2015年2月12日木曜日

旅券返納問題はジャーナリストの役割の低下の証左

日本政府が、シリア行を計画していたフリー・カメラマンの旅券を強制的に返納させたことに賛否が渦巻いている。私の基本的立場は、個人の自由の権利は何人たりとも犯すことはできない、ということにある。したがって、日本政府の決定は明らかに誤りであり、直ちに旅券を持ち主に返すべきである。その上で、報道、行動の自由の問題とは別の視点から、シリア入国の問題を取り上げてみたい。それは、ジャーナリストの役割である。 ところで件のカメラマンはどこから、どのようにシリアに入国するつもりだったのだろうか。トルコ国境から入るなら、シリア政府の国境管理は行われていないから、シリア政府にとってはトルコ国境からの入国は不法入国である。つまり日本政府は、正式国交のある国家に日本国民が不法入国するのを知りながら、それを看過することは許されるのだろうか。万一不法入国すれば、「イスラム国」だけではなくシリア政府にも捕まる懼れ(もっともアサド政権はもはやダマスカス地域しか支配していないから蓋然性は限りなく0に近いが)があった。カメラマンは不法入国は当然と考えていたのだろうか。 他方、日本人人質事件が起きていた同じ時期に『朝日新聞』の記者がシリア入りしていたことで、政府はもとより同業の読売、産経が朝日を非難した。全く的外れの非難である。朝日の記者はシリアのプレス・ビザをもって正式に入国しているのである。ある意味、シリア政府が彼らの身の安全を保証している。その代わりに記者の行動の自由や取材の自由は制限されているはずである。当該国政府が認めた取材活動まで危険だからと言って規制しようとするのは全くお門違いだ。朝日の記者が非難されるとしたら、当局の監視つき取材ツアーで本当に取材ができるのかという問題であろう。 不法入国であろうが合法入国であろうが、いずれにしてもジャーナリストはある種の特権意識や特権があるということが改めてわかった。前者は、報道に当たるジャーナリストだから不法入国は許されると考える。他方後者はジャーナリストだからプレス・ビザが発給される。いずれであれ、ジャーナリストであるがゆえの特権意識であり特権である。 それは報道するというジャーナリストの使命であって特権意識ではないという反論が聞こえてきそうである。しかし、ジャーナリストがもはや特権階級ではないということを明らかにしたのは他ならぬ「イスラム国」である。ネットが発達する以前ならテロ側の口舌となって主張を伝えてくれるジャーナリストの役割は大きかった。だが、ネットで自らの主張を発信できる「イスラム国」にはジャーナリストなど無用で、容赦なく彼らを殺害している。 他方、多くの人々の耳目となって紛争地の現状がどうなっているかを我々に伝えてくれるジャーナリストの役割もかつてはやはり大きかった。しかし、ネットの発達した今日、紛争地の現状もまた戦場カメラマンではなく現場に居合わせた人々がネットで配信してくれる。戦闘が激化しているウクライナから砲爆撃の生々しい模様をYOUTUBE で伝えているのは現地住民である。ジャーナリストが伝えるのは今では戦闘の跡や難民キャンプの様子である。それとてもその場で暮らす人々や支援にあたるNGOがネットで伝えてくれる。 それでもなおジャーナリストの役割があるとすれば、それは一体何だろう。旅券返納問題は、結局ジャーナリストの役割が低下したことの表れではないか。

2015年2月9日月曜日

邦人救出と改憲

イスラム国による日本人人質殺害事件を契機に邦人救出問題が再び国会で議論の的になっている。安倍首相は、2月2日の参院予算委員会で、邦人救出問題で、海外でテロなどに巻き込まれた邦人を救出できるようにする法整備を進める考え明らかにした。その先には改憲が視野に入っているようだ。  これに対し2月5日の『しんぶん赤旗』は、「「国民を守る」といえばなんでも許されるなら、それこそ世界は「力」の強さがものをいう無法な時代に逆戻りです。・・・戦争という手段で「国民を守る」などというのは今日の世界に通用するものではありません」、と真っ向から反対している。まことに正論である。とはいえ、具体的な解決策は提案できず、「いま必要なのは、国際社会の一致した力で「イスラム国」を追い詰め、武装解除と解体に追い込むことです」と、安倍政権と何ら変わらない一般論の主張しかしていない。  海外における邦人保護の問題は集団的自衛権に絡んで昨年来議論が繰り返されてきた。戦乱に巻き込まれた邦人を救出する同盟国艦艇を護るために安倍首相は集団的自衛権行使容認を閣議決定した。今また海外でテロに巻き込まれた邦人救出のための法整備や果ては憲法の改正を安倍政権は目論んでいる。これに反対する野党や護憲派はただただ法律論や感情論を持ち出すだけで全く有効な反論をしていない。だから今回のような人質事件が起こると一気に国民世論が改憲になびくことになる。  改憲に追い風が吹いていると見てか、2015年2月7日の『産経抄』がさっそく次のように護憲派を揶揄しながら改憲を主張した。「日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。「イスラム国」のみならず、平和を愛していない諸国民がいかに多いことか。この一点だけでも現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。護憲信者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない」。  これまでも何度も主張してきたが、日本国憲法は元来国家に対して国民を武力で護らないよう約束させた世界でも画期的な平和憲法である。国民は自らの安全を自らで護ることを決意したのである。日本国民は憲法前文にあるように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。つまり国際社会はホッブズのいう「万人の万人による」闘争状態ではなく、すべての諸国民は平和を愛する平和な状態にある。それが日本国憲法の大前提である。  常識的な憲法理解はあくまで国家には国民を護る義務があるとしている。たとえば2015年月8日『朝日新聞』の長谷部恭男・早稲田大学教授との対論で杉田敦・法政大学教授は「近代国家には自国民を保護する義務がある」と強調している。長谷川教授も「はい。これは国民国家である以上「ある」としか言いようがなく、ありかたは国によって違います」と同意している。全く御説の通りである。近代国家には国民を護る義務がある。しかし、国民が国家に対しその義務を履行しなくてよいと定めたのが日本国憲法ではないのか。だから元来個別的自衛権も含め自衛権はあるが日本政府は国民との約束によって行使できないのである。まさに「ありかたは国によって違います」と長谷川教授が言うように、日本は国家の国民防護義務を国民が拒否した国家なのである。  では今回のような人質事件が起きたらどうするのか。たまたま必ずしも平和を愛さない諸国民がいたに過ぎないと諦め、平和憲法に殉ずるしかない。憲法に殉ずる覚悟さえあれば、安倍首相の改憲論議など一蹴できるではないか。その覚悟がなく、いくら改憲反対などと叫んでも何の効果もない。日本の憲法の平和主義を今一度再確認し、全国民が憲法に殉ずる覚悟を決めることでしか安倍首相の改憲に対抗する手段はない。 だからこそ共産党を含め護憲派は安倍首相に宣言すべきである。「戦争という手段で「国民を守る」ことなどしなくてよい、と。何故護憲派は声を大にして「自らの身は自らが護る」と言えないのか。何故テロリストに「憲法を読んでね」と言えないのか。

2015年2月4日水曜日

安倍首相責任論

 人質事件が最悪の結末に終わって、いよいよ安倍首相の責任追及が始まった。論点は二つ。第一は、2億ドルの人道支援援助の演説の適否。第二は、昨年湯川遥菜氏と後藤健二氏が人質に取られてから身代金要求事件が発生するまでの対応。  第一の論点については、「イスラム国」と戦う国々を支援すると宣言したこと、そしてイスラエルのネタニヤフ首相とテロとの戦いに取り組むと宣言したこと、が問題として指摘されている(黒木英充・東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授『朝日新聞』2015年2月2日朝刊)。  前者については、イスラム国を挑発したのではないかとの批判がある。宣言をしたからイスラム国と日本が敵対関係になったわけでもなく、二人が拘束されたわけでもない。イスラム国の前身であるイラクのアルカイーダの時代にはすでに日本は反イスラム戦線の一翼を担う国家としてイスラム過激派とは敵対関係にあった。2004年10月には自衛隊の撤退を求めるイラクのアルカイーダに香田証生氏が殺害されている。 湯川遥菜氏の扱いに困り、また後藤健二氏との秘密裏の身代金交渉もうまくいかず、イスラム国は彼らのもっともうまい利用法を考えていたのだろう。そこに安倍首相が中東を訪問して2億ドルの人道支援の声明を出した。それを口実としてイスラム国は宣伝のための絶好の機会ととらえ、2億ドルもの身代金要求を突き付けたのだろう。初めから交渉するつもりなどなかったことは、ヨルダン人パイロットが事件発生前に殺害されていたことで明らかだ。  後者については、そもそもイスラム国にはイスラエルなど眼中にない。実際、彼らが掲げる目標は、かつてあったイスラムの版図の再興である。パレスチナが目指す国民国家の復興ではない。パレスチナを支援するアラブ諸国やアラブ民衆にとって日本がイスラエルと共闘することは敵対行為にうつるであろう。しかし、イスラム世界の拡張を目指すイスラム国にとって、日本がイスラエルと友好関係にあろうがなかろうが、イスラム国に敵対するものはすべて敵という論理しかない。イスラエルとテロで共闘したからと言って、それが今回の事件の原因になったわけではない。  第二の問題、事件が発生するまでの対応が正しかったかどうかである。この点についての検証は十分に行う必要がある。特に、中田考氏と常岡浩介氏の問題である。彼らは、イスラム国に人脈を持っていた。それなのに、その人脈を利用しなかったのはなぜか。元レバノン大使の天木直人氏が「BLOGOS」で記しているように、第一に外務省のプライド、第二にアメリカの圧力、第三にアメリカの意向を忖度した日本政府の自制を推測している。それに加えて、好意的に考えれば、何らかの交渉が行われており、その邪魔とならないように中田、常岡ルートを使わなかった。いずれであれ結果的に両氏の人脈は使われなかった。  また後藤氏の家族あてに身代金要求のメールが来た時に政府はどのように対応したのか。全く闇の中である。家族に身代金の支払いを拒否するように言明したのか、時間稼ぎをするように助言したのか、いずれにせよ、イスラム国とどのようなやり取りがあったのかは十分に検証する必要がある。  安倍首相の責任追及はこれから本格するだろうが、今後の教訓となるように責任の追及を行うべきであろう。ゆめゆめ反安倍の政争の具に使うことのないように野党にはお願いしておく。

2015年2月3日火曜日

だれか湯川遥菜氏に一筋の涙を

 後藤健二氏の死後、彼への賛辞がメディアであふれかえっている。他方、湯川氏の死についてはだれも語らなくなった。誰か彼のために涙を流す人はいないのか。  マスメディアやネットメディアは、まるで湯川遥菜という人間がいなかったかのように、 湯川氏については全く触れていない。何故これほどまでに両者の扱いに差があるのか。湯川氏に関する情報やテレビ素材が無いからなのか、それとも湯川氏は報道するに値しないからなのか。メディアの両者の扱いの差には違和感を覚える。  多くのメディアやジャーナリスが後藤氏を賞賛するのは、後藤氏への負い目があるからではないか。 第一に、マスメディアは自社の記者の代わりに、鉄砲玉としてフリーランスのジャーナリストを使うことへの負い目である。実際、記者個人の思いはともかく、マスコミは社として社員を危険なところへは派遣できない。結局、社員の代わりにフリーランスのジャーナリストを特派員として紛争地に送り込むことになる。マスコミとフリーランスの間には正社員と非正規社員のような格差が厳然と存在する。 第二に、社員、フリーランスに限らず、ジャーナリストとして現場で取材しなかったことへの負い目である。命を懸けて現場で取材することこそジャーナリストとしての本懐である。にもかかわらず後藤氏のように現場取材をしなかったことへの悔恨は多くのジャーナリストに共通の思いではないか。 こうした負い目が、あふれんばかりの後藤氏への絶賛報道につながっているのではないか。しかし、今一度冷静に振り返ってみよう。こうしたジャーリストの仲間褒めが湯川氏の命を奪ったのではないか。I am Kenjiの嘆願要請や母親の記者会見が、湯川氏よりも後藤氏のほうが有力な交渉カードだとイスラム国に思わせ、結局湯川氏はイスラム国の本気度を見せつけるカードとして利用され、真っ先に殺害されたのだろう。 『朝日新聞』1月30日の「声」に「自己責任論」について次のような投書があった。紛争地の現状などの現状をジャーナリストは命を賭して伝えてくれる。だから「そういった事実を無視して、自己責任論を唱えて頬かむりを決め込もうとするのは公正な態度か」と、一部でささやかれている後藤氏への自己責任論に反論を加えている。では、投稿者はジャーナリストではない湯川氏には自己責任があるというのだろうか。職業によって自己責任のあるなしが決まるのだろうか。もしそう考えるジャーナリストがいたとしたら思い上がりも甚だしい。 自己責任は国家の役割をどのように考えるかによって決まる。国家はいかなる場合であれ、すべての国民の命を護る義務があると考えるなら、国民に自己責任はない。他方、平和憲法が国家に命ずるように、国家は国民の安全を守らなくてよい、自らの安全は自ら護るという護憲派の立場に立てば、すべての責任は自らにある。いずれにせよ自己責任は国家との関係であって、職業の差異にあるのではない。 安倍首相は、国家の責任を十分に認識していた。後藤氏の殺害の報に触れ、「湯川遥菜さんに続いて後藤健二さんが・・・」と声明文で後藤氏だけでなく、真っ先に湯川氏について触れていた。湯川氏を無視し続けるマスコミにはたして安倍首相を批判する資格はあるのだろうか。 後藤氏を事件に巻き込んだことへの自責の念からか、わが子の死を淡々と受け止めていた湯川氏の父親が後藤氏の悲報に触れた際には思わず滂沱の涙を流した。父親にさえ涙をかけてもらえなかった湯川遥菜氏の不憫さを思わずにいられなかった。いったい誰が湯川遥菜氏に涙を流すのか。 湯川遥菜氏、後藤健二氏の御霊の永遠に安からんことを衷心より祈念します。合掌。

2015年2月1日日曜日

イスラム国のYOUTUBEテロ

テロは心理的暴力である。殺傷、破壊という物理的暴力を恐怖という心理的暴力に変えて身代金の獲得、人質の交換、政治宣伝などの目的を達成する。この物理的暴力を心理的暴力に変換するのが宣伝、広報のための手段としてのメディアである。  テロの歴史はメディアの発達の歴史でもある。そもそも現代テロの始まりは、1968年7月にパレスチナ解放人民戦線がイスラエルのエルアル機をハイジャックしたことに始まる。目的は、世界にパレスチナ問題を知らせることにあった。しかし、当時はまだ衛星中継が十分に発達せずに世界的なニュースになることはなかった。その後衛生中継の発達とともに、テレビはテロの心理的恐怖を拡散させるメディアとして重要な役割を果たした。1972年、パレスチナ過激派組織「黒い九月」によるミュンヘン・オリンピック襲撃事件、1977年の日本赤軍による日航機ハイジャック事件など、事件の経過が刻々とテレビで放映され、国際社会に大きな衝撃を与えた。そして、2001年のアルカイダによる9.11同時多発テロでは、世界中の何十億もの人々が世界貿易センタービルの倒壊を目撃し、テロの恐怖に震撼したのである。  1980年代に入ってテレビに加えて新たなメディアが登場してきた。それはビデオである。ビデオの登場によってテロ組織はテロの目的をビデオに録画し、放送局を通じ放送できるようになった。それまでは単にテロ事件が報道されるだけであったのが、テロ組織が自らの目的を発信する手段を得たのである。その結果自爆犯が事前に録画したテロ決行の決意表明を録画したビデオが放送局を通じて放映されるようになった。とはいえ自らテレビ放送をすることまではできなかった。  こうした状況を劇的に変えたのがネットの発達である。フェースブックやツイッターなどSNSを使えば今や誰もが自らの主張を世界中に伝えることができる。またYOUTUBEを使えば動画さえも世界中に配信できる。ネットのこの特性を利用してアルカイダは広報誌や広報ビデオを作成しネットを通じて世界中に配信し、自らの活動を宣伝している。さらに洗練された手法を用いているのが「イスラム国」である。アルカイダがアラビア語とせいぜい英語で発信していたのに比べ、「イスラム国」はアラビア語、英語はもちろん、ドイツ語やフランス語など多言語で発信している。今回の人質事件はネットやYOUTUBEなしではできなかった。さしずめYOUTUBEテロといって良いだろう  ネットの発達によって、もっとも劇的な変化が起きたのは、既存のマスメディアとテロ組織との関係である。これまでテレビや新聞などの既存のマスメディアは、テロ組織のメガフォンの役割を果たしてきた。たとえ中立的にテロを報道するだけでも、テロ側にとって十分に宣伝効果はある。しかし、ネットの発達でテロ組織は既存のマスメディアに頼ることなく、自らの主張を世界中にくまなく発信することができるようになった。つまりテロ側にとって既存のマスメディアは不要になったのである。イスラム国が記者を次々に人質に取るのも、記者の役割がテロ組織にとって低下したことの表れである。事実今回の人質事件を見ても、現場での取材はほとんどなく、犯人側の要求をYOUTUBEやツイッターで探すなどサイバー空間上での取材となっている。現地対策本部のあるアンマンの日本大使館前からの中継ほどむなしい報道はなかった。各局ともネット情報以上の報道はほとんどなかった。  テロの舞台がサイバー空間に移ったことで、これまでとは全く異なるテロ対策が必要になってきた。画像は合成ではないか、常に真偽のほどを確かめなければならなくなった。メールもなりすましではないか確認が必要になる。そして最大の問題は、テロ組織によるネットを通じた広報、宣伝を規制するのか否かである。一部では「イスラム国」のネットを規制すべきだとの意見も上がり始めている。しかし、ネットの自由を原則にしている日本をはじめ欧米自由諸国は簡単にはネット規制には踏み切れないだろう。さりとて「イスラム国」の宣伝を野放しにすれば、彼らはさらにテロをエスカレートさせるだろう。 「イスラム国」のテロの狙いは、テロの語源そのものである「恐怖による支配」だ。まさにネットはうってつけのメディアである。