2015年2月9日月曜日

邦人救出と改憲

イスラム国による日本人人質殺害事件を契機に邦人救出問題が再び国会で議論の的になっている。安倍首相は、2月2日の参院予算委員会で、邦人救出問題で、海外でテロなどに巻き込まれた邦人を救出できるようにする法整備を進める考え明らかにした。その先には改憲が視野に入っているようだ。  これに対し2月5日の『しんぶん赤旗』は、「「国民を守る」といえばなんでも許されるなら、それこそ世界は「力」の強さがものをいう無法な時代に逆戻りです。・・・戦争という手段で「国民を守る」などというのは今日の世界に通用するものではありません」、と真っ向から反対している。まことに正論である。とはいえ、具体的な解決策は提案できず、「いま必要なのは、国際社会の一致した力で「イスラム国」を追い詰め、武装解除と解体に追い込むことです」と、安倍政権と何ら変わらない一般論の主張しかしていない。  海外における邦人保護の問題は集団的自衛権に絡んで昨年来議論が繰り返されてきた。戦乱に巻き込まれた邦人を救出する同盟国艦艇を護るために安倍首相は集団的自衛権行使容認を閣議決定した。今また海外でテロに巻き込まれた邦人救出のための法整備や果ては憲法の改正を安倍政権は目論んでいる。これに反対する野党や護憲派はただただ法律論や感情論を持ち出すだけで全く有効な反論をしていない。だから今回のような人質事件が起こると一気に国民世論が改憲になびくことになる。  改憲に追い風が吹いていると見てか、2015年2月7日の『産経抄』がさっそく次のように護憲派を揶揄しながら改憲を主張した。「日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。「イスラム国」のみならず、平和を愛していない諸国民がいかに多いことか。この一点だけでも現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。護憲信者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない」。  これまでも何度も主張してきたが、日本国憲法は元来国家に対して国民を武力で護らないよう約束させた世界でも画期的な平和憲法である。国民は自らの安全を自らで護ることを決意したのである。日本国民は憲法前文にあるように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。つまり国際社会はホッブズのいう「万人の万人による」闘争状態ではなく、すべての諸国民は平和を愛する平和な状態にある。それが日本国憲法の大前提である。  常識的な憲法理解はあくまで国家には国民を護る義務があるとしている。たとえば2015年月8日『朝日新聞』の長谷部恭男・早稲田大学教授との対論で杉田敦・法政大学教授は「近代国家には自国民を保護する義務がある」と強調している。長谷川教授も「はい。これは国民国家である以上「ある」としか言いようがなく、ありかたは国によって違います」と同意している。全く御説の通りである。近代国家には国民を護る義務がある。しかし、国民が国家に対しその義務を履行しなくてよいと定めたのが日本国憲法ではないのか。だから元来個別的自衛権も含め自衛権はあるが日本政府は国民との約束によって行使できないのである。まさに「ありかたは国によって違います」と長谷川教授が言うように、日本は国家の国民防護義務を国民が拒否した国家なのである。  では今回のような人質事件が起きたらどうするのか。たまたま必ずしも平和を愛さない諸国民がいたに過ぎないと諦め、平和憲法に殉ずるしかない。憲法に殉ずる覚悟さえあれば、安倍首相の改憲論議など一蹴できるではないか。その覚悟がなく、いくら改憲反対などと叫んでも何の効果もない。日本の憲法の平和主義を今一度再確認し、全国民が憲法に殉ずる覚悟を決めることでしか安倍首相の改憲に対抗する手段はない。 だからこそ共産党を含め護憲派は安倍首相に宣言すべきである。「戦争という手段で「国民を守る」ことなどしなくてよい、と。何故護憲派は声を大にして「自らの身は自らが護る」と言えないのか。何故テロリストに「憲法を読んでね」と言えないのか。

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