8月、9月と合わせて三日間、いわゆるボランティア活動に参加した。
8月23日には、福島原発行動隊の有志約50人がいわき市四倉 久之浜(ひさのはま)地区でボランティア活動をした。活動内容は、川べりの空き地および道路の草刈り。花火大会に向けて、大会場への通路をつけるのが目的だった。震災以来繁りっぱなしになっていた茅や野茨などを刈り取っていった。幸い曇りで、気温はそれほど上がらなかったが湿度が高く、作業中2~3リットルの水を飲んだ。頭に被ったタオルを絞ると、汗がどっと滴り落ちた。
久之浜を訪れたのは2回目だ。5月に20キロ制限区域まで行った時に通りかかった。その時は、まだ完全に瓦礫の撤去は終わっていなかった。火災で焼け焦げた建物があちこちに残ったままで、20キロ圏の南側では最も甚大な被害を受けた地区の一つとの印象を受けた。現在、瓦礫はほぼ撤去され、空き地が海岸まで広がっていた。
久之浜は避難準備区域の30キロ圏内の29キロ地点にある。しかし、いわき市の行政区画にあるために緊急時避難準備区域の指定は受けていない。隣接する広野町が役場ごと移転したのとは対照的に久之浜では若い人たちが地区の復興を目指して頑張っている。しかし、30キロ圏内ということでボランティアの集まりがあまり良くないという。危険を省みず義に勇むというボランティア精神はどこに行ったのか、風評被害の影響はボランティア活動にまで及んでいる。
9月6日、7日には、ゼミ学生7人とともに南三陸町志津川天王前、国道45線沿いの住宅跡と裏山の瓦礫の撤去に参加した。個人で、当日にボランティアを受け入れてくれるボランティア・センターがあまりなく、仙台に泊まって、車で2時間半の南三陸町にまで行くことになった。南三陸町のボランティア・センターは「世界食料計画」(WFP)が提供したテントを拠点に効率的に運営されている。ボランティアの中にはセンター近くの道路沿いにテントを張り、長期にわたって活動している人が10~20人いた。
8時半受付開始、9時出発。我々のチームは約50人。作業時間は午前中約2時間、午後約2時間半。土台しか残っていない住宅跡の瓦礫を、これほどまでに丁寧にする必要があるのかと思うほど、まるで遺跡の発掘作業のように可燃ゴミ、不燃ゴミ、金属と分別して清掃していった。
グーグルのストリート・ビューで震災前の様子を見て驚いた。天王前には多くの住宅が立ち並んでいたのだ。今は全く何もない。ただ空き地が広がるだけだ。海岸から1キロ以上離れているにもかかわらず、木に引っかかっている発泡スチロールから判断すると津波は数メートルの高さにまで達したようだ。
南三陸町は甚大な被害を受けた町で、テレビでも幾度と無く紹介されてきた。実際に現場を目にしても、元の町がどのようなものであったのかがよくわからない。そのため被害の大きさが実感できない。警察署、病院、アパートなどわずかに残された建物から想像するしかない。あとはただ空き地と瓦礫の山が広がるだけだ。4階建てのアパートの屋上には乗用車が乗ったままだ。窓もガラスが無くなっているというだけではない。窓枠も残っていない。放置されたままのトラックも、どのようにしたら水の力だけでこれほどまでに圧縮し、ねじることができるのかというほど変形していた。
わずか2カ所の被災地でボランティア活動に参加しただけで断言するのは憚られるが、もはや被災地復旧のための長靴,手袋、マスクを装備したボランティアの出番はあまりないように思われる。これからは社会再建、教育支援等の復興のためのボランティアが求められるのだろう。しかし、もともと過疎地の上に震災でさらに人口が減少していき、市や町の復興が危ぶまれている。
南三陸町も震災前は人口17378人(2011年3月11日、ウイキ)だった。しかし、『朝日新聞』(9月9日朝刊)9月1日現在、2003人が転出している。死者行方不明者655人を合わせると、1万5千人足らず。警察、病院、商店、鉄道等社会インフラがほぼ壊滅した状況では、この人口では復興どころか復旧さえままならない。
心が折れてしまえば、二度とたちあがることはできない。被災地の多くがそんなぎりぎりの状況に追い込まれているように思える。だからなのだろうか、「がんばろう」のスローガンが至る所に張り出してある。「がんばろう日本」、「がんばろう東北」、「がんばろう宮城」「がんばろう南三陸」等々、このスローガンが思い出となる日は来るのだろうか。