2015年2月3日火曜日

だれか湯川遥菜氏に一筋の涙を

 後藤健二氏の死後、彼への賛辞がメディアであふれかえっている。他方、湯川氏の死についてはだれも語らなくなった。誰か彼のために涙を流す人はいないのか。  マスメディアやネットメディアは、まるで湯川遥菜という人間がいなかったかのように、 湯川氏については全く触れていない。何故これほどまでに両者の扱いに差があるのか。湯川氏に関する情報やテレビ素材が無いからなのか、それとも湯川氏は報道するに値しないからなのか。メディアの両者の扱いの差には違和感を覚える。  多くのメディアやジャーナリスが後藤氏を賞賛するのは、後藤氏への負い目があるからではないか。 第一に、マスメディアは自社の記者の代わりに、鉄砲玉としてフリーランスのジャーナリストを使うことへの負い目である。実際、記者個人の思いはともかく、マスコミは社として社員を危険なところへは派遣できない。結局、社員の代わりにフリーランスのジャーナリストを特派員として紛争地に送り込むことになる。マスコミとフリーランスの間には正社員と非正規社員のような格差が厳然と存在する。 第二に、社員、フリーランスに限らず、ジャーナリストとして現場で取材しなかったことへの負い目である。命を懸けて現場で取材することこそジャーナリストとしての本懐である。にもかかわらず後藤氏のように現場取材をしなかったことへの悔恨は多くのジャーナリストに共通の思いではないか。 こうした負い目が、あふれんばかりの後藤氏への絶賛報道につながっているのではないか。しかし、今一度冷静に振り返ってみよう。こうしたジャーリストの仲間褒めが湯川氏の命を奪ったのではないか。I am Kenjiの嘆願要請や母親の記者会見が、湯川氏よりも後藤氏のほうが有力な交渉カードだとイスラム国に思わせ、結局湯川氏はイスラム国の本気度を見せつけるカードとして利用され、真っ先に殺害されたのだろう。 『朝日新聞』1月30日の「声」に「自己責任論」について次のような投書があった。紛争地の現状などの現状をジャーナリストは命を賭して伝えてくれる。だから「そういった事実を無視して、自己責任論を唱えて頬かむりを決め込もうとするのは公正な態度か」と、一部でささやかれている後藤氏への自己責任論に反論を加えている。では、投稿者はジャーナリストではない湯川氏には自己責任があるというのだろうか。職業によって自己責任のあるなしが決まるのだろうか。もしそう考えるジャーナリストがいたとしたら思い上がりも甚だしい。 自己責任は国家の役割をどのように考えるかによって決まる。国家はいかなる場合であれ、すべての国民の命を護る義務があると考えるなら、国民に自己責任はない。他方、平和憲法が国家に命ずるように、国家は国民の安全を守らなくてよい、自らの安全は自ら護るという護憲派の立場に立てば、すべての責任は自らにある。いずれにせよ自己責任は国家との関係であって、職業の差異にあるのではない。 安倍首相は、国家の責任を十分に認識していた。後藤氏の殺害の報に触れ、「湯川遥菜さんに続いて後藤健二さんが・・・」と声明文で後藤氏だけでなく、真っ先に湯川氏について触れていた。湯川氏を無視し続けるマスコミにはたして安倍首相を批判する資格はあるのだろうか。 後藤氏を事件に巻き込んだことへの自責の念からか、わが子の死を淡々と受け止めていた湯川氏の父親が後藤氏の悲報に触れた際には思わず滂沱の涙を流した。父親にさえ涙をかけてもらえなかった湯川遥菜氏の不憫さを思わずにいられなかった。いったい誰が湯川遥菜氏に涙を流すのか。 湯川遥菜氏、後藤健二氏の御霊の永遠に安からんことを衷心より祈念します。合掌。

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