の出版が遅い。だから小著は二番煎じの誹りを免れないのだが、実のところ、防衛研究所の内部資料として小著はクレフェルトとほぼ同時の1991年に公刊した。
 「低強度紛争」の用語はすでに80年代半ばには専門家の間に知られており、小生も85年にスタンフォード大学のフーバー研究所に留学した際に一年間かけて「低強度紛争」について徹底的に調査した。その成果は「米国の対テロリズム政策の課題と問題」『国際問題』(第 320号、1986年)に発表した。『現代戦争論』の骨格は全てこの論文にある。その後、この論文を発展させて1991年に『現代戦争論』(実際には新書判よりもっと理論的であったが、新書にする際に理論部分は編集者の指示で割愛した)の元となる内部研究成果報告書を印刷した。そして1992年にひょんなことから中公の編集者の眼に止まり、新書の出版が決まった。ただし、条件は新書に向けて全て書き直すことであった。結局92年の約一年間かけて毎月一章ずつ書き直し、93年の夏に出版した。
 90年、91年と内部報告書の印刷の段階で徹底して先行研究調査をした。しかし、うかつにもクレフェルトの著作には気付かなかった。先行研究調査をしていたころにはまだ出版されていなかったからか、あるいはその題名The Transformation of Warという題名から小生と同じようなテーマを扱っていたことに気付かなかったのかもしれない。同書を知ったのは90年代の半ばすぎだったように思う。いずれにせよ先行研究調査の重要性を身に沁みて思い知った。同時に同じ研究テーマを追求している研究者が世界にもう一人いたことに、研究の方向性は間違っていなかったことを知って安心した。核戦略研究全盛の頃に防衛研究所で全く異端の「低強度紛争」やテロの研究をしており、単なる思いつきのアイデア倒れの研究ではないかといつも不安にかられていたらからだ。
別にクレフェルトに並べて小著をとりあげてくれというつもりは心底全くないが、気になったことがある。日本の軍事戦略書が全く取り上げられていないことだ。日本にはとりあげるに値する軍事戦略書はないのだろうか。たとえば北一輝『日本国家改造法案大綱』や石原莞爾『戦争史大観』は戦略論や戦争論には値しないだのだろうか。
 かねてから思っていたのだが、今日本でクラウゼヴィッツをはじめ『名著で学ぶ戦争論』をいくら学んでも、それは所詮他国のことであり、現在の日本にとってなんら得るところはないのではないか。「低強度紛争」をいくら研究しても、所詮それはアメリカの戦略であり、百歩譲っても、軍事力を国家の外交手段として行使できる国家の戦略論、戦争論でしかない。戦略論を学ぶ基本は、外交手段としていかに軍事力を用いるか、その術を学ぶことにある。しかし、憲法9条で外交手段としての軍事力の威嚇も行使も禁止されている日本にとって、古今東西の戦略論の名著を学んでも、なんらわが国の外交に裨益することはない。
 もし、日本に戦略論があるとするなら、憲法9条を前提にした戦略論でしかない。これは文字通り「丸い三角」を書けというのと同じである。軍事力を否定している憲法に基づいて、軍事力を前提にした戦略論を描くことなど不可能である。もし万一可能だとするなら、それは軍事力を前提にしない戦略論である。しかし、残念ながら、エラスムス、モア、カント、サン・ピエールなど古今東西の平和論、戦争論、平和論、戦略論のいずれであれ、一切の戦争や軍事力を否定した著作は一書もない。
 憲法9条という人類史上類例のない憲法をもった国家に暮らす我々が戦略論を「名著に学ぶ」ことなど全く不可能である。新たに「非武装・非軍事戦略」論を書くしかない。

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