いまさら非戦主義、非暴力主義などを論じても、北朝鮮の核兵器開発やミサイル実験、中国の軍事大国化を前にして、無意味なような気がする。しかし、戦後(この戦後という言葉が太平洋戦争後だというのも現在の世界では希有のことのように思われるが)、日本では一貫してこの非戦主義と非暴力主義が混同されており、そのことが結果的に憲法9条の問題を複雑にしてきたのではないかと思う。
非戦主義と非暴力主義は似て非なるものである。そのことは良心的兵役拒否の問題につて考えれば、すぐわかる。良心的兵役拒否者は非暴力主義ではあるが、非戦主義ではない。なぜなら良心的兵役拒否は戦争を前提にしてはじめて非暴力主義にもとづく良心的兵役拒否が成立するからである。良心的兵役拒否はあくまでも個人の思想の問題であり、国家の武力行使である戦争を否定するものではない。
非暴力主義は宗教的信念に基づく場合がほとんどである。キリスト教の非暴力主義は「復讐するは我にあり」(新約聖書「ローマの信徒への手紙」12章 19節)に基づいている。神が人間に対する処罰を与えるが故に、神の被造物である人間が同じ神の被造物である他人に、神に代わって暴力をふるうことをいましめているのである。あるいは非暴力主義は「なんじ殺すなかれ」という十戒の教えに基づいてもいる。さらにメノナイト派やいわゆるアーミッシュの人たちの中には「二王国論」思想に基づきこの世は仮の世で、真の世界は「神の王国」にあり、「終末思想」に基づきいずれ「神の王国」がこの世にあらわれることを期待して、そのときに神の恩寵を受けるべく非暴力主義を実践しているのである。
こうした宗教的非暴力主義はキリスト教だけではない。ロシア正教ではドゥホボール派、またバハイ教でも非暴力主義の教えを説いている。仏教でも非殺生の思想が説かれる。この非殺生の教えは仏教に多大な影響を与えたインドのジャイナ教に多くを負っている。ジャイナ教では十大禁戒や五大禁戒などで聖職者や信者に動植物の殺生を厳しく戒めている。
このジャイナ教の禁戒を現代に適用したのがガンジーである。ガンジーの教えは現代の非暴力主義の原点になっている。しかし、それはあくまでも個人の思想の問題であり、ガンジー自身は非暴力主義者ではあったが、非戦主義者ではなかった。なぜなら、ガンジーは第1次世界大戦のおりインド各地をまわって若者たちにイギリス本国とともに戦うよう兵役志願を呼びかけたのである。その目的はイギリスに協力することで、インドの独立を図ることにあった。つまりガンジーにおいても非暴力主義と非戦主義は異なるのである。
他方非戦主義は国家の武力行使そのものを否定するが、個人の暴力を否定するものではない。カントの『永遠平和のために』で一読了解できる。カントは徴兵に基づく常備軍を否定し、国家間の戦争を否定した。その意味ではカントは非戦主義である。その一方で、カントは有事の際に個人の意志に基づき侵略者と戦う民兵は肯定した。つまりカントは非戦主義者ではあるが非暴力主義者ではない。
カントに多大な影響を与えたルソーもまた、サンピエールの永久平和論を批判しつつ、永久平和への道筋を考察した。ルソーが抱えた問題は、全ての国が共和国になれば、そして世界共和国ができれば永遠平和になるということであった。そのためには、君主が無条件に主権を委譲しない限り、武力革命による人民による君主からの主権の奪取が必要であり、また共和国家の間でも、場合によっては国家間で主権の委譲をめぐって戦争が必要となると、戦争を否定するための革命や戦争という問題を提起した。冷戦時代には左派がこの論理を持ち出し、戦争を否定するための革命や戦争を正当化しようとした。つまりいわゆる左派は共産主義世界になれば暴力も戦争も無くなるが故に共産主義世界を実現するためには革命や戦争は必要であると暴力や戦争を肯定していたのである。
このようにガンジーのような非暴力主義、戦争肯定論、カントやルソーのように非戦主義、暴力肯定論と、非戦主義と非暴力主義は異なるのである。ところが護憲派は、これを意図的にか、あるいは無意識にか、混同している。護憲派は第2次世界大戦の個人的体験に基づいた感情的非暴力主義、あるいは冷戦時代の「死ぬより赤がまし(red better than dead)」という敗北主義的非暴力主義、あるいは一部の宗教的非暴力主義に基づいて憲法を守れといっているにすぎない。戦争そのものを否定する非戦の思想や論理は、非暴力主義の護憲派にはない。
カントのような非戦主義を主張するなら、憲法9条は国家による他国に対する武力行使を禁止する一方で、個人の武装権は認めなければならない。社会契約論に依拠する限り、たとえ国家の武装権は否定されたとしても、国家権力に対抗するための個人の武装権は認めなければならない。日本の護憲派は、個人の非暴力主義の延長線上に擬人化された国家の武力行使も否定している。しかし、それでは、個人の自衛権の延長上に国家の自衛権を認める現状の憲法解釈と論理的には何ら変わらない。湾岸戦争の頃日本が湾岸戦争に参加しない理由づけに朝日新聞や毎日新聞が社説で良心的兵役拒否国家を主張したが、これなど擬人化された国家の論理以外の何物でもない。また憲法9条が擬似宗教になったことの現れでもあった。
非暴力主義の実践は個人の問題である。しかし、非戦主義は国家の政策の問題である。憲法9条を守れというだけでは、非戦主義の実践とはならない。実際に武力によらない武力紛争の解決が国家の政策として求められる。そしてその政策を実行するための組織も必要となる。それは他国が政策遂行手段として軍隊をもっているのと同様に、政策遂行手段としての非暴力民兵部隊が必要である。憲法9条部隊はその原型である。
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