2014年5月16日金曜日

安保法制懇の詭弁

今回の安保法制懇の報告書には、集団的自衛権行使の解釈変更にばかり注目が集まっている。しかし、より重要なのは集団的自衛権行使の前提となる「国際紛争」の解釈がこれまでの解釈とは全く異なっていることである。実は国会でも戦後一貫して「国際紛争」とは何か、明確に定義して議論されたことはない。今回の報告書は、ある意味で、その盲点をついて集団的自衛権行使の議論を展開している。  我が国との関係から国際紛争を類型化すれば、次のようになる。 第1に国家間紛争(International Disputes) この国家間紛争で武力が行使される状況が戦争である。これはさらに二つに分類できる ①我が国と他国との国家間紛争。  具体的には、たとえば日中、日韓、日露の領土紛争がある。報告書の「我が国が当事国となる国際紛争」である。 ②他国と他国の国家間紛争。  具体的には、たとえば南北朝鮮の紛争、ロシアとウクライナの紛争などである。 第2に低強度紛争(Low-Intensity Conflict) 少なくとも一方がアルカイダのようなテロ集団やヒズボッラーのようなゲリラ組織など非国家主体である紛争である。これはさらに次のように分類できる。 ①我が国と非国家主体との紛争。 具体的には、中国の武装漁民との紛争である。 ②他国と非国家主体との紛争 これは多くの場合、エジプトやシリアのように他国内における内紛、内戦となる。その中にはたとえばパレスチナ紛争やアフガニスタン紛争のように我が国に影響を及ぼす国際的な内紛や内戦もある ③非国家主体同士の紛争  具体的には、かつてのレバノンや現在のソマリアのように事実上無政府状況に陥り、軍閥が群雄割拠し争っている状況である。  これらの紛争のうち、憲法制定時には我が国と他国との紛争しか想定されていなかったのである。アメリカにとって日本を非武装化することが目的であったから当然といえば当然である。  たとえばマッカーサー原案では、Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.(下線引用者)と、「自国(日本)の紛争」(括弧内引用者)と限定している。またGHQ原案では、The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.(下線引用者)と「他国との紛争」と明記されている。すなわち報告書の「我が国が当事国である国際紛争」である。  このGHQ原案を受けて、日本政府は3月2日案および3月5日でもともに「他国との間の争議」という文言を使っている。3月6日の憲法改正草案要綱でも「他国との間の紛争」との字句が見える。そして4月17日に発表された憲法改正草案(政府原案)さらに5月25日の憲法改正草案(政府修正案)でもやはり「他国との間の紛争」という語句が使われている。  ところが7月29日に発表されたいわゆる芦田試案では「他国との紛争」ではなく「国際紛争」と修正が加えられている。この芦田修正では、第二項の「前項の目的を達する為め」が注目されたが、実は「他国との紛争」が「国際紛争」と変えられたことで、国際紛争の解釈が曖昧となり現在に至る混乱の原因となったのである。なぜこのような修正が加えられたのか、不明である。しかし、当時の状況を考えれば、「国際紛争」が「他国との紛争」すなわち「我が国が当事国である国際紛争」であることは誰しもが了解していたことであろう。 その後朝鮮戦争、日米同盟締結、国連加盟、冷戦の激化等の安全保障環境の変化に伴って、「国際紛争」は「他国との紛争」だけでなく「他国と他国との紛争」しかもその他国の一方が同盟国アメリカに限定された「国際紛争」として認識されていたのである。米国と他国との紛争にどのように関わるか、この問題が個別的自衛権と集団的自衛権の切り分けにつながる。  ところが冷戦が終わると、イラクのクエート侵略のように一方がアメリカではない、他国と他国の間の国家間紛争、カンボジアにおける内戦、9.11のような他国内のテロ、アフガニスタンやイラクにおけるテロとの戦いなどこれまで想定していなかった「国際紛争」が我が国の安全保障問題として浮上してきた。国会の議論や政府の解釈はこれらの「国際紛争」も明確な定義や切り分けをしないまま、一律憲法が武力行使を禁止する国際紛争としたのである。その結果、テロ特措法、イラク特措法など憲法を逸脱するかのような法律で日本は「国際協力」をしのいできたのである。 安保法制懇の報告書は憲法の「国際紛争」の曖昧さをなくし、マッカーサー原案やGHQ原案の「他国との紛争」に限定することで、集団的自衛権を認め集団安全保障にも参加する道をつけようとしている。たとえば報告書では以下のような文言がある。「我が国が当事国である国際紛争を解決するための武力による威嚇や武力の行使に用いる戦力の保持は禁止されているが、それ以外の、すなわち、個別的又は集団的を問わず自衛のための実力の保持やいわゆる 国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべきである」。 たしかに特措法による国際協力はもはや限界であり、憲法の逸脱というより無憲法状況といってもよい。だからと言って、報告書にあるように、「我が国が当事国である国際紛争を解決するため」以外なら、「実力」の保持は禁止されていないというのは詭弁である。そもそも禁止されていないから即保持してよいということにはならない。よしんば法理論上認められたとしても、「保持」するかどうかは、まさに「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」である。 報告書に従えば「我が国が当事国である国際紛争」では戦力の保持は禁止されているが、「我が国が紛争当事国ではない国際紛争」つまり上記の国際紛争の分類の第一の①以外の国際紛争にはすべて「実力の保持」は認められことになる。また「我が国が紛争当事国ではない国際紛争」で「個別的又は集団的を問わず自衛のための実力の保持」が行使できる「国際紛争」とはどういう紛争なのだろうか。自衛権の発動要件である「急迫不正の侵害」を受けることはすなわち「我が国が当事国である国際紛争」に巻き込まれたことではないのか。「我が国が当事国である国際紛争」とは一体どのような国際紛争なのか、また保持できない「戦力」と保持できる「実力」の違いは何なのか、報告書は依然として曖昧なままである。 今から約20年前に私は読売新聞社の憲法改正試案の研究会で、憲法が上記のような国際紛争の多様化に対応していない問題を指摘し、憲法を改正すべきだと主張したことがある。今も、その主張を続けている。安倍政権の問題点は、識者からも苦言が呈されているように、政府解釈で憲法を事実上変えようとしていることにある。ここは堂々と憲法改正によって集団的自衛権の容認や集団安全保障への参加を認めるようにすべきであろう。 そもそもの疑問だが、今なぜ政府解釈の変更をしなければならないのだろうか。「いつやるか、今でしょ」と林修先生に背中を押されでもしたのだろうか。靖国神社参拝、国家安全保障会議の設置、国家安全保障戦略の策定、武器禁輸三原則の見直し等、これまでの安倍政権の安全保障政策は日中関係が悪化している今、まるで中国に喧嘩を売っている、あるいは売られた喧嘩を買っているようなものだ。今は専守防衛に立ち戻り自衛隊による国際協力など極力控えて粛々と我が国の防衛体制を固める時だろう。

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