古田博司『日本文明圏の覚醒』を読む
日本文明は中華文明とは歴史的に異なるがゆえに、「東アジア共同体」などのアジア文明論は虚構であり、したがって中国や韓国とのつきあいはほどほどにというのが本書の概要である。
日本文明がいかに中華文明と異なるかを、該博な知識を網羅して、縷々説いている。残念ながら、古典の知識がなければ、読み進むのに骨が折れる。ここは、ひとまず、日本文明は独立した文明であるとういことを理解すればよい。
かつてサミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』で日本を一つの独立した文明に数えていた。彼は当時の日本異質論を根拠に単純に日本を独立文明としたのだろう。そのとき、私は単純に中国と同じように日本は儒教文化圏ではないだろうか、あるいは儒教、仏教の影響を受けた中国、韓国などと同様にアジア文化圏といってよいのではないかと思っていた。
しかし、古田はそういう私の蒙を啓いてくれた。そういえば、かつて畏友内藤酬君が日本文明とは一体何かを熱く語っていたことを思い出した。儒教が伝来する前、仏教が伝来する前にあった日本の思想、文化、文明とは一体何かを、彼は縷々語っていた。古田博司が内藤君と全く同じ問題意識をもって日本文明の独自性を中国、韓国、日本の古典から現代に至る数多くの書物を分析しながら、明らかにしている。
ところで、私にとって書を置く間もないほどに一気呵成に読み進んだのは、日本文明論ではない。現在日本がポストモダンに入っているという世界認識に引かれたからだ。彼はロバート・クーパーの『国家の崩壊』からプレモダン(農業時代)、モダン(工業時代)、ポストモダン(情報時代)の三つの時代概念を借りて、現在の日本がポストモダンの時代に入っていることを、モダンに入った中国と対比しながら論じている。
三つの時代に分けるというというのは、田中明彦『新しい中世』の「第一圏域(新中世圏)、「近代」的国際関係が優越している第二圏域(近代圏)、グローバリゼーションに参加する基盤さえ崩壊しつつある第三圏域(混沌圏) という3つの圏域から世界が成り立っているという世界観でもおなじみだ。こうした三つに分けるという発想は、誰かの独創というわけではない。過去、現在、未来という時間に対応した言い方でしかない。だから私も1999年に出版した『二十一世紀の安全保障』で、クーパー以前に前近代、近代、脱近代という分類をしていた。だからといって、自慢しているわけではない。誰もが考えつくことでしかないということを言いたかっただけである。
それはともかく、ポストモダンの世界がニヒリズムの世界であるということに強く共感した。私は『テロ-現代紛争論-』で、9.11を手段が目的化した、つまり目的なきニヒリズム・テロであるということを主張していた。また20年近く前から私は、『現代戦争論』でも明らかにしたように、テロはポストモダンの紛争であり、国家間戦争はモダンの戦争であると主張していた。誰からもかえりみられることはなかったが、古田の書を読み、大いに勇気づけられた。私の説は決して奇矯な説ではなかったのだ。アルカイダは決してイスラム防衛のためにテロを行ったのではない。また単に反米だからテロをおこなったのではないだろう。単なる時代の気分が彼らにテロをおこさせたのかもしれない。そこにセンター・ビルがそびえ立っていたから、飛行機でつっこんだのかもしれない。1960年代にはやったイヨネスコやベケットの不条理劇やアルベール・カミュの『異邦人』を思い出す。
『テロ』でも強調しておいたのだが、アルカイダのテロを原因をさがして、それへの対策を考えるという近代合理主義的思考そのものがもはや無効になったのではないか。古田も全くおなじことを主張している。因果律で成り立つ近代の合理主義的な思想は破綻し、近代合理主義に基づく学問とりわけ社会学や人文学は崩壊してしまった、と。私は満腔から彼の説に同意する。私の専門とする国際政治学はもちろん近代に発展してきた現在の学問ががもはや学として成立しない。したがって古田も主張するように知の集合である学会や「学者」の世界である学界が成り立たない。私は昨年国際政治学会を退会したが、今や学会若手のジョブ・ハンティングの場でしかない。年寄りがじゃまをしてはいけない。
古田の近代合理主義の因果律への懐疑は、その文体にも及んでいる。論文は、まさに因果律にしたがって執筆しなければならないとわれわれは教えられてきた。しかし、因果律が破綻したとするなら文章も因果律を無視して気分や思考のおもむくままに書くしかないではないか。結局古田はエッセーというスタイルをとって執筆している。われわれ凡人がエッセーを書くと、単なる身辺雑記になりかねない。しかし、古田の古典に対する該博な知識と豊富な古語の語彙はエッセーを超えて、新たな論文のスタイルをつくりだしている。彼はもともと擬古文が得意だったのだが、今回は擬古文体をとらずに語るように執筆し、そこに漢語が散りばめられている。
ちなみに漢語の使い手では古田が一番だが、大和言葉の使い手の一番は故坂部恵先生だろう。両者の著作には、頁を開いたとたんに打ちのめされた。私には全くかけない文章だった。
さてポストモダンに入った日本は、モダンの上り坂にある中国とどのようにつきあっていけばよいのか。古田はさらっとつきあえばよいという。日本は前近代の徳川時代に「鎖国」で日本を守ってきた。古田は前近代から、近代という長いトンネルを抜け出ると、そこには脱近代という世界が広がっていたという。古田によれば、その脱近代は前近代にどうやら様相が似ているらしい。であれば、日本は前近代の鎖国のように脱近代の現在再び鎖国政策とった方がよいのかもしれない。鳩山政権の体たらくを見るにつけ、鎖国が一番かもしれないと思う「今日この頃」である。