2009年6月5日金曜日

コンラッド『密偵』を読む


 「暴力・連帯・国際秩序」の題名に惹かれて『思想』(岩波書店、2009年4月)を購入した。その中に興味深い論考があった。中村研一「テロリズムのアイロニー-コンラッド『密偵』の表象戦略-」である。ジョセフ・コンラッド『密偵』をテキストに、テロとは何かを明らかにしようとする論文、否、文学評論といってよいだろう。中村は、作者コンラッドやテロ研究者ウォルター・ラカーの言葉を引用しながら、文学の社会科学に対する優位を認めている(31-32頁)。中村はこの評論で、『密偵』をテロという視点から、そこに関わるさまざまな人物、主人公ヴァーロック、その妻ウィニー、妻の弟のスティーブ、ヴァーロックにテロを使嗾するロシア大使館員ウラジミール、爆弾作りのプロッフェッサー、アナーキストのミハエリス、ロンドン警視庁の警視官などの心理描写を通じてコンラッドが『密偵』でどのようにテロを物語ったか、そして読まれてきたか、さらにどのように読まれるべきかを考察している。
 テロ研究では社会科学は文学に負けるというのは、悔しいが納得できる。特に9.11同時多発テロは、私も「ニヒリズム・テロ」(拙著『テロ』中公新書、2002年)と名付けざるを得なかったように、近代合理性の枠組みでは理解不能な現象である。だからこそ、1894年に起こった「グリニッジ爆弾事件」を題材にとった1907年出版の『密偵』であっても、そこに描かれたアナーキストの心理を誰もが参考にしたいと思うのであろう。たしかにテロリストを主人公に、テロの政治ではなくテロリストの心理を描写した小説は多くはない。ましてや世界的な名声を得た小説となると、恐らく『密偵』一冊くらいか。『密偵』が政治小説やハードボイルドであったなら、これほどまでに現在、読み込まれることはなかったろう。実際、私はうかつにも知らなかったが、特に9.11以降『密偵』がテロ研究者や実務家に多く読まれ、現在の自爆テロを少しでも理解しようとする努力が続けられているという。
 どんな名作でもそうだが、『密偵』の粗筋は、すこぶる簡単である。ロシア大使館の密偵であり同時にロンドン警視庁への情報内通者である主人公ヴァーロックがウラジミールに命令され、プロフェッサーのつくった爆弾を、知恵遅れの義弟スティーブに持たせてグリッニッジ天文台を爆破しようとする。ところがスティーブが途中で転んで、弾みに爆弾が爆発、目的を果たせないままにスティーブが吹き飛んだ。それをヴァーロックから訊いた妻ウィニーが弟の仇を討つべくヴァーロックを刺殺し、本人もまた船から身を投げて自殺する。この過程で登場するさまざまな人々の心の動きや葛藤が細密に心理描写される。波瀾万丈な筋立てというものは全くない。ひたすら登場する人物の考えや心理に焦点が当てられる。だからこそ今でも読み込まれる小説となっている。これがもし、当時の政治状況に焦点をあてた政治小説であったら、陳腐な駄作にしかならなかったろう。
 逆に言えば、この小説を現在の政治状況にあてはめて解釈することは誤読以外の何ものでもないだろう。だからこの小説を現代のテロという文脈にあてはめて解釈すること自体が誤りであろう。むしろ、コンラッドの名作『闇の奥』(映画『地獄の黙示録』の原作)の延長線上にある人間の本性の不可知性あるいはヨーロッパ近代に生れた近代主義的人間が抱える近代ヨーロッパの暴力性といった問題として読み解くべきであろう。
 グリニッジ爆弾事件が起こった19世紀末にはヨーロッパでは数多くの爆弾テロ事件が起きた。この時代は、丁度産業革命による農業時代から工業時代への時代の転換点であり、国家体制が封建国家から近代国家へ、そして人々もまた群集(マルチチュード)から個人への変容を強いられた時代である。こうした時代の境目には必ず社会的混乱、政治的腐敗、アイデンティティーの喪失などからテロ事件が起きる。現在のイスラムによる自爆テロもまさに工業時代から情報時代への時代の転換点、近代国家から脱近代国家への変容そして近代的自我の崩壊にともなう個人のアイデンティティーの喪失という中で起きた社会的、政治的そして人間的な事象である。
 最後に、中村の評論は最後の段落でもって破綻したようだ。彼はこう記している。
「コンラッドが描いたのは、アナーキストのルポルタージュでもなく、その思想の実証主義的再現でもなかった。当時の英国人たちがアナーキストに対して抱いた理念型を選び出し、それを戯画、モンタージュ、アイロニーなどの手法を用いて笑えるように表象したのである。その結果、通常の社会科学が表現し得ないテロリズムの内的真実を照明し、暴力に対応する戦略の提示に成功している」(48頁)。
「テロリズムの内的真実」とはどういうものかがわかっていなくては、このような表現はできないだろう。しかし、「テロリズムの内的真実」がわからないから科学は文学に負けているのだし、また「テロリズムの内的真実」がわからない限り、はたして文学が「テロリズムの内的真実」を明らかにしたかどうかも不明のはずである。現代のテロの問題は「テロリズムの内的真実」などというものがあるのだと前提にするその近代合理主義的姿勢を問うている。ましてや「暴力に対応する戦略の提示に成功している」などとは到底言えないし、コンラッドが対テロ戦略を明らかにしようなどとはおもってもいないだろうし、また『密偵』をそこまで読み込むことなどできない。とういよりも、そのような近代合理主義的な読み込みを拒否するのが現在のテロである。
 だから今必要なのは『密偵』を解釈することではなく、『密偵』に匹敵する文学を創造することである。 「暴力・連帯・国際秩序」の題名に惹かれて『思想』(岩波書店、2009年4月)を購入した。その中に興味深い論考があった。中村研一「テロリズムのアイロニー-コンラッド『密偵』の表象戦略-」である。ジョセフ・コンラッド『密偵』をテキストに、テロとは何かを明らかにしようとする論文、否、文学評論といってよいだろう。中村は、作者コンラッドやテロ研究者ウォルター・ラカーの言葉を引用しながら、文学の社会科学に対する優位を認めている(31-32頁)。中村はこの評論で、『密偵』をテロという視点から、そこに関わるさまざまな人物、主人公ヴァーロック、その妻ウィニー、妻の弟のスティーブ、ヴァーロックにテロを使嗾するロシア大使館員ウラジミール、爆弾作りのプロッフェッサー、アナーキストのミハエリス、ロンドン警視庁の警視官などの心理描写を通じてコンラッドが『密偵』でどのようにテロを物語ったか、そして読まれてきたか、さらにどのように読まれるべきかを考察している。
 テロ研究では社会科学は文学に負けるというのは、悔しいが納得できる。特に9.11同時多発テロは、私も「ニヒリズム・テロ」(拙著『テロ』中公新書、2002年)と名付けざるを得なかったように、近代合理性の枠組みでは理解不能な現象である。だからこそ、1894年に起こった「グリニッジ爆弾事件」を題材にとった1907年出版の『密偵』であっても、そこに描かれたアナーキストの心理を誰もが参考にしたいと思うのであろう。たしかにテロリストを主人公に、テロの政治ではなくテロリストの心理を描写した小説は多くはない。ましてや世界的な名声を得た小説となると、恐らく『密偵』一冊くらいか。『密偵』が政治小説やハードボイルドであったなら、これほどまでに現在、読み込まれることはなかったろう。実際、私はうかつにも知らなかったが、特に9.11以降『密偵』がテロ研究者や実務家に多く読まれ、現在の自爆テロを少しでも理解しようとする努力が続けられているという。
 どんな名作でもそうだが、『密偵』の粗筋は、すこぶる簡単である。ロシア大使館の密偵であり同時にロンドン警視庁への情報内通者である主人公ヴァーロックがウラジミールに命令され、プロフェッサーのつくった爆弾を、知恵遅れの義弟スティーブに持たせてグリッニッジ天文台を爆破しようとする。ところがスティーブが途中で転んで、弾みに爆弾が爆発、目的を果たせないままにスティーブが吹き飛んだ。それをヴァーロックから訊いた妻ウィニーが弟の仇を討つべくヴァーロックを刺殺し、本人もまた船から身を投げて自殺する。この過程で登場するさまざまな人々の心の動きや葛藤が細密に心理描写される。波瀾万丈な筋立てというものは全くない。ひたすら登場する人物の考えや心理に焦点が当てられる。だからこそ今でも読み込まれる小説となっている。これがもし、当時の政治状況に焦点をあてた政治小説であったら、陳腐な駄作にしかならなかったろう。
 逆に言えば、この小説を現在の政治状況にあてはめて解釈することは誤読以外の何ものでもないだろう。だからこの小説を現代のテロという文脈にあてはめて解釈すること自体が誤りであろう。むしろ、コンラッドの名作『闇の奥』(映画『地獄の黙示録』の原作)の延長線上にある人間の本性の不可知性あるいはヨーロッパ近代に生れた近代主義的人間が抱える近代ヨーロッパの暴力性といった問題として読み解くべきであろう。
 グリニッジ爆弾事件が起こった19世紀末にはヨーロッパでは数多くの爆弾テロ事件が起きた。この時代は、丁度産業革命による農業時代から工業時代への時代の転換点であり、国家体制が封建国家から近代国家へ、そして人々もまた群集(マルチチュード)から個人への変容を強いられた時代である。こうした時代の境目には必ず社会的混乱、政治的腐敗、アイデンティティーの喪失などからテロ事件が起きる。現在のイスラムによる自爆テロもまさに工業時代から情報時代への時代の転換点、近代国家から脱近代国家への変容そして近代的自我の崩壊にともなう個人のアイデンティティーの喪失という中で起きた社会的、政治的そして人間的な事象である。
 最後に、中村の評論は最後の段落でもって破綻したようだ。彼はこう記している。
「コンラッドが描いたのは、アナーキストのルポルタージュでもなく、その思想の実証主義的再現でもなかった。当時の英国人たちがアナーキストに対して抱いた理念型を選び出し、それを戯画、モンタージュ、アイロニーなどの手法を用いて笑えるように表象したのである。その結果、通常の社会科学が表現し得ないテロリズムの内的真実を照明し、暴力に対応する戦略の提示に成功している」(48頁)。
「テロリズムの内的真実」とはどういうものかがわかっていなくては、このような表現はできないだろう。しかし、「テロリズムの内的真実」がわからないから科学は文学に負けているのだし、また「テロリズムの内的真実」がわからない限り、はたして文学が「テロリズムの内的真実」を明らかにしたかどうかも不明のはずである。現代のテロの問題は「テロリズムの内的真実」などというものがあるのだと前提にするその近代合理主義的姿勢を問うている。ましてや「暴力に対応する戦略の提示に成功している」などとは到底言えないし、コンラッドが対テロ戦略を明らかにしようなどとはおもってもいないだろうし、また『密偵』をそこまで読み込むことなどできない。とういよりも、そのような近代合理主義的な読み込みを拒否するのが現在のテロである。
 だから今必要なのは『密偵』を解釈することではなく、『密偵』に匹敵する文学を創造することである。

0 件のコメント:

コメントを投稿