2014年5月25日日曜日

矢吹晋『尖閣衝突は沖縄返還に始まる』を読む

矢吹晋『尖閣衝突は沖縄返還に始まる―日米中三角関係の頂点としての尖閣』(花伝社、2013年)  本書の主張は、概略以下のような内容である。 戦後ダレス国務長官は蒋介石の主張に配慮し、日台間の沖縄領有権問題に中立を保つために残存主権(residual sovereignty)という新たな主権概念を作り出した。その上沖縄の施政権だけをアメリカに移管し占領行政を行ったのである。それは、米国は領土拡大の意図はないとの大西洋憲章にも合致する論理だった。蒋介石によれば、沖縄は本来台湾に返還されるべきであったが、アメリカは沖縄の施政権を日本に返還することで、沖縄の領有権問題に中立を装った。当時、米中は国交回復の交渉の真っ最中であり、蚊帳の外に置かれた蒋介石はせめてアメリカが尖閣諸島に影響力を残し中国をけん制することを願って、米軍に射爆場を設定するように要請した。それが今日日本の公式文書にわざわざ中国名で「黄尾嶼」、「赤尾嶼」と記載される久場島、大正島の二つの米軍射爆場である。  本書の主張は、一言で言えば、沖縄は日本ではなく台湾(中国)領であるとの蒋介石の主張に依拠している。尖閣が台湾領であることの根拠はそもそも沖縄が日本の領土ではない、百歩譲って、日台(中国)いずれに帰属しているか、あるいは独立しているのか明瞭ではないという前提に立っている。したがって尖閣問題は尖閣の帰属そのものよりもむしろ沖縄の帰属が議論の主眼となる。沖縄が中国領であるなら、尖閣は当然中国領である。したがってアメリカが沖縄を日本に返還したこと自体が誤りとなる。仮に沖縄の領有権が日本にあったとしても、尖閣は地理的には台湾の付属諸島であり、台湾に帰属するのが当然というのが筆者の暗黙裡の主張である。また日本の無主地先占による尖閣の領有権の主張は日清戦争の勝利を受けて行われたものであり正当性に問題があると疑義を示している。 筆者の主張の問題点は、第一に、尖閣は日本領に編入される以前に台湾(中国)領であったと証明できるのか。仮に日本の尖閣の領有が違法だったとしても、それでただちに中国の領土とはならない。日中関係に近代主権国家の国境概念が導入されたのはまさに日本が明治政府によって近代国家を樹立した時である。それ以前の封建国家や帝国の境界は線ではなく面の辺境概念である。尖閣はまさに中国と琉球の辺境の島嶼であり、両国とも自らの辺境と意識していたのだろう。事情はどうであれ、当時の国際法に従えば、明治政府が無主地先占の原則に従って領有したことは合法ではないのか。 この領有権の合法性を否定する論法は、そもそも明治政府による琉球併合そのものを違法とすることである。琉球の併合が違法で本来は中国領であるとするなら尖閣問題は雲散霧消する。筆者の第二の問題点は、まさに、この点にある。琉球併合は違法なのか、そしてアメリカによる沖縄の日本返還はそもそも誤りだったのか。行間ににじむ主張はイエスである。現在中国の一部にある琉球回収の主張はあながち荒唐無稽な議論ではない。 結局尖閣の帰属問題の本質は沖縄の帰属問題であり、だからこそ沖縄の日本返還が尖閣問題の発端となったというのが本書の主張である。

朝鮮有事の際、日米安保は発動されるのか?

朝鮮戦争は国際法上、韓国・国連軍(事実上米軍)対北朝鮮・中国(義勇兵が参戦したという名目なので国家としては参戦していない)戦争である。現在の休戦協定は国連軍、北朝鮮、中国の三者(いずれも現地軍司令官が署名)によって結ばれている。韓国は反対したために休戦協定に調印していない。  安倍政権が想定している朝鮮有事は、北朝鮮が韓国に武力攻撃を仕掛けた場合であろう。この時休戦協定は事実上破棄され、米軍、韓国軍が反撃することになる。問題は米軍が国連軍として国連旗の下で行動するのか、それとも米韓相互援助条約に基づいて星条旗の下で行動するのか。いずれであれ軍事的には米軍が行動することになるが、国際法上米軍の行動が国連決議によって正当化されるのか米韓相互援助条約で正当化されるのか、必ずしも判然としない。  日本から見れば米軍そして韓国軍が国連旗を掲げて国連軍として行動するとなれば、1954年に国連と結んだ地位協定にしたがって米軍や韓国軍、そのほか国連の呼びかけにしたがって参戦する国々を支援することになる。この国連軍に対する支援(施設や物品の提供、兵士の居住、移動などの便宜供与などもっぱら後方支援)は個別的自衛権の発動ではない。しかし、集団的自衛権の発動なのか、あるいは集団安全保障の発動なのか。というのも朝鮮国連軍は国連軍とも言い難く限りなく多国籍軍、さらにより厳密には米韓同盟軍に近いからである。  他方米韓相互援助条約の発動であれば、日本は韓国に出動する在日米軍の行動を日米安保条約によって支援することになるだろう。この時はじめて集団的自衛権の発動が問題となる。しかし、武力行使と一体化するような米軍の行動への支援といったあいまいな問題を除き、現在集団的自衛権で想定されているような自衛隊が紛争地域で米軍を支援する具体的な戦闘はおそらくほとんど無い。北朝鮮との戦いで米軍が日本の支援を要請するような事態が起こるとすれば、それはもはや日本の安全が危なくなる時で、個別的自衛権で対処できる。 また邦人を救援する米艦船の護衛のために集団的自衛権が必要という説明を安倍首相がしていたが、邦人保護であれば、公明党が主張するように個別的自衛権で対処できる。とはいえ、そもそも北朝鮮の海軍に、たとえ輸送艦であっても米海軍を攻撃できる能力も無いし、わざわざ対馬海峡あたりにまで出撃する能力もない。 ちなみに韓国にいる在留邦人の撤退計画の多くは陸路で釜山に集合し、そこから民間船で九州に避難することになっている。北朝鮮が民間への攻撃を禁ずる国際法を守るとの前提だが、民間船の方が米海軍艦船よりは安全である。問題は漢江の北に万一取り残されたり、空港や陸路が封鎖されて釜山まで辿りつけない場合である。韓国政府が邦人救護であれ自衛隊の韓国派兵を認めるとは思えない。万一認めたとして、自衛隊員が戦闘に巻き込まれる危険性は大きく、日本が北朝鮮との武力衝突に発展するおそれがある。 だから、取り残されたり逃げ遅れたりした邦人は、自力での脱出を最後まで試み、万策尽きた場合には潔く憲法九条に殉ずるべきである。国民がその覚悟を持たない限り、集団的自衛権行使容認の挙句、邦人保護を名目に日本は国際紛争に巻き込まれ、平和国家としてのブランドを失うことになる。それはまた、いつか来た道である。

2014年5月16日金曜日

安保法制懇の詭弁

今回の安保法制懇の報告書には、集団的自衛権行使の解釈変更にばかり注目が集まっている。しかし、より重要なのは集団的自衛権行使の前提となる「国際紛争」の解釈がこれまでの解釈とは全く異なっていることである。実は国会でも戦後一貫して「国際紛争」とは何か、明確に定義して議論されたことはない。今回の報告書は、ある意味で、その盲点をついて集団的自衛権行使の議論を展開している。  我が国との関係から国際紛争を類型化すれば、次のようになる。 第1に国家間紛争(International Disputes) この国家間紛争で武力が行使される状況が戦争である。これはさらに二つに分類できる ①我が国と他国との国家間紛争。  具体的には、たとえば日中、日韓、日露の領土紛争がある。報告書の「我が国が当事国となる国際紛争」である。 ②他国と他国の国家間紛争。  具体的には、たとえば南北朝鮮の紛争、ロシアとウクライナの紛争などである。 第2に低強度紛争(Low-Intensity Conflict) 少なくとも一方がアルカイダのようなテロ集団やヒズボッラーのようなゲリラ組織など非国家主体である紛争である。これはさらに次のように分類できる。 ①我が国と非国家主体との紛争。 具体的には、中国の武装漁民との紛争である。 ②他国と非国家主体との紛争 これは多くの場合、エジプトやシリアのように他国内における内紛、内戦となる。その中にはたとえばパレスチナ紛争やアフガニスタン紛争のように我が国に影響を及ぼす国際的な内紛や内戦もある ③非国家主体同士の紛争  具体的には、かつてのレバノンや現在のソマリアのように事実上無政府状況に陥り、軍閥が群雄割拠し争っている状況である。  これらの紛争のうち、憲法制定時には我が国と他国との紛争しか想定されていなかったのである。アメリカにとって日本を非武装化することが目的であったから当然といえば当然である。  たとえばマッカーサー原案では、Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.(下線引用者)と、「自国(日本)の紛争」(括弧内引用者)と限定している。またGHQ原案では、The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.(下線引用者)と「他国との紛争」と明記されている。すなわち報告書の「我が国が当事国である国際紛争」である。  このGHQ原案を受けて、日本政府は3月2日案および3月5日でもともに「他国との間の争議」という文言を使っている。3月6日の憲法改正草案要綱でも「他国との間の紛争」との字句が見える。そして4月17日に発表された憲法改正草案(政府原案)さらに5月25日の憲法改正草案(政府修正案)でもやはり「他国との間の紛争」という語句が使われている。  ところが7月29日に発表されたいわゆる芦田試案では「他国との紛争」ではなく「国際紛争」と修正が加えられている。この芦田修正では、第二項の「前項の目的を達する為め」が注目されたが、実は「他国との紛争」が「国際紛争」と変えられたことで、国際紛争の解釈が曖昧となり現在に至る混乱の原因となったのである。なぜこのような修正が加えられたのか、不明である。しかし、当時の状況を考えれば、「国際紛争」が「他国との紛争」すなわち「我が国が当事国である国際紛争」であることは誰しもが了解していたことであろう。 その後朝鮮戦争、日米同盟締結、国連加盟、冷戦の激化等の安全保障環境の変化に伴って、「国際紛争」は「他国との紛争」だけでなく「他国と他国との紛争」しかもその他国の一方が同盟国アメリカに限定された「国際紛争」として認識されていたのである。米国と他国との紛争にどのように関わるか、この問題が個別的自衛権と集団的自衛権の切り分けにつながる。  ところが冷戦が終わると、イラクのクエート侵略のように一方がアメリカではない、他国と他国の間の国家間紛争、カンボジアにおける内戦、9.11のような他国内のテロ、アフガニスタンやイラクにおけるテロとの戦いなどこれまで想定していなかった「国際紛争」が我が国の安全保障問題として浮上してきた。国会の議論や政府の解釈はこれらの「国際紛争」も明確な定義や切り分けをしないまま、一律憲法が武力行使を禁止する国際紛争としたのである。その結果、テロ特措法、イラク特措法など憲法を逸脱するかのような法律で日本は「国際協力」をしのいできたのである。 安保法制懇の報告書は憲法の「国際紛争」の曖昧さをなくし、マッカーサー原案やGHQ原案の「他国との紛争」に限定することで、集団的自衛権を認め集団安全保障にも参加する道をつけようとしている。たとえば報告書では以下のような文言がある。「我が国が当事国である国際紛争を解決するための武力による威嚇や武力の行使に用いる戦力の保持は禁止されているが、それ以外の、すなわち、個別的又は集団的を問わず自衛のための実力の保持やいわゆる 国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべきである」。 たしかに特措法による国際協力はもはや限界であり、憲法の逸脱というより無憲法状況といってもよい。だからと言って、報告書にあるように、「我が国が当事国である国際紛争を解決するため」以外なら、「実力」の保持は禁止されていないというのは詭弁である。そもそも禁止されていないから即保持してよいということにはならない。よしんば法理論上認められたとしても、「保持」するかどうかは、まさに「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」である。 報告書に従えば「我が国が当事国である国際紛争」では戦力の保持は禁止されているが、「我が国が紛争当事国ではない国際紛争」つまり上記の国際紛争の分類の第一の①以外の国際紛争にはすべて「実力の保持」は認められことになる。また「我が国が紛争当事国ではない国際紛争」で「個別的又は集団的を問わず自衛のための実力の保持」が行使できる「国際紛争」とはどういう紛争なのだろうか。自衛権の発動要件である「急迫不正の侵害」を受けることはすなわち「我が国が当事国である国際紛争」に巻き込まれたことではないのか。「我が国が当事国である国際紛争」とは一体どのような国際紛争なのか、また保持できない「戦力」と保持できる「実力」の違いは何なのか、報告書は依然として曖昧なままである。 今から約20年前に私は読売新聞社の憲法改正試案の研究会で、憲法が上記のような国際紛争の多様化に対応していない問題を指摘し、憲法を改正すべきだと主張したことがある。今も、その主張を続けている。安倍政権の問題点は、識者からも苦言が呈されているように、政府解釈で憲法を事実上変えようとしていることにある。ここは堂々と憲法改正によって集団的自衛権の容認や集団安全保障への参加を認めるようにすべきであろう。 そもそもの疑問だが、今なぜ政府解釈の変更をしなければならないのだろうか。「いつやるか、今でしょ」と林修先生に背中を押されでもしたのだろうか。靖国神社参拝、国家安全保障会議の設置、国家安全保障戦略の策定、武器禁輸三原則の見直し等、これまでの安倍政権の安全保障政策は日中関係が悪化している今、まるで中国に喧嘩を売っている、あるいは売られた喧嘩を買っているようなものだ。今は専守防衛に立ち戻り自衛隊による国際協力など極力控えて粛々と我が国の防衛体制を固める時だろう。