今朝(12月26日)朝日新聞が一面で「孤族の国の私たち」と題する特集シリーズを開始する記事を一面に掲載した。見出しを見てオヤッと思った。自他ともにリベラルを認める朝日新聞が個人の自由な選択の結果である人々の孤立をネガティブに捉えるようなニュアンスが伝わってきたからだ。産経新聞も以前同様の記事を特集したことがある。産経の主張は、だから家族や地域の復活、再生が必要だということだった。朝日も同じように、家族の再生を主張するのかと思ったら、全く違っていた。結論から言えば、一人でツッコンデ、一人でボケルという一人漫才のような展開であった。
関心をもって2面を読み進めていったら、「個から孤 加速」と見出しがある。個が孤であるというのは当たり前と私は思っているので、思わず「何でやねん」と突っ込みを入れたくなった。読み進んでいくと、思わずのけぞった。「意識と政策変えるとき」との小見出しに続いて、こう記されていた。
「ここで、立ち止まって考えたい。いま起きていることは、私たちが望み、選び取った生き方の帰結とはいえないだろうか。目指したのは、血縁や地縁にしばられず、伸びやかに個が発揮される社会。晩婚・非婚化もそれぞれの人生の選択の積み重ねだ。時計の針を逆回しにはできない」。
全くその通りだ。だったら、「孤族の国の私たち」や「個から孤 加速」という傾向はむしろ喜ばしいことではないか。喜ばしい、というのが言い過ぎなら、何ら記事にするような問題ではないだろう。何を朝日新聞は問題にしているのか。
記事はこう続けている。「問題なのは、日本が『個人を単位とする社会』へと変化しているにもかかわらず、政策も人々の意識も、まだ昭和/高度成長期にとどまっていることではないか・・・・『個』を選んだ結果、『孤』に足を取られている。この国に広がっているのは、そんな風景なのだろう。誰もが「孤族」になりうることを前提にして、新しい生き方、新しい政策を生み出すしか道はない、と考える」。
「意識も、まだ昭和/高度成長期にとどまっている」のは真鍋弘樹記者や朝日新聞社ではないのか。
そもそもなぜ「個」が「孤」であってはいけいなのか。また中高年男性の孤独死のデータや記事を掲載して、あたかも孤独死が大罪かのようにいうのは何故なのか。孤独死の一体どこがいけないのか。孤独の内にだれにも看取られずに死んでいくからいけないのか。死んだ後始末が大変だからいけないというのであれば、それはそれで理由になるだろうが、特集記事を組むほどのことも無い。粗大ゴミの後片付けをしない人がいて困るという程度の話でしかない。
仲村和代記者はこう記している。「悲惨な孤独死が問題なのは迷惑だからでない。それが、孤独な人間の苦しみの末路だからだ」。大きなお世話だ。何故他人に「孤独な人間の苦しみの末路」などとおためごかしのようなことをいわれなくてはいけないのだ。孤独であることが何故いけないのだ。だれにも看取られず、孤独と、そして病苦と貧困の中で死んでいったとしても、それもまた運命ではないか。仮に社会が悪い、政府が悪いとしても、そうした社会をつくり、政府を選んだのも少なくとも中高年であれば個人の責任である。責任の結果を運命として甘受するのは当然であろう。中高年の孤独死対策をするよりも、出産の補助、児童の保育支援、若年層の就職支援をする方が先決である。
朝日新聞は、中高年世代しか新聞を読まなくなったためか、中高年世代に媚びを売るような記事づくりは止めた方がよい。中高年に残された最後の仕事は、自殺であれ病死であれ、死ぬことである。若者に教訓を垂れたり、長生きを自慢することではない。
かくいう私は、来年還暦を迎える孤独死予備軍である。孤独死予備軍が理想とする最高の死に方は他人に迷惑をかけないように、自らの意識が清明な時に、生に決着をつけることである。それは決して「孤独な人間の苦しみの末路」なのではない。「個」としての尊厳ある生き方の結末である。
人の生き死にを、他人にとやこう言われる筋合いはない。
2010年12月26日日曜日
柄谷行人『世界史の構造』を読む
柄谷行人『世界史の構造』岩波書店、2010年。
「本書は、交換様式から社会構成体の歴史を見直すことによって、現在の資本=ネーション=国家を越える展望を開こうとする企てである」との書き出しで始まる。500頁もの大作である。ただし「歴史を見直す」が大半で、「展望を開こうとする企て」は第4部第2章「世界共和国へ」の70頁、より厳密には第3項「カントの『永遠平和』」以降のカントの世界共和国を理想の「社会構成体」として論じている50頁ほどである。なんだか羊頭狗肉の観がある。
本書の分析ツールは、四つの交換様式である。すなわちA 互酬(贈与と返礼)、B略取と再分配(支配と保護)、C商品交換(貨幣と商品)、D X
Xという交換様式は本書ではついに明確には語られなかった。ただし、このように説明が付されている。「交換様式Dは、交換様式Aの高次元での回復である。交換様式Dは、先ず古代帝国の段階で、交換様式BとCの支配を越えるものとして開示された。それはまた、そのような体制を支えるだけの伝統的共同体の拘束を越えるものである。故に、交換様式Dは交換様式Aへの回帰ではなく、それを否定しつつ、高次元において回復するものである。交換様式Dを端的に示すのは、キリスト教であれ仏教であれ、普遍宗教の創始期に存在した、共産主義的集団である。それ以後も、社会主義的な運動は宗教的な形態をとってきた」(14頁)。
この四つの交換様式に対応する社会構成体といわれるのがAはネーション、Bは国家、Cは資本、DはXである。Xとは「交換様式Dおよびそれに由来する社会構成体を、たとえば、社会主義、共産主義、アナーキズム、評議会コミュニズム、アソシエーショニズム・・・といった名で呼んでもよい。が、それらの概念には歴史的にさまざまな意味が付着しているため、どう呼んでも誤解や混乱をもたらすことになる。ゆえに、私はそれをたんにXと呼んでおく」(14頁)。このXの社会構成体として柄谷が期待をかけるのがカントの世界共和国である。
本書では、この四つの交換様式とそれに対応する社会構成体の歴史が、カント、ヘーゲル、マルクスそしてカントなどを引用しながら延々と語られる。ただし、それはもっぱらABCの歴史であり、最も重要と思われるXについては、冒頭で示したように数十頁ほどしかない。
柄谷はカントの『永遠平和のために』を高く評価している。カントは『永遠平和のために』で世界共和国を積極的な理念として主張した。しかし、現実には国家が「自由を捨てて公的な強制法に順応する」ことはないが故に、「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに(もし全てが失われてならないなとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント『永遠平和のために』45頁)として、いわゆる諸国家連邦を提案したのである。柄谷は次善の策としての諸国家連邦ではなく、最善の策としての世界共和国を交換様式Dに基づく社会構成体として構築することで新たな「世界共和国」を構築しようとしているのである。
本書の肝は、要するに高次元(引用者注:世界レベル)で回復された互酬関係に基づく、世界共和国すなわち「贈与による永遠平和」の構築である。
これだけのことを主張するのに交換様式と社会構成体の歴史が延々と語られる。歴史は序論だけでよい。問題は、いかに世界共和国を構築するかその方法論であろう。しかし、さすがに評論家らしく、具体的な方法論になるととたんに筆が鈍る。
具体的な例として柄谷こう述べている。
「われわれは先に、互酬的な原理の高次元での回復を消費=生産協同組合に見てきた。今やそれを諸国家の間の関係において見るべきである。諸国家連邦を新たな社会システムとして形成する原理は、贈与の互酬性である。これはこれまでの『海外援助』とは似て非なるものだ。たとえば、このとき贈与されるのは、生産物よりもむしろ、生産のための技術知識(知的所有)である。さらに相手を威嚇してきた兵器の自発的放棄も、贈与に数えられる。このような贈与は、先進国における資本と国家の基盤を放棄するものである」(461頁)。憲法9条の護憲派の主張を思わせるような、軍備放棄論である。
さらに続けて、こう記している。「だが、それによって無秩序が生じることはない。贈与は軍事力や経済力より強い『力』として働くからだ。普遍的な『法の支配』は、暴力ではなく、贈与の力によって支えられる。『世界共和国』はこのようにして形成される。この考えを非現実的な夢想として嘲笑する人たちこそ笑止である」(462頁)。まさに護憲派の非武装論である。
贈与が軍事力や経済力より強い論拠として、柄谷は、「最も酷薄なホッブズ的視点を貫いたカール・シュミット」が、「国家死滅の唯一可能性を、消費=生産協同組合の一般化において見いだした」ことを指摘している。
「笑止」という論拠が、妄言かもしれないカール・シュミットの論だけだという点はさておいても、柄谷の世界共和国論にある主の宗教的匂いを感じてしまう。前述のように柄谷はこう指摘している。「交換様式Dを端的に示すのは、キリスト教であれ仏教であれ、普遍宗教の創始期に存在した、共産主義的集団である。それ以後も、社会主義的な運動は宗教的な形態をとってきた」。まさに世界共和国は新たな宗教集団であろう。
問題は、宗教集団にはその宗教やイデオロギーを信ずる者にはユートピアであっても、それを信じない者には地獄だということだ。互酬関係における人間関係は基本的には利他主義の関係である。性善説に基づくディズニーランドの「小さな世界」で通用しても、はたして国家関係においても人間同様に利他主義は通用するのだろうか。
柄谷の所論の最大の問題は、共産主義や社会主義者にありがちな、仲間うちだけで通用する利他主義に基づいていることであろう。行き着く先は、連合赤軍のように共産主義的人間でない者をリンチで殺したり、オウムのように麻原彰晃に帰依しない者を抹殺したりする戦争の絶えない排他的世界であろう。
柄谷行人、老いたりの感を強くした一書である。
「本書は、交換様式から社会構成体の歴史を見直すことによって、現在の資本=ネーション=国家を越える展望を開こうとする企てである」との書き出しで始まる。500頁もの大作である。ただし「歴史を見直す」が大半で、「展望を開こうとする企て」は第4部第2章「世界共和国へ」の70頁、より厳密には第3項「カントの『永遠平和』」以降のカントの世界共和国を理想の「社会構成体」として論じている50頁ほどである。なんだか羊頭狗肉の観がある。
本書の分析ツールは、四つの交換様式である。すなわちA 互酬(贈与と返礼)、B略取と再分配(支配と保護)、C商品交換(貨幣と商品)、D X
Xという交換様式は本書ではついに明確には語られなかった。ただし、このように説明が付されている。「交換様式Dは、交換様式Aの高次元での回復である。交換様式Dは、先ず古代帝国の段階で、交換様式BとCの支配を越えるものとして開示された。それはまた、そのような体制を支えるだけの伝統的共同体の拘束を越えるものである。故に、交換様式Dは交換様式Aへの回帰ではなく、それを否定しつつ、高次元において回復するものである。交換様式Dを端的に示すのは、キリスト教であれ仏教であれ、普遍宗教の創始期に存在した、共産主義的集団である。それ以後も、社会主義的な運動は宗教的な形態をとってきた」(14頁)。
この四つの交換様式に対応する社会構成体といわれるのがAはネーション、Bは国家、Cは資本、DはXである。Xとは「交換様式Dおよびそれに由来する社会構成体を、たとえば、社会主義、共産主義、アナーキズム、評議会コミュニズム、アソシエーショニズム・・・といった名で呼んでもよい。が、それらの概念には歴史的にさまざまな意味が付着しているため、どう呼んでも誤解や混乱をもたらすことになる。ゆえに、私はそれをたんにXと呼んでおく」(14頁)。このXの社会構成体として柄谷が期待をかけるのがカントの世界共和国である。
本書では、この四つの交換様式とそれに対応する社会構成体の歴史が、カント、ヘーゲル、マルクスそしてカントなどを引用しながら延々と語られる。ただし、それはもっぱらABCの歴史であり、最も重要と思われるXについては、冒頭で示したように数十頁ほどしかない。
柄谷はカントの『永遠平和のために』を高く評価している。カントは『永遠平和のために』で世界共和国を積極的な理念として主張した。しかし、現実には国家が「自由を捨てて公的な強制法に順応する」ことはないが故に、「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに(もし全てが失われてならないなとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント『永遠平和のために』45頁)として、いわゆる諸国家連邦を提案したのである。柄谷は次善の策としての諸国家連邦ではなく、最善の策としての世界共和国を交換様式Dに基づく社会構成体として構築することで新たな「世界共和国」を構築しようとしているのである。
本書の肝は、要するに高次元(引用者注:世界レベル)で回復された互酬関係に基づく、世界共和国すなわち「贈与による永遠平和」の構築である。
これだけのことを主張するのに交換様式と社会構成体の歴史が延々と語られる。歴史は序論だけでよい。問題は、いかに世界共和国を構築するかその方法論であろう。しかし、さすがに評論家らしく、具体的な方法論になるととたんに筆が鈍る。
具体的な例として柄谷こう述べている。
「われわれは先に、互酬的な原理の高次元での回復を消費=生産協同組合に見てきた。今やそれを諸国家の間の関係において見るべきである。諸国家連邦を新たな社会システムとして形成する原理は、贈与の互酬性である。これはこれまでの『海外援助』とは似て非なるものだ。たとえば、このとき贈与されるのは、生産物よりもむしろ、生産のための技術知識(知的所有)である。さらに相手を威嚇してきた兵器の自発的放棄も、贈与に数えられる。このような贈与は、先進国における資本と国家の基盤を放棄するものである」(461頁)。憲法9条の護憲派の主張を思わせるような、軍備放棄論である。
さらに続けて、こう記している。「だが、それによって無秩序が生じることはない。贈与は軍事力や経済力より強い『力』として働くからだ。普遍的な『法の支配』は、暴力ではなく、贈与の力によって支えられる。『世界共和国』はこのようにして形成される。この考えを非現実的な夢想として嘲笑する人たちこそ笑止である」(462頁)。まさに護憲派の非武装論である。
贈与が軍事力や経済力より強い論拠として、柄谷は、「最も酷薄なホッブズ的視点を貫いたカール・シュミット」が、「国家死滅の唯一可能性を、消費=生産協同組合の一般化において見いだした」ことを指摘している。
「笑止」という論拠が、妄言かもしれないカール・シュミットの論だけだという点はさておいても、柄谷の世界共和国論にある主の宗教的匂いを感じてしまう。前述のように柄谷はこう指摘している。「交換様式Dを端的に示すのは、キリスト教であれ仏教であれ、普遍宗教の創始期に存在した、共産主義的集団である。それ以後も、社会主義的な運動は宗教的な形態をとってきた」。まさに世界共和国は新たな宗教集団であろう。
問題は、宗教集団にはその宗教やイデオロギーを信ずる者にはユートピアであっても、それを信じない者には地獄だということだ。互酬関係における人間関係は基本的には利他主義の関係である。性善説に基づくディズニーランドの「小さな世界」で通用しても、はたして国家関係においても人間同様に利他主義は通用するのだろうか。
柄谷の所論の最大の問題は、共産主義や社会主義者にありがちな、仲間うちだけで通用する利他主義に基づいていることであろう。行き着く先は、連合赤軍のように共産主義的人間でない者をリンチで殺したり、オウムのように麻原彰晃に帰依しない者を抹殺したりする戦争の絶えない排他的世界であろう。
柄谷行人、老いたりの感を強くした一書である。
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