2014年9月26日金曜日
慰安婦問題は慰安所問題である
あえて火中のクリを拾うつもりはないが、昨今の日本の言論空間で飛び交っている慰安婦問題の議論があまりにアメリカでの議論と食い違っているので、一筆記しておきたい。
慰安婦問題の本質は慰安所問題である。強制連行や広義の強制性の問題などではない。つまり軍(すなわち国家)が民間業者を通じて間接的に慰安所を管理、運営したことにある。仮に慰安婦たちが自発的に慰安所で自由を謳歌しながら働き高給を得ていたとしても、軍が慰安所に関与していたことを正当化する理由にはならない。良い関与も悪い関与もない。関与はすべて悪い。今の常識に照らせば(認める、認めないは別にして、慰安婦問題はすべて現在の人権概念に基づいておこなわれている)、間接的にであれ軍が売春宿に関与すること自体、軍の威光を汚すものである。
ただし、こうした判断は国により、時代によっても異なる。日本人、特に勝新太郎主演『兵隊やくざ』を見た世代以上なら慰安所(芸者屋、P屋)があったことは誰もが知っている。また慰安所が戦争には必要悪だと大方のものが納得していた。しかし、日本と同様に軍の慰安所を持っていたドイツを除き、欧米諸国では軍が売春宿に間接的にであれ関与することはなかった。売買春は個人や民間の問題であって、国家は取締りこそすれ売春を利用することはありえなかった。背景には売春を禁止した1921年の「婦人及児童ノ売春禁止ニ関スル国際条約」があったこと、またキリスト教倫理に基づく売春への社会的な忌避感があったからである。日本も1925年に条約を批准している。ただし、朝鮮半島、台湾、関東租借地を除くとの留保条件を付けている。
日本ではいわゆる売春に対する倫理的忌避感が希薄である。おそらくは江戸時代の遊郭文化からの伝統であろう。とはいえ何度も公娼制度の廃止が試みられた。最終的に売春が禁止されたのは1958年に売春防止法が成立した時である。しかし、今なお脱法的に「自由恋愛」の名の下でソープランドとして売春制度が残っている。
だからといって、他の国、特にアメリカが日本と同じ程度に売春に寛大だと思うと大間違いである。売春について話をするだけでも、インテリではないといって、嫌われる。ましてや慰安所は戦時において必要悪だったなどと言おうものなら非難の集中砲火を浴びることになる。奴隷制度は必要だった、人種差別は必要だったというようなものである。
慰安婦の強制連行あろうがなかろうが、広義の強制性があろうがなかろうが、慰安所があったこと自体が問題なのである。某氏が言っていたが、慰安所は大学の食堂と同じで、民間業者が直接管理運営しているからと言って、食中毒を起こせば大学も責任の一端は免れない。同様に苦痛を受けたと訴える「慰安婦」がいる限り、国に責任はないと言い切ることはできない。
慰安婦問題の解決には、慰安婦像の記述や国連報告書の虚偽の訂正を求めていく一方、日本政府は慰安所を認可した責任を認め、かつて日本国民であった「慰安婦」には日本国家として賠償や謝罪を行うべきである。そうすることで日本は女性の人権を重視する国家として、これまで浴びせられた汚名を雪ぎ、名誉を回復できるであろう。慰安婦問題は日韓の外交問題ではない。あくまでもかつての「日本国民」と現在の日本政府の問題である。
2014年9月13日土曜日
新聞のブログ化と記者のブロガー化(朝日の誤報問題)
昨今の朝日の誤報問題の背景には新聞のブログ化と記者のブロガー化がある。昨年(2013年)の8月22日に、本ブログで、「ブログ化する新聞」という一文をアップした。ワシントンで毎日iPADに配信される朝日と産経を読んでいると、「両紙とも個人が書くブログのように主張が主観的で、客観報道の建前はとっくにかなぐり捨てている」という内容だった。
産経は以前からブログ化しており、韓国の黒田勝弘、ワシントンの古森義久そして阿比留瑠比など「パワーブロガー」を擁している。産経は「事実の客観的報道を使命とする」新聞というより「個人の主張を使命とする」ブロガーのブログの寄せ集めのようなブログ新聞という印象さえ受ける。いわゆる有識者が寄稿する「主張」欄こそ「ブログ紙」産経の真骨頂だろう。それだけに上記三人を含め他多数の記者ブロガーの主張が全面に出て、産経は読んでいて面白い。
他方、朝日は特定のパワーブロガーはいないが、会社自体がパワーブロガー化してしまっている。パワーブロガーとして朝日は第二次安倍政権登場以来、全社あげて反安倍キャンペーンを展開してきた。アベノミクス批判に始まり、昨年末の秘密保護法から次第に批判がエスカレートしてきた。そして集団的自衛権行使容認に反対するキャンペーンでは記事だけではなく、社説、天声人語、投稿欄の「声」、短歌などあらゆるセクションを利用して反安倍キャンペーンを張ってきた。こうして朝日が反安倍批判をエスカレートさせる過程で「吉田調書」誤報問題が起きた。
朝日は安倍政権登場以来、一貫して安倍政権の原発再稼働には反対してきた。当然再稼働を求める東京電力にも批判的な立場をとっている。「所長の命令に反して作業員原発から撤退」との誤報記事を掲載したのは、東京電力の原発再稼働ひいては安倍政権の原発容認政策に反対するために「吉田調書」を都合よくつまみ食いしたのではないかと勘繰られても仕方のないような反原発の主張を繰り返してきた。
しかし、誤報記事がブログ記事だとすれば、事実と異なるからと言ってとりたてて目くじらを立てるほどのことではない。自らの主張に沿って事実を再構成、再解釈するのは政治、歴史等社会科学系の論文では当然のことだからである。ましてやブログでは、その主張こそが重要なのであって、事実が重要なのではない。新聞は事実を報道することこそ使命であると、朝日も批判する側も思い込んでいるから今回の事件が起きたのである。ブログ記事だと考えれば、誤報ではなく「吉田調書」を読んだ記者の読解力や解釈力あるいは反東電の主張の是非でしかない。
朝日がブログ紙だと考えれば、強制連行を捏造した「吉田証言」を30年以上にわたって訂正しなかったことも納得できる。ブログは基本的に一次取材はしない。世の中に出回っている言説や一次資料を自らの主張に沿って再構成するだけである。一次資料が間違っていたからと言ってブロガーに一次資料に対する責任はない。あるのは引用した責任である。ましてや間違った一次資料を使ったからと言って、それが直ちに自らの主張が間違っていたことにはならない。
朝日も同様に、捏造の吉田証言があっても慰安婦問題の強制性の主張とは何ら関係ない。慰安婦に対する強制性の主張は事実の問題ではなく、女性の人権を守るという価値観の問題だからである。朝日が慰安婦問題で謝罪できないのは、朝日がブログ化した証拠である。事実を報道することが使命の新聞なら吉田証言が捏造とわかれば、池上彰氏が言うように裏取取材の不足を謝罪するのは当然である。にも関わらず、朝日が謝罪しないのは、やはり事実よりも主張ありきだったからではないか。まさにブログそのものである。
ブログは増加の一途である。ブログが増えると記者よりも専門知識を持ったブロガーも増えてくる。その結果新聞社どうしが競争しているというよりも記者どうしあるいは記者とブロガー、ブロガーどうしが論争する時代になっている。朝日の誤報問題背景には新聞のブログ化と記者のブロガー化という抗いがたい時代の流れがある。
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